移動型ホワイトボードを片付ける手伝いをこなし、永遠にも似た長い一日が終わった。ここから実に、1年の月日を費やす卒研ゼミが始まる。
#02 学部ゼミ!!
本題に飛び入るその前に、この日がいったいどんな日であったかを読者に伝える必要があるだろう。2015年4月7日火曜日、2015年春学期が初めて迎えた火曜日である。毎週火曜日は上野ゼミにおける学部ゼミ開講日と決まっており、ゼミに関する予定が一日を埋め尽くしていた。まずは以下にゼミの時間割について、大学の時限情報を添えながら説明していこうと思う。
1時限 09:00~10:302時限 10:40~12:10 学部4年ゼミ3時限 13:00~14:30 学部3年ゼミ4時限 14:45~16:15 学部3年ゼミ5時限 16:30~18:00 学部4年ゼミ6時限 18:15~19:457時限 19:55~21:25
1時限目が午前9時、というのは考えようによっては優雅かもしれない。いわんや2時限目となれば、出席にはかなりの余裕があるようにも見える。しかしこのコラムにてこれまでしつこいほど強調してきたが、キャンパスは所沢の森の中なのである。実際問題都心から通うことを想定すると、1時間前に家を出たのではかなり厳しい。
加えて春学期の最初の火曜日は多くの学生にとっても初登校となるようで、キャンパス行きの学バスが発着する小手指駅バス乗り場には生気のない長蛇の列が出来ていた。どれくらいの渋滞度合いかといえば、午前10時時点で並び始めると5台先のバスに乗れるかも怪しいほどのぎっしり感である。厳しい方に考えるなら、2時限開始時刻には間に合わないと諦めた方が良いくらいである。2015年4月7日午前の小手指駅は、折りたたみ傘をわざわざ開けるか判断に迷う程度の小雨が降りしきっていた。いつバスに乗れるとも分からない状況でまとわりつくような雨に濡れ、憂鬱さが早くも精神を強力に蝕み始めたことはもはや言うまでもない。
2時限:学部4年ゼミ
10時40分、ゼミ室にて第1回学部4年ゼミが始まった。冒頭、上野先生からゼミ運営に関する説明がなされた。今日から本格的な卒業研究が始まること、学生には助手や院生が適宜アドバイスするのでしっかり取り組むようにといった内容であった。4年ゼミの会場となったゼミ室は決して広い空間ではなく、4年生12名と関係者数名ですべての椅子が埋まるような状況となった。そのため室内は4月上旬にして冷房を入れるような熱気で、折からの湿気と相まって不快感は増すばかりであった。
てか何やってんの、という話であるので少し根本的な説明を挟もうと思う。上野ゼミの方針から、院生である筆者は学部ゼミへのTA(=ティーチング・アシスタント。教育補助係)としての参加を求められていた。卒論を書き終えたばかりの身分で、いきなりのTA任命である。TAの具体的な役割についてこの日まで細かく説明されなかったこともあるが、おおむね「後輩にたまにアドバイスする」くらいをイメージしていた。実体はだいぶ異なり、基本的に毎週ガッツリ関わることになった。初日にして自分の(勝手な)予想と違うことに、気がつくことは早かったが時は既に遅かった。
ここで上野先生以外の、4年ゼミの指導・運営関係者をおさらいしていこう。ゼミ室には助手役として烏山先生(仮名)が鎮座し、上野先生と同格の雰囲気を醸し出していた。ここに博士課程の藤枝さん(仮名)を筆頭に、筆者含む数名の院生が運営方を担うという布陣である。なお事前の打ち合わせにおいて、筆者は4年ではなく3年ゼミのTAに任命されることとなっていた。しかし4年TAに任命された別の院生の補佐をいつでもできるようにしてほしい、と4年ゼミへの参加も求められていた。
いや、ちょっと待って欲しい。つい数ヶ月前まで卒論に悩んでいた人間が(他人のものとはいえ)再び卒論に関与しなければならないという現実は、つい数ヶ月前のささやかな達成感に立脚した現実感を狂わせるほどの衝撃であった。しかも所沢キャンパスもゼミ室も一応既知の場所であったとはいえ、ほぼすべてが初体験なのである。単に距離があるという意図で喩えるが、さながら日本の本社勤務からブラジルの現地工場長に着任した気分であった。ブラジルからはるばるJリーグにやってくるサッカー選手などは、大変なカルチャーショックを乗り越えて頑張っているのだと感じ入った。
まさゆめさんちょっとこちらに。4年ゼミ開始数十分後くらいか、呼び立てたのは院生最年長、博士課程の藤枝さんであった。両名はゼミ室の端に用意された「院生席」と呼ばれる場所に移ると、藤枝さんはおもむろに説明を始めた。その内容は筆者がTAを担当する3年ゼミの、スケジュールや配布物といった関連資料一式であった。3時限からの3年ゼミはeスクールのそれと同様、演習がメインとなっていた。しかしeスクールと決定的に異なり、ゼミ回数(年間30回)と課題の総数はeスクール比3倍では済まされない規模であった。諸々の事情によって致し方ないこととはいえ、いかにeスクールの演習が内容を厳選していたかが推し量られた。自分目線において激変した風景に呆気にとられていると、2時限は終わりの時刻を迎えていた。しかし4年ゼミはこれにて終了ではなく、昼休みと2コマほど空けた5時限に再開されることになっていた。やれやれお昼か・・・と思った刹那、筆者はまた藤枝さんに呼び立てられた。3年ゼミの準備があるので、行きましょう。まあまあ予想できることであったが、この日お昼ご飯は食べられなかった。
3・4時限:学部3年ゼミ
3年ゼミは4年ゼミと異なり、一般の教室での開講であった。ゼミ室を用いないのはそもそもあの空間が藤沢ゼミと共用であることや、4年生が3・4時限の間に作業を行うことを前提としているからとのことであった。確かに卒業論文たるもの、修正作業を行える時間があると助かるということは納得できた。特に大きめの指摘がもたらされた後の修正作業の方針が正しいのかズレているのか、確認が直ちにできるならそれに越したことはないのである。4年ゼミに妙なインターバルが設けられている謎は、一応のところは解消された。ちなみに藤沢ゼミも火曜の同じ時間帯に学部ゼミを開講しているらしいのだが、そちらはすべての学部ゼミを他の場所で行っているらしい。詳しいことはよく分からないが、ゼミ室はどちらかというと上野ゼミが多めに活用する伝統があるようだ。ということはなんとなく掃除が行き届いていない気がするのもどちらかというと上野ゼミの責任、と考えたところで思考を止めた。むやみに深掘りすることで、院生の仕事が更に増える結果を招くような気がしたからだ。
3年ゼミの雰囲気は、4年ゼミのそれとは真逆の初々しさに溢れていた。加えて少なくとも大学院入学式で感じたような、鋭利な刃物のごとき若さも醸し出されていなかった。無理もないことで、彼らは学部3年生とはいえゼミ配属1年目の立場なのである。以降、この学年を上野ゼミ11年目の学生という意味で「11期」と呼ぶことにする。ゼミの初回は和気藹々とした雰囲気の中での自己紹介と、一年のカリキュラムを示したガイダンスや初回課題の説明で終わった。以下に、自己紹介などを受けて筆者がメモした名前と第一印象を示す。
11期(すべて仮名)田端くん ジャイアンツファン カス メガネ白岡くん ゴーストテニス部員 背が高い 苦手め品川くん サッカーコーチ 軽そう宮原くん ボウリング9年 名前の読みが難しい 真面目そう上尾さん ゲスの極み乙女好き 子供早川さん サンリオと餃子ドッグが好き 子供由比さん 幕張から来てる 好きな色はオレンジ やや子供北本さん 映画好き写真好き つまんなそう池袋くん バスケ野郎籠原くん 魚上野くん ウルム(というドイツの街)に行ってきたよ
ガイダンスにてなかなかな数の課題数が予告されたとはいえ、全体的には明るく和やかで笑いの絶えない時間となった。強烈な北風によって縮こまることを余儀なくされた筆者の心も、柔らかい陽光を浴びた花が息を吹き返すかのようにひと息つくことができた。ただし筆者の元々の個人識別能力の低さから、11期生の顔と名前の一致には結構な時間を要した。映画好きの写真好きなんてどこにでも居るしなあ・・・と思いながら聞いていたし、正直言って後半は飽きていた。唯一、アンチ巨人である筆者にとって仇敵であるジャイアンツファンはバッチリ覚えた。早速「カス」などと書き残しているところからして、強い警戒心を抱いていたことが偲ばれる。総じて3年ゼミは、初回にしては割と上手く乗り切れたように思えた。まあ実際は、藤枝さんがつきっきりでTAの補佐をしてくれていたからであるのだが。
5時限:ふたたび学部4年ゼミ
先生と院生は休む暇もなく、5時限目の学部4年ゼミの開始時刻を迎えた。草木が歌い蝶が舞う小川のごとき瑞々しさを感じた3年ゼミとは打って変わって、4年ゼミの雰囲気は暗渠そのものであった。卒論の構想をまとめあげよという激重な課題を与えられているのだから、無理もない。その雰囲気は2時限の段階でつかんでいたはずであったが、3年ゼミの陽気さを見聞きしてしまったこともあり、相対的に陰鬱な印象を強く感じてしまったのかもしれない。冬場にヒートテックを着始めたらもう昔には戻れないのである。加えてここまで休まず動いた疲労感と空腹が、その思いをいっそう深刻なものとして筆者に捉えさせていたように思う。
2時限の時と同じく、ゼミでは上野先生と助手の烏山先生が間断なく卒論の相談と指導を続けていた。加えて先刻まで丁寧に補佐を行ってくれた藤枝さんも、さっそく手間取っているらしい学生の相談を引き受けていた。そこにあったのは、上野ゼミの真の卒業研究の姿であった。しかしそのときの筆者の心境は、感心3割・寒心7割であった。おかしいな、大学院って研究を行う場所なはずなんだけどな。一応想像はしていたつもりだったけれど、どうして自分が事務方を引き受けているのだろう。いや、別に事務作業は嫌いではないのだ。バーベキューで最も楽しい瞬間は当日だが、買い出しや準備もなにかと楽しいものである。しかしそういった事務作業を応分に引き受けるとしても、まさかここまでどっぷりと関わらなければならないとは。要は自分とおおよそ関係なさそうな作業×12の補佐というタスクを直ちに受容できる気力が、そのときの筆者には残されていなかった。またこの澱み切った空気の中に居続けなければならないという現実も、辛さを倍加させた。入学式にて春爛漫を迎えた心持ちは、本日2度目の寒風にあえなく吹き飛ばされた。その一言を言わないように事前に履修計画などを練っていたにもかかわらず、早速禁断の感情が芽生えてきてしまった。やめちゃおうかな。やってられないよ。だって大学院って研究を行う場所なのでしょ。それがこれじゃまるで学生のアンダーじゃないか。質問を受けるなどの態勢を取っていなければならないところ、筆者の心と視線は不気味に遊離していった。
この日、4年ゼミが終わったのは午後8時であった。5時限を過ぎ、6時限も超えたくらいの時間である。eスクールでの卒業研究の経験から、ゼミの時間が延びることは多少なりとも理解できた。きちんとやろうとすればするほど、時間は加速度的に足りなくなるものである。そのうえなにしろ、学生総勢12名である。おまけに助手の烏山先生はいかにも厳つい雰囲気を醸し出しており、彼の望む要求水準を突破できない者への殺意をまったく隠せていなかった。学生側も観念しているのか分からないが、先生2名に頑張りを求められてはもう頑張るしかない。そのときの筆者も、熱心な指導そのものに対しての不満はなかった。しかしながら、これだけ時間が押したことは大きな不安であった。なにしろ筆者はこれから、バスと電車と新幹線を合わせて3時間かけて自宅に帰るのである。この状況ではもはや、東京発の最終の新幹線にも果たして間に合うかどうか・・・
やめちゃおうかな。やってられないよ。物言わずとも、筆者の表情にはそんなような言葉が書いてあったに違いない。移動型のホワイトボードを片付ける手伝いをこなす最中、気がついたら上野先生に詰め寄っていた。ゼミって、ずっとこんなに時間が掛かるんですか。というかわたくし、来ないとダメですか。
上野先生は唐突なタイミングでの質問に少し面食らいながら「学生の指導は院生にとっても勉強になるので来てください。けど難しい事情があれば相談してください」と返してきた。上野先生としては内心、初日から何言い出すんだこいつという気持ちであっただろう。我ながら命知らずというか、なかなか乱暴な直訴である。ただそれくらい、筆者にはこの先の一年どころか一ヶ月も持たないのではないかという強い予感があった。なにしろ、週一日とはいえ早朝から深夜までである。しかも内容は、直接的には自分の話でもない。まあそのうち6時間は移動しているだけであるし、単位を落とす恐怖もないのではあるが。
帰りの電車内、やっと入手したコンビニのおにぎりを人目を憚らず頬張りながら、筆者は気持ちの整理に集中した。味はよく覚えていない。来週どうやって休むかのアリバイを考えるほどに冷え切った気持ちは、しかしどうやらおにぎりによって大きく緩和された。電車が池袋駅に着くまでに、学費を振り込んだ分(春学期)は通学を続行することに決めた。上野先生はああ言っていても、事実上学部ゼミにも参加しなければならないという現況を変えることは難しいだろう。しかしそうは言っても週に一日、しかも早朝到着マストではない。それに実際の業務について、主に藤枝さんが助太刀してくれそうな雰囲気である。総じて著しく悲観的になる必要もないのではないか、と思い至ることができた。
ちなみに上野先生らの名誉のために補足すると、TAはやむを得ない事情があれば辞退も可能である。加えて主に理系のゼミにおいて、教員を頂点としたヒエラルキーに基づく分業システムは標準的な運営構造とされている。構造の本質的な是非を論ずることは別次元として、現時点で特別におかしな態勢ではないようだ。要はこちらの覚悟が足らなかったということに尽きるのであるが、状況がeスクール時代のそれとあまりに違うこともこのショックを大きなものとしたと思う。
そして最終的になぜTAの続行を決めたかといえば、これはピンチかもしれないがチャンスであると結論づけられたからであった。筆者はeスクールにて卒論まで書き上げたものの、研究を押し進めるためにもっとできることはないのかとかねがね自問していた。そこへ「院生の立場として通学制の現場に参画できる」というポジションを示されれば、むしろこれは渡りに船と思うべきなのである。なにより、少なくとも現時点では船どころか護送船団が組織されている。おそらく藤枝さんも、絶対的使い物にならないM1が来ることを折り込んで重厚な資料を用意してくれたのだろう。そういった数々の配慮を、脊髄反射的に無にすることにも気が引けた。
2日後、大学院ゼミ
2日後の2015年4月9日、4年ゼミと同じゼミ室にて開講された大学院ゼミに筆者の姿はあった。院ゼミは学部ゼミに関する打ち合わせを経て、本来のプログラムである院生研究相談に移るという流れが標準であった。学部の話で院生本来のタスクが圧迫されるのは本末転倒にも思えるが、先生は時間の延長も気軽に応じてくれた。この先やっていけるだろうか?という不安は、学部ゼミと院ゼミの出席を果たすうちに棚上げされていった。大変とはいえ週2~3回(学部ゼミ+院ゼミ+専門科目)の往復に慣れ始めたことや、単に(学部ゼミの)TAポジションにやりがいを感じ始めたからであろう。あまりの忙しさというのが、結果として悪くない状況を生むこともある。そういえばeスクールの初年度も、そんな感じだった。
今後eスクール生から大学院生にメタモルフォーゼする方への助言を示すなら、くれぐれも学期開始時に被るであろうカルチャーショック(言うなれば「M1ギャップ」)において反射的・衝動的な行動は取らないで欲しいということである。どれほど強烈な難題を示されているように思えても、まずは取り組んでみて欲しい。これが中1・高1・大学1年といった多感な時期であると精神不安が致命的なことになるのでまた話が違ってくるが、大学院の門を叩く院生は99%以上の確率で大人である。個々の事情はあるにせよ、ショックが感受させた危機的状況はおそらくそこにはない。
とはいえ我慢によって心身に異常を来せば、あるいは自らの経験則によって制御不能な異常の予兆を感じたならば立ち止まる勇気も必要である。そうなれば、今度は教員側が真摯にプランを考え直すべきであろう。ただそういった事態が切迫するまでは、どうか教員が元々用意していたプラットフォームに乗ってみて欲しい。神は乗り越えられない試練を与えないらしいが、教員は乗り越えて欲しい試練しか与えないことになっている。大学院は研究の場所であり、同時に学生の可能性を広げる場所でもあるのだから。筆者の場合は幸いにもショックが心身の異常として表出することなく、どうやら順応局面までたどり着くことができた。返す返すも学部ゼミ運営に関する丁寧な資料を作ってくれた藤枝さんと、筆者を学部ゼミから遠ざけようとしなかった上野先生には感謝している。
立場も環境も通学時間も激変した中で、おそらく第一の危機を乗り越えた春の陽気であった。
(初出:2021/01/12)