いーすく! #10 またスクーリング!

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稲荷山公園駅を降りてタクシーを待っていると、見慣れた顔と出会うことができました。
 

#10 またスクーリング!

 
いや、個人的には「また」ではないのですが、そんな筆者にとって自由なスクーリングの時間がやってきました。上野先生から「武蔵小杉ゼミ、藤沢ゼミと合同ゼミを行うのだけど、参加する?」というお誘いを受けたのが1ヶ月程度前のこと、筆者は好機到来とばかりに「行きます!」と元気よく答え、そもそもどういうコンセプトのゼミなのかも理解せぬまま参加を決めたのでした。
 
ここでひとつ新しいキーワードが出てきたので説明します。合同ゼミとは、その名の通り複数のゼミが合流して一つの活動を行うことで、上野ゼミの場合は同じ研究領域の武蔵小杉ゼミ、藤沢ゼミが相方となることが多いようです。合同ゼミの開催タイミングは全くの不規則で、ゼミたるもの合同ゼミを行わなければならない、という決まりはありませんが、結構行われるとのことでした。
 
また合同ゼミといいつつも、人材を合同で持ち出すタスクフォースが形成されることは多くなく、現実的には、どこかのゼミが発起した企画に他のゼミが相乗りする、というケースが多いようです。そして今回の合同ゼミの企画の発起人は藤沢先生である、という情報を上野先生から聞きつけたことも、二つ返事で参加を決めた理由だったかもしれません。
 
いや、藤沢ゼミを選ばなくて申し訳ないかな、と。一言挨拶しておいた方がいいかなって。
 
そしてこの3ゼミの場合、合同ゼミが企画されるのは通学制のゼミのみでした。通信はやはりトータルでの人数が少なく、日程を合わせることも難しいためです。そのため(通学制)合同ゼミについては、希望によって通信生の参加を認めていました。だからこそ上野先生は「お誘い」という形で筆者に合同ゼミの存在を示していたのでした。
 
これが参加必須のゼミであるなら、学生は出欠を訊かれる立場にないわけです。いろいろと回りくどい説明をしましたが、筆者にとってこの事実が意味するのは、初めて通学生、いわゆる現役の大学生と相まみえるということです。苦節3年とちょっと、苦行感はあれど大学生である実感はやや乏しかった筆者にとって、いわゆる本来の大学生が学ぶ環境に飛び込めることは、怖くもあり楽しみでもありました。
 
さて、ここまでこのコラムで挑戦していたことがひとつあって、それは絵図のゼロ使用ということです。よせばいいのに、写真や図を使わずどこまで臨場感をもってお伝えできるか、挑戦していたのでした。しかし今回に関しては、さすがに何枚かの写真を挟むことをお許しください。いや、むしろここまでの結構な場面で写真やら図表を盛り込むべきだったところがあったと思いますが、今更付け足すのも微妙なのでそれは各自で補足をお願いします。大学の公式サイトとか行けば分かりやすいのあるし。
 
では、時計の針を合同ゼミ当日に戻したいと思います。
 

2013年6月11日正午 稲荷山公園駅

 
池袋から西武池袋線でおよそ40分。稲荷山公園駅小手指駅からさらに2駅ほど奥まったところにある、やや小ぶりの駅である。今回の合同ゼミの集合場所は稲荷山公園駅からタクシーで向かう必要があったため、まずは駅においてタクシーを拾う必要があった。降りてみるとタクシーは居らず、そうこうしている内に藤沢先生らとの一行と合流した。
 
「久しぶりじゃん。元気?」
 
開口一番、やはり酔っていない藤沢先生は何を言っているかが明瞭で、良い大人という印象である。筆者は「元気です」などと生返事を返しつつ、タクシーに同乗させてもらった。車中ではあまり話が盛り上がらなかった。というか、何を話せばよいのか分からなかっただけなのだが、それよりも通学制の合同ゼミに参加できるという高揚感が勝っていたため、気にならないまま目的地に到着した。
 
あれ、アメリカ・・・に来たのかな?どういうこと?
 

午後1時 ジョンソンタウン

 
ジョンソンタウン。その名が示すように、太平洋戦争後に米軍に接収され、ジョンソン基地(現在の航空自衛隊入間基地)と共に、長く日本におけるアメリカとして存在していた地区である。米国による管理は戦後しばらく続いたものの、昭和53年には基地ごと日本へ返還され、ジョンソン基地は入間基地に、ジョンソンタウンにはアメリカ風の住宅と景観を残した日本の住宅地となった。
 
返還後、ジョンソンタウンは特に歴史的価値も見出されなかったのか、荒廃が進み、返還前から存在していたアメリカ風住宅は次々と取り壊されていった。転機が訪れたのは平成8年、ジョンソンタウン一帯の地主であった会社の社長の世代交代であった。こうして、今に続くジョンソンタウンの復興プランが動き出した。
 
復興プランにおいて、ジョンソンタウンは「アメリカ風住宅の町並み」を保存することを選択した。そのため関係者は、オリジナル建物の補修と返還後に建設された日本家屋のアメリカナイズリフォーム(平成ハウスと呼称)を断続的に実施していった。合わせて喫茶店などの観光客向け施設も拡充され、2013年現在、ジョンソンタウンは今や狭山地区の貴重な観光資源として脚光を浴びつつある。
 
 
今回の合同ゼミ最初の見学地はこのジョンソンタウンであった。アメリカといっても、そもそもアメリカに行ったことのない人間なので、前述の印象が真実かどうか疑わしいものであるが、少なくとも日本ではない違和感を覚えた。言うまでもなく、その違和感が建築のどの部分から発せられているか(発せられていると思うか)を考察するのがこの合同ゼミの目的であろう。
 
 
いくつかの家屋は展示用なのか、屋内まで見学することができた。白い壁や高い天井など、ものすごくアメリカに寄せたような努力が垣間見られる。一方で梁や台所の寸法など、「さてはおぬし、日本家屋の居抜きだな?」と感じさせるような場面も観察され、それが結果的にジョンソンタウンの個性となっている。そう、これは住宅の新しい様式なのである。
 
 
一方外の景観に目をやると、ここでもアメリカっぽさ(日本っぽくなさ)を感じさせる一瞬を数多く見つけることができる。見つかるのだけれど、冷静に考えるとアメリカほどアメリカではない気もする。つくづく不思議な街である。
 
 
先述のように、ジョンソンタウンは今や一つのプロジェクトとして、住民と建築の有識者を大いに巻き込みながら成長している。将来、より観光客を迎え入れられる設備が整えば、観光スポットが豊富と言えない西武池袋線沿線における貴重な観光資源として存在感を高めていくことだろう。
 
 
ひっくり返った猫ちゃんかわいい!!
 

午後2時 入間市駅までひたすら歩く

 
ジョンソンタウン見学を終え、一行はここから入間市駅まで歩くこととなった。数十人の大学生と数人の大人が、何の統率も取れていない集団を為して小綺麗な歩道を闊歩していた。
 
筆者は子供の頃から遠足が嫌いではなかった。ただしそれは集団行動が好きだったのではなく、集団から自分のペースでつかず離れずを保ちながら行動することが好きだったのだ。まあ天邪鬼なのかもしれない。流れがあると逆らいたくなるくせに、流れがないと動かないのである。実際は流れがない、つまり一人で歩くことも問題はなかったが、集団で歩くことの楽しさもしっかりと認識していたように思う。
 
もちろん何度か失敗もやらかしている。地元の町で行われた、子供会単位で参加していた行事の終わり、おもむろに退却した一団になんとなくついていってしまった筆者(小学校低学年)は、しばらく消息不明者として捜索されていたらしい。ついていった一団は隣の地区の子供会で、会場から遠いがために早めに離脱していただけだった。そういえば途中から、うちとは違う方向にみんな歩いて行くな・・・まあいいや、と、取り付いた集団の素性を探ることもなく、マイペースに離脱し自宅に到着した。帰宅後、親を含めた子供会の大人たちにどえらく怒られたことを覚えている。
 
それでも、集団があれば喜んで乗り、集団の中では動き回るという基本スタンスは今日に至るまで変わることがない。何が言いたいかというと、この年になって学生の行軍に当事者として乗れることが、楽しくて仕方がなかったのだ。土地勘もない、更に言うとランドマークと呼べるような目印もない地域で、不思議なほど不安はなかった。遠足の一団の中の一人という気持ちでずっといられるなら、一人というステータスは極上のものとすら思えた。ただ、あてもなく歩き回る時間が過ぎていった。
 
「どう?楽しい?」
 
徐に藤沢先生が聞いてきたのは道中の真ん中あたりだったと思う。筆者は「楽しいです」とありきたりな答えを返したが、それは正解(藤沢先生の聞きたい答え)であったらしい。藤沢先生は「よかった」と一言こぼして、ゼミの院生らとの話に戻っていった。今思えば、ゼミ選択で選ばなかったことを気にしていたか、あるいはやたら右往左往する筆者に不安を抱いたのかもしれない。
 

午後2時半 入間市駅

 
 
一行は小一時間とまでは行かない程度の時間で入間市駅前に到着した。駅の付近の線路は不自然なほどカーブしていて、まるで駅のために線形をねじ曲げたようにすら見える。西武池袋線(池袋~飯能)の開業は大正4年(1914年)と古く、入間市駅は「豊岡町(とよおかまち)駅」として、路線の開業時から存在していた。
 
 
しかし返す返すも不自然なカーブである。池袋線のほとんどの区間が直線的な線形で構成されているため、この凹みは余計に目立つのである。現在は周辺に入間基地があり、なんとなく馴染んでいるのだが、池袋線の開通は入間基地よりだいぶ前なのである。これから記すその理由について、ドンピシャな史料が見つからなかったため全くもって推測の域を出ないことをお断りしなければならないが、やむを得ない事情があったことが偲ばれる。
 
 
時は大正前期。この地域に線路と駅を設けるにあたり、自然な線形は上図水色のようなルートとなろう。そして仮に想定ルート上に駅を作る場合、概ね平地にあたるため、困ることはなさそうに思える。
 
 
かしそこは周囲より標高がかなり低く、線路をそのまま敷いてしまうと勾配が発生してしまう。こうした場合の大胆な解決策としては、築堤を造営し、線路の標高を高いままとする方法である。しかしこの方法は多量の土砂が必要な上、平地の土地も大きく買い取らなければならない。駅を作るとなればなおさらである。
 
もう一つの作戦として、平地の標高に合わせて周辺の線路を掘り下げていく方法が考えられる。しかしこれも当時の汽車の牽引力(の弱さ)を考慮すると、勾配は相当緩く設定しなければならない。そのためには周囲のかなりのエリアの路盤を掘り下げなければならず、相当な手間が予想される。
 
加えて建設当時、現在の国道16号線に沿う形で馬車鉄道(中武馬車鉄道)が存在していたことも少なからず影響したかもしれない。現在でも鉄道線と道路は立体交差しているが、これは開通当初からの構造である。これが鉄道線を平地まで下げると、馬車鉄道の軌道と平面交差してしまう。鉄道同士の平面交差は双方のダイヤを調整する必要が生じることから、その構造を避けようという力が働くのは不自然ではない。
 
 
あるいはルート決定にあたり、仏子駅(ぶしえき、入間市(豊岡町)駅の1つ飯能寄りの駅)周辺の製糸業者による路線誘致活動が影響した可能性もある。
 
時の武蔵野鉄道西武鉄道の前身)は飯能出身の有力者:阪本喜一と資産家であった社長:平沼専蔵両氏の情熱で、飯能から池袋までの線路を迅速に敷くことを至上命題としていた。ということは武蔵野鉄道は、豊岡町から飯能のルートについて、当初は仏子を経由しない上図破線に沿ったルートで構想していたと推測できるのではないだろうか。
 
しかし仏子の企業側の積極的な誘致によって、路線は豊岡町から急転、仏子を経由しなければならなくなった。その過程で、路線は途中で仏子側にルートを振り向けながら豊岡町駅を設置する形となり、結果として現在に残る急カーブが形成されたのではないか。
 
こうしたルート変更で急なカーブが生じた事例としては、箱根登山鉄道小涌谷駅と変更ルート上の急カーブが有名である。いずれにせよ当時の武蔵野鉄道は、社命(迅速な敷設)と施工可能なプランを勘案し、線形が犠牲となる現在の形に落ち着いたのではないだろうか。(より詳しい歴史的事実や史料をご存じの方、お知らせいただけると嬉しいです)
 
そんなことを考えながら黄色い電車を撮っていると、いつの間にか一行はガードをくぐり、線路の向こう側に到達していた。ひどいじゃないか。先に行くよって誰か聞かせてよ。
 
 
一行が先を急いだのは、入間市駅が目的地ではなかったことによる(というか、誰一人として入間市駅にもカーブにも注目していなかった)。線路の向こう側、周囲からすると低地となっている一帯に本日二つ目の目的地があった。それはもしも鉄路が線形重視で敷設されていたら、まさにその位置に豊岡町駅があったであろう場所に鎮座していた。
 

午後3時 武蔵豊岡協会

 
 
武蔵豊岡協会。1889年(明治22年)に創立されたプロテスタントの教会である。教会が現在の地に移転したのは時代が少し下って1912年(大正12年)、礼拝堂はW・ヴォリーズの設計によるものである。竣工直後には関東地震に見舞われているが、豊岡町の被害はこの教会も含めて比較的軽微であったようだ。
 
しかし震災を克服しても、あるいは入間基地建設による影響を回避しても、建物としての経年劣化と、いつ通っても渋滞していると悪名高い国道16号線の拡幅事業にはついに抗えなくなった。100年以上、地域の信者によって守られてきた教会もこれまでか、とあきらめそうなところ、なんと教会側は「補修した上で牽家」という驚くべき打開策を打ち出した。簡単に言うと、直して引っ張ってついでにクルッと回すというのである。パンクした自転車じゃないんだから。
 
これも信仰の力、と説明するのは簡単である。しかし信仰だけでこの選択肢に辿り着いたと考えるのは少し強引である。なぜなら、特に古い建物の場合、補修や牽家を行うより新築する方がおそらく安価かつ美麗な建物となるのである。つまり信仰のみが依り代であれば「安くて美しくなる」選択肢を取っても不思議ではない。つまりこの教会を守る信者には、信仰と共に、土地や建物への愛着も強く存在しているのではないか。
 
 
いや、なんというかもう、感動する話である。結果論であるかもしれないが、この教会を中心として土地の風情や人の繋がりが保たれてきたことは、ここに理屈を超えた何かがあると説明されても納得してしまう強度がある。
 
 
場内はヴォリーズ作品において特徴的な、シンプルにして清潔感で満たされた空間となっている。この舞台の雰囲気、なんだかどこかで見覚えが。ちなみにヴォリーズは全国各所の教会の設計を行った傍ら、主に関西地方の校舎も手がけているので、ぜひくまなくチェックして欲しい。なお探訪した日時は改修に入る前に見学できる最後のタイミングであったらしい。
 
 
創立から130年余り。時代が変わり、駅名も変わり、街の様相が変わっても、武蔵豊岡教会は地域の強力なランドマークであり続けるだろう。
 

午後5時 狭山市駅 

 

武蔵豊岡教会からはさらに徒歩で狭山市駅まで移動し、合同ゼミはお開きとなりました。道中の徒歩移動はそれなりに長いものでしたが、かなり濃密な時間を過ごすことができたという感触がありました。それもこれも、この合同ゼミの行路を企画した(らしい)藤沢先生のお手柄です。いやー本当に参加して良かった。
 
とはいえ出会いの最後に別れはつきもの。学生、先生方とはここ狭山市駅でお別れです。先生方はこれからもやることがあるそうで、それはさぞかし大変なお仕事なんでしょう。お疲れ様です。
 
狭山市駅から高田馬場までは、西武新宿線の急行電車で一本です。途中の田無までは各駅に止まるも、そこから高田馬場まではほぼノンストップ。時刻はラッシュアワーに差し掛かっていましたが、ラッシュとは逆方向の電車ですから、問題なく座ることができました。せっかくなので、しばし余韻に浸ることにしましょうか。
 
なんだかとっても長い夢を見ていたような、そんな感覚でした。なにせこれまで、大学という存在は(スクーリングを除いて)画面の中だけのものでした。言い方は極端ですが、テレビの中のドラマ、映画の中の世界を外から眺めているようなもので、それは「自分が当事者ではない」という認識の元に成立する感覚でもあるわけです。加えて現役の大学生がいて、しかも一緒に行動しているなんて。突然若返ったような、なかなか不思議な夢です。
 
けれど今日、先生や学生は確かにそこに存在していました。キビキビと動く藤沢先生、いつになく楽しそうな上野先生、面談の時とほとんど変わらない雰囲気でニコニコしている武蔵小杉先生・・・これが「大学」なんだ。やっと本物の大学に触れられたんだ。そんな気がしました。
 
誤解のないように確認するならば、eスクールも本物の大学です。学べる内容も必要な単位数も通学制と同一で、学ぶための自由度はむしろ通学制より高い部分もあるんじゃないか!と思えることも少なくありません。しかしやはり人間というものは、実物、実感、ライブ感というものにとても大きな意味を感じる生き物であるということも、こうした機会に触れることで気がついてしまうものなのでしょう。
 
一年の内で最も昼が長いとされる6月でも訪れた夜空の中を、急行電車は新宿へひた走ります。あれは夢だったのだろうか・・・
 
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高田馬場に着く頃、筆者の顔は見るからに疲れていました。久しぶりに長時間歩いた疲れと現実に引き戻された絶望感が、今頃訪れたのでしょう。はたまたいつの間にか、超えるはずのない世界線を越えてしまって、その反動が身体に来たのかもしれません。
 
果たして今は現実なのか。
 
僕はどこにいるのだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
参考資料
ジョンソンタウン  https://johnson-town.com/ 
中川浩一:西武鉄道の系譜、鉄道ピクトリアル、1969/11
宮脇俊三原田勝正:JR・私鉄全線各駅停車 別巻1 東京・横浜・千葉・名古屋の私鉄、小学館、1993/10
 
文中の地図:地理院地図 https://maps.gsi.go.jp/