いんせい!! #10 また合宿!!

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とある冬の火曜日。北野駅を降りてしばらく行くと、太古の文明が遺していった四角錐型宇宙船をコンバージョンした建物が見えてくる。
 

#10 また合宿!!

 
この世の理には光と影があり、希望と絶望があり、夏合宿と冬合宿があるものである。楽しい系のイベントは夏にすべて盛り込んでしまった上野ゼミであるから、冬に行うことはきっとあんまり楽しくない系なのかな、と想像が付くところである。誠に名推理、上野ゼミの冬合宿はここ、大学セミナーハウスにて行われることとなっている。
 
大学セミナーハウス(Inter-University Seminar House)。W大を含む主に関東の大学が大学紛争たけなわの時代に作り上げた、みっちりとゼミ(Seminar)を行うための合宿施設である。現在でも上野ゼミのような単一のゼミはもとより、「Inter-University」の名前の通り、大学をまたいでの合同ゼミや大学以外のあらゆるセミナーに利用されている。まあ要は一般的な合宿施設であるのだが、セミナーハウス設立時から維持に貢献してきた大学や企業は割安価格で利用できるため、在京の多くの大学にとって「合宿を打つ」となれば常時候補に挙がる施設と言えるだろう。
 
その大きな特徴は、なんと言っても異彩を放つ建造物群と、一度入ったら(八王子なのに)簡単には下界に降りられないという好立地にある。セミナーハウス最寄りの鉄道駅は京王線・北野駅あるいは京王相模原線・南大沢駅であるが、そこから路線バスを駆使し、「野猿峠」バス停から徒歩5分を要する。名前からバレてしまったが、要は峠である。付近は宅地こそあるが峠は峠である。とこキャン通いによって森のある環境には慣れているであろう学生達も、森の質がきっと違うのであろう、異質な雰囲気を感じ取っていた。
 

冬合宿:論文を詰めるラストチャンス

 
話を上野ゼミ視点に戻すと、冬合宿は正式には「論文合宿」と銘打たれ、その名の通り論文書きに追い込まれる合宿である。4年生は目の前に迫った卒論の提出期限に向けたラストスパート、3年生はゼミ内の課題として位置づけられていた「ゼミ論文(卒論のお試し版)」のラストスパート、そして院生と教員はその補佐をつきっきりで行う。娯楽は一切ない。帰宅は許されない。明くる朝無事に帰りたければ論文の目処を立てるしかない。実際問題、学生にとって論文合宿は教員からのまとまった指導を受けられるラストチャンスでもあるため、誰もが腹を括って野猿峠に降り立っていた。今回は筆者にとって特に印象に残った、というか忘れもしないM1時代、10期(4年生)+11期(3年生)による論文合宿のタイムラインを書き起こすことにする。
 
論文合宿の基本スケジュールは論文作業→発表と指摘→修正作業→発表と指摘→修正作業・・・という無慈悲な無間地獄で構成されている。提出期限の切迫度合いや重要度合いを鑑みて、基本的には4年生(卒論)への対応に指導時間の多くが費やされる。発表を含めた作業は学生の宿泊部屋ではなく、セミナー室と名付けられた広めの部屋に全員が詰め込まれて行われる。よって学生は作業が終わらなければ自室に戻る機会も少ない。筆者は発表における運営補助に加え、執筆作業に耽る学生との相談、着替えなどで自室に戻りキー閉じ込みをやらかした学生のためのフロントへの事務対応などにあたることとなった。
 
さて、そういえばここに至るまで、大学での「発表」についてあまり詳しく描写していなかったので書き起こすことにする。といっても何のことはない、学生は論文内容について規定時間内にプレゼンテーションを行い、やはり規定時間内に指導方(教員や院生)による質疑に学生が応答するというだけである。特に質疑応答の時間は発表会の状況によって大きく異なるもので、通例、論文合宿などの本番を想定した発表会では多めに割り当てられる。正直その時間が長くなるほど学生にとっては生きた心地がしない状況も長引いてしまうのだが、このやりとりの総量が論文の質の向上に大きな影響を与える以上、誰もが涙をこらえて堪え忍ぶのであった。具体的に10期12名は、1人あたり発表(6分)+質疑(8分)の、合計14分の試練(という体の改善チャンス)の時間が与えられることとなっていた。
 
続いて、発表の充実において重要な存在となる、指導方(聴講者)の陣容について説明しておこう。今回は代理教員である烏山先生と長泉先生に加え、藤枝さん、そして上野先生と上野先生が連れてきた助手の山北先生(仮名)とゼミには不定期参加の博士課程の院生(今市さん(仮名))の合計6名が参加することとなった。きちんとその意味を伝えられるかどうか自信がないが、この指導方の人数は、一つのゼミのみの論文合宿としては異例の超攻撃的布陣である。指導方が少人数であればあるほど、時として重要な指摘の見落としやスルーがどうしても生じてしまうものであるが、頭数が多いほどその陥穽を直ちに埋められる可能性が高まるという意味ではメリットがある。てか上野先生まだいる、いえ来てくださるんですね、とはもはや誰も心の中で突っ込むことはなくなっていた。対して発表側の4年生12名のうち、明らかに進捗が危険水位に達している学生が、どう優しく見ても7名は存在しているという状況であった。
 
絶対に問題点を見つけ出す指導方6名vs絶対的に目が開いていない論文を引っ提げた学生7名。もう、これは合戦である。
 

詰められる4年生、また詰められる4年生

 
戦いは序盤から指導方の一方的な展開であった。発表中から不規則に撃ち込まれる質疑攻撃に、4年生の力ない応戦はまるで効果的ではなかった。言い淀んでいると更に高高度からの本質をえぐる攻撃がぶち込まれ、最後の方はもはや開戦前に存在した目標対象物はなにひとつ原型を留めず、手持ちぶさたの指導方は瓦礫と化した状況に対しても腹の虫が収まらないとばかりに更に攻撃を加える有様であった。
 
生臭い比喩を自重して総括すると、確かに発表の質は卒論直前にしては低かったかもしれないし、発表者のくせに内容を熟知していないなと疑わざるを得ないようなものもちらほらあった。しかし先生的立場の人間が、全力かつ6人がかり、時間超過上等で雨あられの如く指摘すれば生(な)るものも生らない。つまりは当初想定していた物量や時間について、指導方は明らかに多すぎたし、質疑の時間はあまりに少なかった。撃ち方止めの状況が指導方に共有され始めたのは、セミナーハウスが用意する夕食の時間が迫り、先生方の腹の虫が疼き出したからであった。
 
クリスマス休戦のような夕食と風呂休憩後、一同は重い足取りでセミナー室に再集合し、第二次4年生殲滅戦が始まった。一応3年ゼミTAである筆者は、当初は惨状を見せつけられ震え上がる3年生と共に震え上がっているだけでよかったが、4年ゼミTAの院生が夕食前に帰宅してしまったことでいよいよ火の粉を浴びなくてはならなくなった。第一次合戦で粉砕された筋立てを突貫工事で組み上げた4年生であったが、さすがに数時間で劇的に改善できるような状況の学生は少なく、案の定ふたたびの全力爆破粉砕不可避事例が続出した。確かに4年生側にも、発表に12分もかけたことを指摘され、反省した結果「2倍の速さで喋る」という解決策で乗り切ろうとしてあえなく失敗するなど問題はあったかもしれない。ただこの状況、大の大人が寄ってたかって相変わらず時間を大幅に超過しながら厳しく指弾し続けるという状況は、ちょっと常軌を逸していた。
 
タイムキープちゃんとやれよ!と怒鳴ったのは山北先生だった。まさゆめさんはこれでいいと思ってるんですか?と詰め寄ってきたのは烏山先生だった。代理タイムキーパーとして滅私奉公していた筆者もこれでさすがに我慢の限界に達した。は?なんで俺まで指摘されてんの。そもそも3鈴(時間オーバーを告げる音)鳴ってからも延々と喋ってんのは指導方じゃないか。だいたい「これでいい」のこれって何?知らねえよ。正直に言えば全然良くねえよ。でももし「はーいみなさん時間は守りましょうねー。それと言葉遣いは丁寧に。基本的な敬意を誰に対しても持ちましょうね~」って言ったところで守られるのかよ!第一なんで4年ゼミTAがいつの間にか帰宅してんだよ。せっかくの「一度足を踏み入れたら最後、簡単には帰れない」っていう設定を壊してんじゃねえよ!!八王子なんだから!!!家庭の事情?ならしょうがないけどさ・・・
 
・・・と実際に言い返すことはなく、しかしこの類焼ハプニングによって筆者は心密かに合宿の離脱を決意したのだった。
 
第二次4年生掃討作戦が中座し、その隙を見て現場を離脱した筆者が本気で荷物をまとめはじめたところで、声を掛けてくれたのは藤枝さんだった。この合宿において博士課程以上の参加者は1人部屋が確保されていた(筆者はM1なので他学生と一緒の部屋)が、もし必要なら僕の部屋を使ってください、とのことであった。曰く、このような状況なのでおそらくつきっきりで学生に論文指導することになるから、夏合宿でも寝付きが悪かったまさゆめさんは寝られるときに寝てくださいという。いや、もう帰ろうと思うんだけど、と言い出すことは遂にできなかった。さきほど示した思いはおくびにも出さなかったと自負していたし、たまたまの配慮だったのかもしれないが、これが筆者を翌日まで八王子に留まらせる決定打となった。筆者は表向き顔色を変えず、戦場に戻った。院生の立場をなげうちかねない第二の危機はこうして乗り越えた。
 

詰め詰めで始まる3年ゼミ

 
深夜0時過ぎ、4年生に発表可能な人材がいなくなったことで、先生方がついに3年生(11期)の存在を思い出した。当の3年生たちはというと、一連の地獄絵図を脇目に、できる系男子中心にゼミ論文の作業を始めていた。後にも先にも、日付を超えて開始されたゼミはこのときだけではないかと思うし、二度と起こってはいけない珍事である。幸いにも発表が設定されることはなく、長泉先生よりゼミ論文の書き方やレギュレーションが共有され、3年ゼミは驚くほど平和裡に終了した。3年ゼミTAであった筆者も、一応これにてお役御免となったようだった。時計は2時か3時を指していた。
 

詰め切れなかった4年生は

 
翌朝、藤枝さんの配慮もあってなんとか睡眠を確保できた筆者は、もう第何次か分からない4年生発表を穏やかな気持ちで眺めていた。誰が居なかったかは記憶にないが、朝には指導方がかなり減っており、さすがに根底から覆すような指摘が出てくることはなくなっていた。そこで巻き起こっていたのは、第三次世界大戦はわからないが第四次世界大戦は石と棍棒で行われるだろう、という主旨のアインシュタインの警句が脳裏をよぎるほどにごく小規模な小競り合いであった。それでも発表の質が一定水準に達していないと判断された4年生数名は、泣きの継続審議として、来週のゼミにおいて優先的に相談時間が割かれることとなった。よかった。さすがに、もう一泊しようという話にはならなかった。一方ただの合宿見学者と化した3年生は、結局翌朝も大きな課題を設定されることもなく、静かに下山時刻を迎えた。果たして3年生はこの論文合宿に必要だったのだろうか。湧き上がる疑問に、筆者も答えを出すことはできなかった。
 
論文合宿。繰り返しとなるが、学生にとっては卒論を仕上げるための試練であり、最大の好機ともいえる。ただもう一つ補足すると、ここまで一大殲滅作戦が繰り広げられた合宿はこの時限りであり、以後は当期の反省もあって理性的なプログラム編成となった。剣道の係り稽古のように、時には厳しい稽古に相当するような試練も、たまになら許容できるかもしれない。しかしそれも度を過ぎた狂騒状態になってしまえば、できるものもできないし、そもそも心が持たない。
 
でも、じゃあ、どんな状況があれば「良い」と言えるのだろう。どんな状況なら、できていると思っているけれど、実は全然できあがっていないものを「できてないじゃないか」と適切に示せるのだろう。そもそも、適切って何だろう。指導って何だろう。冬晴れの八王子の空の下、筆者の中にも重い課題が残されたのだった。
 
 
 
(初出:2021/01/20)