いんせい!! #21 学生!!

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#21 学生!!

 
いつものゼミ室に向かうまでの道のりは、折からの寒さが本格化したこともあって、ちょっとだけ辛いものになりました。1月中旬の火曜日、3学期制なら3学期の始めに位置するような、何の変哲もない日です。
 
所沢駅を過ぎた西武線の下り電車の中では、TAや学生など、同じ目的地を目指す人と鉢合わせすることも結構ありました。特に博士課程以降は身体がしんどく、学バスいつもありがとうなどと心で思っておきながら、空いている隣の狭山ヶ丘駅からタクシーでキャンパス入りすることもままありました。しかし顔見知りとの邂逅ともあれば、さすがに意気揚々とタクシーには乗りづらく、大人しく学バスの列に並ぶことを決めるのでした。
 
学バスの列は春先と比べて、3分の2か2分の1か、かなり短くなっていました。残りの人たちはクレバーに別の時間帯に移動したか、はたまた優雅にタクシーを捕まえたりしているのでしょうか。きっとそのどちらでもないのでしょう。あるいは矢尽き刀折れてフェードアウト、もしくは別の国への武者修行、あとは単に科目を捨てたなどなどいずれにせよ毎年レアと言えない程度にはいなくなるようです。その決断がその人にとって、どんな形であれ、良い展開を迎えることを祈りつつバスに乗り込みます。
 
学バスの乗り心地はいつの季節もずっと変わりませんが、窓の外の景色は見事に四季を映していて、飽きることはあまりありません。冬場の畑の隅には固くなった雪が残り、運動場と示されている広場は霜が降りた後なのかなんなのか、かなりボコボコなように見えました。
 
バスはやや混雑する狭山湖口の交差点を過ぎ、大学入口の交差点を勢いよく左折すれば、あとは正門のロータリーに突き進むだけです。もういい加減アスファルト直してあげてよと思いつつ、無事に送り届けてくれた運転手さんに御礼を言いながら降車します。もちろん足首をグキらないように注意です。
 
「人とペガサス」像が見下ろす、陸上トラックと野球場を分かつ歩行者道の上を、多くの学生が静々と歩いてゆきます。キャンパス開設時はもっとスッキリと見えたこの道も、今や両脇に生い茂った常緑樹に視界を塞がれて、さながら森のトンネルに分け入っていくようです。
 
ゼミ室はバス降車場を降り、100号館の入口を通り過ぎて、更に奥まった場所にあります。ドアは中の様子が一切分からないような分厚い金属製の親子型片開き戸で、ドア面には部屋の主である2つのゼミに関する情報、特に藤沢ゼミの情報が貼られています。
 
やれやれやっと到着だぜと言いたげな雰囲気をまとって入室しますと、卒論に関する作業の更なる追い込みを行っていたらしい4年生数名が、もうろうとした様子で座っていました。他人(教員や院生)がメインのプロジェクトに荷担すると、おかげで卒論テーマや品質に困る可能性は低くなるのですが、予想外のタスクが降ってくることもあるので大変です。
 
ゼミ開始10分前になりました。受講者である4年生が次々と入室し、場が一気に賑やかになりました。10人も入ればいっぱいになるようなほどの広さしかないので、一番遅く来た学生や院生は、少し区画された別の場所に移るということもままありました。
 
そしてこの時期の4年生はというと、卒論発表以外のすべてのタスクを終えて余裕綽々な者もいれば、この期に及んで足りていない単位を取るためのテスト対策を行っている者まで様々でした。そのため賑やかになるといっても、全員が一気に盛り上がるということもなく、くすぐったくなるような淡いざわめきが漂う内にゼミ開始時間となるのでした。
 
それにしても、卒論が電子提出になってよかったよね、ちょっと前まで会議室前に並ばなきゃいけなかったのにね。過去を知る筆者や藤枝さんが「チキンレースを企画しようとしたら学生に逃げられた」とか、多分そのときの4年生が全然イメージできていない話で場を温めている最中、数分遅れで上野先生がやってきました。
 
4年ゼミの冒頭はいつも、上野先生のありがたいお話と、上野先生からのありがたい事務連絡で始まります。事務連絡はだいたい長さを計算できるのですが、ありがたいお話は調子が出てくると止まらなくなってしまうため、見かねたTAが強制終了させることもよくありました。すんなり進めばまだよい方で、困ったことに一度降壇したはずの先生がまた話し始めてしまうなんてこともあり、TAはその都度卒論の相談時間の再編成を迫られるのでした。
 
しかしあとは卒論発表会のみというタイミングにおいて、先生による長くなりそうなお話の時間は、不思議なほど毎年思いのほか短いものでした。というのも、この週は発表会直前の練習も済ませていて、その練習後の内容の微調整に関する相談の週となっていたからです。いわゆる最後の決戦の前、国際試合の直前のニュースで聞かれるような、軽めの調整というやつでしょう。卒論の進捗は毎年面白いように変動するので、ギリギリな学生が多い年は最後の方まで緊張感も漂いがちでしたが、それでも卒論提出という最大の山場を越えたことによる安堵感はどの年も共通していました。
 
ポートレートモードって機能がすごいんだよね。ポケットからおもむろに取り出したiPhoneで、相談待機中の学生を無理矢理撮影していたのもこの時期でした。それより広角モードもすごいよ。ほら、この部屋が1枚の画角に収まっちゃう。
 
ゼミ室に設置されているディスプレイは、発表スライドの確認といった出番がなければ、AppleTVのスクリーンセーバーでお馴染みの夜景を映していました。天井まで伸びた本棚には、なかなか取り出して読むこともないような本が大量に並んでいます。地震の時は気をつけなきゃね。
 
2時限が終わり、お昼休みに入ると、各々が昼食に向かいます。といってももう学食を食べ飽きたのか、はたまた面倒になったのか、多くの4年生がお湯を入れたカップ麺を持ってゼミ室に戻ってきます。あんまり換気の良い部屋じゃないので、後から入ってきた学生が「カレー食べた!?」などと察知しています。何割かはそれにつられて買って戻ってきます。
 
お昼休み終了後、3限以降は3年ゼミの時間となりますが、4年生は自習です。筆者は3年ゼミに荷担することもままありましたので、午後のゼミ室には居たり居なかったりでしたが、それなりにやかましかったことは伝え聞いておりました。藤沢ゼミの皆様、行き届かない面、お詫び申し上げます。
 
冬の陽気は瞬く間に夕方を迎え、5時限目に入ると、4年ゼミが再始動します。就活に忙しかった夏前の時期は、3分の2どころか半分も揃わないなんてこともありましたが、さすがにこの時期は見事に全員が出席しています。
 
MacBookAirの充電器の奪い合い、背もたれつきの椅子をどう並べれば安全なベッドになるかの工夫、どうせ研究室のプリンターだし多めに刷っとこの心意気。
 
全員の相談が落着し、来週の発表会への簡単なブリーフィングを経て、ゼミはお開きとなりました。4年生はそれぞれかったるそうに荷物をまとめ、男子はよく分からんノリで小突き合いながら、女子も女子で誰かとのLINEに精を出しながらバス乗り場に向かっていきます。澄んだ空気に包まれた外の世界は、星が鈍色に瞬き、けれど朝の寒さを思い起こさせるような凍てつき方です。
 
 
君たち何で平気なんだ。君たちもう、これで終わりなんだよ?
 
もう二度とゼミのために全員で集まることはないし、もう二度と先生と相談することもない。卒論落とせば別だけど。たぶんもう二度と昼休み明けのゼミ室でわいわい喋らないし、喋ったところでみんなもう同じ立場でいることはない。まあ卒論落とせば別だけど。
 
TAとして院生として、同じ時期には同じように心の中で叫び、飲み込んでいました。それはまるで、乗り過ごしてはいけない最終列車の扉が閉まるのを、何もせずただ見送るような。
 
まあ今時の若者に言ったところで、そうっすか、くらいの反応であるのも目に見えています。いやむしろ筆者が現役学生だったとしたら、何言ってんすか遂におかしくなったんすか、くらい言い放ってしまうかもしれません。
 
けれど年季が入ってしまった筆者は、気だるい朝の歯磨きのような、飽き飽きした瞬間がもう二度とやって来ないことを知っています。それは学生という身分の終わりであり、学生と名付けられた偉大な冒険の章の終わりでもあり、今見えている君たちそのものの終わりなのです。
 
終わりを直視するということは、時に残酷で、耐えがたいものです。しかしそう思えてしまう前提は、好意や愛情などの内在以上に、日常であったかどうかだと筆者は常々思います。日常の終わりとは小さくも確固とした世界の終わりです。例えそれが全く価値を感じないような出来損ないのジオラマ、あるいは今すぐ捨て去りたいルーティーンだったとしても。
 
なので特に頓着しないうちにそれが過ぎ去るというのは、心に無用なダメージを負わないという意味で、あるいは合理的なのかもしれません。もっと言えば、過ぎ去ったということ自体に気がつかなければ、失われたという認識にたどり着くことすらないでしょう。
 
けれど、そういうポリシーでいいんでしょうか。痛みから逃げ回ることだけが良い人生なんでしょうか。静まりかえった100号館横のスロープを、行きとは反対に下り坂として歩きながら、筆者は毎年のように心をかきむしっていました。
 
しかしそんな中、筆者が遭遇しただけですが、2人だけ気がついた学生がいました。池袋くん(11期)と小金井さん(13期)です。2年の時を隔てて、2人は同じ言葉を発していました。
 
「え、ゼミ、もう終わりなんじゃない?」
 
その後の言葉はエモい、とかマジか、とか彼らなりの言い方でした。言えるのは、少なくとも彼ら2人は、はっきりと言葉にしたということです。他の学生も大なり小なり感じていたのかもしれませんが、経験上、思わず言葉にできるか躊躇するかというのは彼我の差があります。誰かを傷つけるような言葉の吐露には躊躇こそ大事ですが、そうではない言葉や思いは、素直に出すのが良いに決まっているのです。
 
彼らはこの終わりを受け止めるだけの感性と器量が備わっていたのでしょう。頭が良くて綺麗な心を持つ彼らに、結局そのことすらちゃんと伝えられない筆者は一生勝てないなと思います。
 
 
帰りの学バスは、乗り場にて吹きさらしの学生を一刻も早く収容すべく、発車時刻のだいぶ前から扉を開けていました。
 
森はひたすらに押し黙って、今日のゼミも周辺の車の音も、まるで違う世界のものだと思わせています。
 
バスの車内はいつの間にか4年生の会話で賑やかになり、後から追いついてきた院生や先生も、その輪の中に加わりました。
 
数分後の定刻にバスは動き出しました。この次に彼らがゼミ目的でとこキャンにやってくるのは、発表会のその日です。
 
卒論に関するあらゆる事前の提出物を、ほぼ毎回最初に提出してきた小田原くん(13期)は、同期と日帰り旅行行こうなどと言っています。彼は翌週インフルエンザを発症し、卒論発表会を欠席、快復後に追試の発表会をこなす羽目になりました。上手の手から水が漏るとはよく言ったもので、けれどそれまでの積み重ねと罹患を正しく申告した小田原くんの誠実さによって、追試発表会は大いに盛り上がったのでした。
 
ゼミ配属当時こいつら絶対付き合ってるだろと疑っていた神田さん(12期)と村岡くん(12期)は、案外そうでもなかったっぽくて、けれど12期の最後の方は全員それなりに明るくなっていました。笑顔見せるんだね、この人たち。もうちょっと早く一致団結してくれていればよかったのに。彼らの卒論発表会当日は大雪に見舞われ、運営側はタイムテーブルの修正に大わらわでしたが、主に藤沢ゼミ関係者の尽力で無事全員が発表を完了させました。
 
筆者がM1の頃は完全にお嬢様だった上尾さん(11期)と由比さん(11期)と早川さん(11期)は、2年をかけてちょっとは大人になった気がしますが、ベースは同じままでした。しかしもう一人の女子の北本さん(11期)は完全に何かに目覚めたのか、おじさんキラーになりそうな色香を漂わせていました。きっと色々あったのでしょうね。
 
伝説の夏合宿と冬合宿を経た10期については、よく覚えていません。ごめんね。
 
みんなこのバスに乗っていました。みんな今は何処に行ったのでしょう。もはや知る人の誰も乗っていないバスはいつものルートをひた走ります。やたら広い駐車場のあるコンビニのある交差点を左に曲がり、周囲の田畑とほどよく調和した病院施設の前を通って、片側2車線の広い道へと進入します。誰がどんなに舌打ちしても、長泉先生が運転手の真後ろで怒濤の批判を繰り広げても、まったく変わらないルートです。
 
夜のバイパスは日中よりは空いていて、バスはスムーズに小手指駅南口に到着しました。運転手に御礼を告げながら地上に降り立ちます。
 
西武池袋線の小手指駅は、2面のプラットホームと4つの乗り場を持つ、典型的な「郊外にあるちょっとだけ大きい駅」です。駅構内はバリアフリー対応こそほぼ完了しているものの、設備に装飾と呼べるものはなく、陽が落ちた後ともなるとそこかしこからうら寂しさが醸し出されています。
 
籠原くん(11期・院生)に連れて行かれたのは、小手指駅北口から少し歩いた場所にある、こぢんまりとしたラーメン屋でした。小手指にも結構美味しいお店あるんですよ、と言っていたか定かではありませんが、美味しいラーメンでした。じゃあ今度は籠原ハウス(※下宿)に招いてよ、と図々しく突っ込むと、それはダメですとはっきり言い返されました。大丈夫ですとかではない直接否定表現ですので、よっぽど都合が悪いようです。これは何かありますねえ。
 
バスが小手指駅に着いて小腹が減っていたとき、ゼミ生はよく、駅周辺でご飯を食べていたようです。筆者もごくまれにその一団に付いていき、まあこれくらいの人数なら大丈夫だなという目算の元、男気を見せることもそれなりにありました。こういうのは全然痛くなくて、毎週でもよかったくらいなのですよ。さすがに毎週だとぎょうざの満州の連続登板になりますが。一日がかりのゼミの終わりに、終わりよければすべてよしと思えるような何かを求めていたのは、たぶん誰もが同じでした。
 
改札を通り、吹き曝しのホームにて10分近く待って、急行電車がやってきました。電車はどっぷり暮れた冬の闇の中、今か今かと待ち続けている池袋駅の帰宅民を迎えるために、ほんの気持ち急いでいるようです。登場当初はギョッとするようなホワイトボデーの西武電車も、今やすっかり沿線の雰囲気に溶け込んで、武蔵野の日常の一部になっています。
 
なにしろこの時間の上り電車の座席は結構空いていますので、遠慮がちに腰掛け、そっと目を瞑ります。ちょっと紙面が余っているので、望まれていないであろうと理解しつつも、ふたたび過去語りしてみましょうか。
 
 
筆者の現役の学生時代は、所属したどの教育機関においても、天中殺としかいいようのない惨状でした。
 
環境だけが悪かったとは言いません。完全無欠にほど遠い筆者のスペックですから、至らなかったことも多々あったでしょう。限られた選択肢の中、学びと反省を繰り返しつつ、それぞれの立場の人は頑張ることができていたと思います。しかしどう考えてもその立場に相応しくない言動に終始する人々が跳梁跋扈する学校という組織は、筆者にとって毎日見る悪い夢であり、飲み込みがたい現実でした。
 
学校に美しい思い出だけを残せている人はもちろん幸せですし、けれどほんの少しだけ意地悪な言い方を許してもらえるのだとしたら、それは気づいていないだけなのかもしれません。あるいは気がついていても、それどころか踏み込んでどうにかしようとしても、個人ではどうにもできないシチュエーションは少なくとも筆者の現役時代において有り余っていました。おそらくみんな少しずつ病んでいて、かつその悪化に怯えていて、何もかもに手一杯だったのでしょう。
 
eスクールを経て、ゼミに足を踏み入れてなお、筆者の中において教員や学校関係者に対する警戒感は相当に高いものでした。一方で心のどこかで、もっとちゃんとした学校、ちゃんとした先生や学生がいる環境はいくらなんでももうちょっとストレスが少ないのではという微かな希望もありました。まあそういうものでもなければ、喜んで社会人学生になろうとはしないでしょう。これでも「学ぶことは楽しみを増やすこと」と今でも思えているので。
 
そして院生として迎えたゼミ。決して広くないゼミ室で繰り広げられる群像劇は、きっと筆者の想像以上のものでした。
 
やたら重い課題を突きつけられて机に突っ伏している瞬間も、講義中におにぎりを食べるところを見つかって怒られた午後の昼下がりも、大学というネバーランドの中においては些細な波風でした。
 
なんだ楽しいところじゃないか。大変なことは数あれど、あるべき学校はやっぱりあったじゃないか。
 
筆者がその背中を見送ってきた普段着の学生たちは、実は後天的に筆者にかけられていた、学校と学生への呪いを解いてくれた恩人たちです。
 
対してあの頃の自分を知る上から目線の人々は、大学院だ博士だなんて夢を見やがって、とでも言うのでしょうね。その通りです。夢のようです。夢を見て本当に良かった。
 
 
電車が池袋駅に到着して、あくびをかみ殺しながら降車ホームに降り立ち、一目散にJR線を目指します。都会のど真ん中にやってくると、あまりの人いきれと光源の多さに、つい1時間前まで過ごしていた森の中の静けさが遠い日の記憶のようです。
 
しかし現実の筆者には、最後にして最大の課題である博士論文が待ち構えていました。感傷に浸っている場合ではないのです。過去を思い起こす前に、まずはこの懸案を過去のものにしなければ。夢のような日常が、ちゃんとした現実であったと確定させるために。この日常を正夢とするために。
 
何の変哲もない冬の夜の日常の中、院生であり学生である筆者にも、終わりと呼ぶべき瞬間が刻一刻と近づいていました。
 
 
 
(初出:2021/01/31)