いんせい!! #03 TA!!

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もう嫌だ、本当のところを訊こう。小ぶりな教室で向き合う二人の男女は、ひどく押し黙っていました。
 

#03 TA!! 

 
その教室は20人も入れば一杯になってしまいそうな、大学の講義を行うには頼りなさを感じるほどでした。インテリアも長手方向に3人がけの長机が2列5組ほど並ぶ他は、ホワイトボードと教卓があるだけの質素なものでした。五反田くん(仮名)と目黒さん(仮名)は、中央の通路を隔てた長机の2列目と3列目の椅子に向き合って座っていました。
 
結局、五反田くんはこれからどうしたいの。教室に入ってから終始無言を貫いている五反田くんに、目黒さんはやや厳しめの一言を投げかけます。五反田くんは一瞬うろたえたそぶりを見せながら、それでも口を開こうとはしませんでした。
 
五反田くんと目黒さんは、付き合い始めてから3ヶ月を過ぎようとしていました。五反田くんが軽く一目惚れしたものの次第に目黒さんも気を許していくという、大学生にありがちな始まり方でした。決して交友関係が華々しかった訳ではない二人は、当然のようにその関係を派手に言いふらすだの相互フォローで茶番を始めるだのお洒落なカフェのコーヒーカップを接写しつつお互いの何か一部分を見切れさせるだの「すがすがしい朝だー!」などというコメントと共に朝一でどこかのバルコニーから撮影したらしい遠景を投下するなどという愚行などは行わないまま深めていきました。一体何がすがすがしいのか、もうちょっと親御さんにも分かるように言ってみてほしいな。けれど2人の初めてのデートは若人らしく今流行のデートスポット・・・などではなく、としまえんでした。
 
そんな二人は火曜3時限のこの時間帯、この教室が空くことを知っていました。二人は共に登校する曜日の中で共に講義を取っていない時間帯を共有できる場所として、この教室を活用していました。頼りなさを感じる教室の容積も、二人にとってはちょうどよいスケールでした。
 
通常、教室の割り当ては大学の事務局だけが知っていることです。しかし学期が進むと、同じ時間帯で使われる教室と空いている教室が分かるようになります。原則、事務局に申請された目的や時間帯以外での教室の使用は誉められたものではありません。しかし実際のところ、それが無許可使用なのかはよほどの事情通でなければ分かりません。そのため誰もいない教室をこっそり利用するというケースは、そこかしこに存在していました。
 
五反田くんと目黒さんは、この日も火曜3時限のこの教室で落ち合いました。そもそもこのキャンパスは人目を気にせず一緒に居られる場所が意外なほど限られていましたので、他の場所を探そうにも結局二人は流れ着いてしまうのだろうと思われます。
 
いつしかこの逢瀬は、二人の密かな必修科目となりました。なんとなくブラインドを操作してみたり、けれど万が一見つかったときに「自習してました」と言えるような準備を整えてみたり。もちろん室内灯はバレるかもしれないのであまり点けず、ホワイトボードには触れもしません。むしろちょっと薄暗い方が、二人にとっては都合が良かったくらいなのですから。陰影が引き立った目黒さんの横顔をおもむろに撮り出す五反田くん、それを嫌がりながらまんざらでもない目黒さん。さらに二人しか分からないようなフレーズで変な笑いを取り合って、表情が崩れた瞬間こそベストショットとばかりに連写する五反田くん。もうね、五反田くんのスマホを煮えたぎる常夜鍋に放り込んでやりたいですよ。
 
きっとその頃の楽しかった記憶が、今も習慣として二人を教室に向かわせるのでしょう。しかし人間はお互いの長所と短所を知り尽くした頃に、現在から未来という時間軸の存在に目を向けるようになっていきます。まさに今二人の関係は、その軸を手を取り合って共有すべきなのかを思案する分水嶺に差し掛かっていました。この二週間の間に3度ほど言い争いをして、けれどそれは傍から見ると仲むつまじいだけのような程度のものでした。
 
彼らに共通の友人がいてこの様子を観察したのなら、勝手知ったる二人だからむやみに傷つけ合わないのだなと感心すらしたかもしれません。しかし彼らの中で、確実に何かが冷めていきました。本当のところ、二人は何も終わっていないどころか始まってもいなかったのです。
 
そもそも最初から、目黒さんは疑っていたのです。自分にそこまでの絶対的な魅力がないことはなんとなく分かっていたのだけれど、目黒さんなりに努力をしてきたつもりでした。けれどその努力が無駄になるかもしれないと思い始めたのは、いつも必ず合わせてくれていた帰りのバス時刻を合わせてくれなかった辺りだったと思っています。人間は一度本質への疑念を抱くと、納得できる答えにたどり着くまで目を逸らせない生き物です。特に何かにつけて学べ・調べろ・データを取れと言われている大学生が、慕いあっている相手の本意を読み取れなくなったとあっては気にするなと言う方が無理というものです。
 
一方で五反田くんはというと、迷っていました。しかし実際には目黒さんが悩むような心離れの予感を感じさせるつもりはなかったし、むしろこのままの調子でいけば今しばらくは安定した関係を築けるとすら思っていました。何かしらをはっきりさせるべきかそうでないか、そういうレベルから迷っていたのです。ですがそもそも「余計なことをしなければそのままの状況が続く」という考え自体が相手への配慮を欠くものであるということを、五反田くんは思い至っていなかったのでした。人と写真の中の人は、違う存在なのです。いずれにしても密やかに過ごしていた火曜3限のこの時間は、目黒さんの影を帯びた問いかけによって徐々に魅力を失い始めていました。
 
ねえ?
 
目黒さんは必要最小限度の二の句で、五反田くんを追い込みにかかりました。お互いが危ういバランスで冷静にお互いを眺めている時、たったの一言がその後の運命を決めてしまうことがあります。このシチュエーションで次に五反田くんから放たれる言葉が、その一言になり得るという予感を少なくとも目黒さんは感じていました。
 
なにより追い込みをかけたのは、早く知りたかったからです。はっきりしない一言なら、もう腹をくくるしかないのかもしれません。聞きたかった一言なら、素直に謝らないとね。けれど、五反田くんらしさが垣間見えるようなはっきりしない一言だったらどうしよう。いずれにせよ火曜3時限とて、無限ではないのです。早くその一言を引きずり出して、一秒でも考える時間が欲しかったのかもしれません。あるいは一秒でも長く、これまで通りの甘い気持ちでこの時間を過ごしたかったからというのも。
 
麗らかな初夏の陽射しが、ブラインド越しに二人を照らしていました。遠くの方では、運動部の威勢の良いかけ声が響いています。
 
うーん・・・とね、・・・
 
五反田くんが重い一言を絞り出したそのとき、突然教室の片開き扉が開きました。驚いて二人が扉のほうを見遣ると、挙動不審な中年男性が入るやいなやホワイトボードのトレイ付近をまさぐっています。今までにない形の闖入に、二人は物音すら立てることができません。
 
中年男性は「あった」と一言つぶやくと、ホワイトボードの端っこで試し書きを始めました。何かを確認したその者は「よし」とつぶやくと、勢いよく試し書きを消してそのマーカーを握りしめました。どうやらその者は別の教室からやってきて、この教室にあるホワイトボードマーカーを拝借あるいは交換しようとしているようです。そして向き直ったところでその者は二人の存在に初めて気付き、教卓の脚に向こう脛をぶつけるほど驚きました。
 
え・・・あ、この教室使ってたんですか?失礼しました・・・
 
中年男性は二人に対し、しどろもどろになりながら言いました。合わせて打ち付けた脛の痛みがかなりのものだったようで、答えを待たずにすごい勢いでさすり出しました。二人は引き続き黙っていましたが、どちらかというとしっかりしている目黒さんが声を絞り出しました。
 
いえ、違います。大丈夫です。出ますんで・・・
 
そうなんですか、そんな遠慮しなくても。中年男性は意味不明の返答で立ち上がろうとする二人を制しましたが、それ以上の言葉は出てきませんでした。その刹那はあたかも一足一刀の間合いで刃先が止まるかのごとく、密度の濃い無音でした。無理もないわけで、そもそも教室を無許可で使っていたのは二人の方なのです。けれどホワイトボードマーカーをインクの出るやつと交換しようとしている中年男性も、おそらく無許可なのです。無許可同士の邂逅など、そう簡単に決着がつくはずがないのです。
 
結局急いで出ようとした二人よりも前に、出口に近かった中年男性は教室から出ていきました。一呼吸の後に二人が教室を出たとき、すでにその姿はどこにもありませんでした。
 
そして二人は、そのままの流れで解散し別々の場所に向かいました。五反田くんは特に何も気に掛けていないような風で軽めの挨拶を交わしましたが、もう目黒さんの心は決まっていました。だってそもそもあの問いに言い澱むなんて、答えたようなものじゃないですか。
 

TAというお仕事

 
3年ゼミTAのお仕事の中身は、ゼミを円滑に運営するための様々なバックアップ活動です。それは事前の打ち合わせやリマインドメールの送信、プロジェクターの準備や課題のレジュメ作成など多岐にわたります。当然ながら火曜3・4時限のゼミ中でも気を抜くことは許されず、例えばホワイトボードのマジックがインク切れ起こした際はどうにかして代わりを調達しなければなりません。どうにかするんですよ、できるTAならね。
 
そしてTAの役割はバックアップだけでなく、ゼミ本体への参加も必須です。まあ少なくとも、学生の質問にはよどみなく対応できる態勢でなくてはなりません。この課題はeスクールで全然やっていないんだけどな・・・などと思いながら、立場としての役割を全うしようと善処してきました。結果として8割か9割方、藤枝さんがバッチリ解決してくれました。そうこうしている内に月日が流れ、11期10名の人となりについても熟知するようになっていきました。
 
11期は、明らかに3つのグループに分かれていました。
 
できる系男子 池袋くん 籠原くん 宮原くん
ふわふわ女子 上尾さん 早川さん 由比さん 北本さん
ポンコツ男子 田端くん 品川くん 白岡くん
 
できる系男子は、課題も雑務もそつなくこなす優秀な学生達です。ふわふわ女子はどこか浮き世離れしている雰囲気を持っていて、それでも物分かりは良さそうなのが救いです。問題はポンコツ男子で、特に試験なども行っていない段階で3名はそのポジションを確固たるものとしていました。課題の発表もどちらかというと笑わせに来るし、というか笑って終わりになるケースも多々ありました。それで良いのかという話ですが、けれど彼らがゼミの光源となっていました。こういう人材は1人居てもムードメーカーと言われそうなところ、3人も居るわけですから相当な熱量です。20人も入れば一杯になってしまいそうなゼミ会場の教室は、いつも楽しい時間になっていました。
 
これはひょっとして、案外良いチームなのかもしれない。自身は特に何か工夫をした訳ではないのですが、微かな手応えを感じ始めたM1の夏でした。
 
次回は上野ゼミ恒例の「夏合宿」について書いてみます。
 
え、前半の茶番は何だったのかとな。
 
そりゃもう、できるTAは何でもお見通しってことですよ。
 
 
 
 
(初出:2021/01/13)