いんせい!! #24 博士論文!!

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厳しい冷え込みが始まったとこキャン100号館の教室のイレギュラーな時間に、上野ゼミ所属の院生と学生が集結した。2017年12月4日、博士課程兼助手の藤枝さんの公開審査会である。
 

#24 博士論文!!

 
これまで筆者に打ち込まれてきた打球・投球・牽制球を陰に日向にカバーしてきたのが藤枝さんであった。その持ち前のタフさと負けん気の強さが高じ、博士課程中にもかかわらず助手への着任を果たすなどの大車輪な活躍を見せていたその人が、満を持して博士論文を提出することとなった。公開審査会は順調に終了し、藤枝さんは今まで見たことのないほど安堵した表情を見せていたのが印象に残った。審査結果はもちろん合格で、晴れて修了の運びとなった。上野先生曰く、ゼミの博士号取得者は通算3人目ということだった。
 
まさゆめさんが4人目になりますね。藤枝さんの学位取得からほどなく筆者は、先生や周囲からこう言われるようになった。実際、筆者にとってはまだD1を終えたばかりのタイミングであったが、博士論文を最初に意識したのはこの時だったと思う。
 
博士論文の実質的な開始ゴングは、提出時期の約1年前に設定される「中間報告会」である。これを字面通り解釈すれば博士論文の内容の中間報告であるわけだが、別に半分を書けたら報告せよという趣旨ではなく、論文申請の許可、つまりは終わりへの火ぶたを切るためのものである。仮に秋学期(年度内)に修了することを目指すと、審査スケジュールは以下のようになる。
 
4月頃 中間報告会の実施(日付は主査が設定)
10月14日 博士学位論文審査の申請(=論文の提出)
10月中 予備審査
11月13日 申請の受理の可否決定
11月下旬~12月下旬 公開審査会(日付は主査が決定)
翌1月6日 審査用論文データの提出(=修正した論文の提出)
1月29日 合否決定
1月31日 公開用論文データの提出
3月頃 学位授与式
※日付は2019年度秋学期博士学位申請の場合。日程は毎年異なる

 

この中での最大の山場は「公開審査会」、つまり発表会である。またその前に設定されている「博士学位論文審査の申請」は、博士論文の提出期限である。その間にある予備審査は、申請(=論文の提出)が行われた場合に大学がそれを受理するかを判断するもので、予備審査を通ると公開審査会への道が開ける。色々あるが、要は修了しようと考える時期があれば、その1年前から動き出さなければ絶対に間に合わないようになっている。なおこれはあくまでW大人間科学研究科のその時のカリキュラムであって、他年度、他課程、他大学では異なる点が多々あるであろうことを付記しておく。
 
実際の原稿の起草という意味では、中間報告会の3ヶ月前、2019年1月に具体的に動き出した。もちろんそのだいぶ前、1本目の査読論文を検討している段階で「ツリー」と呼べる章立ては存在していたし、素材という意味での論文や成果は3年間、いや修士課程以来の5年間で相当に積み上げることができていたので、結構な蓄積があった。しかし実際に意識的に「まとめるぞ」と動き出したのはこの辺りであった。
 
翌月の研究相談にて、副査の最終決定を行った。博士論文の審査では「主査1名(指導教員)、副査最低3名」が必要とのことであったが、どんな3名を選ぶかはだいぶ思案した。どこまで規定にあるかはわからずじまいであったが、1名は学外から招くことが望ましいらしい。筆者はまずとっさに大磯先生の名前を出したが、既に名誉教授になられており、しかもまだご多忙なので難しいのでは、とのことだった。よくご存じですねと思いつつ、確かに筆者が一度もお目に掛かっていない状態でいきなり頼むのは怖い。そうなると修士論文でお世話になった武蔵小杉先生と小山先生、またその時サバティカルだった藤沢先生もどうであろうか。あと学外ということでは、ずっとお世話になっている辻堂先生も素晴らしい人選であろう。甲乙なんてとてもつけられないが、しかし定員的にどれかを選べということになると・・・
 
上野先生「あ、4人にしちゃおう。それがいい」
 
それができるんかい。かくして筆者の博士論文の副査は異例?の4名態勢となった。こともなげに書いたが、副査を快諾してくれた4名の先生方には改めて感謝申し上げたい。
 
2019年3月。研究相談にて提示したツリーをベースに、中間報告会への準備を始めることとした。この頃の筆者は大会発表などは行っていたものの、学内での発表は意外なことに久しく行っておらず、勘が鈍っていることに悪い驚きがあった。幸運にもその状況に早く気がつくことができたため、発表練習は入念に行うことができた。また直近で修了した藤枝さんから、博論審査に関するあらゆる必要書類や資料をいただき、必要な書類の目算が容易に立てられたことはめちゃくちゃ幸運であった。最後の最後まで筆者は藤枝さんに頼り切りである。しかしこれからは、一人で立ち向かっていかねばならない。
 
2019年4月9日。博士論文中間報告会が開催された。出席者は筆者と主査1名(上野先生)、副査4名(武蔵小杉先生、藤沢先生、小山先生、辻堂先生)、更に数名の院生であった。発表内容は修士論文のテーマをベースに、より大きな結論を目指すという尻切れトンボ的なものであったが、その事実を指弾されることはなかった。しかしその分、質疑においては研究の意義そのものに疑義を抱かれたようなハードなものもあり、天気晴朗なれど波高し、的な情景が浮かんでいた。ただ繰り返しになるがあくまで中間報告会であるため、結局は「がんばってね(by 武蔵小杉先生)」以上のメッセージもないようであった。
 
中間報告会を終え、ツリーを結構バラす必要がありそうだなと感じつつも、とりあえず博士論文に必要なパーツを取り揃えるところから意識し始めた。まず何も考えずともできそうなのが謝辞であった。今思うと何に力入れてるんだと思えるが、ちょっと格好良くまとめ上げられはしないかとうずうずしてしまうお年頃だったと言うほかない。お世話になった人か。11期とか書いちゃダメかな。
 
さすがに謝辞だけ上野先生に提出するのは恥ずかしいので、改めて第1章(背景)からまとめ始めた。論文の主要部分は査読論文などで充足していたわけであるが、第1章については大いに積み増す余地があった。というより、積み増さなければならなかった。基本的に論文の背景というのは、研究目的とその領域の一般的な歴史(既往研究)を無理なく結べばもっともらしくなるのだが、決定版であり新規性も求められる博士論文であるから、取って付けたような論理展開が許されるはずもない。
 
といっても研究テーマとして長く取り組んでいる以上、多くはそれまで言語化せずに身の内に積み上がっているものも少なくない。まずは筆者自身の主張と客観的事実の混在に厳重に注意しながら、これまで研究テーマの領域で何が起きてきたかを概説することにした。
 
半月が経ち、一ヶ月が経ち、作業は難航した。筆者が思っている以上に、研究テーマ周辺に関する筆者の内の哲学が欠けていた。単純に言うと「知ってはいるが、その知見が何を意味するか」をきちんと説明できなかったのである。その原因、というより、今そういう状態なんじゃない?と教えてくれたのは、副査の先生方であった。
 
実は春先、主査(上野先生)より、中間報告会で提起された質疑について書面で回答することを求められていた。実際それを行わないと、遥か先の公開審査会にて副査から「疑問が解決できていないじゃないか」と示されてしまい、結果が非常に厳しいものとなる恐れがあるという。一大事である。もちろん書面回答自体は何ら異論がなかったが、回答を考えるほど前提的な部分の問題点が解消できなくなっていた。とりあえずの形であるが現状の筆者の回答と呼べそうなものをまとめ、副査相談が始まった。
 
博士論文に関する副査の位置づけもまた各大学、もしかしたら各論文ごとに異なっているかもしれない。筆者の場合は規定人数より多い4名の副査が任命されたという事実から透けて見えるが、主査として副査とのコミュニケーションは歓迎という趣であった。これが場合によっては、副査は審査会関係でしか対応しない、極端には判定にしか関わらないというケースもあるようで、確たることは分からないが要は主査の意向と権限が大きいのだと思われる。つまり主査が「副査に聞いてきな」と言えばそういうことであり、主査が「俺の話だけ聞いておけ」と宣えばそういうことである。
 
4名の副査は四者四様であった。最も厳しいのは予想通り辻堂先生であったが、こちらは査読論文での協議も並行して行っていたため、与しにくし、ということもなかった。むしろ厳しさがあるがため、議論の末に編み上がった課題克服のための考え方はすべて頑健なものであった。一方で藤沢先生は当初から本質を突く、厳しい言い方をすれば論文の価値を奪う、ためになる言い方をすれば論文の真の価値を筆者に気づかせるような魔法を惜しげもなく披露してくれた。また補足的になるが、藤沢ゼミの院生であった川越さん(仮名)にも随所で助けられた。さすが藤沢先生の愛弟子で、ゼミ室にて鉢合わせしたところで筆者の抱える問題点などを真面目に受け止め、自分の言葉で返してくれた。上野ゼミの学生は聞き飽きている部分もあるので直接の比較はできないが、博士論文関連の話題で効果的なフィードバックを何度ももたらしてくれたのは川越さんであった。悩みという渦の中で断片化している思いを、一緒になってすくい取ってくれたようだった。
 
申し訳なかったのは小山先生で、相談時期に酷い夏風邪を引いてしまい、相談日時を日延べすることになってしまった。小山和尚は寛大な心で日程変更に対応し、代替日程で行われた相談は和気藹々と進んだ。武蔵小杉先生はこのときはついぞ連絡が取れなかったが、上野先生から「もういいです」とのお達しが出て中間報告会関連のミッションは終わった。
 
夏前、筆者は博士論文のための最後の実地調査を敢行した。卒業論文で行った調査との年代比較という意味合いが大きかったが、卒論の内容自体を見直すきっかけにもなった。幸か不幸か、研究テーマが卒論時代から一貫していたということの強みであるが、さすがに卒論時代の考察をそのまま使おうというほど博士課程になってしまった筆者も甘くはなくなっていた。このままではアカン。
 
上野先生も同感ということで、これで何度目か分からないツリーの再検討を始めた。結局筆者は何を解き明かしたいのか、今ある世界がどんな未来になって欲しいのか、という本質的な問いに改めて向き合うことで、単に実験・調査アラカルトで止まっていたツリー構造に変化の兆しが見え始めた。これはだいぶ上手い流れになってきたんじゃないですかね。期待したが、この時期に上野先生から色よい返事が聞かれることはなかった。
 
「何だろうね、わかんない」
 
わかんないのは僕もです!しっかりしてください!博論の指導なんてできないよ、という話を聞いてから延々不安なんです!に近いことをちょっと露骨に言っちゃったような気もするが、確かにこれだけ近くで長年相談を受けている人を「わからせられない」のは問題である。良い論文とは一見複雑そうに見えても、一言で、1分で、6ページで、30分で、つまり与えられた時空の中で大事なことを順番かつ綺麗に取り出せるはずなのである。これが毛玉のようにグチャグチャな状態ではとても美しく取り出せず、もっと言えば毛玉状態が垣間見えると、いざ取り出されたものが果たして本当に論旨の要石であるのかも疑わしくなってしまう。
 
ともあれ、このままではグチャグチャで提出期日を迎えてしまう。筆者はまず主査(上野先生)に理解してもらう、というシンプルな部分に立ち戻り、「まあいいんじゃない」と言ってもらえるようなところまでは来た。お、あと少しなんじゃないか。
 
「でもまだよくわかんないよね。主張が」
 
この主張がという部分が時に背景が、時に目的が、とエラいシンプルな言葉になるものだからさあ大変である。言ったよね。この前言いましたよね。これで大丈夫ってあなた言いましたよね???という不毛かつ不遜な言質取り大会が1ヶ月程度続いた。最終的には物量面では満足できるものとなったようで、「いいんじゃない」はやがて「いいですかね」になった。よっしゃやっと観念した。ってあれ、筆者、なんでいつの間に先生引き留める人になっちゃってるんですか。
 
なにはともあれ、博士論文を完成させるにあたり、もはや足りないものは何もないように思えた。もうここがゴールだろう、と宣言できたつもりにもなった。しかしただ材料を取り揃えただけでは料理にならないし、料理をただ並べただけではコースにならない。まさにコースとしての必然性が、この後の筆者に最大最後の難関として立ちはだかった。
 
ゴールを引いたのに。もうこれで終わりですと線を引いたのにそれじゃゴールじゃないんじゃない?と言われたときの絶望たるや。じゃあもう提出止めますと啖呵を切るしかないんじゃないかというところまで精神的に追い込まれた。さすがに上野先生から「ナーバスになりすぎないでください」と心配され、啖呵を切るのは抑えられたが、今思うと単純にそこはゴールではなかったのである。つまり、確かにゴールを引くのは自分であるが、それは客観的に「なるほどこれはゴールだね」と納得できるようなものでなければならないのだ。
 
気持ちは少し落ち着いたとはいえ、精神的には限界であった。巷では筆者が応援している球団が何年ぶりかの優勝争いに明け暮れており、気分転換になりはしないかと何試合か観戦した。直接的な影響は分かるはずもないが、こうすれば説得力が増すかなという論の流れや、重要視すべき結論の提示の在り方など、より論文の輪郭が浮かび上がるようなアイデアが降ってきたのもこの時期だった。つくづく息抜きは大事であるし、しかしこれも息抜けるまで追い込まれたからこそなのだろう。各章ごとに保存していた原稿ファイルの名前にそういったブレイクスルーがあるたび、「新第○章」という形で新たに保存するようにし、9月末にはすべての章が新バージョンとなった。
 
それでもゴールは見えなかった。正確には、見えているゴールを完全に信じることができなくなっていた。いよいよ今期での提出を諦め、半年後に優雅に修了するというTRUE ENDを脳内のどこかに描き始めていた。しかし半年後に伸ばしたからといって優雅に修了できる保証は何もなかった。むしろこれまで筆者がなんとなくクリアしてきた「修業年数通りに進学」というジンクスを失うことで、いよいよ上野ゼミ幽霊院生として末永く取り憑いてしまう未来も予期された。マジな話、課程内博士は最大6年間の在籍が可能で、加えて退学後も3年間は論文審査の申請が可能ということになっている。実際、どうやっても時間の掛かる研究に取り組まれている方には必要な制度である。十年仕事と割り切って、もうちょっと居てやろうか。
 
いや、そんなことをしたら更に3年も学費を払うことになる。まあなんとか払うとして、問題は心身の方である。既に体力は相当に疲弊し、随所で変調を来していた。よく分からないが、力みが取れない。急に不安にもなるし、些細なことにも腹が立つ。この慢性的不調をあと1年でも半年でも抱え続けることは、学費云々より受け入れられないことであった。不調が起きない程度の火力で博士論文に取り組むとなると、本当に何年かかってしまうのか。
 
やはり、書き上げねば。何を置いてもここで書き上げねば。チャンスは今期一度きりのつもりで。応援しているチームの優勝争いに秋風が吹き始めた頃、手を付けてはいけないっぽい部分の燃料を投下する覚悟を決めた。命を燃やせ。うおおおおおお
 
見えるようで見えない、おまえさんもうゲージ100%になってるやんけと思いながら一行に終わらないインストールを台バンする勢いで、10月2週目のほぼすべてが論文執筆であった。しかも悪いことに、日本の遥か南に巨大台風が発生し、10月2週の土日あたりに関東を直撃するという予報が出ていた。前の月には房総半島を麻痺させてしまった台風15号が文字通り自宅付近を直撃していたから、さすがにもう今年は来ないだろと思っていたらよっぽどヤバそうなのが来ることになりそうだ。そして改めてスケジュールを確認し、提出期限である10月14日が台風の大きな影響を受ける可能性に気づいてしまった。
 
論文提出に関する期限ごとは、その一つでも遅れたらアウトというのは卒業論文でも常識である。その上位種である博士論文が、期限を遅れて受理されることは万に一つも考えられなかった。現状ではなんとも判断できないが、台風の勢力からして、10月14日に提出が叶わないという可能性を無視するわけにはいかなくなった。そうなるとその手前に提出すればよいとなるが、残念なことにその前は土日である。少なくとも日曜日は窓口は開いていない。土曜日は開いているが、その日もことによると台風の影響を受けそうな情勢であった。
 
もうこれは、台風が来る前になんとかしないといけないのではないか。直感的にそう判断し、書き上げねばという思いは猛烈に書き上げねば、に進化した。今思うとそれでもギリギリだが、6日間で終わらせようとしていたタスクを3日で終わらせようとか、メチャクチャである。人間科学のくせに人間離れが過ぎる。いやそもそも、6日間で終わらせようというのも無理があった。もちろん世の中にはこういう仕事は少なくないと思うが、これがダメなら半年後ね~という妙な逃避先がある論文というのは、ある意味で仕事よりタチが悪い。
 
それから3日間、書いて書いて書きまくった。もちろん元々書いていたものも多いわけだが、特に論理的整合性の確認にはもう何度でも読むしかない。できていないと言われているところを抜本的に見直し、できているんじゃないかなと思えるところでも抜本的に見直し、その都度リライトし、そんなような行きつ戻りつで各章を整えていった。全く寝ていなかった10日夜あたりなど、上野先生に何も言わず原稿だけ送りつけるというサイコ野郎と化していた。上野先生も黙って送り返してくれた。
 
2019年10月11日朝。3日間で睡眠3時間という事実上の三徹による突貫執筆は終わりを告げた。博士論文のすべての章について上野先生からOKの合図が出たのだ。嬉しいというより虚脱感があった。ここに決定稿が完成したのである。しかしまだ終わりではなかった。台風19号に関する予報は「途轍もない勢力で関東地方に接近する」となっており、10月14日の締め切り日に大学閉鎖、あるいは交通が寸断されて所沢に行けず、という悪夢が現実味を帯びてきた。
 
大学より全学一斉メールが送信されたのは10月11日午前11時頃であった。翌10月12日の全学休講のお知らせである。ガッデム。やっぱり12日は無理じゃないか。そうなると提出できるのはこの日、今この日の10月11日しかない。提出チャンスはこの一度きりである。オルタネイトがことごとく機能したからこそそのチャンスも巡ってきたわけだが、本当にそうなるとは。筆者はひとまず、提出のために必要な副査人数分(4冊)の論文の印刷を急ぐことにした。
 
しかし筆者が所有しているカラープリンターは本来写真印刷を得意とするインクジェットプリンターであり、発色はとても安定していたがいかんせん印刷速度が遅かった。博士論文ともなると資料含めて200ページ近くとなるため、印刷は遅々として進まなかった。イライラはかなりのものであったが、専門外の大量印刷を発注されたプリンターを責めることはできなかった。事務局は基本的に午後5時まで空いているが、それまでに確実にとこキャン到着を叶えることを考慮すると、列車接続の都合から午後2時前には自宅を出る必要があった。しかし正午過ぎの段階で3冊を刷るのが限界であった。あと1冊足りない。ジーザス、まさかここで副査4名態勢が重荷になるとは。
 
これは提出に間に合わんと判断し、急遽方針を切り替え、提出に必要な残り1冊はとこキャンのゼミ室で刷ることに決めた。ゼミ室のプリンターはレーザー式であり、自宅のプリンターの100倍は速い。問題は現地で刷る時間があるかであったが、そのため予定より1本早い列車で所沢へ向かった。もちろん三徹明けで往復216kmの運転はきわめて危険なので諦めた。
 
午後4時前、筆者は必要量にリーチがかかった書類一式を引っ提げてとこキャンに到着した。残り1冊の印刷は面白いように早く済んだ。最初からこっちのプリンターにしておけば良かった。プリンターは異なっても内容は全く同じなのであるが、念のためきちんと発色されていることなどを確認することを忘れなかった。そして印刷中、藤沢ゼミの院生・川越さんが入室してきた。4時限終わりということで、TA業務から帰ってきたところらしい。まさゆめさん、こんな時間に珍しいですね。という顔をしていたので、この日初めて家族以外の他人と会話した。
 
「博士論文、提出してきます!!」
 
「えええええ!?」
 
このタイミングでそんな歴史的瞬間を!?という見事なリアクションを取ってくれたのはとてもありがたかった。確かに、紙での提出時代の卒業論文も、未だに紙での提出である修士論文も、教員とは言わないが研究室の誰かは見送りそうなものである。まあこうせざるを得なかった最大の理由は台風であるし、そういえば誰にもこの日に出すことを伝えていなかったので、そりゃ誰もいないに決まっていた。確かに、歴史的瞬間であった。川越さんだけにでも目撃されて幸運だったのかもしれない。
 
午後4時半、筆者は博士論文に関する書類一式を事務局に提出した。事務局閉室の30分前であった。台風19号はいよいよ関東を射程に捉えているとのことであったので、感激もそこそこに自宅へとトンボ返りした。結果として台風は13日には東日本を通過し、14日の所沢は台風一過の秋晴れが広がっていたとのことだが、台風が広範囲に甚大な被害をもたらしてしまったことを考えると筆者が14日に所沢へ赴ける状況があったかは怪しい。なにしろ地元から近い箱根町では、24時間で942mmという衝撃的な雨量を記録し、その傷は年単位が経過しても完全には癒えていない。その規模の災厄が自宅周辺で起こらなかったという保障は全くなかったのだ。改めて、台風19号(令和元年東日本台風)にて被災された方々の回復を祈りたい。
 
とにかく終わった。終わったんだな。台風19号がもたらす暴風が家を揺らす中、泥のように眠った。
 
そして翌週、ふたたびとこキャンにて研究相談が始まった。
 
「やっとスタートラインですね。ここから頑張って(修正して)いきましょう」
 
何言ってんだこの野郎耳から茶飲ますぞ!と不躾ながら思ってしまったが、言われてみればここから先も長いのだった。全然終わっていなかった。ここまでヒーコラして提出したのはあくまで「博士論文審査の申請」であり、まずそれが予備審査で受理されなければならない。予備審査は基本的に学生(申請者)が関与する場面はないのだが、いずれにせよそこが「可」となって初めて博士論文審査のベルトコンベアが動き出すのである。そしてなにより、公開審査会に向けてはまだまだ修正すべき余地があると主査は踏んでいたし、冷静に考えると三徹で(だいぶ進めたとはいえ)パーフェクトまで達せられるほど博士論文は簡単ではない。終わりと思った自分を少し恥じつつ、改めて研究相談に取り組んだ。ただもう気持ちは半グレであった。え、それ今から言う?とか普通に言ってた。申し訳なかったのでペットボトルのお茶を買ってくるおつかいを承った。
 
気持ちを入れ替えての修正作業はそれなりに捗ったが、気力体力とも限界を超えていた。主査からは、大きな骨組みが問題というより、細かい表現や図表、用語の粗さが目立つかなという感想だったと思う。主査の意見をベースに、副査の先生方との相談も合わせて行っていった。特に藤沢先生は多忙な中、論文の背骨のズレを見事に矯正してくれた。上野先生の方針があったからここまで来られたのは紛れもない事実だが、藤沢先生の下で論文を書いていたらどうなっていただろうと想像した。
 
ハプニングは10月末に起きた。小山先生との副査相談のための登校の道中、小田原駅にて強烈な頭痛と吐き気に襲われてしまい、日延べを余儀なくされたことだった。過労であった。通算2回目の日延べを喰らってさすがの小山和尚もお怒りであったが、幸いにも代替日程を数日中に設定してもらうことができ、概ね状況を理解してもらえたことでかろうじて救われた。また最も捕捉に手間取ったのがメールに反応してくれない武蔵小杉先生であったが、ゼミ室の前に張り込むという私立探偵作戦が見事に奏功し、相談を実現することができた。相談内容も手厳しかった修論時と比較して相当なまろやかさで、
 
「(追加コメントはもう)ありません!」
 
と満面の笑みで締めくくってもらえたことはとても嬉しかった。まだまだ武蔵小杉先生が本当に望むところまで進めていないかもしれないが、満足してもらえたという事実は満足できることであった。決定稿の修正版の執筆は、体調と気持ちを管理しながら粛々と進んだ。
 
2019年11月中旬、大学より博士論文受理決定の通知がなされた。合わせて公開審査会の日程が「2019年12月9日」と決まった。そしてこの日を前後して、ついに博士論文決定稿の修正版を脱稿した。修正版原稿は来たるべき公開審査会に出席を予定している先生方(主査・副査)に、事前に送付することとなっていた。もう当日バーンとお見せするのではダメなのかと思ったが、主査にそれとなく一蹴された。ただし論文本体の印刷はゼミ室のプリンターを使うことが許され、いや最初から許されていたのだが、その問題はあっさりと解決した。
 
2019年11月23日、大学院科目「生活環境エクスプローラ(仮名)」の時間内に、公開審査会の発表練習を兼ねた発表のための時間を用意してもらえた。この科目は筆者も修士課程時代に履修し単位を取得していたのであるが、学科内それぞれの領域の研究事例を学び合うという科目テーマの性質上、その時間のほとんどが履修生の研究内容発表に充てられており、事実上の修論等発表者の事前練習場として機能していた。美味しいというかありがたいというか、実用性のある良い科目である。その科目の一部時間を、博論審査会直前ということでガッツリと空けてもらえた。緊急車両みたいな扱いだと思った。たぶん燃えているのはその消防車そのものなのだけれど。おかげで良い事前練習、本当の意味での予備審査ができたと感じた。
 
そしてその際の反省をもって、ふたたび副査相談の時間も確保できた。12月初旬には辻堂先生の本拠地である日立大学に赴き、相談にこぎ着けた。辻堂先生は気持ち穏やかであったが、送りつけた論文原稿をしっかりとチェックしており、相談時間は3時間に及んだ。日立駅から見える海は地元と変わらない青さであったが、冬の海風は少し身体に染みた。翌日には2度も相談を延期させてしまった小山先生との最後の副査相談を予定通りの期日で実現し、公開審査会に向けてやれることはすべてやりきった。ここからが本当の勝負である。延期は許されない。チャンスは一度きりである。
 
2019年12月9日、公開審査会が始まった。会場はかつて卒論提出の関門としてすべての学部生の前に立ちはだかってきた第一会議室であった。会場選定は基本的に主査と事務局が行うものであったが、どこかのタイミングで上野先生から要望をヒアリングされていたと思う。最後の試合は国立競技場で、ではないが、広めの会場がいいですとその時伝えたと記憶している。第一会議室は容積こそ館内最大ではないものの、何とは言えないが特別な部屋である。将棋会館でいうところの特別対局室と言ってもいいだろう。それだけでもとても嬉しいことだった。
 
30分程度の発表時間と1時間弱の質疑は、無我夢中であった。調子の良い悪いはなかった。最善を尽くすというより、最善を尽くすんだ尽くさせてくれという前のめりな気持ちが大きかった。質疑は主に4名の副査からもたらされたが、事前に相談を重ねていたこともあり、突拍子もない危険な展開にはならなかった。明言しておくと、別に相談で「こういう質問をしますね。なのでこう答えてね」という類の打ち合わせは一切していない。もしそういうことを言われても信じるつもりはなかったし、質疑では他の先生方の指摘もある手前、打ち合わせ通りということにはまずならないものである。そうではなく、それぞれの先生方の視座をあらかじめ認識できたことで、こちらの腹も決まったということである。
 
とはいえ新しい指摘、結構根本的な指摘、今更言うなよ的な指摘もちらほらあった。いやそれ以上掘ると全部崩壊しちゃう。ああああ壊れちゃう壊れちゃう壊れちゃうってばとパニックになりそうなところは最終兵器「この研究ではそこまではカバーしていません」砲で押し止めた。卒論・修論と明確な違いがあるとすれば、「そこまでカバーしていません」と言っても良さそうな範囲は研究テーマの中心部からかなり遠く、ゆえにあまり使うことはできない。そんなにカバーしていないんじゃ博士論文としてはどうなんですかねえ、となるし、そう言われた瞬間に終わりだからである。しかしいい加減言わなければならないこともあり、それはもう専門家としての責任を背負っての主張であったと思う。
 
審査会には武蔵小杉ゼミと藤沢ゼミの院生をはじめ、共同研究でお世話になった方々、更には上野ゼミの主に14期生の学生が聴講に駆けつけてくれた。あまりにも世代差、価値観の差を感じ、もはやその感性を理解してあげられない14期生の面々であったのだが、彼らなりに義理を果たそうとしてくれたようだ。彼らにとって意味のある時間となったかは自信がないが、少しでも役に立てていたら嬉しい。
 
審査会後は筆者の直後に同じ場所で博士論文公開審査会を行った、武蔵小杉ゼミの偕楽園さんと合同で、聴講者向け食事会を開催した。筆者と関係した多くの先生が揃い、疲れてはいたが充実した食事会となった。乾杯のたびに「おめでとうございます」と言っていただけたが、まだこれで終わりではないと言い聞かせていた。
 
というのも、公開審査会での指摘の量は結構膨大であった。さすがに叡智が集っただけあって飲み込みやすい内容がほとんどであったことは幸いであったが、本腰を入れて向き合う必要があった。無論、ありがたいことである。翌日以降、審査会に来ていただけた先生方への御礼と議論の流れの明確化のため、査読論文で用いるような、質問者側のコメントと執筆者側の考えと方針についてとりまとめた。これにて審査会に関する対応は完了、であったが、もちろんこれで終わりではない。学期末に設定されている博士論文の合否決定に関する会議のための、審査用論文データの提出が必要である。
 
ただ、コメントをとりまとめ、改めてそのレジュメを冷静に眺めてみると、筆者の舌足らずな部分もあろうが、発表や論文が伝えきれていないことがまだ多々あるという事実から目をそらせなくなった。それは取りも直さず、書き切れていない部分があるということである。まだそういう部分があったかと慄然としたが、それはどちらかというと「書けばより輝きが増す」というプラスアルファな気づきであった。研究相談にて、年内には提出できると踏んでいた審査用論文データ(決定稿の修正版にして完全版)は、結構なブラッシュアップを行うかもしれないということを主査に宣言した。しかしその気持ちは、予期される作業量の割に多幸感があった。
 
なぜなら、なにしろもうこの後に、審査員が立ちはだかる大きな関門はないのである。あとは筆者が書き切ればよいというシチュエーションにおいて、やっとこさ書き手としての筆者の気持ちに火が付いた。この後は査読でも添削でもなく、著作であった。もう何度そうなったか分からないまっさらな気持ちで読み直して、説明が足りない箇所を徹底的にあぶり出した。特に第1章の質や量に改めて不足を感じ、既往文献をまたしても読み直して積み増した。本研究との関連性が薄めの文献も、「博士論文は決定版的論文たるべき」という基本理念を真摯に捉え、本質的に無理が生じないところでの可能な限り盛り込んだ。第1章を増やすということはそれ以降も大きな影響を受けるということであるが、気にはならなかった。ただこの土壇場において、かなりの時間を費やした。
 
この年の審査用論文データの提出期限は明けて2020年の1月6日であった。一見、年末年始を使えるのだから恵まれているように見える。しかし大学が冬期休業日から目を覚ますのも同じ日、1月6日であった。つまり年を越した場合、1月6日その日しか提出ができないのである。もう何度目かの「チャンスは一度きり」である。危ないので年内提出を優先するという手もあったが、かつてないほど論文の所有者意識が沸騰していたため、全力を尽くすことに決めた。これではまだ終われない。終わってはいけない気がした。あるいは審査会後になってまでここまでの修正を施そうということ自体、出来が悪いだけなのかもしれないが。
 
年末年始、Mステもアメトークもご長寿早押しも紅白も笑ってはいけないもジルベスターもCDTVもサッカー天皇杯も格付けチェックも箱根駅伝も高校サッカーも大学ラグビーもニューイヤーコンサートもながら見で済ませ、用語の齟齬や注釈番号の再チェック、そして主に第1章の加筆にひたすら明け暮れた。この論文は自分のものなんだよ、との意識付けの下、読み通してまた読み通して過不足を補正した。さすがに徹夜はしなかったが、ぐっすり寝ることはないお正月となった。なにしろ完成しているのだけれど、完成していないのである。いよいよ頭おかしくなってきた感があるが、それを決めているのはもう紛れもなく筆者自身であった。自らの手にやっと返ってきた論文が、この土壇場で愛おしくなってきてしまった。完全版の最新版はただちに変わり、結構な大きさのサイズを持つファイルがひとつまたひとつと増えた。
 
そして改めて思い出したのが、上野先生の「博論は指導できない」という呟きだった。博論に限らず、7年も指導してくださっていて指導できないは逆説が過ぎるが、ここに至るまでの論文の進捗を俯瞰するにつけ、その意味がやっと理解できた気がした。研究者かそうでないかという視点において、純然たる学生への指導は「正解の教授」の要素が強いといえるが、研究者に片足を突っ込んでいる学生に対しては学生側からの出物が議論のスタートであり、その指導は極論すると「内容の同意あるいは不同意」という選択肢しかない。もちろん実際は指導教員の意向(同意あるいは不同意)も大きな重みがあるのだが、特に研究テーマの可動域を大きく取っている上野ゼミにおいて、博士論文の指導とは二人乗り自転車のハンドリングを学生に一任する程度には一蓮托生の展開とせざるを得ない。まあ色々もっともらしく書いたが、そもそもこんな情緒不安定、取り扱いに困るに決まっている。主査の職務とはいえよく放り投げず付き合ってくださったものである。御礼を尽くしても尽くせないが、その思いはすべて謝辞に込めたのでクリアしたとしよう。いずれにせよもうさすがに終わりが近い。たぶん。
 
2020年1月4日朝、年末と正月のすべてを犠牲にして磨き上げた博士論文決定稿の修正版にして完全版の第5版が編み上がった。理想としては提出のために事務局に赴くことであるが、郵送可とあったこと、当日に雪で動けなくなるなどの不測の事態を考慮するとむしろ郵送の方が安全性が高いと判断し、追跡可能な宅急便で郵送(発送)した。そして念には念を入れ、1月6日その日には事務局へ電話で到着の確認を行った。お正月明けで郵便物が堆く積み上がっていてよくわからないとのことであった。どうしようもないのだが、確認が取れていないという一点で肝を冷やした。しかしその後到着が確認され、めでたく受領となった。それをメールで把握したのは居ても立っても居られずに結局とこキャンに向かうことに決めた最中の、確か西武池袋線の車中だったかと思う。
 
これにて完了である。しかしまだ安心はできない。これから月の下旬に行われるらしい合否判定まで、何が起きるかわからない。あるいは合否判定までに何らかの不備が判明すれば、直ちに修正作業に入らなければならない。当然合否判定に何かしらのサジェスチョンが付けば、終わりはさらに後ろ倒しになるであろう。まだ何も終わっていないのだ。
 
しかし論文データ提出からの半月程度、時間が空いているといえば空いているので、ある意味恩返し的な意味で久々に、そしておそらく最後となる、学部ゼミの運営業務に携わった。この時期は卒論生にとっても大事な時期である。提出方式がウェブ経由の電子提出となってもなお、提出を済ませるまでは4年生の緊張がほぐれることはない。卒論提出と前後して、院生は卒論発表会の準備に入った。主には藤沢ゼミの川越さん、武蔵小杉ゼミの西松井田さん(仮名)、上野ゼミの新大久保くんと筆者が知恵を出し合って乗り切った。個人的にバーンアウト気味であったことも原因で、発表会にてこの期に及んでシャキッとしない卒論生になかなか強く言えない瞬間もあったのだが、
 
「ちゃんと言ってあげてください!まさゆめさんまで、だらしないほうに合わせることはないんです!」
 
と川越さんに喝破されて完全に目が覚めた。その通りだと思った。恩返しどころかさらにお世話になってしまった。もし次があれば、今度はちゃんと言おう。
 
2020年1月29日、研究科長より博士論文合格通知がもたらされた。課程内正規性(3年)の学位授与は3年間の在籍が確定する3月15日が正式な学位授与日となるとのことだった。たぶんこれで本当の本当に合格である。しかしまだである。もう慣れた。まだ終わりではない。最後に仕事が残っている。原稿データをはじめとする書類一式の事務局への提出である。最終かつ不可逆的なチェックを行い、提出のための一式を揃えた。
 
翌2020年1月30日、合格した博士論文原稿の最終確認と提出許可が教員から下り、筆者は公開用論文データ、そして大学発行の紀要「人間科学研究」に掲載する論文要旨原稿データを大学事務局に提出した。博士論文担当の事務局員が様々なチェック項目を確認し、博士論文に関するすべての課題はこれにて完了となった。本当にお疲れ様でした。と事務の人に頭を下げられ、こちらこそと同じくらい頭を下げた。ゼミ室に立ち寄ると、川越さんが相変わらず在室していた。最終の提出を済ませたことを報告すると、我がことのように喜んでくれた。間違いなく筆者の10倍は実績を積み上げるであろう川越さんにだいたいの歴史的瞬間に立ち会ってもらったのは記念になる。
 
帰り際、100号館の屋上から見上げた冬の青空は、かつてないほど透き通っていた。これで、終わったんだな。
 
終わったんだな。
 
終わったんだな。

 

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(初出:2021/02/03)