復刻ぼべみあ:楽園なりニューヨーク・後編(2019)

※本記事は2019年6月に「note」へ投稿した記事のリライト版です。本記事公開後に執筆した「いんせい!!」と登場人物名を合わせるなどの修正を行っています。

 

#14

 

これぞ雨降って地固まるなのか、数日前まであれほど荒れ狂っていた夫妻もずっとおとなしいままで朝を迎えた。近くに位置するHYATT Grand Centralには申し訳ないが、今回はお世話になることはなさそうだ。あとホテルのフロントマンがいたく気さくで、とても心地よかった。支配人は彼の待遇をよりよくすべきである。名前は知らない。

 

さて、いよいよここから後編である。学会も終わり、本当ならトンボ返りしてもおかしくないところ、上野先生の意向と筆者の意欲がほどほどに合致し、二日ほどのアンコール日程が組まれたわけである。ちなみにこの旅日記で、多少時系列が前後している部分はあるが、基本的にはノンフィクションで構成している。筆者は今後もなにかにつけてノンフィクションをリリースしていこうと腕をぶしているのだが、個人が特定されるようなことはなるべく書かないように努めていくつもりである。特に心配性であるゼミの大船さん(仮名)は安心してほしい。

 

10:00 42St 街歩き

 

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さて、14丁目で行ったと同様に、42丁目界隈についても少し散策してみようと思う。といっても42Stは言わずと知れた都心部であるから、もし施設を書こうものなら既に多くの人が立ち入ってきた場所ということになるだろう。それでもよいのだが、せっかくなので今回はよりディテールに凝った部分をレポートしてみようと思う。

 

・街の喧騒

なんちゃってニューヨーカーになってから気づいたことの一つに、街の喧騒がある。結論から言うと、ニューヨークは基本的にやかましい。ほとんどはハンズフリー通話であるのだが、何も持たず喋っている歩行者の多いこと。あとは伝説上の存在と思っていた、ラジカセを担ぎながら歩く若人。通行人に話しかけまくる通行人。ストリートミュージシャン。緊急走行中のパトカーや消防車による荒っぽいクラクション。揉めてるのか再会を喜んでいるのかも分からない、当たりの強めな会話。そのすべてが不規則でありながら、全体としては東京のそれより温かみを感じるのが面白い。ニューヨークの騒音は、どれも人由来であることがそう思わせる要因ではないだろうか。東京も賑やかさ自体はあまり変わらないようにも思えるが、デシベルが全体的に抑え気味であることと、機械音(特にBGM)が多い印象がある。特にBGMやCM音楽は、単体ではまだポジティブであるのに、食べ合わせは非常に悪い。東京も、礼儀正しいという美点は保ちつつ、「音の景観」も考える時期に来ているのではないだろうか。

 

・似ている公共空間

42Stグランド・セントラル駅に繋がる地下道は、驚くほどシンプルな内装であった。シンプルを超えて、デジャヴを感じさせるような佇まいである。実はJ・F・ケネディ空港に降り立った時から感じていたのであるが、公共空間の寸法や色味のコンセプトは、意外なほど日本のそれとよく似ている。これは東京都心部というより、少し郊外の駅やアンダーパス、公共施設の気配である。思えば日本の「一時代前の現代的な造作」は、和の雰囲気がそもそも希薄である。生まれてこの方そういった景色が存在していたため違和感を覚えなかったが、一時代前の現代的な造作、はやはり外から持ち込まれたプロポーションであったのだ。そしてその源流はヨーロッパではなくアメリカであり、だからこそニューヨークにも「日本の地方的な景観」が刹那的に登場するのではないだろうか。日本の地方の公共物は、オリジナルがアメリカに存在する二次創作物なのかもしれない。

 

・Hey, Brother.

pod39には目に見える場所に売店がなかったため、近隣のスーパーに足繁く通うこととなった。というより、もはや普通のスーパーに入って買い物をこなすことの心理的な障壁は完全に取り払われていた。英語の能力が劇的に向上した訳ではない。ただコミュニケーションにおいて「伝える」ことを最優先する結果至上主義を受け入れてから、プロセスを気にする心は消え去っていた。例えばこのスーパー、地上1階・地下1階の二層構造であったが、日本にしかないようなものが大概売られていて、何のために日本から衣類やら絆創膏やらを持ち出したのかわからなくなるほどであった。よくよく考えれば、キズパワーパッドなど「Johnson & Johnson」というアメリカの会社の製品であるから、アメリカにないわけがない。もはや何でも揃えられる、という気持ちは心をまた一つ穏やかにした。

 

レジではアルバイトがせわしなく対応していた。「Hey, Brother」と彼は言った。信じられないことに筆者は「Yeah」などと返していた。たわいない会話でも、やりとりになっていることに静かな感動を覚えた。このとき初めて、外国かぶれの大人が学生に留学を勧める理由を心の底から理解した。日本に帰ってきてから英語能力を誇るのではなく、単に学生に見聞を広めて欲しいだけだったのだ。人はみな望む答えだけを聴けるまで尋ね続けてしまうものだから、単に尋ね続ければよいのだ。生活に困ることであれば、それでいつか伝わるのだ。となると今まで英語を押しつけてきた気持ち悪い人たちの中にも、本当はその気持ちだけで薦めてきた人がいたのかも・・・いや、それはないかな。思い出補正をもってしても。

 

なおポケトークは最後まで出番はなかった。よく考えてみて欲しい。レジの向こうのBrotherに対し、懐からいきなり機械を出して突きつけたらどう思われるだろうか。それは冗談としても、なかなかマイクを突きつけるというシチュエーションを作り出すことは難しかった。ただし自分で話しかけた文をかなりの精度で英語に訳してくれるので、勉強には悪くないツールである。

 

・Uber

ニューヨークにおいて主要な交通機関は、地下鉄、バス、タクシー、鉄道である。最近ではレンタル自転車という選択肢もあるようだが、ここに最近新たな選択肢が加わった。言わずと知れたUberである。初のUber体験は学会期間中、上野先生の現地集合仲間の一人である烏山先生(仮名)が利用したUberに同乗したことがきっかけであった。Uberの仕組みを簡単に説明すると、素人送迎サービスである(素人といっても、Uberでドライバーとなるには登録が必要)。普段は別の仕事を行っている人間が隙間時間で車を転がし、舞い込むニーズに柔軟に対応するのがUberの特徴である。利用者はアプリに現在地(乗る場所)と目的地を入力し、指定の車が目の前に着くのを待つ。ドライバー側には「○○通り○○番地へ行け」という指令が届き、その通りに動く。乗り込んできた客はドライバーに直に目的地を告げることはない。なぜならドライバー側のアプリに目的地が示されているからである。価格も基本的には乗り込む段階で決定される。ドライバーは多く人を乗せるほど(仕事を得るほど)多く稼ぐことになる。また、顧客からの評価もドライバーのステータスに影響を与えるようだ。話は長くなったが、マンハッタン都心部にはUberサービスで待機している車が溢れていた。そのため一度呼べば数分で車がやってくるのだ。利用客側には車種とナンバーが明示されているので、間違える可能性は低い。突発的な事情で乗せられなくなる、目的地が変わるといったことへの対応は試していないが、おそらく合理的な処置が行われるのであろう。値段はタクシーと比較して高い場合もあるようだが、完全なる door to door が実現するという意味では素晴らしいサービスである。今回はpod39から42丁目の少し北にあるMoMA(ニューヨーク近代美術館)を目指した。ドライバーは気さくな兄ちゃんだった。星5つにしておいた。

 

#15

 

・MoMA

 

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ニューヨーク近代美術館。その名前は遠く日本でもよく知られ、箱根彫刻の森美術館などでもオフィシャルグッズが売られていたと記憶している。なおここからはふたたび上野先生が同行している。

 

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新館は日本人建築家の谷口吉生によるもの(by上野先生)。すべてのフロアを繋ぐような大胆な吹き抜けが印象的な館内は、展示されている近現代作品に負けない迫力を与えてくれる。どうして日本にこういう建物を建ててくれなかったのかと思う。もちろんクライアントやら法令やら、現実的な理由はいくらでもあるのだろう。ただそういった制約が一切取り払われたとしても、ザハ・ハディドが設計した新国立競技場が一切形にならずに潰された経過を考えると、この建物のように思い切ったことができる環境は、日本にはほとんど存在しないのかもしれない。

 

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この美術館も基本的にはスナップ撮影がOKであった。アメリカにいるからといって日本のことをあまり腐してはいけないが、日本のほとんどの美術館の撮影禁止ルールは潔癖が過ぎると感じる。フラッシュなど作品に影響を与える行為は別であるが、芸術と市民を近づけるためにもうちょっと緩めて良い余地がある気がする。

 

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私的にはアブストラクト系が好きであるので、よく知らないがもうちょっと時間を掛けて鑑賞したかったところである。現代クラシックが音楽そのものの叫びであるなら、現代美術は美術そのものの叫びであると勝手に考えている。正しくても間違いでもかまわなかった。何かを感じることが答えなら、もうそれでいいと思う。冷静に考えれば、これが人体の美しさだ!と言いながら骨格標本見せられているだけのような気もするが

 

最後は土産物コーナーでまんまとトートバッグを購入。箱根彫刻の森美術館と同様の品揃えで、更には目立つところにユニクロとMoMAのコラボTシャツコーナーがあった。あれ、意外とこの美術館、日本のエッセンスも取り入れているのかも。

 

・グッゲンハイム美術館

 

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セントラル・パークの東側、アッパー・イースト・サイドに位置するこの美術館は、名建築家フランク・ロイド・ライトによって設計された、巻き貝のような外観が特徴的な建築物である。中に入ると外観の通りのスロープが何層にもわたって巻かれ、入館者はそのスロープを昇りながら、道中に鎮座する美術品を鑑賞していくことができる。

 

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この美術館も撮影OKの領域が多く、建築物や空間そのものを切り取ろうとする客も多数見られた。建物はモダンからポストモダンへと時代が移り変わっていた1959年の竣工で、独特の形状や動線から、建築許可や施工にかなりの苦難が伴ったことが偲ばれる。ただその甲斐あってかこの美術館は、世界にも類を見ない独創的な建築物として、今もなお建築史、近代美術史の双方に大きな影響を与え続けている。更に建築物の特徴について具体的に触れると、あらゆる寸法が独特で、維持費どうなってるんだろうという代物である。壁面や床はシンプルな白色であるにも関わらず、柱や壁には特別な形状が与えられ、一つ一つの空間に特別な意味を与えている。

 

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・・・これ以上書くと、この美術館への来訪を薦めてくれた(が諸事情でニューヨーク入りできず、この美術館への訪問も叶っていない)藤沢先生(仮名)に申し訳ないので伏せますが、建築デザインが個人に与える影響をわかりやすく体験させてくれます。みんな違ってみんないい時代とはいえ、傑作というものはやはり存在するのですね。

 

そして滞在七日目。遂にその時はやってきた。

 

#16

 

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12:40 ヤンキー・スタジアム

 

夢の舞台。至高のピンストライプ。元祖金満補強。優勝以外に意味はない。遂にやってきましたヤンキー・スタジアム。1923年に開場、幾多の名選手を生み出したスタジアムは、2009年に伊勢神宮式年遷宮のごとく隣の敷地へ移転し、リニューアルオープンしました。リニューアルといいながら完全な新築物件ですが、21世紀新球場の潮流である新古典主義のコンセプトと、過去のヤンキースタジアムが持っていたエッセンスを見事に両取りしています。今回はアメリカの野球場の防災面の課題の確認、もといベイスターズがワールドシリーズに出場したときの予習ということで、この夢の球場への入場が叶うことになりました。顔をそむけずに恥ずかしがらずに、生きていなけりゃここまで来ることはなかったと思うと、感無量です。

 

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数多のネット記事曰く「入場にはかなりの時間がかかる」とのことでしたが、確かにセキュリティチェックは厳重であり、炎天下でしばし列に並びました。しかし最近の横浜スタジアムの大混雑からすれば、全然良心的でした(横浜スタジアムも頑張ってくれてはいます)。チェックを通過し入場すると、そこは夢の劇場の上品なバックヤード。

 

今回は全体を俯瞰したいという上野先生の意向から、3Fフロアの最前列を確保しました。すごいでしょ。実はMLBでは「StubHub」というチケットリセールシステム(正確にはリセールを公式に委託されている業者)があり、持て余されているシーズンチケットなどが直前になると一定数出品されています。ヤンキースの場合は宿命のライバル:レッドソックス戦や同都市対決:メッツ戦、首位攻防戦やポストシーズンなどの人気カードチケットの入手は難しいようですが、今回のように「パドレス戦、平日、デーゲーム」という不入り要素満貫のカードは大量に安く出品されています。今回は価格が理性的、しかし強い印象が残るであろう最前列(row1)を選択し、今日の観戦に至りました。野球ファンの野球観戦にかける情熱をなめてはいけない・・・といいたいところですが、仕組みさえ分かれば誰でも購入することができます。

 

エントランスの1Fから3Fまでは、エレベーターや階段もありますが、最もポピュラーなルートはスロープです。単純に3レベルといってもスタジアムですから、実際は6階くらいまで上るような距離感です。しかし試合開始前とは偉大で、疲れなどを一切麻痺させる効能がありますね。入場から着席までの野球ファンって、気持ちが先走って幽体離脱できてるんじゃないでしょうか。このときの自分がそうだったかはわかりませんが。

 

3Fフロアのコンコースにたどり着き、座席のあるブロックへの通路を通り抜けると。

 

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美しい。それ以外の言葉は必要ありません。


甲子園球場のグラウンドを初めて見たときも感激しましたが、やはりヤンキースタジアムは別格でした。屋根が届いていないために陽射しが強烈ですが、このときばかりはどうでもよいことです。

 

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座席に着く頃、ちょうど試合が始まりました。先攻パドレスの攻撃。秋にヤンキースへの移籍をほのめかしつつ、パドレスへの移籍を選択した、要はヤンキースをダシに年俸釣り上げ工作をやってのけた3番:マチャドに厳しいブーイングがぶつけられます。

 

上野先生「どうしたの?急に」
まさゆめ「いえ、これはですね、恨まれてるということで」
上野先生「そうですか・・・」

 

実は上野先生は防災関係の専門家であるものの、野球の試合そのものに特に興味がないため、よく意味を理解せず着席していました。ただ最前列ということから、場内をしげしげと眺めながら「いい避難計画してるね」などとつぶやいていました。そうですか・・・

 

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試合は2回に入りました。鮮烈な第一印象も薄れ、ちょっと暑さが厳しくなってきました。この回を終えたところで一旦場内巡りすることに。

 

先生「遠くても意外とボールって見えるんだね」
まさゆめ「はい」
先生「もっとこう、ホームランって打たないの?」
まさゆめ「はい?」

 

ホームランを打てのサインはないんですよ、先生。そんなものがあればとっくに出して、と言ったくらいのタイミングで、パドレスが先制ホームラン。

 

先生「おお、でも静かだね」
まさゆめ「・・・ビジター球団ですから」
先生「じゃあヤンキース、ホームラン打って!盛り上がってるところが見たい!」

 

ホームランを打てのサインはないんですよ、先生!野球はそういう競技ではないんです!


などという趣旨のことを非常にまろやかにお伝えしていたところ、なんとその裏、ヤンキースが反撃のホームラン。場内大歓声。

 

先生「おお、盛り上がるねえ」
まさゆめ「・・・ホーム球団ですから」
先生「でもさ、このチームって本当に強いの?」
まさゆめ「は、はい?」

 

いやまあ、諸説はありますが皆英雄だと思いますよ!

 

先生「今打席に立っているのが・・・ガードナー選手?うまいの?」
まさゆめ「うまいです!今日の打順9番だけど!」
先生「うまいならホームラン打て!ほら打つんだ!」
まさゆめ「・・・」

https://www.youtube.com/watch?v=t73WTjcP5lQ (件の場面は2分17秒から)

 

先生「すごいねえ、うまいんだねえガードナー選手」
まさゆめ「・・・」

 

ホームランのサインってあるんですね先生。というか、先生っていついかなる時でも結果を残しちゃうんですね。サムライブルーに欲しい決定力です。おみそれいたしました。

 

ちなみにヤンキースタジアムの右翼フェンスは横浜スタジアム並みに近いので、実は相当にホームランが出やすい環境であることは内緒です。

 

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気を取り直して、場内巡りを始めます。
ヤンキースタジアムはバックネット裏などのVIPゾーンを除き、コンコースは自由に往来することができます。通路での観戦はさすがにNGですが、スナップ写真などは撮らせてもらえました。サービス精神も一流ですね!

 

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ただ素晴らしい施設に反して、売店などの列はかなり流れが悪い様子でした。需要予測の不備かレジ打ちの練度が低いのか、キビキビと流れている売店はほとんどなかったように思います。これだとどれだけ人が入っても、人が消費できるお金に限りが出てしまいますから、マイナスです。というより、横浜スタジアムやら神宮球場の売り子さん達は、本当に手際が良いことが分かります。ビールいかがですかー!の眩しい掛け声と笑顔は、世界レベルでした。

 

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3Fスタンドから2Fスタンドへ移動しました。こちらは熱気がこもっており、やや空気が淀んでいました。デーゲームゆえの事情でしょうか。観戦するにはあまり気にならないポイントですが、コンコースの居心地はよくなかったです。観戦環境自体はどこからもグラウンドがよく見えるため、申し分なしです。

 

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巡回で一番テンションが上がったのは外野ゾーンに足を踏み入れた瞬間でした。メインデッキは観光客やファミリー層も目立ちましたが、こちらはいかにも常連の雰囲気を漂わせる人々が多かったような気がします。昔から見慣れた、外野からの景色はヤンキースタジアムでも絶景でした。基本的に鳴り物応援のないMLBですが、外野は自主的に「Let’s Go Yankees!」と叫んでいる酔っ払いが多数いました。応援歌の有無はあれど、根拠なくゴキゲンなおっさんが管を巻いているのは世界共通ですね。

 

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中盤、ヤンキースに中押しのチャンスが訪れます。場内はますますヒートアップ。ここまでホームラン以外はマチャドへの八つ当たり以外の反応がなかったスタジアムでしたから、とても楽しい瞬間でした。ニューヨーカーといえば、結果を出せば大喝采、出さなければ非難轟々というイメージでしたが、さてここではどちらが聞かれるのか。
2死1・2塁、カウント3−2。

 

結果は空振り三振!

 

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そのときの1塁側の雰囲気は、完全なる無反応でした。無反応というのは言葉を失うということではなく、「チャンスなんてなかった」「野球なんてやってなかった」といわんばかりのリセットぶりでした。これは驚きでした。日本ではどの球団でも、ホームチームの逸機には「あ〜」といったため息が巻き起こります。それがブーイングになることは極めて稀ですが、何の反応もないことはほぼありません。あ、10年近く前の横浜スタジアム、500人しか客がいなかったときは何もありませんでしたが。それがヤンキースタジアムでは、割と不入りのカードでありながら3万人近くいる状況で、ため息が聞こえなかったのです。


勝利にしか興味がない。失敗をなじっても勝利には結びつかない。落ち込んでいる暇があるなら次のチャンスを活かせ。ヤンキースファンの高い志を肌で感じた瞬間でした。

 

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場内一周と土産物購入を果たし、再度3Fの自席へ。直射日光は相変わらず強めでしたが、しばらく観られないであろう景色を目に焼き付けていました。ただ、今日はこの後にもう一つの見所に向かわなければなりません。本当は名残惜しいのですが、最後まで見ていては数万人の帰宅ラッシュに揉まれること確実です。8回裏が始まったくらいの頃、体力のある内、空いている内に、スタジアムを後にすることにしました。まあ、ベイスターズ戦じゃないから、そこは納得しています。


また来るよ、ヤンキー・スタジアム。次は真のワールド・シリーズで。

 

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場外に出て記念撮影。や、この衣装も敵情視察の一環ですって。ちなみに背番号は19番マー君です。マー君がマー君着てます。その事実に上野先生は無反応でしたが、写真は撮ってくれました。

 

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ちなみに言い忘れましたが、ヤンキー・スタジアムはあの要警戒地域:サウスブロンクスにあります。ヤンキースの別名が「ブロンクス・ブラザーズ」ですから、地名を厳密に球団名に取り入れるなら「ブロンクス・ヤンキース」です。途端にヤバい人たちの集まりみたいな球団名になってしまいますが、でもそういう荒っぽいところと上品さが背中合わせで共存しているのは面白みがあります。だいたい野球場なんて、繰り返しになりますがそもそもいつの時代も治安が微妙なところにあるわけですよ。一昔前の横浜スタジアムですら、根岸線を越えた先に間違って足を踏み入れた時にちょっと震えたくらいですから(今は全然です)。平和台球場なんてどこが平和なのかというような血塗られた歴史があるようですし、東京スタジアム(光の球場)なんて下町のど真ん中。川崎球場は工業地帯にありすぎて遂にスタンドを取り壊してしまいましたし、西武ドームには今も山賊が出ます。

 

さて、ヤンキー・スタジアムの最寄り駅「161St Yankees Stadium」に戻ってきました。地上に緑の4号線、地下にオレンジのB・D線が乗り入れ、マンハッタンの各所から直接ここまでたどり着くことができます。ちなみにガチの治安の状況としては、ヤンキースタジアムと駅の間で何かに巻き込まれる可能性は低いですが、スタジアムから一歩でも離れると映画で観たようなちょっとやんちゃな街路が目に飛び込んできます。これは確かに行かない方がいいかも。というか、横浜スタジアムも根岸線から反対側の方はやっぱりあんまり行かない方がいいかも。

 

飲み過ぎて帰れなくなりますよ。

 


#17

 

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18:00 ハドソン・ヤード(Hudson Yards)

 

ヤンキー・スタジアムでの興奮体験を経て、上野先生と筆者は34丁目ハドソン・ヤードにやってきました。筆者は実は二度目ですが、一度目の記憶はもはや確かではないので、実質初訪問です。

 

 

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このハニカム構造のまつぼっくりは「Vessel」という作品です。入場(通路内立ち入り)には事前予約が必要で、全く想定していなかったので外から眺めるだけに。個人的にこれはメインディッシュじゃないので全く問題なしです。また来るよ、まつぼっくり。

 

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ハドソン・ヤードにある商業棟(ショッピングモール)は、これまで観てきたニューヨークの公共空間でぶっちぎりアメリカっぽくない空間でした。アメリカっぽくないというか、これ、ららぽ~とです。商業棟のデベロッパーはカナダの会社のようですが、アメリカにありがちな原色ぶっ込みインテリアは影を潜め、古典でもアメリカンでもない空間を創出していました。実は屋内の色調と、外の広場のまつぼっくりはリンクしているのかもしれません。両名はキャンディなどをお土産で買い込み、2階は特に日本だねなどと感想を述べつつ退出しました。2階のテナントはユニクロと無印良品でした。ちなみにハドソン・ヤードのオフィス棟(建設中)は三井不動産が取り仕切っているとのことなので、冗談抜きにこの再開発にはジャポニズムも反映されているのかもしれません。

 

18:30 ハイライン(The High Line)

 

色々巡って発表して、それでも捨ててしまえないものがまだありました。やっとやってきました、ハイライン。

 

上野先生「最初から歩く?それとも途中から?」


だいぶお疲れなのかもしれませんが、最初から歩かないとちょっと意味がありません。


先生「じゃ、最初から歩きますか・・・」

 

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ハイライン。単純に言えば高いところにある遊歩道です。また、廃線の路盤を活用した遊歩道というのも、世界中にあるでしょう。

 

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しかしその条件が重なり、かつ過去を偲ぶように線路が残されている演出に、この旅行で最高の感動がやってきました。入り口の段階で、もうここから離れたくないと思わせるような。

 

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遊歩道は概ね歩きやすいように整備されていました。ただ往時の線路もなるべく残そうとしていて、危ない箇所は立ち入り禁止(廃線跡がそのまま)となっていました。廃線跡がそのまま。これなのです。最高にエモいポイントは。

 

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すべての箇所ではありませんが、遊歩道の半分は線路が温存され、そこに草木が生い茂っていました。おそらくこの草木は、廃線後に自生した木々をメインとしているのでしょう。はっきり言いましょう。これは鉄道です。この線路は、生きています。

 

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ただただエモい。

 

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ただただエモい。

 

後から調べたところによると、ハイラインは元々パリにある同様のコンセプトの遊歩道を参考にしたとのことでした。パリ行ったときに行けば良かった。東京で同じことができるかと言われれば、廃止になった高架橋自体が稀なので、しばらくは無理でしょう。物理的なことを言えば可能性はあります。でもそれでも、このハイラインには叶わない、同じものはできないんじゃないかと思います。それはマンハッタンの林立するビル群の存在です。これだけ超高層ビルが軒を連ねている街はやはり今のところニューヨーク以外になく、これから中国やらドバイやらでできるかもしれませんが、それらではここまで道幅が狭くとられることはないだろうとも思います。古き良き街区の寸法の谷間を通る天空の遊歩道は、ここでしか見られない景色といえます。言うなれば世界唯一の高所感、得も言われぬ浮遊感、でしょうか。

 

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振り返ってもエモい。

 

線路の横を歩いていると、往時の貨物輸送に関わった人々の自慢げな声が聞こえてきそうです。俺たちは毎日こんな景色を見ていたんだぞと。

 

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ハイラインの数奇な運命は、廃線後しばらくの放置、そしてあわや解体工事着手というところまで取りざたされた頃から変わり始めたようです。解体か活用か。決断を下す担当者は現場のこの景色を眺めて、直感的にこの未来を描いたのでしょうか。だとすれば天才的です。でもそれが起こったのだと信じたくなってしまいます。今、ハイラインの線路は、錆びてこそいますが、路線の歴史の中で最も輝かしい時代を迎えています。その輝きはこれからも、未来永劫、続いていくことでしょう。

 

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ただただエモ

 

上野先生「えーとね、この道を下りた先に、N先生がお薦めのレストランがあるんだけど、行こうか」

 

えっ!あと3分の1なのに!もうちょっとくらいいいじゃないすか!こんなのビッグサンダーマウンテンで途中下車するようなもんじゃないすか!危ないじゃないすか!殺生じゃないすか!

 

などと内心思いましたが、ここまで歩きっぱなしといえばそうでしたし、お腹も減りましたよね。仕方ない、一旦降りますか。

 

また活力が湧いたところで、残りを歩ければ歩きましょうか。

 

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まず、レストランはそんなに近くありませんでした。アベニューを3本くらい通り過ぎました。なんならハイラインを最後まで行って戻るくらいできる程度の距離を歩きました。やっとたどり着いた頃にはもう陽が暮れていました。N先生お薦めのレストランは、確かに美味しいハンバーガーを出すお店でした。というかN先生、我々の行程に影響を与えすぎではないですか。それこそ筆者がヤンキー・スタジアムとハイラインをねじ込んでなかったら、もう完全試合だったんじゃないでしょうか。なんかもう、色々と危ないところでした。

 

食べ終わる頃には完全に夜が更け、ハイラインの残りを歩くミッションは幻となりました。確かに筆者も疲れていました。iPhoneの万歩計は計測以来のレコード歩数をたたき出していますし、じっくり歩けただけで感謝すべきかもしれません。ハイライン自体、今後更に整備されるそうですから、残り3分の1と新路線は再度乗りに来るとしましょう。

 

生きる理由がまたひとつ増えました。

 


#18

 

21:00 タイムズ・スクエアふたたび

 

心の中ですっかり意気消沈した筆者ですが、そういえばまだ残っていたタスクがありました。お土産です。これまで書いてきたように、お土産は随時買い込んではいました。しかしどうもジャストミートするものが見当たらず、ここまで来てしまいました。

 

これまた二度目のタイムズ・スクエアになります。一度目は忘れました。

 

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夜のタイムズ・スクエアは完全なる異世界でした。あ、これは見たことある景色だ。さすがにそう思いました。


世界の交差点とはよく言ったものです。もはや交差点付近にたむろする人々は、何処を目指しているのか何のためにいるのかもよくわかりません。ただ人がいる。それもかなりハッピーでいる。潮の満ち引きのごとく寄せては返す渋谷スクランブル交差点も面白い場所ですが、タイムズ・スクエアは不滅のアメリカを象徴するかのような輝きに包まれていました。煌々と光るLEDビジョンの上で、それでも月は輝いていたように見えました。あるいはあれもビルの灯りだったのかな。

 

気を取り直して、お土産です。タイムズ・スクエア周辺にはたくさんの土産物屋がありました。しかしやはり、主要アイテムはどれも同じに見えてしまいました。もうI♥NYが目に焼き付いて離れません。さすがにこれを買い込んでお土産とするのはもらう方も微妙かと思い、ここでの土産物も最低限となりました。なぜ土産物なんて買うのだろう?と帰りの機内でずっと考えていました。

 

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(写真は交通博物館)

 

マンハッタンで最後に乗った地下鉄はシャトル便(S線、42丁目シャトル)でした。このS線は、タイムズ・スクエアとグランド・セントラルの間の1駅を延々と往復しているクレイジーな路線です。真下には7号線が通っているのにもかかわらずこのシャトルが存在しているということは、いかに両駅間の移動需要が旺盛であるかを裏付けているのかもしれません。また地上に目をやると、両駅付近には中距離・長距離列車の終着駅「グランド・セントラル(Grand Central)」と長距離バスターミナル「ポート・オーソリティ・バスターミナル(Port Authority Bus Terminal)」があり、シャトルは相互の接続を図る目的もあると考えられます。なるほど、アルタ前とバスタを結ぶシャトルがあったら、新宿よくわかんないから乗っとこうって考える人は多い気がします。

 

果てしなく長かった体験版ニューヨーカーとしての一週間が終わろうとしています。随所で心残りを置いてきましたが、そもそもニューヨークは一度二度の訪問でコンプリートできるような広さではありませんでした。よく考えてみれば、カーネギー・ホールもマディソン・スクエア・ガーデンもメトロポリタン歌劇場も行けていません。その原因の過半数は自分にあるとはいえ、もうちょっと頑張らないと、という思いだけが募る最終日の夜でした。

 

#19

 

この一週間、危ない目には一度も遭わなかったと思います。小競り合いやら言い争いは少し見ましたが、銃やら凶器が行使されたといった修羅場は見ませんでした。それだけに最終日の朝、テレビの中で繰り広げられていた登戸の惨劇が日本での出来事だと理解するのに少しだけ時間が掛かりました。来日中の大統領が哀悼の意を表し、全く以て同じ気持ちでした。日本が銃社会でないことで守られている安心は少なくないはずですが、それだけでは守り切れない陥穽があることに、日本人の誰もが自覚的にならなければならない時代なのだと思います。遠くの空から、犠牲になられた方の冥福を祈りました。

 

#20

 

最終日の朝は、昼に発つ飛行機に備えた移動のみがミッションでした。さっそくUberを活用し、J.F.ケネディ国際空港ターミナル7へ。あれだけ地下鉄にご執心だった筆者ですが、地下鉄は思いのほかバリアフリーではなく、かつエレベーターを安易に利用するほど油断もできなかったため、安心確実なUberを選択したまでです。

 

上野先生「N先生が、空港のハンバーガーが美味しいよって」

 

またN先生ですか。もはやフィクサーですねN先生。しかし朝ご飯を食べていなかったこともあり、せっかくなので空港のハンバーガーを買うことに。注文から焼き上げまで20分もかかりましたが、美味しかったことは美味しかったです。N先生もN先生で結果を出しちゃうんですね。先生という人種はどんな形でも結果を出す生き物である。大切なことを学びました。でもほんのわずかでも、旅の終わりでも、ニューヨークの記憶を焼き付けられるイベントがあったことはよかったと思います。ハンバーガーを完食してしばらくすると、いよいよ帰りの飛行機の搭乗時刻に。

 

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帰りの機内では、往路では温存した映画を観ることに。特に「ボヘミアン・ラプソディ」をじっくり観ました。クイーンの曲をすべて知っている訳ではないのですが、確かにかなり時系列順に名曲がプレイされ、最後の「LIVE AID」のシーンは迫力がありました。まあ一番良いなと思ったのはエンドロールの「Don't Stop Me Now」でしたが。

 

いやもう、復路の体感なんて往路に比べたらこんなもんですよ。あとこの写真の地球いくらなんでもデカくないですか。土星くらいありそうですよ。

 

#21

 

土曜の夜が金曜に変わることでもない限り、アメリカから日本への渡航は日付がばっちり1日進みます。ニューヨークを昼に飛び立った飛行機は夕方に日本に到着し、地味に真夜中の身体をまた混乱させてきます。しかしフィジカル夫妻はここでもだんまりでした。久々の日本の安堵感と湿気が安心させたのかもしれません。またこの日を境に猛暑日が一段落したとのことで、その直撃を受けなかったことは幸いでした。上野先生ともここでお別れです。これからも結果を残す先生でいてください。

 

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成田空港駅からは成田エクスプレスで品川へ向かいました。本当に日本を感じたのは、ホームのキオスクで水分とプリッツを買った際、合計額が200円台だったことでしょうか。安い。東京の物価を安いと感じたのは初めてのことでした。

 

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帰宅すると、葵ちゃんは完全にヘソを曲げていました。しばらくは何の反応もしてくれませんでしたが、どうも幻か何かだと思っていたようです。ごめんね葵ちゃん、蘇ってきましたよ。

 

さて、ここまで一週間の旅行記、久々のぼへみあとなりましたが、ちゃんと読み切った人はいるのでしょうか。いたならいたで、お疲れ様でしたと申し上げたいです。急にメタ視点で語ると、今日日ニューヨークに関する旅行記や滞在記は無数に存在するでありましょうし、筆者の数少ない友人知人の中でもニューヨーク訪問経験者は多いんじゃないかと思います。客観的には踏み慣らされた大都市への旅行記をしたためることに何の意味があるのか、とも考えました。

 

しかし旅を終えてみて、かつ旅行記を書いてみて感じたことは、自分にとっての旅行とは過程なのだと思います。これからも、素敵な過程が書けそうな旅をできたらな、と思いを新たにした次第です。そしてもう一つ総括すると、陳腐なものになりますが、やはり旅行は楽しいものだということ。それを感じさせてくれたニューヨークは、底知れぬ魅力がある街なのでしょう。

 

でもニューヨークで最後までわからなかったものがあります。それはお土産です。


日本の主な都市にはマスコットかなにかのように名菓がありましたが、ニューヨークでは「I♥NY」以外にピンとくる土産物はなかったように思います。一体何が正解だったのか。トランクの荷物をほどいて、一応買い込んだお土産を取り出していきます。

 

14Stユニオン・スクエアで購入したチョコレート。本当に時差はきつかった。

 

学会セッションで購入したトートバッグ。神妙な気持ちになったな。

 

ヤンキー・スタジアムで買ったマー君のユニフォーム。デカいな。

 

交通博物館で買った地下鉄のマークが入ったメモ帳。もったいなくて使えないな。

 

なるほど、お土産ってこういうことだったのか。一週間とはいえ濃密な時間を過ごしてきた中、その時々のエピソードを思い出すよすがとして、お土産は機能するんだな。そっか、じゃあこれだけニューヨークに魅了されたんだから、やっぱり「I♥NY」を買ってみてもよかったんじゃないか・・・

 

や、そこかしこで売ってたから何も思い出せないわ。

 

(了)

復刻ぼへみあ:楽園なりニューヨーク・中編(2019)

※本記事は2019年6月に「note」へ投稿した記事のリライト版です。本記事公開後に執筆した「いんせい!!」と登場人物名を合わせるなどの修正を行っています。

 

#7
 

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朝4時にしてニューヨークの空は白んでいた。

 

東京のシティホテル並みの清潔感と格調に支配されていたこのホテルを、重厚な時差調整の一環で予約したことは幸いであった。地上階には朝食を提供するレストランもあり、問題なくエッグベネディクトを注文することができた。チップを自ら書き込むシステムについては「地球の歩き方」で学んでいたから、少し見得を張って20%相当を支払った。強面の給仕が少し微笑んでくれたから、たぶん正解なのだろう。

 

チェックアウトは午前11時であったが、この体調では少し早めに出ても問題はないだろうと思えた。素晴らしい朝である。あまりの快適さに、いっそ一週間居たい気持ちになった。名残惜しさを感じながら荷物を詰め、チップを少しだけ多めに置き、出発前最後のシャワーを浴びた。ベッドでリラックスしながらアメリカのテレビ番組を陶然と眺め、背伸びか何かをしたタイミングであった。

 

例の亭主である。ものすごい剣幕と共に。

 

突然の疲労感と頭痛、吐き気、なにより久しく体験したことのないような眠気が同時に襲ってきた。自律神経氏、恒例のご立腹である。しかも話せば分かるというレベルではなく、薬でもやってるんじゃないかと言わんばかりの錯乱ぶりであった。当然この大立ち回りは胃腸界隈も一気に上気させた。とりあえず常備薬を服用してみたが、効果は限定的であった。


そう、ついに時差ボケがやってきたのである。

 

思い返せば、誤算は機内食から始まっていた。日本時間の夕方に出発した便は、日本時間午後7時過ぎに第一食を提供した後、日本時間午前4時頃に二食目を提供した。筆者はろくに寝ていない状態ながら、初めてのアメリカという高揚感で疲労を忘れ、日本時間午前7時頃にホテルへのチェックインを果たした。要は朝8時前に寝たのである。そのまま寝るには寝たが、変な時間にご飯を食べていたこともあり、十分な質の睡眠は確保されていなかったのかもしれない。いや、むしろ、環境は良かったため、睡眠の質は良かったのだと思う。そうではなく、睡眠の時間帯が問題であった。朝ご飯を食べたかと思えば朝に寝て午後に起きたのである。おかしくなるに決まっている。快適な環境と心理的な満足感に覆い隠されていた詐欺行為に、勘の鋭い我がフィジカル夫妻が気づいてしまったのがこのタイミングであった。

 

それからというもの、旅程は劇的に暗転した。チェックアウト時はまだ朝食で摂取した栄養が行き渡っていたのか問題なくこなしたが、以後の行程は絶望的な頭痛と吐き気、疲労感や腹痛との格闘であった。時差調整、はっきりいって大失敗である。何のことはない。過剰な取り組みに加えて「機内食を食す」という一瞬の油断が、時差ボケの発症を遅らせただけなのだ。更に言えば半端に遅らせた分、カウンターパンチを受けたかのような衝撃を実感していた。バーリトゥードであれば、慎重な試合運びで優勢に進めていたところをローキック一発で倒され、あっという間に馬乗りからタコ殴り不可避という絶体絶命の状況に追い込まれた。

 
10:00 学会開催地

 

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一泊目のホテルから学会会場は歩いて10分程度の距離にあった。当初からまずは会場の下見と入場登録を行おうと考えていたため、これは予定通りであった。校舎は日本の一般的な大学のように敷地が柵で囲われていることはなく、校舎前の広場は市民に開放されていた。木漏れ日が心地よいベンチで、しばし呆然としていた。初等教育の子ども達が集団で散歩を行っていた。年金暮らしかなにかの老人はベンチでゆっくりと本を読んでいる。平和の白い鳩が飛び交うような雰囲気の中、頭の中はLeave me alone, pleaseの一言でいっぱいであった。


そもそも、時差ボケという言葉はなぜこんなにも暢気なのだろうか。ボケているのは事実だが、認識が不足している訳ではない。むしろ変調を必要以上に認識しているからこその惨事である。何か言い換えられないのであろうか。こういうときは何かと役に立つウィキペディアを検索すると、時差ボケの別名として「時差症候群」「非同期症候群」があるらしい。生ぬるい。何が非同期か。もっと直接的な名前が必要ではないか。例えばこの症状は乗り物酔いなどと酷似しているから、「時差酔い」はどうだろうか。時間という概念に酔っているのだ。なかなか言い得て妙だと思ったが、今それを考えるべきではなかったかもしれない。この言い方は自らのサーカディアンリズムが千鳥足になっている事実をバッサリと指摘してしまう。直接表現しないことで救われるものもあるのだ。おかげで騙し騙しやり過ごしていた夫婦の怒りが、また少し身に迫ってきたように感じられた。
 
11:00 ジェイ・ストリート・メトロテック駅(Jay St. MetroTech)からマンハッタンへ

 

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さて、この日からいよいよ地下鉄探索を始めようと思う。乗りつぶしにあたっては、運営公社が提供している「アンリミテッドチケット」を活用することとした。アンリミテッドとは要は乗り放題切符で、磁気カード(メトロカード)にアンリミテッド期間を登録することで改札を通れるようになる。期間は金額によって変わり、今回は7日間乗り放題(32ドル)を選択した。なおメトロカードを持っていない場合は1ドルで発行される。今回は事前に磁気カードを院生仲間(川越さん(仮名))から譲り受けていたので、1ドル浮かすことができた。川越さん、ありがとう。ちなみに切符には他にシングルチケット(1回券、要は片道切符)もあるので、特に乗りつぶしの必要がない人はそちらでも構わないが、マンハッタンの中を右往左往しようと少しでも考えるのであればアンリミテッドをお勧めする。

 

校舎の最寄り駅であったジェイ・ストリート駅からマンハッタンへは、地図では青線で描かれているA線・C線か、オレンジで描かれているF線のどれを使ってもたどり着くことができる。地図を確認していただければ一目瞭然であるが、マンハッタンとブルックリンの間には実に7本もの地下鉄路線が掛かっている。しかもこの7本というのは物理的な数で、系統を勘案すると実に16路線が設定されている。それだけの往来があるのかもしれないが、意味が分からない。こういう場合、たいていは歴史的経緯によるものである。日本でも西武鉄道の小平市から東大和市にかけての一帯は、シミュレーションゲームで建設ルートを誤ってしまったような珍妙な路線網となっているが、これらは路線の建設史を紐解くとある程度は納得することができる。ブルックリン周辺の路線網もそうした歴史があることが推察された。ここではF線を選択し、途中で4・5・6号線に乗り換えた後、次の宿泊地のある14丁目(ユニオン・スクエア)へ向かうこととした。
 
 
#8

 

12:00 14丁目・ユニオン・スクエア(14St Union Square)

 

マンハッタン上陸に際し、主に「地球の歩き方」で習得したマンハッタンの基本情報のいくつかをここでご紹介する。

 

・縦に長いマンハッタンは、下行きがダウンタウン(Downtown)、上行きがアップタウン(Uptown)
これは語感からもイメージされることである。実際に上部に語義の似たアッパーマンハッタン(Upper Manhattan)地区があるが、下行きはどこでも「ダウンタウン」、上行きは「アップタウン」となる。要は南行き・北行きである。
 
・街路の縦筋はアベニュー(Avenue:番街)、横筋はストリート(Street:丁目)。番号は右or下から順に増える
これもニューヨークに限ったことではないが、覚えてしまうと楽である。京都でも大昔は「条坊制」という都市計画システムの元に横筋(条)と縦筋(坊)を言い分けていたというが、マンハッタンでは「1811年委員会計画」にて決められた、アベニュー(縦筋)とストリート(横筋)に関するルールが現役である。ルールによると、原則としてアベニュー(番街)の数字は右から左、ストリート(丁目)は下から上へと増えていく。これにより数字だけで大雑把な位置を把握することができる。例えば150St.といえばマンハッタンのだいぶ上の方であるし、2nd Ave.は「とにかく東の方のアベニューだ」ということがすぐつかめる。ただしこの付番ルールの策定以後に「1番街」より右側に作られたアベニューにはアルファベットが振られていることや、数字そっちのけで固有名が与えられているアベニューやストリートもいくつかあるなど、例外も存在することは頭に入れておいて欲しい。

 

・ほとんどの地下鉄線はマンハッタンを縦断している
マンハッタンの形状から、鉄路による移動需要は横より縦の方が旺盛かつ有意義である。そのため多くの路線はマンハッタンのアベニュー(番街)の下を通っており、マンハッタン内の任意のスポットに向かう場合に乗る路線は、目的地が位置するアベニューに応じて決めると好都合である。なお横移動には例外的に地下鉄路線が存在している箇所を除けばバスが便利で、メトロカードのアンリミテッドチケットがあればこちらも乗り放題である。

 

・ブロードウェイは碁盤目を切り裂くジョーカー的通り
原則として碁盤目で構成されているマンハッタン街路の中で異彩を放っているのが、島を撫で斬るように走っている「ブロードウェイ」である。ブロードウェイ(Broadway、広い道、大通りの意味)という名の通りは全米各所に存在するが、マンハッタンのブロードウェイは碁盤目の秩序を超越したジョーカー的存在といえる。しかしこの貴重な斜め動線が、マンハッタン内の移動をより円滑なものとしている。

 

・多数の「住区」名称がある
マンハッタンにはエリアに応じた様々な住区名称がある。ミッドタウン(Midtown)、ローワーマンハッタン(Lower Manhattan)などは分かりやすいが、ほとんどはオリジナリティのある名称となっている。ただ名称が示す範囲は結構あいまいで、広さもまちまちである。用があれば覚えた方がよいが、すべてを一気に覚える必要はない。実際の住所では先述の番街・丁目に基づくルールが上位であり、そちらを頼れば目的地にたどり着くことができる。

 

・サウスブロンクス地区、ハーレム地区には近づくな
ブロンクス(Bronx)地区はマンハッタン島を出た北側に位置する地区である。元々は富裕層が居を構える地域だったようだが、特にサウスブロンクス地区は治安が悪化するようになったという。全体的には治安の改善したニューヨークといえど、サウスブロンクス地区とマンハッタン島北部のハーレム地区は今でも思わぬ災厄に巻き込まれる可能性があるらしい。なにしろ行っていないので本当かどうかは確かめようがないが、本当だったらそれはそれで手遅れとなるので、ここは本の情報を信用したい。

 

実は「サウスブロンクス地区に近づくな」という注意喚起は、職員会議で申し合わせた小学校の先生のような定型句として随所で紹介されていた。だからこそ結構ガチなのであろう。こうなってくると実際に確かめたくなるのが日本男子の矜持であるが、一身上の都合により今日のところはミッドタウン以上の探索を諦めることとした。

 

さて、14丁目ユニオン・スクエア駅(14St Union Square)は、その名の通り「ユニオン・スクエア」という公園の真下に位置している。ドミトリーはユニオン・スクエア駅から徒歩数分の距離にあった。入り口には、部外者完全立ち入り禁止の厳重なゲートが存在した。頑迷そうな顔をしていたガードマンにパスポートを見せつけてゲートをなんとか突破すると、学生が取り仕切るフロントに荷物を預けることに成功した。時差酔いによる頭痛と吐き気はこの段階でもかなり酷く、できればそのまま休みたかった。しかしチェックイン可能時刻(16:00)前に入り込むという気力も湧かず、一旦ドミトリーを後にした。ここで無理矢理部屋に入って休んでいれば、あるいは運命は変わっていたかもしれない。

 

13:00 グランド・セントラル・42丁目(Grand Central 42St)

 

休むことも他にすることもないので、地下鉄乗りつぶしを再開する。地下鉄の隅に押し込められて見上げるコピーは、呪文のようであった。14丁目から緑線を北上し、マンハッタンの中心地といえる42丁目の駅にたどり着いた。いわゆるセントラル・パークはここから更に北に行く必要があるが、まずはミッドタウンの探索に重点を置くことにした。この駅は表題の地下鉄駅のほか、一般の鉄道の終着駅(グランド・セントラル(Grand Central)駅)が同居している、まさにターミナル駅である。東京における東京駅のような存在で、実際に両駅は姉妹駅協定を結んでいる。ちなみに東京駅も仮の名前は「中央停車場」であったことや、両駅の駅舎の竣工年が僅か1年差であることを考えると、これほど「姉妹協定」が相応しい取り合わせもないだろう。

 

ただ今回は地下鉄の乗りつぶしが主要ミッションであるため、今回は42丁目駅に乗り入れている地下鉄探索に集中する。この駅にはマンハッタンでは少数派の、横筋(ストリート)沿いに走る路線と接続している。「7」という番号が与えられたこの路線は、マンハッタンのミッドタウンとニューヨーク東部のクイーンズ(Queens)地区を結んでいる。ただ7号線のホームは、ニューヨークの地下鉄の中ではかなり深い場所に位置している。これはこの42丁目駅から西に向かうルートが、比較的近年になって建設されたことに起因する。深いところに設置したために、乗り換えには時間がかかるが、ホームは御堂筋線の駅のような高い丸天井が施されている。おそらく、ニューヨーク地下鉄の中では異質な部類に入る路線であろう。ここではせっかくなので、新しいとされる区間の乗りつぶしを行った。

 

西に向かう7号線は、34丁目・ハドソン・ヤード(34St Hudson Yards)駅にて終点となった。乗っている時間は10分もなかったと思う。特に近代的な空間であったハドソン・ヤード駅を上がると、そこは再開発地区のど真ん中であった。

 

14:00 ハドソン・ヤード(Hudson Yards)

 

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ハドソン・ヤード(Hudson Yards)は、ニューヨーク西岸のハドソン河(実際はほぼ海)に位置するかつての工業地帯である。一体的かつ野心的な再開発が行われている、現在のニューヨークで最もホットな地区のようだ。地区内には最新のショッピングモールやマンション、プロムナードが整備されており、新しいニューヨークの顔を作り出そうとしている。

 

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いや、もうですね、気持ち悪いんですわ。このまつぼっくりがではなく、体調がです。おまけに陽射しは思っていたより厳しいし、観光客は結構多いし、ちょっともう長椅子とかで寝たいんですわ。少なくともこれ以上散策するのは無理というか、もう勘弁してください・・・

 

14:30 タイムズ・スクエア・42丁目(Times Square 42St)

 

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しかし休める場所があるわけではない。とはいえ徒歩で時間を稼ぐのは命に関わると感じ、ひとまずハドソン・ヤードと周辺施設の視察は見送った。正直やせ我慢して書いていましたが、グランド・セントラル駅だって、もう上下昇降がしんどかったので行きたくなかったわけですよ。色々見送りに見送って、特に考えがあるわけでもなくこの街区にいました。タイムズ・スクエア(Times Square)。ニューヨークでも指折りの中心道路である42ストリートと7thアベニュー、そして斜め目抜き通りであるブロードウェイの交点にあたります。そりゃ繁華街になりますわな。さすがに東京でも、このような一極集中交差点は思いつきません。地学的には3つのプレートの交点になっているのですが。そりゃ地震も多いですわな。

 

さて、ブロードウェイというといわゆるミュージカルの聖地ですが、この42丁目界隈のブロードウェイはそのブロードウェイです。何言ってるんだって話ですが、つまり劇場が並んでいるブロードウェイです。ただ、歌舞伎座の前を通っても歌舞伎がすぐ観られるわけではないように、ブロードウェイミュージカルも都合良く開いていることはありません。というか、時間も演目も知らずに通ったので入れなくて当たり前です。派手派手な看板を横目に、あてもなく歩いてみます。

 

タイムズ・スクエア周辺は観光客の聖地でもあるわけで、土産物屋も乱立しています。しかしどのお店に入っても、品揃えは豊富ですが同じような品が並んでいるのが少し悲しいところです。最近の日本の本屋のようです。

 

もうですね、暑いし頭痛いし気持ち悪いしそしてお腹が減りました。何もかもあるはずの場所で行き倒れようとしています。絶対におかしい。課題が十重二十重に襲いかかってくるときは、冷静にひとつずつ解決していくしかありません。この中でなんとかできそうなのは、お腹が減った、でしょう。ただ本場アメリカンの食べ物が、夫婦喧嘩状態の身体にとって優しいとは限りません。もうこうなったら取るべき手は一つです。日本食です。日本食を出す店を探すのです。でも繁華街とはいえ、都合良く日本食を出すお店があるでしょうか。

 

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ありました。これは仮面を被った一風堂でしょう。ラーメンといえば日本人のソウルフードです。しかもわたくしは豚骨ラーメンが大好き、出先で嫌なことがあれば帰りに豚骨ラーメンで忘れ去るというのが恒例行事になっていますので、渡りに船です。そういえばパリでも一風堂を見つけて入店して、日本の一風堂と変わらない味に感銘を受けたものでした。今回もこの大ピンチの場面で、助けを期待するとしましょう。

 

ダメだーおいしくない。たぶん一風堂が悪いんじゃなくて体調が悪い。というか大荒れの胃腸夫人に対して、こんな脂っこい料理は国籍関係なくダメでしょう。お腹は減っていたので、完食することはできました。できましたが、頭痛と吐き気に胸焼けが加わってしまいました。

 

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いや本当に冗談ではなくなってきました。実はこの彷徨の中でも、お土産を見たり面白い店がないかどうか確認していたのですが、頭を金属バットで殴られたような痛みです。そういえばまた昔の寮のエピソードですが、高校1年の頃に寮内で生徒同士の乱闘があって、頭を金属バットで殴られて失神した同級生がいたのですが、こんな感じの痛みだったのかなと思ったりしていました。とにかくまずは休憩です。ドミトリーです。ドミトリーに戻るのです。いくら寮といえど、ベッドくらいはあるはずです。そこでパワーナップ(短時間の昼寝)を行い、夜に控えている知り合いさんとのご飯に向かうのです。正直そこでものを食べられるか不安ですが、やるしかないんです。

 

16:00 ドミトリーにチェックイン

 

立場も時代も違うとはいえ、およそ18年ぶりの寮生活が始まります。預けた荷物を首尾良く受け取り、鍵を受け取って部屋に向かいます。そこで見た光景は。

 

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本当にベッド以外何もない空間でした。

 

もちろんある程度覚悟はしていました。寮に住んでいた人間ですから、私物を持ち込まないと生活できないのが寮であるということも、薄々感づいていました。しかし本当に何もない。

 

おまけにこの部屋はベッドが二つ、今回はここに一人しか通さないことが事前に示されていましたが、全く同じ作りの部屋が隣にもあり、そちらとシャワー・トイレは共用という状況でした。言いますよ。これ四人部屋です。四人部屋を二人で使っているだけです。鍵はベッドのある部屋ごとに掛けられる仕様ですが、最も鍵を掛けたい欲求に駆られるであろうシャワーやトイレは共用部にあるのです。もう一方の部屋の扉に外から鍵を掛けて出られなくすればよいのでしょうか。

 

部屋に戻ると、繰り返しになりますがベッドと机しかありません。ベッドもベッドの骨組みとマットレスに枕、フロントで渡されたリネン類のみです。リネン類は驚くべきことに、薄いシーツ二枚と枕カバー、そしてブランケットのみです。掛け布団はどこですか。いや、正直この季節なのでなくてもいいかもしれません。では敷き布団はどこですか。昔の寮でもマットレスに直寝はしませんでした。腰を痛めるので。ないのですか。ないならせめて、冷房は止めていただけませんか。寒いのです。スイッチはどこですか。後から聞いてスイッチがあることを知りましたが、荒廃状態の身体にこの仕打ちは耐えられません。これで100ドルですか。用心棒代としても高すぎやしませんか。普通は入る機会などない寮に入れたことは貴重な体験かもしれませんが、ガチの寮生活を過ごす必要があるなら、もうちょっと生活物資用意したわい。

 

それからの二時間、ひたすら睡眠を試みました。頭痛の頓服も飲みました。水分も摂れるだけ摂りました。しかし夫妻は頑として機嫌を直してくれません。おまけにこの寒さとなにもない環境。旅の二日目にして死を覚悟しました。ドミトリーよ。人生の青春時代を狂わせておきながらまだ足りませんか。もう十分です。二度と寮に泊まるなんて言いませんから。

 

#9

 

19:00 12丁目・ブルーノート前

 

結局知り合い二名と合流する時間となっても体調は戻らず、しかし欠席では申し訳なさ過ぎるので、這々の体で知り合いと合流することになりました。開口一番「体調、悪そうだねー!」と驚かれましたが、返す言葉もありません。人間、弱音を少しだけ解き放ちたい日があるものですが、今日がその日です。本当に申し訳ない限りです。協議の末、ご飯は諦めることになりました。ドミトリーよ、これが欲しかった結末ですか。
しかし知り合い二名の人間力はここから非凡でありました。

 

「そんなところ、抜けちゃいましょう」

 

19:30 ふたたびドミトリー

 

ブルーノート前からドミトリーまではタクシーで5分程度の距離でした。ドミトリー前に降り立った3人は、それぞれに動き出しました。知り合い二名は近くのホテルの探索、筆者は荷物の再整理による脱獄準備です。準備はすぐ終わりました。チェックインしてからというもの、昏倒していただけでしたから。18年ぶりの寮生活は、一旦2時間でその幕を下ろす形となりました。このときは情けない気持ちしかありませんでしたが、過去を紐解くとこれは必然だったようにも思います。こんな、寮アレルギーを満載したような人間は、間違っても寮を再体験しようだなんて考えてはいけなかったのです。

 

出口では知り合い二名が、ドミトリーから徒歩1分の場所にあるホテルをブッキングしてくれました。支払いを済ませ、部屋に入ったとき、終わる気配のなかった夫婦喧嘩が一瞬ぴたりと止んだ気がしました。そこにはベッドもカーテンもテレビもお茶もシャワーもトイレも洗面台もWi-Fiもあったのです。

 

助かった。大都市の中心部で感じてよい感情なのか分かりませんが、心からそう思えたのでした。

 

二人はこれだけでなく、「これから一週間の飲み食いに困らないように、色々教えておくね」と、近隣スーパー(ホールフーズ)や、アップルサイダーが美味しいユニオン・スクエアの朝市に関する情報を教えてくれました。あなた方は神か。残る気力を振り絞り、軟水のミネラルウォーターと消化の良さそうなものを買い込み、部屋に戻ることに成功しました。知り合い二名、もとい二体の神々とは近隣スーパー紹介のところでお別れとなりましたが、その存在は旅行中ずっと心の支えとなってくれました。御礼してもしきれません。日本に戻られる際は、ぜひお礼させてくださいね。

 

20:00頃 ホテル「HYATT Union Square」チェックイン

 

時差酔いに打たれダウンした夜、温かいコンフォーターがやさしく包んでくれたのでした。結局時差酔いとの壮絶な戦いは翌日夕方まで続き、現地合流した上野先生と食べた、ホテル1階のめちゃくちゃしょっぱいパスタを食べたところで収まったのでした。

 

#10

 

旅先で風邪を引き、楽しみにしていたアミューズメントを棒に振ったというエピソードは少なくない。新婚旅行でそうなろうものなら、夫婦初の大喧嘩が勃発し、それが夫婦最後の生きた会話となる恐れすらあるだろう。かくいう筆者も、新婚旅行は未体験であるが、旅先でダウンした経験は一度や二度ではない。特に思い出されるのは、およそ半世紀ぶりに開催された那覇でのプロ野球公式戦観戦旅行で、滞在二日目のほとんどを連泊のホテルで過ごしたという残念な記憶である。そのときの旅日記では、二日間ほとんど野球観戦しかしていないような書き方をしていたが、それが事実なのだから仕方ない。

 

滞在三日目。神々の配慮によってドミトリー死の心配は遠のいたが、つらさと痛みはすぐには消えなかった。しかし籠城していても状態は上がらないと判断し、意を決して身支度を調え、散策を行うこととした。以降、三日間の滞在で散策をタスクに組み入れ、体調回復を急いだ。

 

14Stユニオン・スクエア一帯は、不思議な街であった。

 

住区名称によるとこの辺りは「グラマシー(Gramacy)」「ノーホー(NOHO)」「グリーンウィッチ・ヴィレッジ(Greenwich Village)」と呼ばれる地域で、お洒落な住宅と観光客向けのお店が見事に共存している。東京の下町のような地域住民との距離感がイメージされるが、こちらはより多様な人々が一堂に会している印象である。ちなみにニューヨークチーズケーキが有名な「グラマシー・ニューヨーク」は、この地区をイメージしているのかもしれないが、愛知県の会社である。

 

今回お世話になったホテル(HYATT Union Square)とドミトリーは「ノーホー住区」に位置し、ブロードウェイを挟んだほぼ両隣の位置関係であった。実はドミトリーには上野先生が予定通り宿泊中であり、筆者は必要に応じてドミトリーに出張る形となった。またドミトリーのセキュリティレベルはドミトリーのくせに超一流であり、チェックアウトすることで以後絶対に入ることができなくなる仕様であった。そのため今回は、ドミトリーへのチェックイン状態も維持することを選択した。いわば宿泊場所の二股である。厳密に解釈すれば、この数日はドミトリーが予定通り「宿泊地」であり、HYATTは「ご休憩場所」であった。やや誤解を招くような表現だが、背に腹はかえられない事情があったのだから仕方がない。

 

さて愛人と本妻、もといホテルとドミトリーの間には、ハラル対応のホットドッグ屋台があった。ハラルとは書いてあるものの、普通のドッグも売っている。こうした屋台は街路の各所に点在しており、その絶妙な散り具合から察するに何らかの取り決めでもあるのだろう。まだ時差酔いが完全に覚めていなかった頃、意を決してドッグと紅茶を注文した。意外にも美味であった。少なくとも往時の横浜スタジアムのグルメよりは数倍もマシであった。

 

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また、ホテルから徒歩1分の場所にこのような名前の店があった。ポケモンGOに全力で乗っかりにきているのか?と訝ったが、実際にはハワイ料理を出すヘルシーなお店であった(POKÉはポケモンでなく、ハワイの郷土料理の意)。

 

さて、そろそろ視野を周辺に広げよう。


14Stのランドマークとして存在する「ユニオン・スクエア」の直下には同名の地下鉄駅があり、3つの路線が接続している。緑色、黄色、そして灰色である。

 

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ただその中の灰色の路線――L線という名前、であるが、そこかしこに派手なサインが掲出されている。最初にこのサインを見たときは時差酔いまっただ中だったためそれどころではなかったが、改めてよく読むと「20分に一本しか来ないよ」などと記載されている。端的には、あんまり本数がないからできれば他の路線を使ってね、ということである。ローカル線ならいざ知らず、都心の地下鉄路線でこれはどういうことなのか。

 

これも神が説明していたので要約すると
・L線は2012年のハリケーン直撃によって致命的なダメージを負い、当局は廃線の意向を示した
・沿線利用者が猛烈に反対した
・当局は思案し、順次直していくことを決断
・しかし徐々に直しているため、その間は運行状況が極端に悪い

 

ということのようだ。なかなか不憫な話である。理由には納得したが、それにしても直すのに時間が掛かりすぎではないか?


結局このL線に乗ることは諦めた。フラフラながらここまで地下鉄を乗り回してみて、どうやら基本的には同じシステムで動いているようであること、さすがに20分待つ気にはなれなかったことなどがある。またそういった閑散とした路線の駅はさすがに荒んでいるのではないか、という虫の知らせもあった。いつか健全さを取り戻したL線に乗れればと思う。

 

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ユニオン・スクエアからは多数の道が伸びている形となるが、付近にはチョコレートの専門店、セブンイレブン、オモチャ屋など、多様な店が並んでいた。実はニューヨーク土産について出発前から悩んでいたため、お土産探しを兼ねてこれら商店を散策した。

 

セブンイレブンは看板こそ日本でもお馴染みの三色であるが、中身は日本のコンビニとはおよそ似つかないものであった。確かにコンビニエントな品揃えではあるし、レジ横でセルフサービスのホットドッグ販売コーナーもあるなど、スーパー以上の個性も見受けられる。しかし日本のコンビニに標準装備されている弁当ゾーンは基本的に存在せず、陳列方法はSEIYUより雑多である。全世界でお馴染みの「I♥NY」が刻印されたマグカップも堂々と売られていた。コンビニエントと感じるものが、日本とアメリカでは相当に異なるのであろう。弁当という文化が日本特有であることももちろん重要な事実であるが、あってよかった、一気に用が済んだと思わせる品が日常レベルで異なっているという現実は、異文化への興味を初めて前向きに捉えさせてくれた瞬間だったかもしれない。ただこの場では品揃えの微妙さに気圧され、バナナとミネラルウォーターだけ買って出てきてしまった。

 

チョコレート専門店はネットでのニューヨークおみやげ関連記事でも取り上げられていた有名店であった。そもそもニューヨークとチョコレートに何の繋がりがあるのかよく分からないが、美味しければそれに勝るものはない。加えて今後、どのタイミングでおみやげを買えるか読めなかったため、おみやげの主力はここで買い込むと決めた。それが正解かどうかは、お土産を受け取った人にしか分からない。

 

アンティークなおもちゃを売っていた店もあった。面白い品揃えではあったが、これに関してはブロードウェイ沿いでも中野ブロードウェイの方が上手であると感じた。返す返すもあの空間は希有である。誰が必要とするのか分からないが、誰かは必要としているのかもしれない品で埋め尽くされた店が軒を連ねるフロアの下を、商店街の道の延長線上で通りかかる地域住民が日常的に通過しているのだ。サンモールを延々歩いているといつの間にか建物の中に居て、最後は雑居ビルの出入口を悠然と通過するというお馴染みの順路も含め、それ自体が一個の芸術作品であると思う。

 

さて最後に、中心地のユニオン・スクエア公園について紹介する。この一角は先述の通り、縦横の道に加えてブロードウェイが斜めに通っているため、景観上も大きなアクセントとなっている。後に調べたところによると、ユニオン・スクエア公園は不規則な交差点によって使い物にならなかった土地の有効活用が由来、とのことであった。ジョーカー、してやったりである。とはいえ、日本であればこのような交点も平気で五叉路として処理してしまいそうなところ、公園としたのはなかなかの英断である。ちなみに筆者が大学通学のためによく通る所沢という街には「金山町交差点」という五叉路があるが、こんなに分かりやすい諸悪の根源があるのかと言いたくなるほどに渋滞の主原因となっている。ユニオン・スクエア周辺の交通が実際どれほど円滑なのかは分からないが、見た目には穏やかに見えた。

 

話を神のご託宣に戻そう。神はこう告げていた。ユニオン・スクエア朝市のアップルサイダーを飲みなさいと。

 

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ユニオン・スクエア朝市。件のアップルサイダーが売っているのは毎週金曜日だけだという。きっちり8時に始まった朝市は、ニューヨークであることを忘れさせるような牧歌的な雰囲気に包まれていた。一言で、素敵な瞬間であった。自分は朝市に足繁く通うような人間ではなかったのだけれど、こんな清々しい気持ちが充満している空間で商売できるなら、それはそれで幸せだと感じた。生きていると云う事はこんな感じのもの、くり返しているようなそうでもないような。それこそ日本に帰ってから、朝市で売れそうなものってないかしら。

 

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アップルサイダーを見つけることは簡単ではなかった。同時並行で土産物を探していたこともあり、ものが良いかと同時に海外へ持ち出せるのかといったことも考えながらの散策であったことが災いした。特にメープルシロップには目を惹かれた。これは本当に美味しそうな逸品であったが、液体であるし、少し重量感があったこともあり、泣く泣く見送った。今思い返すと、もったいなかったと思う。

 

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なんとリスがいる。不自然な取り合わせのような気もするが、幸せに生きているならそれで良しとしよう。

 

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朝市を巡ること数十分。遂にアップルサイダーを見つけた。探索を始めたポイントのすぐ近くにその店はあったから、単に見落としていたのだった。絶品だった。うっま。超うまい。日本のリンゴジュースも絞りたてはうまいのだと思うが、このサイダーは美味であった。神はやはり神であった。

 

ユニオン・スクエア地域には都合3日間滞在した。そのうち半分近くは不調の時間であったが、それでも体感した居心地の良さを考えると、この街の魅力は本物である。もし次ニューヨークを訪れる機会があれば、またこのユニオン・スクエア周辺に宿泊し、今度はもっと広い範囲を探索しようと思う。スクエアに聳える微かな微かな木々の声が、また新しい発見を届けてくれるに違いない。
 
 
#11
 

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我が家に葵ちゃんが来たのは昨年6月であった。

 

知り合いのマッサージ師さんが自宅近くの駐車場で鳴きわめいていた子猫を保護したのが始まりであった。手に余らせたマッサージ師さんは我が家に保護を依頼し、保護シェルターまでのつなぎの役割を引き受けた。憔悴していたパステルサビ柄の雌猫は、適切な栄養補給と共に体調を取り戻し、警戒心をほどいていった。既に我が家には5頭の猫がいたために定員オーバーであることは承知していたが、葵ちゃんの我が家への帰属意識は保護1ヶ月で相当なものとなっていた。というかもう、里親に出すのは無理であった。

 

葵ちゃんが加入すると同時に、最古参の雌猫こまちが旅立った。猫サイトの運営を始めた頃からいたオリジナルメンバーがまた一頭旅立ってしまった。しかしその悲しみを和らげてくれたのは葵ちゃんであった。いつしか夜10時は葵ちゃんの遊び時間となった。我が家は数年前から完全室内飼いに移行していたが、葵ちゃんは物心ついた頃から室内しか知らない、我が家史上初の猫であったから、体力維持のためにも遊ばせなければならなかった。おかげで順調に成長した葵ちゃんは、この5月で推定1歳を迎えることとなった。

 

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葵ちゃんはなかなかドライなところがあり、おもむろに撫でると機嫌を損ねる猫である。仔猫だった頃から、ずっとこんなふうだった。現在我が家(チームへぼへぼ)に加入している猫(さいでぶん、しまやろう、かれんでぶん)はいずれも噛み癖のある武闘派であるが、葵ちゃんはそこに輪を掛けてドライであった。それでいて人から離れることは心細いらしく、いつも誰かの側に居た。

 

体調のどん底を切り抜け、やっと予定通りの活動を始められそうな気配となったとき、我が家から写真が送られてきた。ちょっとやつれた葵ちゃんであった。

 

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うわーん帰りたい!もう帰らせてください!

 

本当はこの10倍以上の分量で葵ちゃんクロニクルを書き連ねられるのだけれど、話がいよいよニューヨークでなくなってしまうので自重することにする。

 

#12

 

さて、旅もいよいよ中盤戦を迎えた。この期間は概ね学会関連の行事に費やしていたため、こちらに書けることが多くない(注釈:「いんせい!!」で書いています)。ただそれでは据わりが悪いので、隙間時間などを活用して訪れたブルックリンの名所について紹介していく。

 

<ブルックリン、ダンボ地区>

 

ダンボ (Dumbo) は、「Down Under the Manhattan Bridge Overpass」(「マンハッタン橋高架道路下」の意)のアクロニムに由来する、ニューヨーク市ブルックリン区の近隣地区のひとつ。この地区は2つの街区にまたがっており、ひとつは、いずれもブルックリンからマンハッタンへイースト川に架かる橋であるマンハッタン橋とブルックリン橋に挟まれた街区であり、もうひとつは、マンハッタン橋から東へ、ビネガーヒル (Vinegar Hill) 方面へと続く街区である。(以上 Wikipedia「ダンボ(ブルックリン)」)

 

ダンボというとどうしてもあの象さんを思い浮かべるが、こちらの実の由来はかなり無骨である。要は「サ高住」とかと同じ流れである。ダンボ地区を説明するにあたり、二つの橋について解説する必要があるだろう。

 

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・ブルックリン橋
ブルックリン橋(Brooklyn Bridge)は、アメリカ合衆国ニューヨーク市のイースト川をまたぎ、マンハッタンとブルックリンを結ぶ橋である(以上 Wikipedia「ブルックリン橋」)。

 

要はアメリカで一番古い大型の吊り橋である。日本が近代を迎え富国強兵に走り始めた頃から存在していると考えると、アメリカの当時からの勢いを感じさせる構造物である。ブルックリンといえばこの橋の存在を思い浮かべる方も多いと思われる。2層構造の橋の上段には、何のゲートもなく徒歩でアクセスが可能である。ブルックリンからマンハッタンまでは徒歩で1時間もあればたどり着くことができる。

 

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・マンハッタン橋
マンハッタン橋 (Manhattan Bridge) は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市のイースト川をまたぎ、マンハッタンとブルックリンを結ぶ鋼製の吊り橋である(以上 Wikipedia「マンハッタン橋」)。

 

こちらはブルックリン橋より後に架橋された、20世紀を代表する吊り橋である。ブルックリン橋と比較すると、全体が鋼製であることがよく分かる。なお二つの橋はどちらとも一方通行ではないので、「ブルックリン方面にしか行けない橋」「マンハッタン方面にしか行けない橋」という訳ではない。ブルックリン橋との大きな相違点としては、マンハッタン橋には地下鉄が乗り入れている。歴史上はブルックリン橋にも鉄道が通っていた時期があったようだが、現在は廃止されている。このためマンハッタン橋の真下にいると、地下鉄電車が通過する轟音をコンスタントに耳にすることになる。

 

これらスポットは前日にニューヨークへ到着したばかりの上野先生と共に巡った。やはり先生が同行ということであればきちんとしなければいけないかなと思い、引用してみた次第である。ちなみに賢明な学生諸君におかれては、こういうふざけた形の引用を本割のレポートでかますとコピペ探知システムが作動してしまうのでぜひ止めて欲しい。

 

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ブルックリン橋の上の景色である。両脇を自動車が、歩道も高速で自転車が通過するため、スリルがある。今回はマンハッタンまで歩き通すと学会に戻れなくなるため、ほんの切っ先だけの体験に留まった。ただかなりのピーカンであったから、行けと言われても体力的に厳しかったところである。それでも上野先生は時差ボケを全く体験しない体質であるらしく、その意味では危ないところであった。強い人は弱い人に、なぜ弱いのかの理由を求めようとするが、それを知ったところで弱い人に合わせることはないのである。

 

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ダンボ地区は再開発地域とあって、多くの観光客で賑わっていた。周辺は再開発前の時代の面影を残す、新古典主義的な商業建造物で構成されていた。随所に取って付けたようなバリアフリー対応スロープもあったが、取って付けた感が出てしまっているのはまだ改良の余地があるということかもしれない。暑い。

 

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マンハッタン橋の紹介に使った写真の撮影地では、なにやらカップルなどが盛んに写真を撮っていた。どうやらこのポジションが、マンハッタン橋の主塔の隙間にエンパイヤ・ステートビルを収められる構図であるようだ。THEインスタ映えである。一応撮るには撮ったが、さすがにここまでド直球なインスタ映えポイントを撮影するのはむしろ気恥ずかしさを感じてしまう。それと暑い。

 

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インスタ映えポイントを通り抜けると、イースト河に行き着いた。一帯は親水公園のように整備され、遊歩道や遊具が設置されている。この辺りの整備手法は日本と似ているのかもしれない。けっこう暑い。

 

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遊歩道を歩くと、奇妙な骨組みと透明なアクリル板で覆われたメリーゴーランドを見つけた。上野先生曰く、ジェーンズ・カルーセルという施設で、この入れ物は著名建築家ジャン・ヌーベルによるものとのこと。ちなみに後から調べて分かったことだが、中身のメリーゴーランドも年代物である。物語はわざとらしく作るのではなく、そこにあるものを掬うだけで成立する。ただ掬うという行為は、そこに物語があることに気づかなければ絶対に起きない。ゆえにこのような施設の存在は、図らずもニューヨークの懐の深さを指し示しているように思う。まあまあアツい。

 

かれこれ一時間は歩いただろうか。病み上がりというかまだ病んでいる身体にこれは効く所行である。収穫があったとすれば、脱水症状を恐れた筆者がとりあえず買ったスポドリである。なんでこんな色なのか分からない。水酸化鉄?硫酸銅?みたいなのも売っていたが、それが結構身体に合ってしまった。
 
 
<ニューヨーク交通博物館>

 

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ニューヨークに数ある博物館・美術館の中で、ここを訪れる観光客はよほどの物好きかひねくれ者であろう。かくいう筆者は物好きの方だと信じたいが、ニューヨーク地下鉄の謎を解き明かすために訪れた。ちなみに上野先生は筆者がよほどひねくれ者と映ったのか、同行してはくれなかった。

 

ブルックリンにある交通博物館は最初に泊まったホテルの最寄り駅「ホイト・スキーマーホーン(Hoyt-Schermerhorn)」からほど近い、旧「コート・ストリート(ex.Court Street)」駅のコンコースとホームを活用した形で存在している。旧ということは、つまり廃駅である。地下鉄で廃駅というとなかなかもったいない気がするが、なぜそうなったのかはずいぶん前に示した結びこんにゃくを思い出して欲しい。

 

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このぐちゃぐちゃの路線の真ん中、赤丸で強調されたあたりに、この交通博物館はある。どうやら、このぐちゃぐちゃを整理しようとして、結果的に廃駅が生まれてしまったようだ。

 

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地下鉄駅の居抜きであるため、当然入り口も地下鉄駅のそれである。入場には大人10ドル。

 

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ニューヨークの地下鉄の工事の歴史を示す展示物が出迎えてくれる。海底の割には固めの岩盤があったのが幸いだったのかもしれない。

 

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歴代の案内標識。これは貴重。

 

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歴代のバスの模型。これは貴重。

 

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歴代の地下鉄車両。これはもう超貴重。

 

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ニューヨークの地下鉄は複数の会社が乱立していた時代があった。それが第二次大戦において一社に統合され、現在は公社が地下鉄や鉄道、バスの運営を一手に引き受けている。結びこんにゃくの謎もこれで説明できるだろう。

 

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これは・・・Don't you see!ですね・・・(感涙
 
博物館の構造は旧駅コンコースを展示スペース、一つ下の旧ホーム部分には実際の地下鉄車両を展示するという合理的なレイアウトとなっている。実はニューヨークの地下鉄は基本的に構内の撮影が禁じられているのだが、この博物館の館内は撮影OKであった。そのため今後の資料として使えそうなものも含め、旅行前に望んでいた多くの写真を撮影することができた。

 

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あふれる程の思い出達も今の真実にはかなわない。今この博物館という存在が、思い出を真実にしてくれる。そういえばどこかの島国の交通系博物館では今、せっかく展示していた貴重な車両を、新しく入ってくる展示車両と入れ替えるという名目で続々とスクラップしている。真実を失う思い出への思いは、誰が引き継いでいくのだろう。

 

平日の午前の主要客層である子供の大群を後目に、展示物をひたすら鑑賞していた。いやあ本当に素晴らしい施設だ。ニューヨークに来てよかった!

 

#13

 

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ニューヨーク滞在五日目、極上の休憩施設:HYATT Union Square にいよいよお別れを告げるときがきた。期間の長さもあるとは思うが、これほどチェックアウトを名残惜しいと思ったことは久しぶりであった。フロントのボーイとは既に顔なじみのような感じになり、チェックアウトを笑顔で応じてくれた。ドミトリーの方はさっさとチェックアウトを済ませた。結局冷房のスイッチがどこにあるのかはわからずじまいであった。

 

この日は最重要タスク、学会での発表日であった。発表といってもポスター発表であるからそんなに大仰に構えることはないと思っていたのだが、海外での発表となるとそれだけで気持ちが張り詰めるものである。結果としてポスターデザインが上手くはまり、発表時間には何名もの人に興味を持っていただけた。道中色々あったが、出張目的については達成できてホッとした。

 

学会終了後、上野先生と筆者は次なる宿泊地へ向かった。先述のようにこのホテルは先生チョイスであったが、元々はもうちょっとグレードの高いホテルを予約していた。そのホテルを薦めてきたのが現地合流仲間の一人であるN先生であったが、推薦してきたN先生当人がよりリーズナブルな民泊を選択したことで立つ瀬をなくし、上野先生も衝動的にホテルを変えたとのことだった。いや、変える必要なくね?と思ったが、まあ仕方がない。

 

21:00「pod39」チェックイン

 

今度のホテルは、名前にあるとおり39丁目に位置する。39というとマンハッタン最大の繁華街:42丁目に近い場所で、最寄りの地下鉄駅も「42Stグランド・セントラル(Grand Central)」となった。最寄り駅が東京駅で、八重洲付近のビジネスホテルに泊まるような塩梅である。ちなみにグランド・セントラル駅には HYATT Grand Central が入居している。

 

チェックインすると、部屋の装備はHYATT Union Square と大差がないように思われた。しかしいざ寝てみると、隣のリネン室のものと思われるモーターの重低音が響くという罠が仕掛けられていた。加えて室内灯はラップ現象を起こし始め、実に不快な点滅を繰り返していた。Wi-Fiも繋がらなくなった。人の気配のする暗がりに身を寄せたくなるような不気味さであった。

 

これは再びHYATTご休憩モード不可避か。Grand Centralは高いだろうが、ラップ現象はないだろう。やってられっか、行くか!と気色ばんだが、驚くべきことに学会終了の安堵とニューヨークへの順応がこの逆風を大きく上回った。このような状況ではあるものの、意外なほどすんなりと熟睡することができた。あとは仕事柄、心霊攻撃は一切効かない体質であるので、それも幸いしたのだろう。霊感の弱い人は強い人に、なぜ強いのかの理由を求めようとするが、それを知ったところで強い人に合わせることはないのである。


 

(後編に続く)

復刻ぼへみあ:楽園なりニューヨーク・前編(2019)

※本記事は2019年6月に「note」へ投稿した記事のリライト版です。本記事公開後に執筆した「いんせい!!」と登場人物名を合わせるなどの修正を行っています。

 

#1

 

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プレーボールを過ぎた頃、横浜の空はすっかり暮れていた。

 

平成31年度のセントラル・リーグ開幕戦:横浜DeNAベイスターズ対中日ドラゴンズの一戦は、両軍エース:今永投手と笠原投手の緊迫した投げ合いが続いていた。幸運にも今やプラチナチケットとなった横浜スタジアムでの観戦チケットを入手することができ、久々の高揚感を心から楽しんだ。同時に、野球やコンサートによる旅行を楽しんでいた昔日を思い出していた。

 

思えば20代の頃の筆者は、野球観戦と地方遠征をライフワークとしていた。決して何百という野球場を巡った訳ではないが、現地でのアミューズメント施設には目もくれず、ひたすら鉄路の活用と現地でのコンサートや野球場体験に特化した旅行ばかり行っていた。あの頃の旅行とは過程であり、目的地は野球場であった。

 

今、30代も後半に差し掛かった筆者は、あまり旅行に出なくなってしまった。正確を期して表現するならば、何かの用事によって国内外に赴くことはあるものの、それはおおよそ冒険とは言いがたいタスクで埋められたものばかりであった。例えばそれは大学の課程であり、その場合の目的地は自宅であった。普通に言うと出張である。強いて言えば大学の合宿などは出張とは言いがたい楽しみもありそうなものだが、観光施設間を貸し切りバスで淡々と移動するだけの旅程は筆者にとって苦い薬であった。ローカル線に乗れや。何年か後にはなくなっちゃうかもしれないんだぞ。

 

試合は中日エース笠原投手の降板を機に横浜打線が突如として目を覚まし、大勢が決した。半年ぶりに場内に轟く横浜市歌と「熱き星たちよ」を聴いて焚き付けられた懐かしさが、今や昔日の記憶となった冒険の感情を思い出させていた。

 

旅行したい。どこか遠くへ。

 

しかしこのとき、実は遠くへ行くことが決まっていた。話は前の年の冬に遡る。

 

大学院に所属していた筆者は、ゼミの上野先生(仮名)の思いつきによって国際学会のポスター発表を行うこととなった。会場はニューヨークであった。


ポスター発表といっても内容が精査され、その年のテーマに即した発表でなければアクセプトさせない程度のハードルが設けられていた。正直言って通過すると思っておらず、非常に軽い気持ちで投稿したところ、アクセプトされてしまった。たまたま自分のリサーチテーマと学会のテーマが適合していたらしい。上野先生もモチのロンで通過し、両名はニューヨークを目指すこととなった。外は雪も降りそうな寒さで、帰り道が億劫だったことを覚えている。ただ準備期間があったため、航空券はお得な価格で購入することができた。ESTAなるアメリカ特有の入国申請も行った。歯医者の定期検診は治療中の渡航にリスクを感じ、帰国後に日延べした。所属している合唱団で暗譜しなければいけない譜面は、ややこしいので気持ちだけ持ち出すことにした。やるべきことはやっていた中で、しかし全く「ニューヨーク」という響きが己の中で現実感を持つことはなかった。無理もない。出張であるからだ。

 

もちろん出張といっても、これまた正確な表現を期すならば、本務以外何もできないということはない。筆者はこの数年で、海外では北欧(スウェーデン、デンマーク)に赴いていた。いずれも大学院関連のものであったが、現地では可能な限り地下鉄を乗り回し、鉄道を乗り回し、バスを活用できるだけ活用することにしていた。コペンハーゲンには色々な観光施設やスポットがあったと思うが、限られた自由時間は鉄路に費やされた。旅の記憶にせめてもの爪痕を残すにはこれしかなかったとも言える。ただそうした時間は慰め程度のものであり、とても旅行記としてとりまとめられる体験を蓄積させることはなかった。行った先でコンサートも野球も観ないままなど、遠征しながら着陸しないで帰ってきたようなものである。

 

今回のニューヨーク出張も当初はそうなることを覚悟していた。どうせ長居することができないならばいっそ早めに帰らせて欲しいと思ったくらいだ。しかし上野先生は予想に反し、一週間という長い日程を望んできた。ゼミが休講になってしまうがそれでもよいのか?と心配になったが、筆者が心配することでもないので唯々諾々と従った。

 

話をニューヨーク界隈に戻そう。

 

これまでの海外遠征はすべてが西であった。今回のニューヨークも西側諸国ではあるが、東の方へ向かうことは大きな違いである。西には西だけの正しさがあるという、東には東の正しさがあるという。これまでとは異なる状況は、新しい体験として筆者の心を揺さぶるかもしれない。出張という枷の中、これまでとは違うという事実が、ローテンションの心に微かな光を差し込ませたように思えた。

 

 

#2
 

出立まで一ヶ月となった頃、国際学会側への提出物の期限を迎えた。そのデッドラインと同時に、筆者は上野先生と具体的な行程を決めることとなった。


春前はゼミなんて休んでやると気勢を上げていた上野先生であったが、フルスケジュールではゼミを連続で休むこととなる。それはさすがに立場上マズいな、と気づいてしまい、トーンダウンした先生は遅れてニューヨーク入りすることになった。一方筆者はというと、当初予定であった学会前日入りに加え、上野先生が自らの研究テーマに関する視察を行う後泊にもつきあうことになった。トータル8泊9日。仕事の都合から小旅行を基本としていた筆者にとっては空前のスケールであった。喧々囂々の協議の末、筆者の日程は以下のように決まった。
 
5/21:アメリカ入国、ホテル@ブルックリンにチェックイン
5/22:ホテル@ブルックリンをチェックアウト、学会レジストレーション(入場登録)、地下鉄乗り回し、知人と会食、ドミトリー@マンハッタン14丁目にチェックイン
5/23:(学会参加)遅れてNY入りする上野先生と合流
5/24:(学会参加)
5/25:(学会参加)ドミトリー@マンハッタン14丁目をチェックアウト、ホテル@マンハッタン39丁目にチェックイン
5/26と5/27:視察(ヤンキースタジアム、ハイライン)
5/28:ホテル@マンハッタン39丁目をチェックアウト、アメリカ出国
5/29:日本帰国
 
旅程のコンセプトは「時差調整→学会関連行事→視察」である。ここでの時差調整とは初日から2日目のホテルを指す。運動不足、もともと生来の横着者でもあるのかもしれない筆者はとにかく時差を伴う移動に弱かった。筆者のこれまでのすべての海外渡航歴を紐解くとシンガポール、東欧、北欧、フランスであるのだが、すべての回で時差ボケに見舞われていた。これらの国々はいずれも西回りであるから、夜更かしを続けること、つまり夜型人間が朝型人間に劇的なメタモルフォーゼを遂げている!といかに自覚できるかが克服の鍵であるのだが、それでも順応には一日半を要していた。


それが今回は東方向、しかも半日ものズレがある場所への渡航である。日本でどれだけ早起きの努力を行っても、地球の反対側時間の朝に収まるような常識的な時間の起床とはならない。シンガポールですら違和感を覚えた自律神経氏が、普通の対策で納得してくれるとはとても思えなかった。

 

このため出発前に準備できることはすべて行う決心をしていた。様々な時差ボケ対応情報を読みあさったところ、要点は「いかにアメリカ時間(渡航先)だと思い込むか」に尽きるようだった。具体的には数日前から渡航先時間を意識して寝起きし、現地ではできるだけ当地の日光を浴びることで体内時計を調整するという力技である。しかし睡眠確保を優先するならば、滞在中も日本時間のままの生活リズムで押し切るという荒技も有効であるようだった。現地滞在一週間というスパンは、どちらの強行突破ルートを選択するか悩ましいところである。いずれにせよ何らかの対策を施していれば、時差ボケの発症自体を抑えることは困難でも、症状の深刻化を防ぐことは可能であると踏んでいた。どちらで乗り切るかはこのさい現地到着後に決めればいい。

 

二日目には知人との会食を設定した。ニューヨークというと実際は言うまでもなく、ポピュラーな駐在先である。そのため決して友人知人の多くない筆者でも、現地に滞在している知人を見つけ出すことができた。幸いにも先方は快く日程調整に応じ、学会と日程が被らない二日目の夜に落ち合うこととなった。現実的には三日目の夜まで単独行動となるため、百万が一の事件事故に巻き込まれた際に頼れる先があることは重要であった。なお上野先生は研究仲間、かつこの国際学会での発表を予定している先生方5名程度と連絡を取り、筆者を含めた学会関係者一味はグループLINEで日程を共有することとなった。なにはともあれ学会での発表が終わるまでは、頼れる連絡先は多いに越したことはない。

 

 

 #3
 
喧々囂々とは書いたものの、基本的には黙って上野先生の方針に従っていた筆者だが、行きたい場所について求められたところでその思いは決壊した。

 

「ヤンキー・スタジアム、行きましょう」

 

形ある物だけがすべてを語ってゆくこの世で最も美しい景色は、コンコースからスタンドへのアプローチトンネル(ボミトリー)を通過し、一瞬の明順応の後に視界に飛び込んでくる野球グラウンドであると筆者は思っている。ヤンキースタジアムとは言わずと知れたニューヨーク・ヤンキースの本拠地であり、おそらく世界で最も威厳のある野球場である。ヤンキースという球団がベイスターズの仇敵:読売ジャイアンツのポジションに位置する金満球団であること、別にベイスターズが登場するわけでもない公式戦を観る筋合いはさほどないことなど、冷静に考えるとそこまで希求するものでもないスポットではあるのだが、その緑なす芝生は見なくてはならないものであった。否、長年目を背けてきた「旅行」というチャンネルが、横浜スタジアムでのフラッシュバックなどを通して活性化されたのだ。この出張の、この旅行の目的地としてヤンキー・スタジアムは相応しい。

 

突然の熱意に、上野先生はしかしかなり消極的であった。加えて悪いことに、ニューヨーク滞在期間のほとんどでヤンキースは遠征に出ており、まともに試合を観られそうなのは現地27日の一択であった。

 

「じゃあ一人で行ってきてください」

 

つれない返事に筆者は失望した。しかしそれならそれで気楽なものかもしれない。治安の不安はあるものの、そんなこと野球場で気にすることではない。勝てば治安は良いし負ければ悪い。ベイスターズについては、仮にもリーグ優勝すれば横浜公園の噴水に飛び込む人が続出するだけである。

 

「分かりました。行ってきます」

 

出張という枠組みから解放されたかのように、旅行への情熱が戻ってきたことを感じていた。


 

 #4
 
もう一つ、行っておかなければいけない場所があった。

 

「ハイライン、歩きましょう」

 

ハイラインとは、最近ニューヨークに登場した、廃線となった貨物線の高架橋をリノベーションした遊歩道である。日本でも横浜の旧東急東横線(横浜~桜木町)にて同種の整備が検討されていたが、ニューヨークのハイラインは全長2キロにも及ぶ規模であるとのことだった。賢明な読者なら既にお気づきのことと思うが、地下鉄好き、鉄道好き、鉄道旅行好きである筆者が、廃線利活用物件を嫌いであるはずがない。変わらないでいる事がやり直さないという事と違う道なのは知ってるつもりである。子どもの頃、自分の部屋が欲しいなと思った時、有蓋車(ワム)でもいいんじゃないかと本気で思っていたこともあった。今でも倉庫ならいいんじゃないかなと思っている。

 

このスポットについては上野先生も好意的であった。

「N先生やH先生(注:学会で現地合流予定の皆さん)も薦めてたからね、行こうか」

 

わしが薦めたから行くんじゃないんかい、と思ったが、とりあえず黙っておくことにした。

 

これで日程の後半の目処が立ってきた。上野先生はハイライン以外はどこか別のところに行くらしい。さすがにそれは関知しようがないので、自己責任ということでとりまとまった。さすがにこの日数を費やしていれば、学会終了後の安堵感も相まってだいぶ体調も落ち着いているだろう。そんな目算もあった。

 

月日はあっという間に流れ、前日を迎えた。何を持って行くべきか悩み、結論として「向こうで何も補充できなくてもギリギリ生きていける」ためのすべてを持ち込むことにした。下着系は洗う場所がないと想定して日数分準備した。アメニティは存在しないことを想定して植物物語(旅行用)を購入した。もしものケガの時用にキズパワーパッド。どんな気温になるか分からないから、スプリングコートからTシャツまで。こんな要領で詰めた結果、往路にしてトランクは8割方埋まっていた。それもこれも、生きて帰るためである。
 
 
#5

 

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01:出立から離陸まで
ニューヨークは初夏の中にあるらしい。成田からの便には間に合うだろうか。

 

旅立ちの日は、太平洋を東進する少し早めの梅雨前線によって荒れ模様であった。しかし冒頭の憂いは見事に裏切られ、成田空港には予定の二時間ほど前に到着した。帰国時ならいざ知らず、買い込む余地のない出国時にお土産物屋さんなどのお店巡りは苦痛でしかないのだが、余裕を持って出国手続きを終わらせることができた。出国後、ラウンジにて東京五輪の野球チケット獲得競争にとりあえず参戦するなどの雑務をこなし、いよいよ搭乗と相成った。


今回は体力面の不安もあり、プレミアムエコノミーを選択した。プレミアムエコノミーとは、はっきり言って「小太りのエコノミーシート」程度の代物なのであるが、やっぱりプレミアムエコノミーにしとけばよかった・・・と悔やむ程度には身体がやられることが想像できたため、出費をためらうことはなかった。しかもこのフライトでは隣のシートに人が来なかったため、人による圧迫感がなかったことは幸いであった。ただし機長のヤマギシ氏曰く、折からの嵐の名残によって離着陸が渋滞し、かつ直前の飛行機が部品を滑走路に落としたかもしれないという結構なインシデントが起こっていたため、離陸は実に一時間以上遅れた。これからの旅路の苦闘を暗示するに相応しい幕開けであった。

 

02:離陸から機内食
なにしろニューヨークまでは、首尾良くジェット気流に乗ったとしても片道十二時間以上かかる。既に一時間を空費しているので、半日以上を機内で過ごすことは確定した。
飛行機は北日本地方を眼下に見遣るであろう位置関係を保ちながら一直線に飛行を続けている。時折気流の乱れと思しき揺れが生じるものの、衝撃度合いは行きがけに体験した初夏の嵐を思い起こすにつけ、物足りないレベルであった。通路側の乗客が窓のシェードを下ろさないため、窓外には背筋を伸ばしたくなるような蒼穹が広がっていた。日本時間では午後六時過ぎ、アメリカ東部時間では午前五時過ぎである。

 

一日はこれから始まる。自宅出立から離陸あたりまでは夢であったと思い込み、離陸後は気持ちを米国時間の支配下に置くことに決めていた。すべては時差ボケの軽減のためである。

 

時差ボケの軽減策として時差調整と共に取り入れようとしたのが、食事調整である。これは誰から聞いたのか忘れてしまったが、体内時計を調整するコツとして、寝ている時間帯に食事を摂らないことが重要なのだという。我が人体は先述した昭和初期型亭主である自律神経氏と癇癪持ちの胃腸夫人がイニシアチブを握っているため、元々夜中の食事には気を遣う必要があった。徹夜仕事を強いる深夜の飲食は、胃腸夫人の逆鱗に触れる典型的な愚行だからである。それはつまり、食事を摂らない時間帯は夜間であると認識させることで、夫人の機嫌を保てる可能性があることを意味すると考えた。実は今回、出発前ラウンジにて軽食類には一切手を出さないという作戦をとっていた。その時間帯はアメリカ東部時間の深夜であったからだ。しかしサービスのクオリティーには定評のある全日空、日本時間午後七時を伺うこのタイミングで動かないはずはない。フライトアテンダントから機内食の案内がなされ、No,thanks. とかっこよく決めるべきところ、迷わずカツ丼を選択した。

 

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選択後、瞬間的に体調を案じたが、機内食は(機内食としては)絶品であった。大丈夫、アメリカでも朝だからと夫人に言い聞かせ、出立からほとんど飲み食いしていなかった反動もあってか、海外渡航では初めて機内食を完食した。このやらかしが後に甚大な影響を与えることは、もはや書くまでもないだろう。

 
03.泊まる場所
長時間フライトついでに、今回の宿泊地についての詳説を行おう。


初日の宿泊地は、今回の旅程で最もエクスペンシブなホテルを選択することとした。エクスペンシブといってもいわゆる高級ホテルではなく、日本でいうところの少し広めのシティホテルという位置づけである。既に知られていることであるが、ニューヨークのホテルは高い。東京のホテルも最近は高いと感じるが、体感的にはさらにその倍の値段が設定されている。欲しかったのは高級感ではなく、安定した環境である。仮に到着後に時差ボケに悩まされたとしても、環境からの負荷が低ければ体力が維持され、順応も早いに違いない。またこのホテルはニューヨーク中心部のマンハッタンではなく、やや南側に位置するブルックリン地区に位置する。これは飛行機が到着するジョン・F・ケネディ国際空港から地下鉄一本で到達できる場所でもあり、なおかつそこそこの治安が保たれていることを期待しての選択であった。


今回の旅の宿泊場所のハイライトはここからである。二日目から三日間は、大学のドミトリーに宿泊することとなっていた。ドミトリーというと聞こえはよいが、要は大学の学生寮である。今回参加する国際学会はN大学の校舎にて行われることから、宿泊施設に寮を活用するプランが設定されていた。一晩100ドルポッキリ、通算300ドルである。日本で300ドルあれば少し郊外の東横インを常宿にしてお釣りが来ると感じるが、ニューヨーク、しかもマンハッタンの中枢でこの価格帯はお値打ちである。

 

学会終了後は視察を円滑に行うため、マンハッタンの中心部に近いホテルを予約した。ただし選定したのは筆者ではなく上野先生であった。そのため吟味の機会が事実上なかったことは気に掛かっているものの、この時期になればさすがに時差ボケも解消し、生きていればそれなりに当地に順応しているだろうと思い、容認した。もし我が夫妻が機嫌を損なっていなければ、もはや安全と寝具とWi-Fiがあれば事足りるからである。

 

しかし、後半ホテルの決断に異を唱える気にならなかった理由は、どちらかというとドミトリーへの不安で気が回らなかったことが大きい。
 


04.ドミトリーの思い出
筆者は中等教育(中学・高校)を全寮制の学校で過ごした経験を持つ。ただでさえ多感な時期において、いきなり俗世と隔絶された、しかもプライバシーもセキュリティもヒューマンライツも存在しない劣悪な環境に放り込まれれば、不安を抱くなと言う方が無理である。特に中学の寮は酷く、一つの部屋が二つのゾーンにセパレートされ、それぞれのゾーンに二段ベッドが4台並ぶ、都合16人部屋であった。氷川丸の三等客室が一番近いかもしれない。旅ならば目的地に着くまでの限定的な肩身の狭さに旅情を感じることもできようが、三等客室に住むとなれば、人を選ぶ環境であることは間違いない。それでもこうした環境が人を育てるとばかりに、生徒側に価値のある技術や能力が残されればまだ救われたのだが、当時の筆者に残されたのはベッドメークの完成度を追究する姿勢とと引っ越し荷物をパッキングするノウハウくらいであった。ホテルマンでもこの程度の能力では間に合わない。いささか極論かもしれないが、その全寮制の学校で得られた掛け替えのない経験は、他の環境でもっとポジティブに受け止められたであろうものばかりである。


かのようにドミトリーという施設に対しただならぬ憎悪を抱いている人間が、成り行きとはいえドミトリーに足を踏み入れることは歴史的瞬間である。もちろん、寮といっても千差万別である。先に述べた十六人部屋は極端な事例であることは理解できる。実際その学校も進級と共に一部屋の定員が少ない部屋に移れるというルールを採用しており、高校一年で4人部屋、二年で2人部屋、三年で独房と、進級それが罪とばかりに昇進することとなっていた。また学会からの宿泊プランに「部屋は個室(一人利用)」と明記されていたため、プライバシーが担保されていることは数少ないプラス要素であった。それさえあれば何とかなるだろう。むしろ寮で長年暮らした経験が、数日間の生活を助けてくれるかもしれない。

 

05.地下鉄
嫌な話はここまでにして、ニューヨークといえば地下鉄である。物騒な情報は別で触れるとして、ここでニューヨークの地下鉄路線図を一緒に確認して欲しい。
 

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まさに混迷である。写真の男の子の頭の上付近にあたる、ブルックリンを中心とした結びこんにゃくの如き路線網を見て、利用を断念する旅行者も少なくないであろう。まず路線が多い。加えて枝線も多い。色の数は東京に及ばないように見えるものの、異なる路線を同じ色で表現しているようにも見える。なにより路線の敷き方に何のグランドビジョンも感じられないのだ。いくら需要がある区間としても、いちいち線路の経路を変えることに何のメリットがあったのだろうか。路線網以外に仕入れていた情報も含めてまとめると、次のような特徴があることがわかった。

 

・路線には急行と各駅停車があり、乗っていた電車が突然急行になることもある
これは首都圏なら、中央線の快速(オレンジ色)と各駅停車(黄色)の関係と同一である。同じ緑色の線(4・5・6号線)でも、4・5号線は都心では急行線を走り、郊外と郊外を結ぶ。一方飛ばされた駅を補完する各駅停車として6号線がある。3つの路線は線路が繋がっているため、4号線が途中で6号線に運用変更、ということも可能となっている。

 

・路線は深夜や土日に運用パターンを変更する
これも中央線快速と同じコンセプトである。その例で言うと、早朝と深夜の中央線快速は、本数の少なさによる利便性の低下を避けるため、各駅停車の線路に乗り入れるものがある。そのためこの時間帯は東京から飯田橋などへ乗り換えなしで到達することができる。これと同じ措置がニューヨーク地下鉄でも採用されているのだろう。路線によっては朝夕のラッシュルートだけ都心への直通が設定されているケース、工事などの事情ですべての列車が各駅停車の線路(緩行線)を経由するという事例もあるようだ。

 

・24時間運行だが、深夜帯の運行頻度はまばら
東京、いや日本では、これに該当する路線は存在しない。24時間運行が実現できるのは、路線数や線路本数の豊富さが根底にあるといえよう。保線業務を行う路線だけ運休すればよいのだ。しかし日中と同じ頻度で運行しているわけではなく、場所によっては日本の終夜運転の頻度に毛の生えたレベルであるらしい。また多くのガイドブックにて「深夜の地下鉄は危険」とあったが、深夜は地下鉄でなくても危険であるというのは野暮であろうか。

 

などなど、じっくりと路線図と解説を眺めていくと冷静になるもので、状況が想像できるようになってきた。路線が結びこんにゃくである事実は飲み込むとして、乗り放題カードによってこれらはすべて乗り放題となること、同じ番号のラインは基本的に同じ行先となっていることは、複雑さの中に見出せたシンプルさである。むしろ行先や種別の違いを系統(号線)の違いに反映させると、例えば上野東京ライン・湘南新宿ラインは100系統以上になってしまう。それからするとまだニューヨーク地下鉄の色分けはリーズナブルである。むしろ、上野東京ライン・湘南新宿ラインは車両が同じ、行先も種別もまちまちの中、利用者はよく使いこなしているともいえる。

 

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06.英会話とポケトーク

飛行機はアリューシャン列島をかすめ、大圏コースを順調に飛行している。昭和40~60年代において、日本から欧米に向かう国際便は給油や迂回の必要からアンカレッジ(アラスカ)を経由していた。しかし現在は冷戦終結や機体の技術革新などもあり、ほとんどの旅客便がアンカレッジを素通りしている。余計な時間がかからなくなったのは喜ばしい反面、長時間フライトに倦み始めたこれくらいの頃合いに休憩が挟まるのは案外悪くなかったのかもしれない。

 

さて、今回の旅行では治安の他にも懸念する事項がある。英会話である。これまでの海外渡航先は当然ながら非日本語圏であったが、非英語圏でもあったため、非母国語同士それなりに通じ合うことができた実感があった。それが今回は超絶怒濤の英語圏であるから、英語以外一切存在しない世界であることを覚悟しなければならない。しかし筆者にとって英語は読む、書く、歌う機会はあれど、話すことはここまでほとんどなかった。その要因として、英語への比類なきアレルギーを書かずにはいられない。

 

話はまた中学に戻る。この学校は英語教育にも力を入れており、外国人講師による英語の授業も存在した。しかし当時のこの学校での英語教育で養われたことは「いかに笑われずに済むか」であった。テストの点数が低ければ笑われ、ネイティブ講師の発音を忠実に真似れば笑われた。生徒は皆、笑われないように勉強し、笑われないように押し黙った。もちろんこうした事象はこの服役型学校特有の現象ではなかったのかもしれない。現に大人になった後もこの恐怖は年を追うごとに酷くなった。これまで多くの人に英語のアドバイスを請うてきたが、誰もが笑われないための英語を教えようとしてくれた。日本人の不自然な発音への批判。構文の不正確な適用への指摘。あらゆる指導は完全栄養食のごとき合理性を根拠に、饐えた臭いに似た言い方でそれを強引に飲み込ませてくる存在であった。

 

かのように英語に対してもただならぬ恐怖を抱いている人間にとって、英語圏への突入は無謀そのものである。受験勉強の杵柄である英単語ストックはあるにせよ、熟成されたトラウマはすべてを無効とするだろう。今回ばかりはメカに頼ることを決意した。CMでもお馴染みの翻訳装置「ポケトーク」である。これは任意に指定した二カ国語間について、日常会話程度の会話を吹き込めば瞬時に翻訳してくれるというすぐれものである。出国前にこの秘密兵器について上野先生に話すと、今度の国際学会は英語のみならず世界から研究者が集うだろうし、これを使用してプレゼンすれば面白がられるかもね、などと興味なさそうに返してくれた。実際問題ポケトーク以前に、現地の人々とそこまで込み入ったトークを行うことがあるのだろうかという根本的な疑問も生じるが、持つべき味方は多いに越したことはないだろう。特に英会話へのコンプレックスが桜島の如く延々と火を噴いているような状態では。

 

07.英国歌曲
もはや時代が時代なら心の底から鬼畜米英と叫びそうな筆者だが、しかし趣味として位置づけている音楽(歌唱・鑑賞)において、英語は特別な存在である。西洋の歌曲において二大言語といえる存在がイタリア語とドイツ語であるが、筆者は英語の持つ独特のリズム、世界観、奥深さに特別な重みを感じ、歌の発表会では基本的に英国歌曲ばかり取り上げている。その理由を本質的に掘り下げたことはないのだが、このフライトを機に確認してみようではないかと思う。第一に、劇的である。イギリスではシェイクスピアに代表されるような劇の文化が古くから定着しており、音楽や歌曲はその文化の片翼を担ってきたといえる。音楽に劇的要素が必須項目のように求められる土壌は、その表現様式の発展に大きな影響を与えていると考えられる。また劇的という言葉で英語を語るなら、ミュージカルの存在も無視できない。ミュージカル自体はアメリカが発祥とされるが、奇しくも同じ英語圏の文化による発明ともいえる。これも言語と文化が湛えていた劇的要素が、人類に新たな表現の形をもたらした典型例ではないだろうか。第二に、詩的である。詩作自体はどの言語でもなされている営みであるが、英詩の調子の良さは独特に思える。第三に、明快である。これも素朴な感想として、英語は読みやすい。時に記号的と揶揄される言語であるが、言語の形態として英語のシンプルさは究極の形といえるのではないだろうか。英語は素晴らしい。英語の歌も、また素晴らしいものである。

 

アメリカ東部時間とは裏腹に、機内の照明は一気にナイトモードとなった。とにかくまだ先は長い。この旅日記を読み始めた人も、ここまで読んでまだニューヨークにたどり着いていないという現実を受け入れたくはないだろう。それくらい長い。意外とアラスカは大きい。

 

08.レクイエム
話ついでに、趣味の歌のエピソードの続編を書き連ねることにする。

 

現在取り組んでいる歌のジャンルは一般的にクラシックと呼ばれるものであるが、私見として音楽のジャンルはオフィスのパーティションのようなもので、仕切りとしては存在するものの空間としては繋がっているものだと信じている。ただ強いて言えば、そのパーティションは横軸(ロック、テクノといったジャンル)のほか、縦軸(時代)についてもやんわりと存在し、それを意識しなければならないのがクラシックというジャンルの特性だとも感じている。縦軸について更に掘り下げると、クラシックの縦軸はパーティションによって大きく五つに分かれている。バロック、古典派、ロマン派、近代、現代である。この仕切りは主に音楽理論の形成史でもあるのだが、個人的には音楽が誰に向けられたものであったか、を示しているものと捉えられると感じている。非常に雑なまとめとなるが、現代に通ずる音楽理論の構造が完成したバロックの時代まで、(今に残っている)音楽は神への貢ぎ物であり、神の表現の探究であった。少なくとも、神を多分に意識したものが主流であったはずである。しかし時代が啓蒙思想に傾き始めた中、音楽も宗教と袂を分かち始めた。モーツァルトに代表される古典派音楽の誕生である。題材として宗教は音楽の主要な要素であったが、それまでは禁じ手であった様々な技法が天才作曲家達の音楽センスによってアンロックされ、世に放たれたのがこの時代である。後期古典派の旗手とされるベートーベン死去後、音楽は三つ目の部屋、ロマン派に移る。この時代はいわゆる調性音楽が確立され、音楽は純然たる芸術作品として聴衆を楽しませるという地位を確固たるものとした。ロマン派という用語は当時流行したロマン主義からの援用であるが、実際にこの時代の音楽は美しく、可愛らしく、ロマンティックな作品が多い。筆者としては、クラシック音楽を聴き始めたいのだけど・・・というリクエストを受けるときがあれば、間違いなく後期ロマン派音楽作品群を薦める次第である。ロマン派の隆盛は19世紀後半まで続くが、世界が大戦の動乱に巻き込まれていくことと同期し、その華美なる時代にピリオドを打つこととなった。近代音楽の登場である。この時代になると音楽表現はもはや「楽」を探究するばかりではなく、人々や社会の不満、イデオロギーを表現する存在としても重宝された。奏でられる音は単なる美しさの表現から大なり小なり逸脱し、新規性と新奇性の双方が充実していった。そして20世紀、大戦が終結し、音楽にもエレクトロニクスや録音技術の革新がもたらされる中、音楽はもはや人の感性に最適化させるという前提も取り払うようになった。音楽が音楽自身のために表現することを始めたのである。現代クラシックと括られる五つ目の部屋の登場である。もちろん、現代には数多くの横軸の部屋が軒を連ね、そのほとんどが人を楽しませるというかつてのクラシック音楽が培った理念を継承しているから、相対的に現代クラシックの部屋はエッジな作品の巣窟になってしまったのかもしれない。ただ、神から人、人から社会、社会から自分自身、という流れを意識すると、その発展プロセスは決して不自然ではないと感じる。

 

前置きが長くなったが、この縦軸を網羅する共通テーマと呼ぶべきキーワードが一つあるので、これも紹介したい。それは「レクイエム」である。大雑把に言うと、キリスト教のミサで用いられる典礼文に曲をつけたものであり、国ごと時代ごとに様々な作家が曲を残している。大衆向け音楽としてのレクイエムの嚆矢としてよく取り上げられるのは、古典派作家:モーツァルトの遺作「レクイエム」であろう。当人はこの曲の作曲中に絶命し、残された箇所を弟子のジュースマイヤーが補筆した版が一般的である。偉大な作曲家がまさに天に召される最中を記したかのような、美しくも悲しげな旋律は後の「レクイエム」作品群にも大きな影響を与えている。様々なレクイエムの中で、日本、世界で著名な作品をいくつか挙げると、まずはイタリアの大作曲家:ヴェルディの「レクイエム」を取り上げたい。この曲は元々ヴェルディと他の作曲家によるコンピレーション作品として構想されたものであったが、ヴェルディ以外の作家の進捗は遅いものであった。しびれを切らしたヴェルディは単独で作品を書き上げ、ここに結果オーライながらレクイエムの新たな傑作が誕生することとなった。共著者の動きが悪く、結局作業しているのは自分だけという研究事例は全世界に五万とあるものだが、すぐれた才能はこうした逆境からもきちんと結果を残すあたりはさすがである。続いてはフランスの大作曲家:フォーレの「レクイエム」も取り上げなければならない。日本の合唱界隈においては、比較的少人数で取り組める著名レクイエム作品ということもあって認知度は高い。全編を通してレクイエムの本旨である祈りの波が静かに、確かに紡がれていく珠玉の逸品である。また典礼文を用いないなどのオリジナル要素はあるものの、ドイツの大作曲家:ブラームスの「ドイツ・レイクエム」は人類史上に燦然と輝く傑作である。何事にも起承転結が存在するが、この作品は7つの楽章すべてがクライマックスである。なおモーツァルト以外の3名は、時代は少しずつ前後するものの、いずれもロマン派に属している。とにもかくにもロマン派は傑作揃いなので、合法的定額制音楽ストリーミングサービスで気軽にじっくり聴いてみて欲しい。オススメの名曲が見つかれば、それは生涯の財産となるに違いない。

 

さて、レクイエムの系譜はロマン派で終わることはなく、近代・現代でも「レクイエム」は生み出され続けている。例えば、前項で筆者が猛プッシュした英国の作曲家:ブリテンによる「戦争レクイエム」や、デュリュフレ「レクイエム」、武満徹「弦楽のためのレクイエム」などが著名である。そして2019年7月、筆者が片隅で所属するコーラスでは、なんと近現代作曲家の大家であるジェルジュ・リゲティによる「レクイエム」を演奏する。本作品の全4楽章は、さながら地球の大自然のうごめきが憑依したような壮大な世界観であり、コーラスはその表現の担い手として大車輪の活躍を見せることになっている。英会話からここまで長かったが、自然な繋ぎで宣伝できたのではないだろうか。ちなみに想像している方もいるかもしれないが、譜面は日本に置いてきてしまったので、機内での選択肢が一つ足りなくなったことは少しもったいなかった。しかし機内で読んでもおそらく何も理解が進まない程度には難解な譜面なので、決断は正しかったと思う。なお説明のほとんどはもっともらしく書いているが結構適当であるので、正確なところを知りたい方はご自身で確認作業を行われたい。

 

09.JUDY AND MARY
どう座ってもどこかが痛くなる厳しい状況がやってきた。手持ちのアイテムを使い果たした今、頼れるのは機内オーディオしかない。この飛行機の各席には、映画やドラマ、オーディオが楽しめる装置が完備されており、ここでは酔いの心配が低いオーディオを選択することとした。オーディオ機能では懐かしの名盤からごく最近のアーティストまで、30以上のアルバム作品から抜粋された7~10曲ほどを聴くことができた。数ある選択肢の中で今回は、JUDY AND MARYのベスト盤「FRESH」からの曲を聴くことにする。

 

最近の学生の中で、YUKIは知っていてもJUDY AND MARY(以降「JAM」)を知る人は少なくなっているかもしれない。1993年、シングル「POWER OF LOVE」でメジャーデビューしたJAMは、名プロデューサー:佐久間正英のバックアップもあり瞬く間にヒット曲を連発。特に4枚目のアルバム「THE POWER SOURCE」は、バンドブーム最盛期の90年代後半生まれの作品の中でも屈指の名盤である。頂点を極めたJAMであったが、徐々にメンバー間の音楽性の違いが表面化。短期的な活動休止を経て、2001年1月、6枚目のアルバム「WARP」リリースを以ての解散を発表した。

 

それ以来、実に多くの季節が流れたが、再始動の気配は一切感じられない。メンバーはそれぞれの音楽活動が充実していることもあって再集結する可能性は低く、JAMの存在も人々の記憶から少しずつ遠ざかっている。しかし本作を聴くと、JAMの音楽は令和を迎えた現在もなお、音楽シーンにおいて堂々と渡り合えるであろう個性を具えていることがわかる。時代が更に進み、JAMを生で目撃した者がいなくなってしまった後も、その足跡や評価は日本音楽史に残り続けるだろう。JAMが解散前最後に残したメッセージ(JUDY AND MARYはあなたの一部です)は、これからJAMの音楽に遭遇する人々に引き継がれていくに違いない。

 

しかし機内オーディオでは収録曲中8曲しか聴けないので、フライト時間からすればあっという間に聴き終えてしまった。仕方がないので次のアルバムを物色することとする。

 

10.ZARD
ZARDという存在を認識している人は今も多いはずであるが、具体的な活動内容を知らない若人も増えてきているのであろう。ボーカル:坂井泉水を中心とした音楽プロジェクト:ZARDは、1991年のデビュー以来、数多くのミリオンセラーシングルを世に送り出してきた。現在も第一線で活躍するバンド:B'zと同じ事務所(ビーイング)に所属し、人気と実績は当時のB'zと並び立つものであった。2007年、坂井泉水は不慮の事故により早すぎる旅立ちを迎えてしまったが、その音楽葬には多数のファンが詰めかけた。機内オーディオに収録されていたのは「最後のベスト盤」とされる25周年記念盤で、10曲を聴くことができた。

 

J-POPにおいて夏を代表する楽曲は数多いが、筆者からはZARDの「揺れる想い」をその最上位曲として推薦したい。この楽曲は歌詞やメロディーの清潔さはもとより、アレンジの爽快感も抜群である。これほどまでに夏の到来を、海辺に吹き付ける熱い潮風を、気温の上昇と共に舞い上がる気持ちを想起させる楽曲はそうそうない。それにしても収録曲を眺めると「負けないで」「心を開いて」「マイ フレンド」「永遠」「君に遭いたくなったら…」などなど、90年代を象徴する楽曲が目白押しである。しかし活動の成功に反し、坂井泉水の歌詞は一貫して「届かないものへの切なる思い」が充満していることにも改めて気づかされる。「揺れる想い」も歌詞をよく読むと、特有の切なさが曲の核心に位置していることが分かる。それでいながらポジティブなエネルギーに満ち溢れているのは、切なさや満たされない感情も、逃げずに向き合うことで未来への推進力に変えられるのだという強烈なメッセージにも思える。

 

彼女が手に入れようと願っていた何かは知る由もないが、今、彼女は音楽の神様の手の中にある。傑出した音楽の才能が物語の半ばで旅立ってしまうのは寂しいものであるが、神様が彼女に欲しがっていたものを施しているのであれば、そこには永遠の幸せがあるに違いない。
 
 
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11.機内食2

何度目かの「マイ フレンド」を聴いていたあたりで夢見る時を過ぎ、気がつくと二回目の機内食のメニュー選びの場面であった。アメリカ東部時間午後1時過ぎ、考えてはいけないが日本時間では午前2時頃である。うっかり寝てしまったのは明らかに日本時間の影響とみられるが、ここでは長時間フライトによる疲労と言い聞かせた。二回目の機内食は、アメリカ時間であればお昼過ぎであることから、むしろ食べなければいけないものである。腰の痛みは限界であったが、ありがたくいただくことができた。食事後、もう一度ZARDを聴いていたが、さすがに何度も聴いているとどうやっても飽きてくる。そもそもJAMもZARDも、筆者はきちんと聴いてはいたが激烈なファンではなかったので、これは致し方ない。また液晶パネルの感度がイマイチであったことによる誤操作が多発したため、機内オーディオ自体を終了した。飛行機はカナダ上空を東進していた。空の太陽は相変わらず高い。眠気に負けないでなどと言い聞かせながら過ごしていると、飛行機は少しずつ高度を下げ始めたようだった。


 

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12.着陸態勢
長かったフライトもいよいよゴールが見えてきた。ニューヨーク:ジョン・F・ケネディ国際空港にはアメリカ東部時間午後4時頃の到着とアナウンスされた。着陸態勢入り前にトイレと荷物まとめを完成させ、あとはひたすら着陸を待った。席が通路側ではなかったこともあり、眼下の様子を観察することは叶わなかったが、さぞかし美しいアメリカ大陸の自然と都市を俯瞰できたことだろう。離陸時に反して、着陸はほぼ何の問題もなく遂行された。ヤマギシ機長お手柄である。まだ実感は湧かないが、これにて生涯初のアメリカ上陸、ニューヨーク上陸である。


到着後、明るさが不足気味の通路を歩き、しばらくすると入国ゲートが登場した。このエリアは厳格に撮影が禁止されているため、写真で状況を説明することができないが、アメリカ国民(グリーンカード保有者)と非アメリカ国民で対応が大違いであった。特に筆者は初のアメリカ訪問ということで、指紋が採取された。どこの国もそうであるようだが、入国時の係官の表情は険しい。もう少しラクに構えればいいのに、とも思ったが、ラクに構えて目の前で違法な何かが持ち込まれる可能性を考えると、気を抜くことは許されないのだろう。たどたどしい英語となったがなんとかくぐり抜け、めでたくジョン・F・ケネディ国際空港の入管ゾーンから外に出ることができた。

 

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到着したターミナル7は、思いのほか小ぶりであった。降りるとすぐにタクシーに乗り込めそうなほどの広さのコンコースと、小さめの売店があるのみであった。ただし「ターミナル7」との名の通り、こうしたターミナルが他に5つ(欠番もある)あることを考えると、その大きさは推して知るべしである。今回は体力が限界ということもあり、まず空港からの脱出を目指した。脱出にあたり最も簡単な方法はタクシーであるが、せっかくのニューヨーク、鉄軌道系に今乗らずしていつ乗るか、というところである。アメリカの眩しい西日が降り注ぐ中、タクシー運転手の呼び込みを後目に、ターミナル7と地下鉄線を結ぶ「エアトレイン」のホームへ向かった。

 

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エアトレインは見た目には普通の鉄道であった。エアというのは飛行機のことを指しているに過ぎず、語感からイメージするような近未来鉄道車両が颯爽とやってくる訳ではないが、可愛らしく乗り心地のよい車両が使われている。運行区間は1~8ターミナルを環状で経由しながら、空港と他路線接続駅(ジャマイカ(Jamaica)駅あるいはハワード・ビーチ(Howard Beach)駅)を結んでいる。面白いのは改札方式で、各ターミナルの駅ホームに改札はない。すなわちターミナル間であれば無料で利用できてしまう。これは主に空港のトランジット利用者に向けた措置と考えられる。一方で空港以外の駅間の利用には料金(5ドル)がかかり、これらは他路線接続駅の改札ですべて精算する。事情通の皆さまにおかれては、名鉄築港線、あるいは羽衣線のような集札形式であると言えばわかりやすいだろう。今回は目当ての地下鉄路線に乗り換えるため、ハワード・ビーチ駅行きを選択した。

 

乗車してみると、改めてJFK国際空港の広さが分かる。後に調べて分かったことだが、この空港は成田空港の約2倍の広さを持っているという。まさに羽田と成田の機能が一箇所に集積している状態である。日本、特に東京にもこの規模の空港が欲しいところであるが、成田の再拡張は内戦でも起こさない限り無理であるし、羽田の拡張にはゴジラに蒲田一帯を焼け野原にしてもらえないと難しいだろう。またこれも後に判明したことだが、このエアトレインはニューヨークのもう一つの大空港(ラガーディア空港)、更にはマンハッタンを結ぶという壮大な構想の元に建設されたものであった。しかし運営会社の資金繰り悪化により、現在運行されているJFK空港輸送路線の建設で息切れし、残念ながら採算は取れていないようだ。冷静に考えると初乗り5ドル(概ね500円以上)は安くはない。それでも赤字なら、トランジット利用者に便宜を図っている場合ではないかもしれない。
 
ハワード・ビーチ駅到着後に精算を済ませ、いよいよ地下鉄への乗り換えである。今回乗り換える「地下鉄A線」は、名曲「A列車で行こう(Take the A-Train)」のモデルとなった路線である。この名前は今や同名の鉄道会社運営シミュレーションゲーム、JR九州の特急列車にも採用され、どちらかというと日本ではゲームの知名度の方が少し高いかもしれない。かくいう筆者もA列車で行こうといえばゲームを思い浮かべる。プレーヤーは鉄道会社の社長として、もっぱら株取引や資産運用で生計を立てるしかないという残酷な現実を早くから指し示していた名作である。

 

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ハワード・ビーチ駅には複々線の用地が用意されていた。しかし使用しているのは外側二線のみのようで、完全に持て余している。複々線用地の捻出に頭を悩ませている日本では考えられない豪快さである。電車は10分以上待ったところでやっとやってきた。地下鉄であるものの、緊張感のないダイヤでのんびりと走るさまは郊外電車のそれである。

 

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A列車は最初こそ各駅に停車していたものの、他路線と合流するタイミングで急行に変貌した。登戸からの小田急線状態である。車窓はいかにもアメリカのホームドラマで出てきそうな住宅街が広がっていた。ほどなく地下トンネルに潜り、以降下車まで地上に出ることはなかった。車内は外国人ばかり、否、おそらく筆者だけが外国人であった。

 

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今回最初のホテルはブルックリンの「ホリデイ・イン・ブルックリン・ダウンタウン(Holiday Inn Brooklyn Downtown)」であった。地下鉄駅「ホイト・スキーマーホーン(Hoyt-Schermerhorn)」を下車して徒歩数分で到着した。ホテルではパスポートの提示を求められて以降はサクサクと手続きが進み、あっさりとチェックインが完了した。パスポート偉大なり、である。

 

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ホテルからの景色はまだ「ニューヨーク!」という趣ではなかったが、異国情緒を感じさせるには十分なものであった。半日程度のフライトを経て、成田で見た時計から少しだけしか進んでいない時刻に、言いようのない奇妙さを感じたことは記憶している。

 

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テレビをつけるとNHK「おはよう日本」を放送していた。耳に馴染む日本語のニュースをつけると、ホテルの部屋は完全に日本であった。そう思うと、少し心強さと元気が戻ってきた気がする。チャンネルを回し、ニューヨークのもう一つの野球場:シティ・フィールド(City Field)で行われているメジャーリーグ公式戦が放送されていることに気がついた。これは今行けば間に合うのか?


そう思ってスマートフォンで検索をはじめたところで、心地よい睡魔が巡ってきた。まあいいや、無理しても仕方ない。そう思った時には既に夢の中だったかもしれない。
 

 

(中編に続く)

いんせい!! #01 M1!!

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地下鉄駅の階段を上がって曲がりくねった道を記念会堂へと急ぎます。見上げた空は少しの綿雲を残した程度に控えめな快晴です。2015年4月2日。大学院入学式です。ここから大学院生としての日常が始まります。
 

#01 M1!!

 
筆者が社会人学生としてeスクールへの入学を果たしたのは2011年のやはり桜が美しい季節でした。有意義な知識とかけがえのない友人に恵まれながら4年間で積み上げた単位は126。スクーリングもレポートラッシュも果てなき卒論ディスカッションも今となっては良き経験です。ただそれを思い出と称するには記憶の粗熱が冷め切っていない中で大学院入学式はやってきたのでした。
 
その前に。筆者はこの春より早稲田大学大学院人間科学研究科修士課程(上野研究室(仮名、以降「上野ゼミ」とも表記))に入学することになりました。入学式の筆者は感無量でした。なにしろこれが筆者にとって初となる「大学の入学式」なのですから。何の問題もなく式が執り行われたほぼすべての入学年の皆さんには理解できない感情かもしれません。これだけでももう大学院生になった目的の何%かは果たされたような気になりました。
 
それにしても大学院生ですよ大学院生。もう一回言いますね。大学生ではなく大学院生です。eスクールではおよそ2割の学生が大学院に進学するとのことですがその2割です。子供の頃に夢見た自分の将来において「大学生」はまあまあ想定内だった気がします。しかし「大学院生」はさすがにあまり想像できないものでした。それが一体なにがどうして。いやはやすごいところまで来てしまいましたよ。我が人生まさに春爛漫なり!
 
おっと。本コラム開始から僅か数カラムにして貴重な読者を失うところでした。頭を冷やす意味で時計の針を少し戻すことにします。
 
そもそもどうして大学院進学を決意したのか。単純なる興味でした。eスクールでの学修はすでにかけがえのない財産となっていました。しかし一方でその財産をもっと生かせる場がないかと考えたときに浮上したのがこの選択肢でした。まんまと沼にハマったともいえます。ありがたいことに周囲の理解にも恵まれました。思い立ったが吉日とはいえ決断は1年前の2014年春に行いました。諸々の事情が迫っていたからです。卒論もろくに用意できていない状況でよく決断したなと今になって思います。
 
諸々の事情とはいわゆる推薦入試(内部進学)です。一般的に内部進学は決して難しいものではないとされています。確かにそれは一理あります。しかしだからといって楽であるということは決してありませんでした。受験には研究計画書の提出が求められました。大学院の門を叩くからにはその裡に明確な研究構想が存在しなければならないのです。しかしなにしろ卒論に取りかかっていた最中ですから相当に苦心しました。絵に描いた餅を使った創作料理のレシピを用立てるようなものです。ほんとよく決断したなと今になって思います。
 
そしてこれまた当然ながら面接も行われました。さすがに緊張しました。月並みながら前泊のホテルではほとんど眠れませんでした。なので何を喋ったかあまり覚えていません。人前で喋るのはむしろ好物な性分にもかかわらず緊張に飲まれる自分をメタ認知的視点で驚いていました。ですので面接での緊張が辛いという方には「完全に緊張しないことはあり得ないので自然に緊張できるようにしよう」という役に立たないアドバイスを捧げます。
 
閑話休題。気苦労の甲斐あってか結果は合格でした。しかし実際の大学院入学には当期(1年間)での卒業研究の合格が前提となります。まあそりゃこれも当然で「大学院に合格したけれど卒論は3年かけるね」というのもおかしな話です。大学院で研究する目処を説明したくせに卒論ができてないってなかなか痛快なパラドックスです。
 
加えて推薦での大学院受験のチャンスは在学中一度だけと決まっていました。つまり当期での卒論が不合格となれば大学院進学が取り消されるうえに再度の推薦の機会も与えられないのです。This is all or nothing。賽を投げていました。このような経緯によって筆者には早い段階で「絶対に(卒論を)一発合格しなければいけない」というプレッシャーがのしかかりました。ほんともうよく決断しやがったなと。
 
結論として筆者はなんとか卒業に至ったのでした。卒論執筆における悪戦苦闘のごく一部は「いーすく!」に記していますので適宜ご参照ください。なので学会への大会発表も任意ではありましたが院生としては必須でした。その割には泡喰ったように梗概に取り組んでいたわけですがまあそれはご愛敬と言うことで・・・
 

学部卒業式

 
2015年3月26日。W大eスクール生を含んだ人間科学部すべての当期卒業生が都の西北たる早稲田キャンパス(通称:本キャン)に集いました。今こそ母校からの旅立ちを迎えるときです。卒業証書にあたる学位記のカバーはスクールカラーの臙脂色でした。渋めです。会場周辺は卒業生・在校生・親御さんやその他色々な関係者でごった返していました。万感の思いに浸る多くの同期の中で筆者は心ここにあらずだったことを思い出します。いやだってなにしろ旅立たないので。もうちっとだけ続くんじゃ的な身分なので。
 

新入生ガイダンス

 
2015年3月28日。大学院人間科学研究科に入学するほぼすべての新入生が都の西北たる所沢キャンパス(通称:とこキャン)に集いました。今こそ母校との契りを確かめるときです。 もちろん筆者もわざわざ所沢まで行きました。これで生涯10回目くらいのキャンパス訪問です。それにしても感涙の卒業式から中1日で出席必須イベントを押し込んでくるとは。羽ばたく卒業生に感化されて高飛びする隙は与えない。辞めるなら学費を納めてから辞めなさい。などという大学側の強い意向を感じます。ほんとによく決断してしまったものですわ。
 

大学院のカリキュラム

 
さて。ここではせっかくなので早稲田大学大学院人間科学研究科のカリキュラムについて基本的なところのみ説明してみます。その道に詳しい方は率先して読み飛ばしてください。
 
大学院の課程は大きく分けて「修士課程(2年制、一部コースは1年制)」と「博士後期課程」に分かれます。それぞれ修了によって「修士(Master)」「博士(Doctor)」の学位を得ることになります。ちなみにいわゆる「大学(学部)」を卒業することで得られる学位は「学士(Bachelor)」です。eスクールを含む人間科学部を卒業した場合の学位は「学士(人間科学)」となります。以後は筆者が入学する「修士課程2年制」に絞って説明します。加えて以後は大学(学部)時代のことを「学部」あるいは「学部時代」と書くことにします。一方で単に大学と書く場合は学部や大学院を包含する意味合いとします。
 
修士課程の修了における必要単位数は「30」です。都合2年(通算4期)で30ですから1期あたり「7~8」で十分ということになります。eスクール序盤の狂瀾怒濤と比較すれば穏やかなスケジュールとなりそうな予感です。加えて大学院にはeスクールのようなフルオンデマンド科目が多数存在しています。言わば大学院は通学と通信のベストミックスと言えるでしょう。なんだ結構楽勝っぽくね?
 
一方で学部時代と異なるのは科目の大きさ(コマ数)です。大学院で設置されている科目は多くがハーフセメスター(1単位科目・8コマ)となっています。eスクールでは説明を端折るほどレアな存在だった1単位科目が大学院では主力です。ですので必要単位数が7だとすれば必要科目数も7と考える方が安全です(2単位科目(15コマ)も存在しています)。あれれやっぱりちょっと大変そうな気がしてきました。とはいえそれでも「1年で(ゼミ込みで)15単位」と思うとそんなに重労働ではない・・・ようにも思えます。
 
続いて科目の種類です。eスクールや学部と同様に大学院にも必修科目や専門科目といった区分けが存在します。一覧を書きますと・・・
 
研究指導
修士論文
必修専門ゼミ(1)   最低4単位(A・B)
必修専門ゼミ(2)   最低4単位(A・B)
選択専門ゼミ(1)   選択★
選択専門ゼミ(2)   選択★
専門科目A群       最低2単位★
専門科目B群       最低2単位★
プロジェクト科目    最低1単位★
リテラシー科目(英語) 最低1単位★
リテラシー科目(基礎) 選択★
他箇所設置科目     選択
※★がついた科目群を合計して最低12単位
※全科目中オンデマンド科目は上限15単位(いずれも2015年時点)
 
んんん?急に複雑になりましたね。ここでこの説明に時間を掛けると加速度的に読者が離れてしまいますので今はまあこういうものだと適当に思っておいてください。他の何を差し置いてもとりあえず大切なことはただひとつ。
 
「大学院は研究を行うところ(by上野先生)」
 
この認識を忘れないことです。そしてその研究を実践・遂行するために主軸となるのがゼミです。ゼミこそ研究そのもの。ゼミこそ大学院そのもの・・・なのです。
 
新入生ガイダンスではそういった主旨の(実際は遥かに精確な)説明が行われました。いや寝てませんよ。寝てませんって。ただ学部長の湯本先生(仮名)の声が心地良かっただけですって。
 

改めて、大学院入学式

 
そしてまた時計は4月2日に戻ってきました。詳しく分かりませんが早稲田大学では学部入学式を学部ごとの開催としているようです。しかし大学院入学式は全学一括開催でした。単純に全学の新大学院生を集めてもそこまでの人数にならないからなのでしょう。
 
入学式での筆者のテンションは卒業式とは打って変わって高いものでした。少なくとも桜並木の下を歩いていたくらいまではそうでした。いやーそれにしても大学院生ですよ。Undergraduate SchoolではなくGraduate Schoolです。アンダーじゃないんです。てことはもう選抜メンバーみたいなもんじゃないですか。いやー参りました。ちなみに修士課程1年目のことを気取って「M1(エムいち)」と言うそうですよ。どうもM1です。グランプリには出ませんけどなんつって。
 
・・・気づかないようにしていたのです。自分すごいぞって暗示をかけると視野って狭くなりますからね。しかしもう限界でした。少しでも油断して状況を俯瞰したとき目に入る人々。それはつい数日前まで大学4年生であった「同期」の新入生達でした。
 
彼らは総じて目映いばかりの黄色い砂煙に包まれていました。それこそほんの数日前まで卒業旅行で羽目を外していたような雰囲気です。あるいはサークルか何かに入り浸って「あざーす」とか自然と口走るようないけすかない野郎も居ることでしょう。もしくはカップルで温泉旅行に赴いて「いつまでも一緒だよ」などと貸し切り露天風呂の中でのぼせるまで見つめ合っていたような不届きな輩も混じっているに違いありません。主語を言わなくても通じる日本語って本当にいいものですね。
 
おっと。殺意がこぼれそうになりましたので話を戻します。社会人学生として現役バリバリの学生と相まみえたことは初めてではありません。ただそのときは先生による統制が作用していたゼミ時間内でした。そのときと比較して今は彼らの素の圧力がにじみ出ています。それどころか今にも狩りを始めそうな眼をしている者も居ます。なんでそんないつも不機嫌なんでしょうか。虫歯でも痛むのでしょうか。明々白々で言うまでもないことを今更ながら書きましょう。これからの院生生活ではおそらくそんな彼らとがっつりと対峙しなければならないのです。
 
とはいえ当然ながら彼ら(若者)には何も罪はありません。しかし彼らのオーラは社会人院生たる筆者にeスクール時代と異なる孤独が待っていることを強く予期させたのでした。入ったはいいけれど本当にゴールまでたどり着けるのでしょうか。そもそも彼らときちんと理解りあえるのでしょうか。趣味の悪い自己暗示が現実感に押しつぶされる直前に入学式は終了しました。なにがM1だって話ですよ。だって周りみんなM1なんですから。しかもかなり活きの良い。
 
式終了後は混雑を避けるために早めに早稲田駅へ向かいました。とはいえ入学式特有の乾いた喧噪から離れた帰路において筆者のテンションはじわりと再浮上していました。そうさせてくれたのは純粋なる今後への希望でした。学校という組織があまり得意ではない筆者をしてその感覚もまた初めてのものでした。道中色々あったとしてもきっといつか来てよかったなと思える日が来る。eスクールもそうやってひとつずつ乗り越えてきたじゃないか。
 
ささやかな喜びをつぶれるほど抱きしめて始まったM1初日でした。
 

M1スタート

 
そして入学式から一週間後の2015年4月9日。院生として初めてのゼミ(大学院ゼミ・以降「院ゼミ」)が始まります。院ゼミの時間は木曜の「3・4時限」です。場所はやはり所沢キャンパスの上野ゼミ・ゼミ室です。もう何度も書いていますが筆者の現住地からは電車を乗り継いでだいたい3時間程度です。これでたぶん両手の指では収まらないくらいの所沢訪問体験です。筆者が入室した後ほどなくして上野先生と他の参加者(助手・院生)が揃いました。
 
えーとごめんなさい。ここちょっと嘘をついてしまいました。そういえば大学院生としての初めてのゼミはこの日ではありませんでした。ここで院ゼミ初回の上野先生の最初の発言を引用してみます。
 
「えー、では、火曜の学部ゼミの運営についてだけど・・・」
 
たぶん想像した以上に騒がしい未来が待っている。
 
 
 
参考
早稲田大学大学院人間科学研究科要項(歴代)https://www.waseda.jp/tokorozawa/kg/human-graduate/guide_gh.html
要項は毎年のように変わっています。このコラムでは筆者が所属した年のものを用いています。これからご入学の皆さまはくれぐれも入学年の要項を確認するようにお願いいたします。驚くほど毎年細かく変わっています。
 
早稲田大学人間科学部eスクール「よくある質問」
https://www.waseda.jp/e-school/faq/


(初出:2021/01/11)

いんせい!! #02 学部ゼミ!!

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移動型ホワイトボードを片付ける手伝いをこなし、永遠にも似た長い一日が終わった。ここから実に、1年の月日を費やす卒研ゼミが始まる。
 

#02 学部ゼミ!!

 
本題に飛び入るその前に、この日がいったいどんな日であったかを読者に伝える必要があるだろう。2015年4月7日火曜日、2015年春学期が初めて迎えた火曜日である。毎週火曜日は上野ゼミにおける学部ゼミ開講日と決まっており、ゼミに関する予定が一日を埋め尽くしていた。まずは以下にゼミの時間割について、大学の時限情報を添えながら説明していこうと思う。
 
1時限 09:00~10:30
2時限 10:40~12:10 学部4年ゼミ
3時限 13:00~14:30 学部3年ゼミ
4時限 14:45~16:15 学部3年ゼミ
5時限 16:30~18:00 学部4年ゼミ
6時限 18:15~19:45
7時限 19:55~21:25

 

1時限目が午前9時、というのは考えようによっては優雅かもしれない。いわんや2時限目となれば、出席にはかなりの余裕があるようにも見える。しかしこのコラムにてこれまでしつこいほど強調してきたが、キャンパスは所沢の森の中なのである。実際問題都心から通うことを想定すると、1時間前に家を出たのではかなり厳しい。
 
加えて春学期の最初の火曜日は多くの学生にとっても初登校となるようで、キャンパス行きの学バスが発着する小手指駅バス乗り場には生気のない長蛇の列が出来ていた。どれくらいの渋滞度合いかといえば、午前10時時点で並び始めると5台先のバスに乗れるかも怪しいほどのぎっしり感である。厳しい方に考えるなら、2時限開始時刻には間に合わないと諦めた方が良いくらいである。2015年4月7日午前の小手指駅は、折りたたみ傘をわざわざ開けるか判断に迷う程度の小雨が降りしきっていた。いつバスに乗れるとも分からない状況でまとわりつくような雨に濡れ、憂鬱さが早くも精神を強力に蝕み始めたことはもはや言うまでもない。
 

2時限:学部4年ゼミ

 
10時40分、ゼミ室にて第1回学部4年ゼミが始まった。冒頭、上野先生からゼミ運営に関する説明がなされた。今日から本格的な卒業研究が始まること、学生には助手や院生が適宜アドバイスするのでしっかり取り組むようにといった内容であった。4年ゼミの会場となったゼミ室は決して広い空間ではなく、4年生12名と関係者数名ですべての椅子が埋まるような状況となった。そのため室内は4月上旬にして冷房を入れるような熱気で、折からの湿気と相まって不快感は増すばかりであった。
 
てか何やってんの、という話であるので少し根本的な説明を挟もうと思う。上野ゼミの方針から、院生である筆者は学部ゼミへのTA(=ティーチング・アシスタント。教育補助係)としての参加を求められていた。卒論を書き終えたばかりの身分で、いきなりのTA任命である。TAの具体的な役割についてこの日まで細かく説明されなかったこともあるが、おおむね「後輩にたまにアドバイスする」くらいをイメージしていた。実体はだいぶ異なり、基本的に毎週ガッツリ関わることになった。初日にして自分の(勝手な)予想と違うことに、気がつくことは早かったが時は既に遅かった。
 
ここで上野先生以外の、4年ゼミの指導・運営関係者をおさらいしていこう。ゼミ室には助手役として烏山先生(仮名)が鎮座し、上野先生と同格の雰囲気を醸し出していた。ここに博士課程の藤枝さん(仮名)を筆頭に、筆者含む数名の院生が運営方を担うという布陣である。なお事前の打ち合わせにおいて、筆者は4年ではなく3年ゼミのTAに任命されることとなっていた。しかし4年TAに任命された別の院生の補佐をいつでもできるようにしてほしい、と4年ゼミへの参加も求められていた。
 
いや、ちょっと待って欲しい。つい数ヶ月前まで卒論に悩んでいた人間が(他人のものとはいえ)再び卒論に関与しなければならないという現実は、つい数ヶ月前のささやかな達成感に立脚した現実感を狂わせるほどの衝撃であった。しかも所沢キャンパスもゼミ室も一応既知の場所であったとはいえ、ほぼすべてが初体験なのである。単に距離があるという意図で喩えるが、さながら日本の本社勤務からブラジルの現地工場長に着任した気分であった。ブラジルからはるばるJリーグにやってくるサッカー選手などは、大変なカルチャーショックを乗り越えて頑張っているのだと感じ入った。
 
まさゆめさんちょっとこちらに。4年ゼミ開始数十分後くらいか、呼び立てたのは院生最年長、博士課程の藤枝さんであった。両名はゼミ室の端に用意された「院生席」と呼ばれる場所に移ると、藤枝さんはおもむろに説明を始めた。その内容は筆者がTAを担当する3年ゼミの、スケジュールや配布物といった関連資料一式であった。3時限からの3年ゼミはeスクールのそれと同様、演習がメインとなっていた。しかしeスクールと決定的に異なり、ゼミ回数(年間30回)と課題の総数はeスクール比3倍では済まされない規模であった。諸々の事情によって致し方ないこととはいえ、いかにeスクールの演習が内容を厳選していたかが推し量られた。自分目線において激変した風景に呆気にとられていると、2時限は終わりの時刻を迎えていた。しかし4年ゼミはこれにて終了ではなく、昼休みと2コマほど空けた5時限に再開されることになっていた。やれやれお昼か・・・と思った刹那、筆者はまた藤枝さんに呼び立てられた。3年ゼミの準備があるので、行きましょう。まあまあ予想できることであったが、この日お昼ご飯は食べられなかった。
 

3・4時限:学部3年ゼミ

 
3年ゼミは4年ゼミと異なり、一般の教室での開講であった。ゼミ室を用いないのはそもそもあの空間が藤沢ゼミと共用であることや、4年生が3・4時限の間に作業を行うことを前提としているからとのことであった。確かに卒業論文たるもの、修正作業を行える時間があると助かるということは納得できた。特に大きめの指摘がもたらされた後の修正作業の方針が正しいのかズレているのか、確認が直ちにできるならそれに越したことはないのである。4年ゼミに妙なインターバルが設けられている謎は、一応のところは解消された。ちなみに藤沢ゼミも火曜の同じ時間帯に学部ゼミを開講しているらしいのだが、そちらはすべての学部ゼミを他の場所で行っているらしい。詳しいことはよく分からないが、ゼミ室はどちらかというと上野ゼミが多めに活用する伝統があるようだ。ということはなんとなく掃除が行き届いていない気がするのもどちらかというと上野ゼミの責任、と考えたところで思考を止めた。むやみに深掘りすることで、院生の仕事が更に増える結果を招くような気がしたからだ。
 
3年ゼミの雰囲気は、4年ゼミのそれとは真逆の初々しさに溢れていた。加えて少なくとも大学院入学式で感じたような、鋭利な刃物のごとき若さも醸し出されていなかった。無理もないことで、彼らは学部3年生とはいえゼミ配属1年目の立場なのである。以降、この学年を上野ゼミ11年目の学生という意味で「11期」と呼ぶことにする。ゼミの初回は和気藹々とした雰囲気の中での自己紹介と、一年のカリキュラムを示したガイダンスや初回課題の説明で終わった。以下に、自己紹介などを受けて筆者がメモした名前と第一印象を示す。
 
11期(すべて仮名)
田端くん ジャイアンツファン カス メガネ
白岡くん ゴーストテニス部員 背が高い 苦手め
品川くん サッカーコーチ 軽そう
宮原くん ボウリング9年 名前の読みが難しい 真面目そう
上尾さん ゲスの極み乙女好き 子供
早川さん サンリオと餃子ドッグが好き 子供
由比さん 幕張から来てる 好きな色はオレンジ やや子供
北本さん 映画好き写真好き つまんなそう
池袋くん バスケ野郎
籠原くん 魚
上野くん ウルム(というドイツの街)に行ってきたよ

 

ガイダンスにてなかなかな数の課題数が予告されたとはいえ、全体的には明るく和やかで笑いの絶えない時間となった。強烈な北風によって縮こまることを余儀なくされた筆者の心も、柔らかい陽光を浴びた花が息を吹き返すかのようにひと息つくことができた。ただし筆者の元々の個人識別能力の低さから、11期生の顔と名前の一致には結構な時間を要した。映画好きの写真好きなんてどこにでも居るしなあ・・・と思いながら聞いていたし、正直言って後半は飽きていた。唯一、アンチ巨人である筆者にとって仇敵であるジャイアンツファンはバッチリ覚えた。早速「カス」などと書き残しているところからして、強い警戒心を抱いていたことが偲ばれる。総じて3年ゼミは、初回にしては割と上手く乗り切れたように思えた。まあ実際は、藤枝さんがつきっきりでTAの補佐をしてくれていたからであるのだが。
 

5時限:ふたたび学部4年ゼミ

 
先生と院生は休む暇もなく、5時限目の学部4年ゼミの開始時刻を迎えた。草木が歌い蝶が舞う小川のごとき瑞々しさを感じた3年ゼミとは打って変わって、4年ゼミの雰囲気は暗渠そのものであった。卒論の構想をまとめあげよという激重な課題を与えられているのだから、無理もない。その雰囲気は2時限の段階でつかんでいたはずであったが、3年ゼミの陽気さを見聞きしてしまったこともあり、相対的に陰鬱な印象を強く感じてしまったのかもしれない。冬場にヒートテックを着始めたらもう昔には戻れないのである。加えてここまで休まず動いた疲労感と空腹が、その思いをいっそう深刻なものとして筆者に捉えさせていたように思う。
 
2時限の時と同じく、ゼミでは上野先生と助手の烏山先生が間断なく卒論の相談と指導を続けていた。加えて先刻まで丁寧に補佐を行ってくれた藤枝さんも、さっそく手間取っているらしい学生の相談を引き受けていた。そこにあったのは、上野ゼミの真の卒業研究の姿であった。しかしそのときの筆者の心境は、感心3割・寒心7割であった。おかしいな、大学院って研究を行う場所なはずなんだけどな。一応想像はしていたつもりだったけれど、どうして自分が事務方を引き受けているのだろう。いや、別に事務作業は嫌いではないのだ。バーベキューで最も楽しい瞬間は当日だが、買い出しや準備もなにかと楽しいものである。しかしそういった事務作業を応分に引き受けるとしても、まさかここまでどっぷりと関わらなければならないとは。要は自分とおおよそ関係なさそうな作業×12の補佐というタスクを直ちに受容できる気力が、そのときの筆者には残されていなかった。またこの澱み切った空気の中に居続けなければならないという現実も、辛さを倍加させた。入学式にて春爛漫を迎えた心持ちは、本日2度目の寒風にあえなく吹き飛ばされた。その一言を言わないように事前に履修計画などを練っていたにもかかわらず、早速禁断の感情が芽生えてきてしまった。やめちゃおうかな。やってられないよ。だって大学院って研究を行う場所なのでしょ。それがこれじゃまるで学生のアンダーじゃないか。質問を受けるなどの態勢を取っていなければならないところ、筆者の心と視線は不気味に遊離していった。
 
この日、4年ゼミが終わったのは午後8時であった。5時限を過ぎ、6時限も超えたくらいの時間である。eスクールでの卒業研究の経験から、ゼミの時間が延びることは多少なりとも理解できた。きちんとやろうとすればするほど、時間は加速度的に足りなくなるものである。そのうえなにしろ、学生総勢12名である。おまけに助手の烏山先生はいかにも厳つい雰囲気を醸し出しており、彼の望む要求水準を突破できない者への殺意をまったく隠せていなかった。学生側も観念しているのか分からないが、先生2名に頑張りを求められてはもう頑張るしかない。そのときの筆者も、熱心な指導そのものに対しての不満はなかった。しかしながら、これだけ時間が押したことは大きな不安であった。なにしろ筆者はこれから、バスと電車と新幹線を合わせて3時間かけて自宅に帰るのである。この状況ではもはや、東京発の最終の新幹線にも果たして間に合うかどうか・・・
 
やめちゃおうかな。やってられないよ。物言わずとも、筆者の表情にはそんなような言葉が書いてあったに違いない。移動型のホワイトボードを片付ける手伝いをこなす最中、気がついたら上野先生に詰め寄っていた。ゼミって、ずっとこんなに時間が掛かるんですか。というかわたくし、来ないとダメですか。
 
上野先生は唐突なタイミングでの質問に少し面食らいながら「学生の指導は院生にとっても勉強になるので来てください。けど難しい事情があれば相談してください」と返してきた。上野先生としては内心、初日から何言い出すんだこいつという気持ちであっただろう。我ながら命知らずというか、なかなか乱暴な直訴である。ただそれくらい、筆者にはこの先の一年どころか一ヶ月も持たないのではないかという強い予感があった。なにしろ、週一日とはいえ早朝から深夜までである。しかも内容は、直接的には自分の話でもない。まあそのうち6時間は移動しているだけであるし、単位を落とす恐怖もないのではあるが。
 
帰りの電車内、やっと入手したコンビニのおにぎりを人目を憚らず頬張りながら、筆者は気持ちの整理に集中した。味はよく覚えていない。来週どうやって休むかのアリバイを考えるほどに冷え切った気持ちは、しかしどうやらおにぎりによって大きく緩和された。電車が池袋駅に着くまでに、学費を振り込んだ分(春学期)は通学を続行することに決めた。上野先生はああ言っていても、事実上学部ゼミにも参加しなければならないという現況を変えることは難しいだろう。しかしそうは言っても週に一日、しかも早朝到着マストではない。それに実際の業務について、主に藤枝さんが助太刀してくれそうな雰囲気である。総じて著しく悲観的になる必要もないのではないか、と思い至ることができた。
 
ちなみに上野先生らの名誉のために補足すると、TAはやむを得ない事情があれば辞退も可能である。加えて主に理系のゼミにおいて、教員を頂点としたヒエラルキーに基づく分業システムは標準的な運営構造とされている。構造の本質的な是非を論ずることは別次元として、現時点で特別におかしな態勢ではないようだ。要はこちらの覚悟が足らなかったということに尽きるのであるが、状況がeスクール時代のそれとあまりに違うこともこのショックを大きなものとしたと思う。
 
そして最終的になぜTAの続行を決めたかといえば、これはピンチかもしれないがチャンスであると結論づけられたからであった。筆者はeスクールにて卒論まで書き上げたものの、研究を押し進めるためにもっとできることはないのかとかねがね自問していた。そこへ「院生の立場として通学制の現場に参画できる」というポジションを示されれば、むしろこれは渡りに船と思うべきなのである。なにより、少なくとも現時点では船どころか護送船団が組織されている。おそらく藤枝さんも、絶対的使い物にならないM1が来ることを折り込んで重厚な資料を用意してくれたのだろう。そういった数々の配慮を、脊髄反射的に無にすることにも気が引けた。
 

2日後、大学院ゼミ

 
2日後の2015年4月9日、4年ゼミと同じゼミ室にて開講された大学院ゼミに筆者の姿はあった。院ゼミは学部ゼミに関する打ち合わせを経て、本来のプログラムである院生研究相談に移るという流れが標準であった。学部の話で院生本来のタスクが圧迫されるのは本末転倒にも思えるが、先生は時間の延長も気軽に応じてくれた。この先やっていけるだろうか?という不安は、学部ゼミと院ゼミの出席を果たすうちに棚上げされていった。大変とはいえ週2~3回(学部ゼミ+院ゼミ+専門科目)の往復に慣れ始めたことや、単に(学部ゼミの)TAポジションにやりがいを感じ始めたからであろう。あまりの忙しさというのが、結果として悪くない状況を生むこともある。そういえばeスクールの初年度も、そんな感じだった。
 
今後eスクール生から大学院生にメタモルフォーゼする方への助言を示すなら、くれぐれも学期開始時に被るであろうカルチャーショック(言うなれば「M1ギャップ」)において反射的・衝動的な行動は取らないで欲しいということである。どれほど強烈な難題を示されているように思えても、まずは取り組んでみて欲しい。これが中1・高1・大学1年といった多感な時期であると精神不安が致命的なことになるのでまた話が違ってくるが、大学院の門を叩く院生は99%以上の確率で大人である。個々の事情はあるにせよ、ショックが感受させた危機的状況はおそらくそこにはない。
 
とはいえ我慢によって心身に異常を来せば、あるいは自らの経験則によって制御不能な異常の予兆を感じたならば立ち止まる勇気も必要である。そうなれば、今度は教員側が真摯にプランを考え直すべきであろう。ただそういった事態が切迫するまでは、どうか教員が元々用意していたプラットフォームに乗ってみて欲しい。神は乗り越えられない試練を与えないらしいが、教員は乗り越えて欲しい試練しか与えないことになっている。大学院は研究の場所であり、同時に学生の可能性を広げる場所でもあるのだから。筆者の場合は幸いにもショックが心身の異常として表出することなく、どうやら順応局面までたどり着くことができた。返す返すも学部ゼミ運営に関する丁寧な資料を作ってくれた藤枝さんと、筆者を学部ゼミから遠ざけようとしなかった上野先生には感謝している。
 
立場も環境も通学時間も激変した中で、おそらく第一の危機を乗り越えた春の陽気であった。
 
 
(初出:2021/01/12)

いんせい!! #03 TA!!

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もう嫌だ、本当のところを訊こう。小ぶりな教室で向き合う二人の男女は、ひどく押し黙っていました。
 

#03 TA!! 

 
その教室は20人も入れば一杯になってしまいそうな、大学の講義を行うには頼りなさを感じるほどでした。インテリアも長手方向に3人がけの長机が2列5組ほど並ぶ他は、ホワイトボードと教卓があるだけの質素なものでした。五反田くん(仮名)と目黒さん(仮名)は、中央の通路を隔てた長机の2列目と3列目の椅子に向き合って座っていました。
 
結局、五反田くんはこれからどうしたいの。教室に入ってから終始無言を貫いている五反田くんに、目黒さんはやや厳しめの一言を投げかけます。五反田くんは一瞬うろたえたそぶりを見せながら、それでも口を開こうとはしませんでした。
 
五反田くんと目黒さんは、付き合い始めてから3ヶ月を過ぎようとしていました。五反田くんが軽く一目惚れしたものの次第に目黒さんも気を許していくという、大学生にありがちな始まり方でした。決して交友関係が華々しかった訳ではない二人は、当然のようにその関係を派手に言いふらすだの相互フォローで茶番を始めるだのお洒落なカフェのコーヒーカップを接写しつつお互いの何か一部分を見切れさせるだの「すがすがしい朝だー!」などというコメントと共に朝一でどこかのバルコニーから撮影したらしい遠景を投下するなどという愚行などは行わないまま深めていきました。一体何がすがすがしいのか、もうちょっと親御さんにも分かるように言ってみてほしいな。けれど2人の初めてのデートは若人らしく今流行のデートスポット・・・などではなく、としまえんでした。
 
そんな二人は火曜3時限のこの時間帯、この教室が空くことを知っていました。二人は共に登校する曜日の中で共に講義を取っていない時間帯を共有できる場所として、この教室を活用していました。頼りなさを感じる教室の容積も、二人にとってはちょうどよいスケールでした。
 
通常、教室の割り当ては大学の事務局だけが知っていることです。しかし学期が進むと、同じ時間帯で使われる教室と空いている教室が分かるようになります。原則、事務局に申請された目的や時間帯以外での教室の使用は誉められたものではありません。しかし実際のところ、それが無許可使用なのかはよほどの事情通でなければ分かりません。そのため誰もいない教室をこっそり利用するというケースは、そこかしこに存在していました。
 
五反田くんと目黒さんは、この日も火曜3時限のこの教室で落ち合いました。そもそもこのキャンパスは人目を気にせず一緒に居られる場所が意外なほど限られていましたので、他の場所を探そうにも結局二人は流れ着いてしまうのだろうと思われます。
 
いつしかこの逢瀬は、二人の密かな必修科目となりました。なんとなくブラインドを操作してみたり、けれど万が一見つかったときに「自習してました」と言えるような準備を整えてみたり。もちろん室内灯はバレるかもしれないのであまり点けず、ホワイトボードには触れもしません。むしろちょっと薄暗い方が、二人にとっては都合が良かったくらいなのですから。陰影が引き立った目黒さんの横顔をおもむろに撮り出す五反田くん、それを嫌がりながらまんざらでもない目黒さん。さらに二人しか分からないようなフレーズで変な笑いを取り合って、表情が崩れた瞬間こそベストショットとばかりに連写する五反田くん。もうね、五反田くんのスマホを煮えたぎる常夜鍋に放り込んでやりたいですよ。
 
きっとその頃の楽しかった記憶が、今も習慣として二人を教室に向かわせるのでしょう。しかし人間はお互いの長所と短所を知り尽くした頃に、現在から未来という時間軸の存在に目を向けるようになっていきます。まさに今二人の関係は、その軸を手を取り合って共有すべきなのかを思案する分水嶺に差し掛かっていました。この二週間の間に3度ほど言い争いをして、けれどそれは傍から見ると仲むつまじいだけのような程度のものでした。
 
彼らに共通の友人がいてこの様子を観察したのなら、勝手知ったる二人だからむやみに傷つけ合わないのだなと感心すらしたかもしれません。しかし彼らの中で、確実に何かが冷めていきました。本当のところ、二人は何も終わっていないどころか始まってもいなかったのです。
 
そもそも最初から、目黒さんは疑っていたのです。自分にそこまでの絶対的な魅力がないことはなんとなく分かっていたのだけれど、目黒さんなりに努力をしてきたつもりでした。けれどその努力が無駄になるかもしれないと思い始めたのは、いつも必ず合わせてくれていた帰りのバス時刻を合わせてくれなかった辺りだったと思っています。人間は一度本質への疑念を抱くと、納得できる答えにたどり着くまで目を逸らせない生き物です。特に何かにつけて学べ・調べろ・データを取れと言われている大学生が、慕いあっている相手の本意を読み取れなくなったとあっては気にするなと言う方が無理というものです。
 
一方で五反田くんはというと、迷っていました。しかし実際には目黒さんが悩むような心離れの予感を感じさせるつもりはなかったし、むしろこのままの調子でいけば今しばらくは安定した関係を築けるとすら思っていました。何かしらをはっきりさせるべきかそうでないか、そういうレベルから迷っていたのです。ですがそもそも「余計なことをしなければそのままの状況が続く」という考え自体が相手への配慮を欠くものであるということを、五反田くんは思い至っていなかったのでした。人と写真の中の人は、違う存在なのです。いずれにしても密やかに過ごしていた火曜3限のこの時間は、目黒さんの影を帯びた問いかけによって徐々に魅力を失い始めていました。
 
ねえ?
 
目黒さんは必要最小限度の二の句で、五反田くんを追い込みにかかりました。お互いが危ういバランスで冷静にお互いを眺めている時、たったの一言がその後の運命を決めてしまうことがあります。このシチュエーションで次に五反田くんから放たれる言葉が、その一言になり得るという予感を少なくとも目黒さんは感じていました。
 
なにより追い込みをかけたのは、早く知りたかったからです。はっきりしない一言なら、もう腹をくくるしかないのかもしれません。聞きたかった一言なら、素直に謝らないとね。けれど、五反田くんらしさが垣間見えるようなはっきりしない一言だったらどうしよう。いずれにせよ火曜3時限とて、無限ではないのです。早くその一言を引きずり出して、一秒でも考える時間が欲しかったのかもしれません。あるいは一秒でも長く、これまで通りの甘い気持ちでこの時間を過ごしたかったからというのも。
 
麗らかな初夏の陽射しが、ブラインド越しに二人を照らしていました。遠くの方では、運動部の威勢の良いかけ声が響いています。
 
うーん・・・とね、・・・
 
五反田くんが重い一言を絞り出したそのとき、突然教室の片開き扉が開きました。驚いて二人が扉のほうを見遣ると、挙動不審な中年男性が入るやいなやホワイトボードのトレイ付近をまさぐっています。今までにない形の闖入に、二人は物音すら立てることができません。
 
中年男性は「あった」と一言つぶやくと、ホワイトボードの端っこで試し書きを始めました。何かを確認したその者は「よし」とつぶやくと、勢いよく試し書きを消してそのマーカーを握りしめました。どうやらその者は別の教室からやってきて、この教室にあるホワイトボードマーカーを拝借あるいは交換しようとしているようです。そして向き直ったところでその者は二人の存在に初めて気付き、教卓の脚に向こう脛をぶつけるほど驚きました。
 
え・・・あ、この教室使ってたんですか?失礼しました・・・
 
中年男性は二人に対し、しどろもどろになりながら言いました。合わせて打ち付けた脛の痛みがかなりのものだったようで、答えを待たずにすごい勢いでさすり出しました。二人は引き続き黙っていましたが、どちらかというとしっかりしている目黒さんが声を絞り出しました。
 
いえ、違います。大丈夫です。出ますんで・・・
 
そうなんですか、そんな遠慮しなくても。中年男性は意味不明の返答で立ち上がろうとする二人を制しましたが、それ以上の言葉は出てきませんでした。その刹那はあたかも一足一刀の間合いで刃先が止まるかのごとく、密度の濃い無音でした。無理もないわけで、そもそも教室を無許可で使っていたのは二人の方なのです。けれどホワイトボードマーカーをインクの出るやつと交換しようとしている中年男性も、おそらく無許可なのです。無許可同士の邂逅など、そう簡単に決着がつくはずがないのです。
 
結局急いで出ようとした二人よりも前に、出口に近かった中年男性は教室から出ていきました。一呼吸の後に二人が教室を出たとき、すでにその姿はどこにもありませんでした。
 
そして二人は、そのままの流れで解散し別々の場所に向かいました。五反田くんは特に何も気に掛けていないような風で軽めの挨拶を交わしましたが、もう目黒さんの心は決まっていました。だってそもそもあの問いに言い澱むなんて、答えたようなものじゃないですか。
 

TAというお仕事

 
3年ゼミTAのお仕事の中身は、ゼミを円滑に運営するための様々なバックアップ活動です。それは事前の打ち合わせやリマインドメールの送信、プロジェクターの準備や課題のレジュメ作成など多岐にわたります。当然ながら火曜3・4時限のゼミ中でも気を抜くことは許されず、例えばホワイトボードのマジックがインク切れ起こした際はどうにかして代わりを調達しなければなりません。どうにかするんですよ、できるTAならね。
 
そしてTAの役割はバックアップだけでなく、ゼミ本体への参加も必須です。まあ少なくとも、学生の質問にはよどみなく対応できる態勢でなくてはなりません。この課題はeスクールで全然やっていないんだけどな・・・などと思いながら、立場としての役割を全うしようと善処してきました。結果として8割か9割方、藤枝さんがバッチリ解決してくれました。そうこうしている内に月日が流れ、11期10名の人となりについても熟知するようになっていきました。
 
11期は、明らかに3つのグループに分かれていました。
 
できる系男子 池袋くん 籠原くん 宮原くん
ふわふわ女子 上尾さん 早川さん 由比さん 北本さん
ポンコツ男子 田端くん 品川くん 白岡くん
 
できる系男子は、課題も雑務もそつなくこなす優秀な学生達です。ふわふわ女子はどこか浮き世離れしている雰囲気を持っていて、それでも物分かりは良さそうなのが救いです。問題はポンコツ男子で、特に試験なども行っていない段階で3名はそのポジションを確固たるものとしていました。課題の発表もどちらかというと笑わせに来るし、というか笑って終わりになるケースも多々ありました。それで良いのかという話ですが、けれど彼らがゼミの光源となっていました。こういう人材は1人居てもムードメーカーと言われそうなところ、3人も居るわけですから相当な熱量です。20人も入れば一杯になってしまいそうなゼミ会場の教室は、いつも楽しい時間になっていました。
 
これはひょっとして、案外良いチームなのかもしれない。自身は特に何か工夫をした訳ではないのですが、微かな手応えを感じ始めたM1の夏でした。
 
次回は上野ゼミ恒例の「夏合宿」について書いてみます。
 
え、前半の茶番は何だったのかとな。
 
そりゃもう、できるTAは何でもお見通しってことですよ。
 
 
 
 
(初出:2021/01/13)

いんせい!! #04 合宿!!

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旅行が好きな性分のくせに、荷造りの手は遅々として進まなかった。大学生の団体行動に泊まりが伴うと、こんなにまで言いようのない不安に駆られるなんて。
 

#04 合宿!!

 
3年と4年が異なるスケジュールでひたすらにそれぞれの課題と向き合う上野ゼミでも、思い出を共有できる楽しい恒例行事がいくつか設定されていた。その代表的なイベントが、ゼミ生全員が参加する夏合宿である。行程はその年の4年生の有志が主導して起案し、明らかに大きな問題がなければ先生も是認するのが伝統となっていた。そのためか基本的には2泊3日だが、前後に夏休み旅行を抱き合わせる学生も少なからずいたという。まあさすがに、1年もあって一度も合宿を打たない方がもったいないというものである。
 
筆者がM1の年、目的地は新潟であった。芸術祭と銘打った大規模イベントが県内で複数開催されていたことや、4年生(10期)に新潟出身の学生(蕨さん(仮名))がいることが決め手となったらしい。行程のプレゼンは、大学院ゼミに主要起案者の4年生が出向く形で行われた。そのため筆者も本来は一部始終を知っていなければならないのだが、正直あまり新潟に興味がなかったのでよく聞いていなかった。いやむしろ、学生の合宿に社会人院生(=筆者)まで行く必要ある?とすら思っていたと思う。それに加え、プラン決定後もなぜか二転三転があったとのことで全容の把握を完全に怠っていた。結果として筆者にとってはミステリーツアー同然の心境で、合宿当日の9月中旬を迎えた。
 

1日目:妻有を巡ったらしい

 
いきなりのスキップであるが、社会人として外せない用事から1日目はパスしてしまった。1日目は新潟の妻有(つまり)、松代(まつだい)周辺をバスで巡るツアーだったという。後ほど示す地図でご確認いただくと分かると思うが、結構な山奥である。といってもこれはさすがにその地域に蕨さん(新潟県出身)の親戚の家があったとかそういう私的な理由だけではなく、大地の芸術祭という大規模イベントが開催されていたことによるものであるらしい。この辺りは北越急行ほくほく線が通っていて面白いんだけどな・・・と惜しい気持ちもあったが、基本的にバス移動と聞いてあきらめもついた。一行はその日のうちに新潟市に移動し、宿でそれなりに盛り上がったという。
 

2日目:新潟市内散策

 
筆者が一行と合流したのは、すべての行程を半分ほど消化した2日目の午後であった。新潟市の歴史的な町並みや建築物を、地元をよく知るガイドと共に巡っているという。ゼミの合宿としては割と粋というか、ナイスアイデアな行程に思える。新潟駅に到着し、大規模工事中の駅構内を見聞した後に一行への合流を試みた。
 
 
上越新幹線の終点である新潟駅では、駅全体をひっくり返す勢いの工事が行われていた。新潟駅は信越本線・白新線・越後線と上越新幹線(いずれもJR東日本)が乗り入れているが、このうち在来線ホームを新幹線ホームと同様の高架とする工事を行っているらしい。完成予定は2015年とされているからもう出来ていないとおかしい頃合いであるが、どう見てもあと3年はかかりそうな進捗具合であった。その混乱ぶりは、数字や内容に何の規則性もない標識(写真)の存在でもお分かりいただけるだろう。そりゃ在来線なんだろうけどさ、それはこの看板の情報を使うほとんどの人が知ってるでしょ。
 
こういう大規模工事はえてして、用地買収の遅れや予算のメドが立たないなどの理由で遅れるものである。ただ工期があまりに伸びると、100年に及ぶ駅の歴史の中で工事している時期の方が長いということにもなりがちである。そうなるともはや、駅の本来の姿は完成時ではなく工事時とも言えるのかもしれない。どこの駅のことと指し示すのはその駅の名誉のために憚られるが、もう少し賢い解決法はないものかと思わずにはいられない。
 
さて、話を横浜駅から新潟に戻す。一行は歴史的街並みの散策に夢中なのか、LINEで訊ねてもほとんど誰もまともに現在位置を教えてくれなかった。途中合流者への扱いなどせいぜいこんなものであるが、もう帰ろうかなと思い始めた。よく考えるとほとんどのゼミ生は初めての場所を闊歩しているから、現在地について本当の意味でよく分かっていなかったのかもしれない。外はまだまだ夏の名残が強い炎天下であったため、タクシーで一行がいるらしい地区に近づくことにした。
 
 
結局炎天下を10分程度彷徨し、それっぽい集団と合流することができた。学生達は「あら、来たんですか」とばかりに適当な反応で、全く関心はなかったことがうかがわれた。ほんとにもうそのまま日帰りしようかなとも思ったが、せっかく来た手前とりあえず見ていくことにした。写真は道中見つけた、マインクラフトで作ったような美術館(新潟市美術館)である。確か時間がなかったので、外観だけ眺めて次の場所に移った。どうやら、このゼミのメンバーは芸術にそんなに興味がない。
 
 
一行は貸し切りバスに乗り込み、海岸まで移動した。日本海は夕陽が沈む側の海となるが、夕方はとても美しい。学生は思い思いに記念写真を撮ったり、岸壁に向かって走ったり夕陽に叫んだりしていた。一点の曇りもないほどの、目を背けたくなるような青春である。夕陽に向かって叫ぶとか一斉にジャンプする写真を撮るとか、そういった営みが自然と行われる一部始終を筆者は初めて目の当たりにした気がする。
 
昭和生まれとしての所在のなさと貴重な光景が見られたという謎のありがたみが相まって、はやくも胸がいっぱいになった。
 
 
新潟の砂浜にその若さを強烈に刻み込んだ一行は、バスで港方面に向かった。港付近には存在感のある新古典主義的建築物(旧第四銀行住吉町支店、みなとぴあ)のほか、少し離れた場所にはスロープが印象的な音楽ホール(りゅーとぴあ)があった。写真にはブレてよく写っていないが、4年生(10期)の宇都宮くん(仮名)がスロープを全力で走っている。バスを降りて周辺景観を眺めていた一行の中で、おもむろに宇都宮くんはスロープを回り出したのであった。意味はわからなかったが、長いスロープを見たら走りたくなる走地性を持つ人種がいても不思議ではないのだろう。バスは宇都宮くんを置いて出て行こうとしたが、宇都宮くんが全力で駆け戻って事なきを得た。
 
新潟駅到着から6時間後、一行はやっと宿泊地に到着した。筆者にとっては1日目だが残りの参加者にとっては2日目の夜とあって、晩ご飯後の雰囲気はかなり打ち解けたものであった。夕食後には先生・院生・4年生(10期)・3年生(11期)が自然に一部屋に集まり、二次会っぽい歓談が始まった。筆者もやっとこの時期になって、4年生や3年生の顔と名前が一致しだした。ちなみにさきほどダッシュをキメていた4年生(10期)の宇都宮くんはというと、部屋の出入り口でZIMAだかカルアミルクだかをラッパ飲みしていた。ZIMAそんなに好きなの?などと聞こうとしたら、返事もそぞろに何かに駆り立てられるように走って出て行ってしまった。
 
あんまり言いたくないが、他の客も泊まっているはずである。遊びに来る大学生の集団というのはなにかとかまびすしいものだが、よもや自分がそういう集団の当事者になる日が来ることになろうとは思いもよらなかった。あの日同宿の皆さま、誠にすんません。一方我らが3年生(11期)はというと、負けじと田端くんが絵に描いたように出来上がっていた。院生や先生と気さくに肩を組んだり、つくづく偉くなったものである。人は僅か半年でも大きく成長できるということを、田端くんは身をもって示してくれた。
 
ハプニングはその二次会で起こった。参加していたとある院生(藤枝さんではない)が、3年生に小言を言い始めた。4年生が色々と準備しているんだから3年生もそれを補佐してあげてよ、という程度の意味だったと思う。しかしそういう類いの小言への耐性がなかったらしい3年生(11期)のふわふわ女子1名が泣き出し、部屋は直ちに修羅場と化した。その院生視点からすればそう言いたくなるほど目に余る瞬間があったのかもしれないが、本来そういうことは直近の先輩である4年生が注意すべきではないかと思った。ちなみにその4年生(10期)のリーダー格はシャトルラン愛好家である宇都宮くんであったが、ああなるほどこれは自分が言わなければ!と思い至るのもやむを得ないかもしれない。楽しさと共にあった心地良い疲労感が、楽しさを失ったただの体調不良感として二次会参加者にのしかかり始めていた。
 
そこで活躍したのが、我らが田端くんであった。素面であればとてもじゃないがいてもたってもいられないほどのチルい空気を、非論理的な内容をさも当然のように言い放って認知の歪みを招くというペテン師が常用する手法で見事に鎮圧してみせた。おそらく本人も、何がどうなっているのかよく分かっていなかったと思う。
 
ただ残念ながらその奮闘も長くは続かず、一旦反省会基調になってしまった流れはどうにも難しくなっていた。むしろ訳の分からない流れになったことで、起点となった院生の義侠心は余計に熱を帯びてしまったようにも見えた。燃えさかる家に適当に放水したら火元の天ぷら油鍋に直撃してしまい、フラッシュオーバーを招いた火事場のような状況であった。というか今思い返すと、田端くんが急に偉くなってしまったことも遠因だったかもしれない。結局ここに至っても何の発言権もない筆者は、消火と救命を早々に諦めてこっそりと自室に戻った。
 
自室では主に、修羅場から首尾良く離脱した3年生(11期)連中が地味に盛り上がっていた。今回の合宿で、筆者は3年生数名と同室であった。実はこの頃の筆者は他の人と同じ部屋で寝るという状況をどうにも苦手としていたのだが、M1という立場で別室を求めることは難しかったのであった。部屋に居た3年生には「放っておいてくれていいから」と言い残し、とにかく早く眠りに落ちるように努めた。
 
何分経っただろうか、部屋に乱入してきたのは田端くんであった。おそらくであるが、さすがにあの業火の中で長時間いられなかったのだろう。人数分の布団が敷き詰められた空間を所狭しと大暴れすると、しまいには筆者の身ぐるみを剥がそうと迫ってきた。ふざけんな、こんなところで貞操を散らすわけにはいかぬ!と必死になって丸まったことを今も覚えている。意外なガードの固さに埒があかないと思ったらしい田端くんは攻撃を止め、部屋を急襲された3年生を引き連れて他の部屋へと旅立っていった。部屋の外では、まだ走ってるらしい宇都宮くんらの足音や正体不明の嬌声が断続的に響き渡っている。当然ながら、以後はほとんど眠れなかった。
 

3日目 長岡市内散策

 
3日目は朝早くの新幹線で、新潟から長岡に移動した。完全に寝不足であったが、身体が本能的な危機を察してか疲労をあまり感じなくなっていた。学生は泣いていた子も含めて昨晩の些事が嘘のように清々しい顔をしていたが、もしかしたら同じように心頭滅却していただけなのかもしれない。強いて言えば、宇都宮くんだけはビニール袋を片手にいかにも辛そうに歩いていた。こう言っちゃ身も蓋もないというか辛辣というか若者に投げかけるにはいささか手厳しい表現かもしれないが、バカだろ。
 
 
いやそれにしても、気がつかないようにしていたがなかなかえげつない行程である。4年生(10期)の蕨さん(新潟県出身)による「上越・中越・下越全部お見せしたい!」という意向は分かるが、ちょっとかさばっていないだろうか。それと3年生から聞くところによると、1日目のバス移動はかなり過酷であったらしい。確かにバスしか移動手段がないのだろうが、下級生がオフレコでも過酷というからには相当なものだったのだろう。せめて妻有→長岡→新潟、という順番ではダメだったのだろうか。
 
そういえば院ゼミのプレゼンで、当初プランではここに佐渡と上越・高田を巡ることも視野に入れていたことを思い出した。新潟より両津港(佐渡北部)に渡り、小木港(佐渡南部)から直江津(上越市)を経て満を持して中越・・・というルートだったと思う。これを2泊3日で回るのは明らかに大きな問題があるということで、行程確定前に先生から修正が入ったらしい。もちろん蕨さんの郷土愛の強さは十二分に理解してあげたいが、もうちょっと現実と効率を鑑みてもよかったのではないだろうか。てか鉄路を新幹線しか使ってないじゃん、弥彦線とかも乗ればよかったんじゃないだろうか。などという小言を後から言ってひっぱたかれたら後々困るので、黙っていることにした。
 
 
長岡では駅前施設の「アオーレ長岡」や、子育て支援施設が併設された公園「てくてく」を見学した。この日だけを切り取るのであれば、そこそこまともな見学ツアーであった。新潟はどういうわけだか気持ちが乗らないのだけれど、長岡はまた来てもいいかな。最後にどういう意図かも分からないが母なる信濃川の土手を全員で散策しつつ、市内に戻ってへぎ蕎麦を食した後に現地解散となった。なお宇都宮くんは一身上の都合で、せっかくのへぎ蕎麦をほとんど食すことができなかったという。
 

夏合宿その後

 
年の状況にもよるが、上野ゼミでは夏合宿の終わりが秋学期の始まりを意味していた。楽しい団体行動を経て、特に4年生はこれから卒論執筆という未曾有の断崖に挑むことになる。そんなような趣旨の先生の話を聞いている4年生(10期)の瞳には、今このタイミングで思い出させないで欲しいという願望が読み取れた。個人的にも楽しいことは最後(卒論後)に回す方が思い切り楽しめる気もするが、ゼミメンバー全員の結束を深める意義を考えるとこの時期の開催が一番よいのだろう。実際、この合宿を経てから筆者と学生の距離も縮まったように思う。なお筆者に狼藉を働いた田端くん(11期)は後の院ゼミで議題となり、セクハラに気をつけるようにという厳重注意が与えられたという。
 
そしてこの年の合宿における先生からの最後のスピーチは、先生から学生にしばしのお別れを告げるためのものでもあった。上野先生はこの秋からの1年間、勤続10年のサバティカル(研究休暇)に突入するから後はよろしくねとのことであった。えっ、この後のゼミどうなるの。という質問には、代わりの先生がなんとかしてくれますよという抽象的な返事であった。
 
言い得ぬ不安を誰もが胸に抱えながら、秋の空はすぐそこに迫っていた。
 
 
 
文中の地図:地理院地図 https://maps.gsi.go.jp/



(初出:2021/01/14)