いんせい!! #08 サバティカル!!

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たいへんたいへん、先生がニートになっちゃう。
 

#08 サバティカル!!

 
研究休暇、通称「サバティカル」。大学教員の世界では一般的に採用されている長期休暇形式で、W大では勤続10年ごとに「1年」のサバティカルを行使する権利を得るルールとなっている(2015年現在)。10年働いて1年休む・・・字面だけ読むと正直申し上げて相当な大盤振る舞いというか、一般的な職種に就いているご自宅のお父さんが急にそんな休みだしたらクビを疑うレベルの話であるが、そのこころは「研究を休暇する」ではなく「研究のために(教務を)休暇する」ことを意味している。サバティカル期間中は授業やゼミの担当を免除されるため、海外に遠征して研究を行う教員も少なくない。まあ大盤振る舞いである。
 
筆者がM1であった2015年、上野先生は勤続11年目に突入し、サバティカル行使の権利を取得していた。一旦サバティカルとなれば先述のようにゼミを含む一切の科目の担当を外れることになり、特にゼミは「主なき1年」を迎えることとなる。とはいえゼミや科目がサバティカルのために廃止・停止されることは少なく、だいたいはその年限定で別の教員が担当するという対応がなされているようだ。
 
このサバティカルに際して上野先生は一計を案じ、サバティカル突入のタイミングを「4月~3月」ではなく「10月~9月」、つまり秋学期~翌春学期と設定していた。仮に前者のような期間で取ってしまうと、この2年間に配属されるゼミ生の1年目または2年目(=卒業研究の年)の指導を代理教員に丸投げすることになってしまい、それは学生にも酷であるからという理由のようだ。ありがたいことである。しかしそのため、サバティカル=先生消失のタイミングは夏合宿終了時というとんでもないタイミングで訪れたのであった。
  

サバティカルが3年生に与える影響

 
この特別な年にぶち当たってしまった11期は、秋学期から別の先生にゼミを仕切られることとなった。上野先生の代理で登場したのは、上野先生出身の研究室の後輩である長泉先生(仮名)であった。決してどちらが良いとか悪いとかいう話ではないのだが、長泉先生は性格、品格、性別、分別すべてが上野先生と異なり、3年ゼミの雰囲気も大きく変わることが予期された。
 
秋学期開始1回目の3年ゼミ冒頭、教壇には上野先生の姿があった。この日に限って長泉先生が別の教務で遅れるということで、引き継ぎのために特別に出てきたのであった。つくづく学生思いの親身な先生である。上野先生からは秋学期・来春学期のゼミについて、基本的なプログラムは自分(上野先生)が考えていること、自分はしばらく海外に行ってくるということ、来年の秋学期には例年通りのゼミを開講することなどが説明された。何がどうなるのかよくわかっていなかった11期の面々は、とりあえず例年通りということへの安堵感と、でも例年のやり方を俺たち知らねえし・・・という若干の戸惑いを見せた表情を浮かべていた。
 
ほどなく長泉先生が到着し、長泉ゼミが始まった。海外に高飛びしたらしい上野先生を後目に、課題は順調に進んだ。ちなみに秋学期のメイン課題は「模型制作」で、確か「とこキャンに新たなショップを建てるとしたら」といった内容であった。なぜそのようなショップが必要か、どうしてその場所を選定したのかなど、考えることは多いが楽しい課題である。実際、毎週のゼミは和気藹々と進んだ。
 
課題の最終局面では、各自が想定した建設予定地にゼミ生全員で赴き、制作した模型を肴に色々とディスカッションするというピクニックを敢行することが決まった。それから半月ほど経った火曜の午後、とこキャンには学生、院生、長泉先生と上野先生の姿があった。あれ、帰ってきたのかな?と思いきや、まだ出立していなかったらしい。指導方が増えるのは一般的に良いことであるが、まさかの競演に「サバティカルとは」なる疑問が学生全員の脳裏をよぎったに違いない。
 

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ちなみにこの場面は、とこキャンを包み込む森の中にログハウス風のショップを建設するという宮原くんの案について、「敷地外なのだから0点ではないか」という田端くんの指摘を受けてその処遇を検討しているところである。審議の結果「たぶん他所の地所に引っかかってるけど、森は一体のものだからOK」という裁定が下り、この作品は運営方審査による課題コンペで見事2位を獲得した。田端くんは大いに不満そうであったが、自らが最下位ではないと聞かされてからは機嫌を直したようであった。
 
珍しい環境変化が起きた上野(長泉)ゼミであるが、「ポンコツ3」を自称するムードメーカー3名の活躍がゼミの雰囲気に共通性をもたらしたのは間違いない。彼らの功績を具体的に挙げると、「いかに一見して普通、かつ簡潔な一言で女子をキモがらせられるか」の話術を極限まで高めた田端くん、「他大の学祭イベントに出席するのでゼミ欠席します」とのメールを先生に送りつけて例年比2倍の雷を落とされた白岡くん、はたまた観察調査の発表にて撮影してきた動画の内容に関する質問を受けていた際、
 
質問者「(たくさんの人が右往左往している)この映像から、さきほど説明のあった考察をどうやって読み取ったのですか?」
品川くん「あれ俺の親父です!」
 
いや知らんがな。と場内の爆笑と混乱を誘発した品川くんなど、枚挙にいとまがない。その圧倒的な実力によって、彼らの将来は明るいであろうことを確信した。
  

サバティカルが4年生に与える影響

 
この特別な年に卒業年度がぶち当たってしまった10期も、秋学期から別の先生にゼミを仕切られることとなった。といってもこちらは元々春先から参加していた烏山先生が正式に代理教員の任に就いた形で、表向きは春学期と変わらない進行が期待された。3年ゼミと異なるのは、4年生には卒業(卒論)がかかっているというその致命的な一点である。
 
4年ゼミにはこのほかにも特殊な事情があった。それは学生数である。たまたまであったとのことだが、一つ上の代(9期)において4名の留学生が出て、その全員が半年~1年間の留学を終え、この年の4年ゼミ(10期)に合流していた。一方10期は定員下限ギリギリの8名(2015年当時。人材の均等分配を目的とした学部の規則により、1年で1つのゼミに新規に配属できる人数は「8~10名」と決まっていた)であったが、留学復帰組を合計すると12名となり、ここに過去最多人数の4年ゼミが実現する運びとなってしまったのだ。
 
いや過去最多とか知らんし。人数の多少なんてゼミ運営には関係ないはずでしょ。などと筆者は春学期中思っていたが、まず2つの学年(期)が混在する大所帯という事実は「陰鬱な空気」を説明するのに十分なものであった。どことなくみんなよそよそしいのである。決して仲が悪いということはないのだが、3年ゼミのような天真爛漫さ、もっと言えばムードメーカーになり得るキャラクターは存在していなかった。そのせいか、チームとして「4年ゼミ」を俯瞰したとき、まるでリーグ最下位の野球チームのような停滞感を隠しようがない状態となっていたのである。
 
そんな状況下での上野先生サバティカル突入である。最下位チームの監督が突如休養したら、一体誰が指揮を執るというのか。
 
もちろん上野先生もそれは心配していたようで、だからこそサバティカル突入前の春から代理教員を参加させる大きな決断を下したのだと想像できる。惜しむらくは2名の教員で卒論相談を手分けするわけではなく、学生1名の卒論相談を2名の教員と院生が担当するという1レジ方式を徹底してしまったため、卒論相談にめちゃくちゃ時間がかかっていた。秋以降への引き継ぎのためにその方策しかなかったのであるが、教員役が複数いることで相談時間が倍になっていたことは否定できない副作用であった。そりゃ初回ゼミから2時間押しにもなりますわな。
 
いずれも先生の親心、例年通りの丁寧な指導を尽くしたいというホスピタリティがそうさせたため、何一つ責められる謂われはないのであるが、能率面では明らかに課題の残った春学期であった。サバティカル本番を迎える秋学期においてどのようにこの課題と向き合うかが注目されたが、上野先生の判断は「たまに来る」であった。
 
こうなってくると代理教員の烏山先生も難しい舵取りを迫られることになる。完全に任されるならそれはそれである。完全にこれまでのツートップ態勢でいくならそれもそれである。その週で蓋を開けてみなければどうなるか(誰が卒論の方針について最終判断を下すか)わからないという状況は、卒論進捗を更に複雑なものとしてしまった。いわゆるデッドロックである。それでも烏山先生は健気に指導を続けていたが、ここに例年以上の定員(12名)という現実と、事実上の連合チーム(9期+10期)由来と思しき覇気のなさがのしかかっては、もはやどの立場の人間も為す術がない。
 
誰のせいでもないが、誰もが正解を探せないでいた。4年ゼミの闇は、秋の深まりと共に漆黒の度合いを増していった。
 

サバティカルが院生に与える影響

 
2つの学部ゼミから主がいなくなるということは、誠に当然ながら大学院ゼミからもいなくなる(しかしたまに来る)ということである。大学院生は学部生と比較して、研究の打ち合わせ(事実上のゼミ活動)日時の融通をつけやすい立場ではあるものの、やはりいち学生としてその影響を完全に排除することはできない。その事例として、筆者の履修計画を紹介する。
 
さて、まずは「いんせい!!」初回にて要点だけ説明した大学院修士課程の必須単位数について再掲しよう。
  
研究指導
修士論文
必修専門ゼミ(1)   最低4単位(A・B)
必修専門ゼミ(2)   最低4単位(A・B)
選択専門ゼミ(1)   選択★
選択専門ゼミ(2)   選択★
専門科目A群       最低2単位★
専門科目B群       最低2単位★
プロジェクト科目    最低1単位★
リテラシー科目(英語) 最低1単位★
リテラシー科目(基礎) 選択★
他箇所設置科目     選択
   ※★がついた科目群を合計して最低12単位
   ※全科目中オンデマンド科目は上限15単位(いずれも2015年時点)
  
大学院生はこのレギュレーションの枠内で30単位を積み上げなくてはならない。色々書いてあるが、今回はゼミについて説明することにする。「必修専門ゼミ」に記載してある(1)(2)やらA・Bという表記については筆者も面食らったが、単純には以下のようなカラクリである。
    
(1)・(2)→1コマ目、2コマ目
A・B→Aは前期開講、Bは後期開講

 

具体的に上野ゼミのゼミ開講パターンを持ち出すと
 
春学期木曜3時限 上野ゼミ(1)A 2単位
春学期木曜4時限 上野ゼミ(2)A 2単位
秋学期木曜3時限 上野ゼミ(1)B 2単位
秋学期木曜4時限 上野ゼミ(2)B 2単位
 
つまり通年で4コマ分開講されるゼミに、半ば強引に授業コマを割り当てた結果がこの表記を生み出している。このようなややこしめなシステムが取り入れられてた理由は、履修プランに柔軟性を持たせるためのようである。つまりこの4コマを1年間で一気に履修するも良し、はたまた2年間で2コマずつ(1年:春学期1コマ・秋学期1コマ。2年も同様)履修するも良しというわけである。とはいえややこしいので、一つのゼミで年間8単位まで取得できると単純に考えてほぼ間違いはない。
 
一方大学院では指導教員以外のゼミも履修が可能である(選択専門ゼミ)。1年1ゼミ8単位の原則でいえば、2ゼミ履修で16単位を取得することも可能である。ただし履修に際して、2つのゼミに時間を割くという大きな制約が伴うことと、関係する教員の許可(制度上は事前許可を求める必要はないが予告せず履修登録すると教員が驚いてその後ギクシャクするので、道義的に事前連絡のうえで許可を求めた方がよい)が必要となるので、鋭意注意されたい。
 
そしてゼミに関してはもう一つ大事な制度がある。上記「必修専門ゼミ」を1年間で履修しきった場合、「選択専門ゼミ」として2年目に同じゼミの科目を履修することが可能な場合がある。上野ゼミであれば
 
春学期木曜3時限目開講 上野ゼミ(1)C 2単位
春学期木曜4時限目開講 上野ゼミ(2)C 2単位
秋学期木曜3時限目開講 上野ゼミ(1)D 2単位
秋学期木曜4時限目開講 上野ゼミ(2)D 2単位
 
という隠しコマンド的科目が出現するのである。「重複履修」と呼ばれるこの制度は、大学院要項にも記載されている正統なもので、実直にゼミに通う院生ほど恩恵にあやかれるものといえる。選択専門ゼミがタスク量的に非現実的であるとしても、所属するゼミへの出席を2年間続ければ単位が16も来るとなればかなり美味しい話である。
 
察しの良い方ならここで気がつくかもしれないが、重複履修を開講できるのは担当教員が担当する場合にのみ限られていた。つまり上野先生のサバティカルによって、筆者(の代)は重複履修制度を使えない状況となっていたのだ。もちろん学部生を含め、上野先生はゼミ面談あるいは院生進学相談の段階でサバティカルの予定を学生に告げていたが、一連の事態を筆者含む学生が想像できるはずもなく、この年を迎えていた。
 
これは履修計画にとっては大きな痛手であった。30単位中16単位がゼミで充足されれば、残り14単位は(必修の英語1単位を除いて)eスクールの経験を生かせるオンデマンド科目の履修で事足りるのである。しかしゼミで8単位しか充たせないとなると、残りは22単位。オンデマンド科目の履修は15単位が上限であるため、通学を伴う科目の履修が少なくとも7単位ほど必要なのである。ひょっとして、大変な時期に進学してしまったのではないか。しかし後悔先に立たず、もはやコントロールできない話である。実際のところ、既に学部ゼミTAで相当にとこキャン通学していた身であったが、愚直に通学して単位を取りに行こう、7つくらいならなんとかなるでしょ、と気持ちを入れ替えるしかなかった。
 
なお、院ゼミもサバティカル中は代理教員をあてがわれた上で開講されることになっていたが、その担当はeスクール時代の教育コーチ(蓮田先生(仮名))であった。全く面識のない先生であれば信頼関係の構築から始まるが、よく知る先生であったことは緊張緩和に大きく貢献した。総じては上野先生なりに学生・院生へ可能な限り配慮したことが伺われ、履修計画の難化というまさかの現実があってもしっかり向き合うことができたように思う。
 
加えて「たまに来る」の予告通り、大学院ゼミには学部ゼミ以上に顔を出してくれたのもありがたかった。一体いつになったら外国に行くのだろうと少し心配になったが、居る内は使い倒す(相談しまくる)と心を決め、来たるべき修士論文への各種調査を驚異的な密度で進行させることができた。予期せぬハードモードの到来に狼狽するのは誰しも無理はないが、そこからいかに気持ちを入れ替えられるかもまた、大切な能力ではないだろうか。
  

サバティカルという錆落とし

  
十年一昔と言うように、すぐれたシステムも10年を経過すれば陳腐化し、形骸化したルールが生産性を落とすという事例はすべての勤労者に心当たりのあるものであろう。10年に一度訪れるサバティカルは、いかに自らを構成している信念や理念が古くなっているかを気づかせてくれる唯一無二の機会であり、新規性を至上命題とする研究者が揃う大学教員の世界でその制度がしっかりと根付いているのも頷ける。サバティカルなる言葉の響きが何かの輝きをまき散らしているのだとすれば、それは大盤振る舞いによる金粉ではなく、歴戦の戦いによって生じた錆なのである。さすがに1年となると長いが、日本でも多くの会社、業種において、心身の錆を落とせるような機会が恒常的にもたらされることを願って止まない。
 
ただし、引き継ぎは計画的に。
 
 
 
(初出:2021/01/18)