いんせい!! #17 先生!!

f:id:yumehebo:20210108154142j:plain

ハッピーバースデー!のかけ声と共に炸裂するクラッカーと拍手。ケーキ片手に満面の笑みな上野先生。6月上旬の上野先生の誕生日に合わせて、毎年の4年生が趣向を凝らしたお祝いを催すのでした。

 

#17 先生!!

 
学業にせよサークルにせよ、学生の毎日は変化の連続です。否応なしに新しい決断を迫られていては、疲れても老け込む余地はありません。春を迎えて夏を過ぎても、前の年の秋がどうだったのかという経験なんてあまり鵜呑みにできません。しかしそれも3ループ目くらいになると、だいたい読めるようになってくるのもまた人間の習性です。
 
筆者にとってD1の春は、初めて来る場所よりもいつか来た道と感じる刹那がはるかに多く感じられた初めての年でした。だいたい梅雨空が予感されるあたりで、学生は先生の誕生日に何を催すか考え始めます。3年ゼミの行動観察課題では、積極的に取り組む人とそうでもない人がくっきりと分かれることがほとんどです。先生も先生でだいたい春先に「新しいことやろう」と突然思い立ちますし、夏前にはその意気込みなどなかったかのように例年通りの方針を踏襲したがります。
 
喜怒哀楽も春花秋月も、何もかもが乾いていました。毎年入れ替わる学部3年生との年の差は、筆者の加齢も伴って飛び石的に開いていきます。幸いにも後進の院生(M1籠原くん、M2大森くん)も育ち、運営仕事もゼミでの居場所もあるようでないようになりました。残されたのは博士論文完成までの果てのないタスクと、不定期にもたらされた学部生への相談機会だけでした。
 
こうした境遇に追いやられたのは、筆者がその先を特に見据えていないことが大きかったと思います。博士課程にまで進学した学生は、そのほとんどが教職あるいは研究職の獲得を目指しています。特に教職を目指すとなれば、大学の様々な業務を任されることもあるわけです。例えば共同研究チームの今市さんは企業の研究部門へ就職を果たし、藤枝さんは学籍を持ちながら武蔵小杉研究室の助手に任命されていました。
 
しかし筆者は、なにしろ社会人学生であるためその先のビジョンを持つことは難しい状況でした。転職まで想定すれば話は変わるかもしれませんが、ポスドクの就活もまた厳しい情勢であることはさすがに把握していました。しかも今の仕事は、院生としての知識と経験を生かせる可能性があるとすら踏んでいました。みんながんばってね、わたくしはやりたいことやったら終わりだからさ。ある意味では余裕が過ぎて鼻につくところですが、それによって院生としての潤いがここまでなくなることはさすがに想像できませんでした。
 
とはいえその当時も今も、自分が間違った進路を取っているとは考えていませんでした。同じような景色が繰り返されているにせよ、全く何も起きていないということでもなかったからです。後輩の院生たちは丁重に接してくれましたし、ちょっと面倒だなという仕事は率先して片付けてくれました。特に11期で薄めの印象だった籠原くんは、生ゴミ処理機のごとくどんな形のタスクも飲み込んで片付けてくれました。現状への乾きを感じていながら、現状を大きく変える決断もまた選択肢たり得ないのでした。
 
「博士課程は長いマラソンだからね」
 
思わせぶりにこう教えてくれたのは、絶賛サバティカル中の藤沢先生でした。その意味が当初はよく分からず、まあ休み休み行けばいいんでしょくらいの捉え方でした。しかし月を追うごとに、マラソンとしか言いようのない状況に置かれ続けていることに気付き始めました。そこに環境情報を補足するならば、周りは砂漠でした。地底探検に準えるならば、もう無線も通じないほどの深い暗闇です。
 
「もうちょっとちゃんとゼミに来てくださいよ」
 
霞のような実体のない悩みに取り囲まれていたとき、珍しくこう諫めてきたのは上野先生でした。もう単位も何も関係ないので、いつの間にか学部ゼミに顔を出さない日が増えていたように思います。上野先生的には、遠いのは分かるけどもうちょっと顔を出して欲しいとのことでした。実際のところ、修士課程の2年間で身体もかなり疲労が蓄積しており、その影響も多分にあったのだと思いますが、ゼミ長にそう言われてしまっては立つ瀬がありません。気を取り直して、もうちょっとできることを考えてみましょうか。
 
博士課程の院生という立場を俯瞰しますと、ある意味では学内最強の立場といえます。よそのゼミに顔を出せばやたら歓待されますし、行く先々の先生方も少なからず興味を持ってくれます。ほとんど活用機会はなかったのですが、図書館の入館時間も特別に優遇されていました。当然ながら大学は学ぶところですので、学びや研究目的という理由がつけば本当に色々とできるのです。
 
そんな博士課程というレアステータスで最もありがたみを感じたのは、あらゆる先生とのコンタクトが劇的に容易であるという点でした。
 
突然また過去語りになってしまって申し訳なく思いますが、筆者にとって先生という存在は仇敵でした。小4の担任の先生は児童に対して人権蹂躙としかいいようのない罵倒を毎日続けるような問題教師でしたし、中学時代の数学教師はあらゆる暴力的手法で因数分解を解かせようとしてきました。
 
もちろんお世話になった先生方の中には、その立場に託された責務をしっかりと果たされた方も多くいたことでしょう。しかしその中の一部にでも賛否両論以前な問題教師が混ざると、先生に関するあらゆる思い出を「もはや呼び起こすに相応しくないもの」として反射的に遠ざけるようになってしまいます。百歩譲って熱血漢な体育教師ならまだしも、数学の誤答でケツバットとか間違えた者同士でキス強要とかどう考えてもおかしい。当時は笑うしかなかったけれど、笑うしかなかったのも申し訳ない。
 
かのように歪んだ認識でいっぱいの筆者にとって、先生という存在は非常に厄介なものでした。それがeスクールという(殴られないという意味で)絶対安全な状況や修士課程というちょっとだけアッパーな立場を経て、今やっと先生という立場の人を正面からリスペクトできる状況になったのでした。
 
上野先生「このイベントのあとに先生方との飲み会ありますが、どうします?」
 
そして全く飲めないくせに、この種のお誘いは密かにとても楽しみなものでした。
 
 

名物先生列伝(1)西千葉大学(仮名)のヒグマ、用宗先生(仮名)

 
「こんな論文通せるか!って言ってやったんですよ!」
 
いた。クマさんいた。これまで何人も紹介してきたクマさん一味の中でも、最強レベルのヒグマ先生を見つけたのはとある学外でのワークショップ後の打ち上げでした。
 
酒の席というのはネタが飛び交う部分も多分にあり、それもまた楽しさのひとつです。上司ぶん殴ってやったんですよ!と息巻いていても、本当はそこまでやっていないと分かっていながらみんな聞いているのです。しかしここまでお知らせしてきたクマさん一味は、本割でも酒席でもガチでした。昔の剣豪に準えますと、育ってきた弟子といきなり真剣勝負して斬っちゃうタイプです。
 
まあ論文通す通さないの話は正直よく分からなかったのですが、相槌を打っていたのが武蔵小杉先生でしたのでたぶんガチでしょう。この人達が通さないって言ったらたぶん本当に通さないんです。西千葉大学所属のヒグマ先生こと用宗先生は、武蔵小杉先生と同門の先輩にあたるとても偉い先生です。ヒグマ呼ばわりしていたとバレたら、筆者は今後1本も論文を通してもらえなくなるかもしれません。
 
へー、まさゆめさんのお仕事は僕も興味あります。ありがたいことに、用宗先生は筆者のことを割と早い段階で覚えてくれました。本当なら研究内容で覚えさせなければいけないのですが、この際きっかけは何でもよいのです。筆者が自らの研究のことを説明すれば、曰く「辻堂くんも、立派になったよねえ」。あのグリズリー辻堂先生をして、この言いようです。国内外に散っているらしいクマ一味の中で、どうやらこの用宗先生が一番年上かつ豪傑だということも分かってきました。どうやら若き日の辻堂先生も、用宗先生にはひたすら切り刻まれてきたようです。
 
さすがに年齢を聞くことはできませんでしたが、壮年の武蔵小杉先生より年上とあれば結構な妙齢です。しかし闘争本能は全く衰えていないようで、その打ち上げで同席していた若い先生を捕まえてはこう言い放つのでした。
 
「そうだなー、討論仕掛けちゃおっかなー」
 
 

名物先生列伝(2)茗荷谷大学(仮名)の子グマ、新川崎先生(仮名)

 
「えええー止めてくださいよほんとー」
 
ちなみに「討論(を仕掛ける)」というのは、発表された論文に送りつける公開質問状のようなもので、日本建築学会の場合、投稿論文の月刊誌の巻末に質問・回答が一挙掲載されるシステムとなっていました。早い話が血祭りにあげてやるから表出ろ宣言で、発表者はなんだてめえ調子乗んなコラと全力で迎え撃たなければいけません。討論の内容が論文掲載の可否に影響を与えることはないようですが、著者にとって余計な仕事がひとつ増えることは確かでしょう。今回、酒席でそう宣言されたのは新川崎先生でした。
 
新川崎先生はクマさんファミリーの期待の若手で、すでに茗荷谷大学での常勤職を得ている俊英です。実はこのときのイベントでは、発表者の一人として堂々とその役割をこなしていました。ちなみにイベントの司会者は辻堂先生で、筆者は強引に質問をひねり出させられては嫌な汗をかいていました。
 
また新川崎先生が専門とされる研究テーマは、筆者のテーマと相当に近似していました。近似しているといっても何から何まで全く同じということではなく、フィールドが同じというだけです。同じテーマを探究された先人として、気をつけるべき点はないかなどを訊かせてもらいました。ちなみに茗荷谷大学は、狂気のテディベア長泉先生の本拠地でもあります。歴戦のクマさんたちの薫陶を得た新川崎先生も、ほどなく一人前の大クマに進化されることでしょう。
 
その後も宴は終始大盛り上がりで、やっぱり浴びるのは血じゃなくて酒なんだななどと思いながらあっという間に夜は更けていきました。
 
「えええー私はどの電車に乗ればいいのかしら」
 
打ち上げが終わり、それぞれの家へと向かう電車にそれぞれが散る中、新川崎先生は通勤経路にもかかわらず5歳児レベルの発言を残して帰っていきました。どんな鬼才でも酒の前ではファミコン以下の知能になるって、何だかホッとしますよね。
 
なお討論ですが、少なくとも誌面上では行われませんでした。二人ともそのことを忘れてしまったのでしょう。めでたしめでたし。
 
 

名物先生列伝(3)日立大学(仮名)のグリズリー、辻堂先生

 
というわけで、共同研究者でもある辻堂先生もよく打ち上げでご一緒しました。論文のどんな小キズも見逃さない彼ですが、普通の場では普通の人でした。
 
複数の席において本人が打ち明けた限りで総合しますと、そのキャリアは波乱の連続でした。この国におけるアカポス(アカデミックポスト。任期のない教職または研究職)の競争の過酷さはよく知られていることですが、実際の競争は院生時代から始まっているといえます。
 
なにしろ当人がそれを望んでいないゆえ具体的な内容は伏せますが、院生時代は理不尽な事態の数々に悩まされていたようです。結局は研究職への就職を果たすも、教職への強い思いを捨てきれなかったとのことで、筆者が出会った年から2年後、待望の大学教員の座を射止めることになりました。
 
言うは易し聞くのも易しなのですが、このキャリアを歩むこと自体が並大抵ではありません。同時にこれだけ教職へ強い想いを抱いてきた秀才が、直線的に希望のポジションへとたどり着けなかったという現実は、世間は厳しい、の一言で果たして済ませるべきことなのでしょうか。
 
その生い立ちをうかがって初めて、辻堂先生が獰猛なクマさんである理由も推し量ることができるようになりました。シンプルな話です。クマさんにならなければ生き残れなかったのです。そしてこれからも、なにくそと研ぎまくった強烈な爪で己の道をこじ開けるしかないのです。
 
辻堂先生は間違いなく世界に通用する逸材です。その先のことは筆者にはよくわからないですが。その大きめな声と威勢で、どんな形でも道を切り開いていくことでしょう。
 
「そういえばこの前スペインで、空港の係員に軽くクレームつけたらいきなり警備員に拘束されましてね。危なかったですよーびっくりしました」
 
うん、そこは無理に切り開かなくて本当に良かったと思います。
 
 

建築の多義性とクマさん一味がクマな理由

 
さてこのコラムでは延々とクマクマ言われ続けているクマさん一味ですが、そろそろちゃんと種明かしをした方がよさそうです。ただしそれにはまず、建築なる研究領域の多義性について説明しなければなりません。
 
サバティカルでドイツに高飛びした藤沢先生によると、「建築学会」に相当する学会はドイツに見当たらないとのことでした。あくまでメジャーなコミュニティーとして存在しないだけの可能性もありますが、ここまで複数の領域を包含する学会は存在しないという意味です。
 
この事例が示すように、建築というのは学術的には相当な多義性を持つキーワードであることが分かります。家を建てるためにどんな材料や設計が良いかを考えるのも建築ですし、家を建てる都市はどんな環境や都市計画が相応しいか考えるのも建築です。現在の建築学会では「構造系」「計画系」「環境系」の3分野があり、それぞれで論文集を発行しています。ちなみに建築学会の論文集は別名「黄表紙(表紙が黄色いから)」とも呼ばれており、3分野の論文集の表紙は微妙に色味の異なる黄色となっています。
 
そんな区分けがあるという認識を全く持たない状況から、筆者が立ち入ってしまった分野は「計画系」「環境系」でした。むしろ事前に分かっていたら、早くから「こっち!」と見切っていたかもしれません。一方これ以降、「構造系」については言及しないこととします。
 
次に筆者の周辺にいらっしゃる先生方が、どちらかというとどちら側の人間かについて紹介します。
 
どちらかというと計画系
上野先生、藤沢先生、烏山先生、赤羽先生
どちらかというと環境系
武蔵小杉先生、辻堂先生、用宗先生、長泉先生、新川崎先生

 

やっとこれでクマさんの素性が明らかになってきたというか、モロ出ししてしまいました。このコラムの中でのクマさん一味とは、「どちらかというと環境系」な先生方です。
 
はてさてそうなると、両者を隔てるものは何かについて説明しなければなりません。結論から言いますと、人材間の垣根はありません。どちらかというと環境系の先生方も、計画系の論文を投稿する(あるいはその逆という)ことはあります。あくまでホームグラウンドはどちらか、程度のものです。一方で定義の上では「都市計画やデザイン→計画系」「都市環境や生活環境→環境系」といった区別が可能ですが、より雑に示すなら計画系:実地・実学環境系:実験・科学と示すとよりイメージできるかもしれません。
 
両者のうち包容力が高い分野は、どちらかというと計画系です。画期的から総括的なものまで、多様な研究論文が毎月投稿されています。その統一的な規範は、筆者が感じた限りでは「より新しいか」です。その見地は新しいか、その計画は新しい(結果を生み出すもの)か、そのレビューは(これまでにない切り口という意味で)新しいか、といった実学的な見地です。
 
一方で、環境系の統一規範は「より正しいか」です。その実験の手続きは正しいか、そのコレポンの解釈は本当に正しいか。理系の領域からすれば至極当然なスタンスと思われますが、より科学的な見地です。もちろん計画系の研究でも正しさ、環境系でも新しさは当然のように望まれますが、研究を立脚させる大前提の部分にどちらの信義を優先させているかとなれば、このような言い方をするしかないかなと。
 
それゆえ計画系の論文を読解する基本姿勢は「新しい部分は何か」となる一方、環境系は「正しくない部分はないか」となりやすくなるのです。ちなみに性格判断をするなら、この章の説明を「おおっ!」と思われた方は計画系の、「本当に?」と思ってしまった方は環境系の素養があります。文系と理系とまで言っちゃうとやや角が立つのですが、まあそれでもいいです。
 
新しいか、正しいか。これはもう「東大か京大か」「CanonかNikonか」「居飛車か振り飛車か」「キノコかタケノコか」「シングルロールかダブルロールか」という程度に相容れない正義の衝突で、両陣営間には独特の緊張関係が育まれます。
 
建築学会において、歴史上ずっと優勢なのは計画系のようです。それは論文の出稿数からも一目瞭然で、年会費も仕方ないなと思えるくらいには分厚い論文集が毎月届きます。一方環境系は、なかなか論文集が厚くなることがありません。この点、辻堂先生も「後進がなかなか育たないんですよ・・・」と嘆かれていました。
 
そらそうやろ。手当たり次第血だるまにしてたらそら今時の若者は逃げるに決まってますよ。しかしクマな人・・・環境系の人たちは、正しさを全力で疑うという科学的スタンスを捨てることは絶対にできないのです。正しくないかもしれない知見を、信じることがどれほど愚かで悲しいことであるか。しかし悲しいかな、自らの価値を世間に示そうとすればするほど瓦礫もまた増えていきます。そしてその行く先々に、吹けば飛ぶような骨組みの論文っぽい何かを抱えた学生や院生がアホ面で佇んでいます。そんなカモネギ集団の中に、筆者もいました。
 
 

彼らが攻撃しているものは

 
これだけ近寄りがたいクマさんたちに、過去の記憶から「先生」へのバイアスが掛かっている筆者は相性が悪すぎると思えます。しかし結論として、筆者は(内心だいぶキレてましたが)その点は乗り越えました。それは彼らがどんな状況でも、攻撃対象を「人」ではなく「人の仕事」としていたということに気づけたからです。
 
少なからずの人が抱く先生のイメージは、技能の伝達者、社会や人としてのルールの伝道者、精神的な支えとなるカウンセラー、その他諸々が包含された、いわば総合商社的教え手なのではないでしょうか。しかし特に高等教育ともなれば、特に技能の伝達は高度な専門性を持つようになり、その人にしか教えられないし、その人はそれだけを教えればよいという状況が一般的となります。
 
それでも人の持つ先生のイメージは簡単には変わらず、かつ高等教育の教員側も求められれば応えてしまう高い能力を持っている方が多いため、単なる技術指導の枠組みを超えた部分にまで踏み込む、というような教え方を選択される先生も少なくないでしょう。確かに「他の学園祭のイベントに出るのでゼミ休みます」とかいうメールを送りつけてくる学生に対して、きちんと指導しなければいけないと感じるのは当然です。
 
だからこそわかりづらいのですが、それでも研究に関する指導において彼ら(クマさんもそうでない先生も)の矛先は徹頭徹尾その仕事のみでした。たまに口がすべることもあった気がしますが、すべっただけだなということは受け手はすぐ分かるものです。模型課題にて提出された作品の一部をブチブチとむしり取る伝統も、ほどほどにした方がいいとは思いますがこれも「人の仕事」だけを批判しているわけです。論文を全否定してやるとやかましいのも、このままでは倒壊の危険があるから一回やり直そうと言っているだけなのです。
 
だからこそこれからアカデミックな世界を目指そう・・・と思っていたけどうっとうしい先生ばかりだから止めようかなと思った若人の皆さんにおかれましては、素晴らしい先生は君自身ではなく君の仕事だけをあげつらっているということにどうか気づいてください。あなたの心は、強くても弱くてもよいのです。無理に鈍感である必要はないですし、筆者なんていまだに木綿豆腐レベルのメンタルです。それでももし今あなたに対して影響力のある先生が、どう考えても君自身への攻撃を行っているとしか解釈できないのであれば、それはもう不幸なことなので、より素晴らしい先生を見つけた方がよいです。ただし世界には君の残した仕事だけを正確に狙い撃って、君自身の技術と矜持を高めてくれる先生が必ず居ます。少なくとも、筆者が大学院入学後に出会って親睦を深められた先生方は全員そうでした。そんな先生を見つけるために、もうちょっとあきらめないでもらえませんか。
 
欲を言えば、できればクマさんの後継者を目指してもらえるとクマさんたちが泣いて喜びます。絶滅の危機に瀕している彼らを、どうか救ってあげてください。
 
○○先生「計画系なんて、全然できてないですからね」
 
ほらまたそんなこと言って。もうマリオカートで決着つけましょうや。
 
 

名物先生列伝(4)都の西北大学(仮名)B地区の百獣の王、松井田先生

f:id:yumehebo:20210107222820j:plain
名物先生だいたいクマ一味という状況になってしまいましたので、もう少し毛色の異なる先生を紹介したいと思います。この文脈で毛色って書いても、あんまり意味が変わらなさそうなのが怖いところですが。
 
お次はトトロの森、都の西北に位置する都の西北大学所属の統計学の先生のご紹介です。仮名でも見覚えあると思われた方は、その記憶力を他の分野で生かしてみてはいかがでしょうか。eスクール「統計学」にてお世話になった松井田先生に、ついにお目に掛かる機会を設けることができました。
 
筆者が松井田先生の研究室を訪れるきっかけとなったのは、facebookで先生が出された問いに筆者が秒速で答えたからでした。たぶん出題に大した意味はなかったのだと思いますが、その縁によって研究室特製クリアファイルをもらうことができました。
 
実物の松井田先生は画面の中とほとんど変わらず、笑顔の似合う素敵な先生でした。本来のご専門は「感性工学」で、研究室にはルンド大学でみかけたモーションキャプチャーが置いてありました。さすが環境が世界標準のゼミは、持っているものも目標も桁違いです。研究室たるもの、これくらいの意気込みが必要なのかもしれませんが。
 
ちなみに松井田先生の研究室は、学内で「B地区」と呼ばれる離れ小島の建物(110号館)にあります。周囲は完全なる自然環境で、まさにワールドスタンダードなロケーションを誇っています。難点があるとすれば、だいぶ前の回で書いたようにアクセスが大変です。実際この時の訪問でも、起伏のある道を10分程度歩きました。日々の通勤、大変ではないですか?と訪ねると
 
松井田先生「いや、最寄りの狭山ヶ丘駅から歩いてこられますよ。45分くらいで。近いよね。(作業中の院生に)ね?」
 
作業中の院生「はい」
 
さすが世界基準の研究室はスケールが違いました。45分は徒歩。言い訳は聞かない。研究室の更なる躍進を確信した瞬間でした。
 
 

名物先生列伝(5)都の西北大学 心理学の鑑真和上 小山先生

 
小山先生は、筆者が修士論文の副査をお願いした縁で知り合った先生です。ちなみにW大学人間科学部は研究領域を8つに分けていますが、小山先生などが所属する一派は上野先生らと同じ「人間行動・環境科学研究領域」にあたります。早い話が、建築と心理は同じ船ということです。
 
小山先生のご専門は認知科学、生態心理学です。結果的に筆者の研究テーマにも大きく関与する領域でしたので、研究相談は実になるものでした。
 
ただちょっと厄介というか独特なのが、質問にせよ興味にせよ着眼点が鋭すぎるということでした。専門ではないのですが、という白々しい、もとい一見殊勝に聞こえる枕詞が先生からこぼれ落ちた瞬間、あきらめた方が賢明です。クマさんほど手厳しくはないのですが、誰もがやり過ごしていた研究の立脚点に潜む問題を唐突に指摘されたりするのであらもうどうしましょうという話です。あきらめてください。助かりません。
 
これだけですとただの怖い和尚になってしまいますので、取り組まれている研究が非常にユニークなことも紹介させてください(仮名ですが)。素敵な読者の皆さんの中には、楽器演奏のご経験がある方もほんの少しいらっしゃるかと思います。例えばヴァイオリン、例えばドラム。こういった楽器の合奏や指導において、奏者はどのようにコミュニケーションを取っているのでしょうか。
 
もちろんほとんどの奏者はやり方を認識しているはずですが、それを心理学的見地からやろうとなさっているのが小山先生とその研究室の皆様です。なにこれ、面白そう。ちなみに筆者がゼミ選択をする年、小山先生はまだW大教員に着任されておりませんでした。もしいらっしゃったら、危ないところでござった。個人的に気になってるのは、楽譜の表記法と初心者の演奏習熟の関係性ですかね。楽器演奏と楽譜って、もうちょっとやりようあるんじゃないかってずっと思っておりまして・・・
 
ちなみにeスクール経由でも通学制でも、小山ゼミの門を叩くことは簡単ではありません。たとえばゼミ選択の時期、各教員はそれぞれに趣向を凝らした映像資料を用意しています。といっても大体の先生は10~20分程度の内容で、あくまで補足資料という位置づけです。言ってみればどの先生方もそんなにリソースを割かないのですが、小山先生は違います。これ以上書くと営業妨害になっちゃいそうなので自重しますが、生半可な覚悟は求めていないことが分かります。でもそれだけ学生に熱意を求められてるわけですから、学生からの信任も厚そうです。
 
「いいえ、僕もきっと学生に嫌われてるんですよー」
 
小山和尚はそう言いながら、子どものような笑顔をみせるのでした。
 
 

名物先生列伝(6)大岡山大学(仮名)大磯先生(仮名)

 
そして最後に、筆者が論文を編み上げていく上で避けて通れない先生を挙げたいと思います。といってもこの先生は都の西北大学ではなく、おおよそ校歌とは思えないダウナーな校歌を持つ大岡山大学の名誉教授となられている大磯先生です。
 
筆者の研究テーマは先人の事例がことごとく断片的であるという難題を抱えていましたが、唯一体系的に取り組まれていた先生が大磯先生でした。そのため後進研究者としても研究の作法としても、大磯先生の研究は必ず踏まえる必要がありました。
 
しかし同じ大学やクマさん連のように分かりやすくスクラムを組んでいる先生方は芋づる式に探知できたのですが、大磯先生との接点はなかなか持てないままでした。顔の広さでは界隈でも群を抜く上野先生にこのことを訊ねても
 
「ああ大磯先生ね。私にとっては師匠というか、それくらいの偉い方です」
 
という使えるのか使えないのかよくわからない情報しか出てこない有様で、まあいっかと諦めて論文執筆に励んだのでした。幸いにも大磯先生は卒論レベルの研究成果までご自身のウェブサイトで提示していて、むやみにアクセスせずとも情報自体は参照できる状況でした。
 
よし、大磯先生にたどり着くまでは大会でも論文でもがんばってみよう。最優先ではないものの、ほんのりとした目標がまたひとつ設立されるのでした。
 

先生、全然足りてない!

 
建築の持つ多義性以上に、先生という存在は多様性に溢れています。教育機関でもそうであるうえに、何らかの技能を持つ人はすべて「先生」と呼ばれうる尊い存在です。きっと何かに一生懸命取り組んでいれば、人はいつか先生になるのでしょう。
 
無論、筆者はそれでいいと思います。逆もまた真なりを適用すると、先生になりたければ何かに一生懸命に取り組めばよいのです。理想論だと指摘されれば、理想が見えていない現状もまた問題があるよねと返したくなります。むしろその方向をより研ぎ澄まさなければ、これからの教育機関は危機に瀕していくのではないでしょうか。
 
少なくとも高等教育機関において、筆者の見た限り「先生」は足りていません。というのも、上野先生にせよクマ一味にせよ、筆者の周囲でいうところの多くの「先生」と呼べる方々は、だいたい多忙をきわめておりました。そりゃ責任ある立場なんだからと言えばそうなのですが、問題なのはどうもその業務内容の多くが先生その人でなくても良さそうなものっぽいということです。状況は違うかもしれませんが、小中高の先生も多くが休む暇もないほどに教務以外の作業に追われていると聞きます。
 
その一方で、大学教員というポストは相変わらず狭き門とされています。そのため、現場はどうやっても慢性的な人手不足です。百歩譲って採用数の問題はむやみに解決できないとしても、職務をより細分化し、ある部分だけの「先生」と呼べる人を増やしていくことで、現場の疲弊感は緩和されるのではないかとも思ったり。もちろんこれは専門外の話なので、そうそうに偉そうなことは言えません。でもちょっと夢見てしまうのですよ。先生がよりそれぞれの技能の「先生」として望まれる責務に集中し、ただでさえ能力の高い人たちがさらに顕著な成果を出せるようになって、その働きに感化された多くの誠実な学生が憧れを抱くようになり・・・
 
そして指導力のない暴力先生がどんどん現場から淘汰される未来を。

 
 

yumehebo.hateblo.jp



(初出:2021/01/27)