いんせい!! #25 NY!!

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夏合宿の終わりの記念写真も懐かしく思えるような、晩秋のある日の院ゼミでのことだった。その提案は、上野先生から唐突にもたらされた。
 
「まさゆめさん、ニューヨークでポスター発表しません?」
 

#25 NY!!

 
またこの先生はいきなり何を言い出すのかと内心仰け反ったが、せっかくなので食い気味に「面白そうですね」と対応した。急に話を持ってくるタイプの人は急に冷めるので、なるべく熱を冷まさない対応が重要である。上野先生からは事のあらましと、実現のために乗り越えるべきハードルについての説明を受けた。
 
これまで本コラムでは、日本という国に学会は日本建築学会しかないような書き方をしているが無論そうではない。文字通り言うまでもなく、地球上にはより個性的な学会が無数に存在している。筆者並びに上野ゼミの活動領域とリンクしそうな学会も、世界にはいくつも並び立っていた。その内のひとつの「EDRA(Enviromenmental Design Research Association、強引に日本語訳すると「環境デザイン学会」)」が、創設50周年を期に大規模な国際学会を開催するとのことであった。期日は2019年5月下旬、場所はニューヨーク・ブルックリンである。
 
日本建築学会の全国大会と異なり、EDRAはすべての投稿がチェックされるとのことだった。判断基準は内容の質というより、学会側が大会ごとに掲げているテーマとの合致度のようであったが、偶然にもこの年のテーマは、上野先生と筆者の取り扱っているテーマがすんなり収まるようなものであった。いけますよこれ。筆者の意向を聞くまでもなく上野先生の瞳は輝いていた。
 
少しこのときの個人的な状況をおさらいすると、D2も終わりが近づいてきた、博士論文ちゃんとやらなきゃ、などと感極まり始めていた時期であった。加えてW大での博士論文提出条件は「筆頭著者である査読論文2本以上」のみであり、他大では標準的なノルマとも聞く「国際学会での発表」は含まれていなかった。そのため余計なハードルじゃんかと考えないこともなかったが、博士課程としては挑戦を期待されているようなものでもあった。いずれにせよトライだけはしてみますかねということで、とりあえず取り組んでみることにした。
 
その効果はすぐに現れた。上手く書けなかったのである。元々英語が得意ではないという以上に、日本語としてもまとめられなかったのである。むしろ日本語では叙述トリック的にやり過ごしてしまえていた部分が、英語では一切通用しなかった。ベタな言い方だが、英語は日本語の機微なんて知ったこっちゃないのだ。まず分かってないじゃんと思い知り、母語で理解を深めた上で英語にしていった。親愛なる純粋日本語話者の皆様の多くが「英語分からない病」を罹患し続けていることと思うが、それは英語ではなくそもそも分かっていないかもしれないという可能性を当たってみても損はないとアドバイスしたい。
 
それっぽい英語論文(ただし分量は学会大会の「梗概」程度)を拵え、最終的には英文校正サービスを活用した。おいおい結局ドーピングかと思われるかもしれないが、英語論文には必要なプロセスだと反論したい。著者の英語力どうこう以前に、英語論文での各種表現に求められる質は緻密なのである。
 
例えば上野ゼミ2人目の博士である今市さんは、勤務する研究所内の英語話者に簡単な校正をお願いしているとのことであった。しかしその話者をして、論文投稿には必ず英文校正サービスを噛ませるということであった。論文はもはや語学力だけの問題ではなく、現在の英語論文に用いる表現として相応しいかの認証が必要なのである。親愛なる「英語こわい病」の皆様におかれては、日本国内でなにかと取り沙汰される「英語力」と「現在の英語論文」は別物であり、なおかつそれを追究する時間があるなら自らの研究の充実を図った方が意義深いかもしれない、ということを念頭に置いてほしい。
 
例によって期限間近となったが、上野先生と筆者の投稿は完了した。発表部門は「Visual Presentation」、要はポスター発表である。そして投稿したことをすっかり忘れ去っていた2月、「Congratulations! Your submission is ACCEPTED(意訳:来やしゃんせ)」のメールが2人に届いた。ジャイアンツが四球をもらったときの、あのお馴染みのファンファーレが頭の中で3回くらい鳴った。
 
正直、通過すると思っていなかった。しかし合格ってしまったものは仕方ないので、そのままポスター発表に入ることとなった。たまたま機会がなかっただけというだけであるが、自らの研究に関するポスター製作は初であった。しかしこれもたまたま研究テーマとの相性がすこぶる良く、作業はトントン拍子に進んだ。そして審査原稿と同様に校正サービスを利用し、万全を期した。
 
「ニューヨークですよ。いいなあ。ゼミ休んででも行きたい」
 
上野先生の怪気炎は止まることを知らなかったが、筆者はまだ実感がなかった。状況の整理の意味も兼ねて、とりあえず両者の予定や希望と学会日程を突き合わせながら現地でのスケジュールを策定することにした。
 
5/21:アメリカ入国
5/22:学会入場登録
5/23:学会参加
5/24:学会参加
5/25:学会参加(発表日)
5/26:各所視察
5/27:各所視察
5/28:アメリカ出国
5/29:日本帰国

 

なんと筆者にしては長期も長期、8泊9日のスケジュールとなった。学会は全日程をカバーするとして、視察は2日は取りたいよねとなった。また視察場所として、筆者は「ヤンキースタジアム」と「ハイライン」を希望した。なんだ視察と言いながら観光じゃないかと言いたくなるが、現地で研究に参画することもないので単純に興味を優先した結果である。つまり観光である。観光としか言いようがない。一方上野先生は現地の知り合いの先生と連絡を取るらしく、日程確定はペンディングとなった。
 
しかし後日、上野先生がテンションを急降下させ「数日遅れて合流という形にします・・・」と告げてきた。どうやら上記日程通りに動くと2週連続でゼミを飛ばすことになり、それはいくらなんでも問題が大きいらしい。しかし筆者は海外出張やESTA(アメリカ入国のための手続き)に関する申請を始めており、結局当初日程通りで渡航することを決意した。早めの入国としたのは北欧遠征時に直面した時差ボケ体質対策の意味合いもあり、上野先生のような駆けつけ一杯的な発表は難しいと踏んでいた。
 
ポスター原稿の提出とポスター発注(不織布への印刷)を完了させ、いよいよ渡航まで1ヶ月を切った。時系列的には博士論文中間報告会が終わり、いかがいたそうかなと考えていた頃合いである。筆者は単独行動日程での宿泊施設と航空チケットの確定を済ませ、地球の歩き方などでニューヨークの土地勘を養った。縦移動が地下鉄で横移動がバス。なるほど。
 
5月上旬には北欧でお世話になった片瀬白田先生の研究室の招きによって香港から来訪していた学生達を相手に、ポスター図案をスクリーンに写す形での疑似ポスター発表を行った。もちろん英語であるので、原稿とポスターの朗読で押し切った。直後には夏の英国での国際学会への参加を予定していた新大久保くん(12期・院生)も研究発表を行い、流暢というか口達者的なノリでやはり押し切った。なかなかな度胸の据わり方だなと、初めて新大久保くんに感心した。合わせて英語科目の「Oral Presentation」受講しておけばよかったなと思いつつ、まあなんとかなりそうな実感を得た。これで発表に関する準備は、整えられる限りであるが整った。
 
いや、まだ嫌な予感があった。英語が通じる国であるとはいえ、行き先は自由の国アメリカである。自由ゆえ何があってもおかしくないわけで、ただどうやら知人が滞在しているという情報も入ってきた。もうこれは研究がどうこうではなく、現地でお目にかかれればよいなということで、知人と連絡を取り、滞在前半の日程内で食事をセッティングしてもらうこととした。もちろん国内から持参できそうな日用品などは、詰め込めるだけカバンに詰めた。
 
渡航まで1週間を切り、同じ国際学会に参加する予定の上野先生の研究者仲間とLINEグループを形成した。どうやら上野先生は学会後の日程のどこかで、研究者仲間と共同で動く構想を持たれているようだった。そうそうたる研究者仲間の中に博士課程の学生が混じって大丈夫だったかなと思いつつ、持てるセーフティーネットはすべて持つべきだろう。
 
さあいよいよ出立である。待ってろニューヨーク!
 

国際学会初見参 in N.Y.

 

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結論から申し上げると、国際学会参加を十全に行うことは叶わなかった。到着初日はまるで好調であった自律神経が、滞在2日目から大暴走を始めてしまったのであった。それも最初のホテル(ブルックリン)からチェックアウト直前に突如発症したものだから、以後は地獄の底であった。どえらいことに巻き込まれた体で書いてしまったが、重度の時差ボケである。生涯初めての東回り旅行に直面した自律神経が、事態を覚知するタイミングから遅らせるというのは予想していなかった。序盤のエピソードゆえネタバレを容赦してほしいが、映画「ゴースト・シップ」でスパスパされた客も瞬間的にはわかんなかったんだろうななどと想像した。
 
そんなわけで最低限これだけはと学会の入場登録こそ済ませたが、頭痛と吐き気は悪化の一途を辿った。滞在2日目の夜に知人にセッティングしてもらった会食も叶わず、ただ知人は這々の体で合流した筆者の顔色を見て納得してくれた。以後丸1日、筆者はハイアットホテルの一室にて半死半生であった。低血糖の次元ではなかった。神経が完全にショートしたと思った。こんなに治りが遅かった時差ボケも初めてであるし、より安全なホテルをリサーチしてくれた知人は返す返すも命の恩人である。症状はやっと滞在3日目の夜に快方に向かい始め、そのとき現地合流を果たした上野先生の顔は小憎らしいほど元気そうであった。ちなみに上野先生は時差ボケを感知しないうえ、機内でも自由に眠れるらしい。どういう神経しているのだろうか。誠に腹立たしい。
 
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滞在4日目(学会2日目)、やっと回復基調に入った筆者は上野先生と共に学会会場へ向かった。会場はニューヨーク・ブルックリン地区にある「ニューヨーク大学タンドン校(NYU Tandon School of Engineering)」であった。とその前に、上野先生たっての希望でブルックリン周辺の散策を行った。二日時差酔い明けの身体にはかなりきつかったが、まあ記念にはなった。
 
午前から午後にかけては、上野先生と学会のプレゼンを聴講した。学会では様々なタイプの発表がなされていることを紹介したが、特に印象に残ったのが「Media Presentation」であった。印象に残ったというか、残ってしまったというか。
 
残念ながらネイティブではないのが弱いところであるが、メキシコの学生の動画の発表であった。公式プログラムにてアブストラクトは参照可能であり、どうやらラテンアメリカ諸国での低所得者の子供が受けるストレスの解析といった真面目な話であった。真面目なと書いたのは、BGMが日本語の歌っぽい何かだったからである。
 
もちろん日本人なので、日本語の歌が悪いということではない。ただどうしても日本語が聞こえてしまい、しかもかなり暗くてあんまり上手くない歌の音源であった。なんだこれ。気になって仕方なくなって全く話が入ってこなくなってしまった。プレゼン終了後、あの変な曲な何なのか教えてくれと訊きたかったが、ドツボにはまったのは聴衆の中で筆者だけだったようで、その手の質疑が行われることはなかった。
 
このセッションにおいてちょっと面白そうだなと思った発表は「通路の印象が気持ちの切り替えにどのように作用するか」といった内容だった。通路じゃなくても動けば気持ちが切り替わるんじゃね?と思ったが、面白い着眼点であった。ただ一番気になってしまったのは、発表者が日本人であったということだった。もちろん彼らには何の非もないのであるが、もうちょっと国際学会感が・・・
 
あくまで「Media Presentation」に限定した雑感であるが、発表内容のレベルは国内の学会大会と比較して図抜けて高い・・・とは感じなかった。確かにフィールドはだいたいがこちら(アメリカ)であり、アメリカ特有の事情による面白そうな研究もちらほらあったが、日本で同種の検討が為されていない、と言い切るほどの新しさがあると推挙できるほどの自信は筆者にはなかった。その意味ではメキシコの変な歌入りの発表は、聞いた中では研究を進める価値があるようには感じた。残された壁は言語だけである。まあそれが決定的な壁なのだろうが。
 
まあ(Media Presentationは)こんなもんかな・・・という顔を見合った両名は会場を出て、直後にLINEグループで繋がっていた研究者仲間と合流した。その中に烏山先生もいた。
 
一行はこれから、学会の中でもメインのプログラムのひとつといえるフィールドワークに参加することになっていた。
 

9.11 Memorial

 
EDRA50では多様な発表のほか、11のモバイル・セッション(要はフィールドワーク)を用意していた。その中の一つに、あの「9.11」に関するものがあった。
 
9.11について説明するには、このコラムは調子が軽すぎるので自重するとしよう。今回はその跡地での再開発計画やその理念について、設計者の話を交えながら学んでいこうというプログラムである。上野先生をはじめとする一行を含む数十余名は、コーディネーターの導きによってまずは地下鉄で現地を目指した。
 
自重するといいながら、あの日の衝撃は未だに忘れることができない。その日の午後10時、確か家族で「ニュース10」を観ていた。台風どうなったんだろうね、という話をしていたような気がする。ニュースの冒頭、堀尾アナウンサーが速報として、ニューヨーク世界貿易センタービル(WTC)に航空機が突っ込みましたと伝え、映像は現場を映した空撮に切り替わった。2機目の惨劇から先は、全く現実感のない映像であった。何かの間違いではと頭が処理に困っているところで、アクション映画を観ることがライフワークの母が「テロじゃないの?」と冷静に判断していた。あってはいけないことが、わずか数時間で次々と起こった。WTCへのテロによって最終的に2753名に及ぶ尊い人命が奪われ、ビルそのものも失われた。
 
その後アメリカは対テロ戦争に邁進していくが、WTC跡地も順次再開発されていった。筆者が訪問した2019年時点では、4つの超高層ビルが完成していた。超高層ビル群は、かつて2棟の超高層ビルが聳えていた場所を取り囲むように位置していた。
 

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そして2つの超高層ビルが聳えていた場所の跡地は、広場、博物館(メモリアルミュージアム)、そして2つの巨大な空隙によって構成されていた。
 

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広場は六本木にもありそうな品位ある色調で、その一角に「サバイバル・ツリー」と呼ばれる木があった。あの業火の中を生き延びた木で、そのように名付けられたという。
 
2つの巨大な空隙は明らかにWTCが建っていた位置で、穴はどこまでも深いように見えた。実際には底部も壁も水で満たされており、空隙の中の空気は永遠に洗い清められていくのだろうなと感じた。
 
なんだか急にしんみりしてしまったが、さすがにこの状況でハジけるメンタルは持ち合わせていなかった。ただ公園全体的には子供の楽しげな声などもこだまする明るい空間で、軍人さんが整列して記念写真を撮る光景もあった。しかし写真はサバイバル・ツリーを収めることが精一杯であった。何卒ご容赦願いたい。
 
さて、本題は一応モバイル・セッションである。今回は追悼は前提として、空間としてのWTC再開発に設計者はどう取り組んだかの話である。設計者と思しき人がコーディネーターに促され、話し始めた。うん、外なのでスライドが一切ない。ゆえにさすがに追い切れない。英語の科目に「Listening for Academic Purposes」の設置を強く望みたい。ポッドキャスト?もうちょっと眠くならないようなのがあると。
 
さすがに集中が持たないので、失礼にも参加者の顔と氏名を横目で観察していた。このモバイル・セッションでは、氏名が記載された参加証を首から提げる必要があったからである。結構東洋人がいる気がする。もしかして日本人かな。それは名前を観ればある程度分かる。よく考えると中国名や韓国名の日本人教授なども多くいらっしゃるのであまり意味のない類推だが、それでも氏名は確認したいなと思った。
 
参加者の中に、少しダンディーな妙齢の男性を見つけた。どうやらメモにペンを走らせている。すごくマメにメモを取っているようだった。本当に失礼ながらそれとなくピーピングさせていただくと、デッサンであった。なかなか剛胆な。そのまま目を名札に落とすと
 
「 R.Oiso 」
 
とあった。三度見した。え、あの大磯先生と同姓同名なんだけど。筆者の研究の超先達にして、筆者がずっとコンタクトを取ろうと考えていたあの大磯先生と。いや本人やん。絶対本人やん!
 
この旅最大の、いやたぶん海外で巻き起こったハプニングの中で最大級の驚きだった。大磯先生がおる!これはヤバい!と一人密かに興奮状態になった筆者は、とりあえず上野先生の所に行き「大磯先生いるんですけど!」と報告した。上野先生は「ああ、いらっしゃいますね。今日ずっといらっしゃいましたよ」とのことだった。いや知ってたんかい教えてくださいよ!と思ったし、そりゃモバイル・セッションを途中参加できないでしょ、とも思ったし、などなど色々突っ込みたくなったがなにはともあれ隙を見てご挨拶することにした。
 
設計者によるスピーチが一段落した後、大磯先生に突撃ご挨拶を果たした。大磯先生は見た目通りダンディーな方で、唐突なご挨拶にも関わらずすぐに打ち解けてくれた。デッサンを描いていたのは、素敵な景色や建物を見つけたときに忘れないためにとのことであった。研究者の卵視点では世界で一番会うべきだった方と、まさかWTC跡地でお初にお目にかかれるとは。WTCの皆さんありがとう。皆さんのおかげとさせてください。
 
その後はメモリアルミュージアム(博物館)に入館し、名もなき、いや名前も、名誉も栄誉もあるファイター達の苦闘の痕を目に焼き付けた。限りなく重いテーマを抱えていることはもとより、博物館としても上質な空間が実現されていることに息を呑んだ。
 
最後に跡地に密かに手を合わせ、モバイル・セッションは終わった。大磯先生とは地下鉄で別れたが、翌日以降の再会を誓った。
 
9.11で犠牲になったすべての方の冥福を祈ると共に、傷ついたすべての方の明日に希望があることを祈念したい。
 

魅惑のバンケットクルーズ

 
一旦ホテルに戻った上野先生とその仲間達はUberを活用し、ハドソン河の岸に到着した。そういえば今回が国際学会の50周年記念大会であったということをすっかり忘れていた。この日の夜、記念大会ならではのバンケットクルーズが催された。
 
今回使用されたクルーズ船は横浜のマリーンルージュに似た多層構造の客船で、船内はいっぱしのパーティー会場であった。一行はひとまず一団で着席し、しばしご歓談となった。まだ発表してないんだけどなと思いつつ、時差ボケが船酔いで再度悪化しないことを祈った。
 
離岸後、船内ではパーティーが始まった。ご飯は普通に食べられるレベルで、たぶん東京や横浜と大差ない。ほどなく船内中央の演壇的なスペースを使って、次回大会(EDRA51)の開催都市が発表されていた。次回はアリゾナ州テンピ(Tempe)とのことだった。アリゾナ州ってフェニックス以外に都市あるの?と思ったが、フェニックス都市圏の郊外都市であった。ま、ShutokenにおけるTokorozawaみたいな位置づけであろう。
 
合わせてよく聞き取れなかったが、学会50年の歴史を知る名物教授らしき先生が延々と喋っていた。学会の歴史を紐解くと、大会の開催地はそこまで大きくない都市が多く選ばれてきたようだ。しかし50周年はいきなり世界の中心・ニューヨークとした訳であるから、学会的には相当気合いが入っていると見える。本当に偶然だが、参加できてよかったのかもしれない。
 

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話も一段落し、再度のご歓談タイムとなったところで甲板に出てみた。船はハドソン河を下り、正面には女神像のあるリバティ島が見えた。進路左方にニューヨーク・右方にニュージャージーという二大都市に挟まれて、黄金色に光るアメリカを体感できた。田舎者としては、特別な景色だった。同じような景色がお台場から見えるのでは、と指摘してはいけない。
 
船はゆっくりと取舵を切り、ブルックリン橋とマンハッタン橋を視界に捉えた。しかしその辺りで回頭し、あとは来た航路を戻っていくだけだった。マンハッタン島をぐるっと回るのかなと期待していたが、それは難しいようだ。ただゴージャスな景色を二度楽しめるのだから、これでいい。
 
船内に戻ると、ダンスパーティーが始まっていた。あまりにも唐突に、そして自然にダンスタイムが挟まれるところに素直に驚いた。日本だとさながらビンゴ大会が始まるような雰囲気のところだが、さすがアメリカである。ダンスには失礼ながら割と妙齢の先生方が多く、そこに上野先生も自然と混じっていた。むしろ率先して何人か巻き込んでいたと思う。筆者は船内探索を再開し、だいたい全部回ったところで船が接岸した。
 
接岸後もしばらくはダンスが続いていた。上野先生も延々と踊っていた。そろそろ陸に上がりたいなと思い始めたところで、主催と思しき司会者が閉会のスピーチっぽいアナウンスを行った。それでやっと全員が我に返り、参加者達は続々と下船していった。何だかノリに置いて行かれた気持ちもあったが、総じては記念になるクルージングだった。
 
一行はふたたびUberを駆使し、それぞれの宿泊地に戻った。夜のニューヨークは危ないと聞いていたが、それは街区によるらしい。そういえば体調は、旅先で感じるものとしては標準的な疲れといえるレベルまで快復していた。翌日のポスター発表に、滑り込みで間に合いそうだ。
 

いよいよポスター発表

 
滞在5日目(大会3日目)、ようやっと学会出席の目的を果たすときがきた。「Display Poster」、ポスター発表のお時間である。数ある発表形式の中ではぶっちゃけ最もお手軽かつ注目度も低そうだが、初の海外発表にしてはよくやってると自分を労いたい。
 

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ポスター発表の流れは、午前中に指定場所にポスターを貼付し、午後の一定時間帯に在廊のうえ、質疑などに対応するというものであった。発表と異なり時間内は延々対応する可能性があるわけで、注目度の割には意外と疲れそうである。ポスターは問題なく貼付できた。と思ったら写真の掲出位置は間違っていた。堂々たる姿であるが、ほどなく本来の位置に移動させた。大丈夫大丈夫と心に言い聞かせ、在廊時間を迎えた。
 
時間開始後、ポツポツと入場者が現れ始めた。今回の形式は廊下周回型?で、長めの順路に転々とポスターが貼ってあるというものであった。そのためポスターや発表者間の距離はかなり離れており、正直盛り上がりには欠けた。その代わり、静かに観ていく人には親切な配置だったと思う。
 
筆者の発表にもっともテンションを上げてくれたのは、褐色の肌と金髪が美しいエキゾチックなお姉ちゃんだった。言うべき事は一応ポスターに書いてあったので、それを読み取って「なんて面白い研究なの!」と喜んでくれた。喜んでくれたのはいいが、あまりに早口なのであんまり上手く返せなかったのが悔やまれた。ただお姉ちゃんもそれを認識してからは、道行く人に「これ面白いのよ!」と勝手に説明を始めてくれるようになった。うん、もう彼女の研究になってしまうやもしれん。
 
説明代行業を果たすこと数分、お姉ちゃんは最後に説明していた男性を連れ立って唐突に立ち去った。どうやらカップルか、少なくとも何かの仲間だったようだ。アメリカのお姉ちゃんはすげーなーと思いつつ、筆者に中途半端に英語を喋れる能力があってナンパみたいなことにならなくて良かったとちょっとだけ胸をなで下ろした。
 
以後はかなりゆったりとした時間が流れた。最終日であるから無理もない。ポツポツとやってくる観覧者には全力でカタコトしつつ最後は押し切った。なにより押し切るのは大事である。終盤にはフロアにほとんど観覧者がいない状況を察知して、他発表者のポスターの確認を早足で行った。
 
なにしろ早足かつ全編英語のため雑な印象となるが、レイアウトの概念があまりないポスターが目立った。書きたいことが多すぎて書き切れないのはよく分かるが、そんなにびっしり書いていたら日本語でもなかなか読まないよなというものが結構あった。あるいは発表者不在時に観覧者が情報不足とならないような配慮かとも考えたが、誘目性という意味では微妙だよなと感じていた。
 
実は筆者はその点にかなりこだわり、文字数を抑えることを念頭に置いてデザインしていた。とはいえスピーチ能力のゴミさを考えたら、むしろ筆者こそびっしり書き込んでもよかったのかなと思うに至った。ポスター発表、なかなか奧が深い。まあでも今回についてはお姉ちゃんが釣れたし、きっとそこにはデザインが影響したと思っておこう。
 
およそ1時間後、ポスター発表の終了時間を迎えた。撤収前には学会関係者のスピーチと記念撮影が行われ、筆者にとって初の国際学会発表も終わりを告げた。
 
完全撤収後、会場前には大磯先生とその研究者仲間が揃っていた。大磯先生は約束を覚えてくれていた。てかそれより上野先生の仲間に大磯先生の仲間もいた。その仲間さん達が連絡を取り合い、夕食を共にすることとなった。色々と出来過ぎているが、むしろ出来上がっていたところに筆者がやっとたどり着いたと言った方がいいだろう。
 
夕食はアジア系料理であった。ニューヨークに来てそれはどうなの・・・と思ったが、美味しかった。
 

ハイライン・イベント

 
その後筆者と上野先生は、それぞれに視察したい場所を適宜協調しつつ攻略していった。滞在7日目、いよいよ最後の視察日となり、両名はヤンキー・スタジアムでの視察(野球観戦)を経て、ハイラインに移動した。
 

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ハイライン(the High Line)。かつて貨物線であった高架構造物を遊歩道にリノベーションした施設で、その全長は2km以上に及ぶ。現在ニューヨーク・マンハッタン地区の中で指折りの大規模再開発が行われている「ハドソン・ヤード(Hudson Yards)」から南方の「ホイットニー美術館」付近まで続いている。
 
さて、筆者が鉄道施設好きであり建築環境好きであり実は廃線跡好きであることはだいぶ仄めかしてきたと思う。そういう人間にとってこの施設は、盆と正月とハロウィンとクリスマスが一緒に来たような記念碑的施設である。これはヤバいですって。もはや身体が完全にNYに順応した筆者をよそに、しかしヤンキー・スタジアム視察で満足した上野先生は少し倦んでいた。それでも指導教員としての顔もあり、じゃあ歩きますかと歩み始めてくれた。
 
この施設の偉大さを簡潔に示すのは難しい。言えるのは「この景色が観られるのはおそらく世界でここだけ」という事実である。
 
環境心理学の用語に「高所感」というものがある。用語と言うまでもなく高いところからの眺望または高いところからと見える景色とその心理を指す。高所感と開放感は似ているが、「高所感」は見下ろす先にも大きな空間が広がっている部分に差異がある。
 

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さて「ハイライン」における高所感を考察すると、一見すると高所ではない。それどころか歩道の両側にはより高層の建築物が並び立ち、歩道部分はさながら谷底のような安定感がある。一方で視界は歩道が延びる方向にのみ開け、そこには凝縮された開放感がある。そして歩道から地上との距離を感じたとき、ハイラインは紛れもない高所であることを認識できる。そんな奇異な条件が取り揃ったハイラインからの景観は、安心感と開放感と高所感が入り交じった、もう「浮遊感」としか説明し得ない独特の感覚を与えてくれる。これはエモい。
 
そしてそのエモさは、ビルや道といった周辺景観の変化で歩くごとに変化する。開放感だけは不変と思いきや、ビルの階下をくぐり抜ける箇所もある。そのいずれも、かつて貨物線だった名残である。それを示すように歩道部分にはかつて貨車を支えた線路が横たわり、その周辺を自生した草花がそっと包んでいる。これはエモい。
 
貨物線の廃路線ということで、当初は解体も検討されていたという。しかしパリのプロムナードにインスピレーションを受けた設計者が、貨物線跡を遊歩道にリノベするという一大アイデアにたどり着いた。今やハイラインは年間数百万人が訪れる、NYでも指折りの観光スポットとなった。その主役はかつて存在自体を疎まれた廃施設であり、どこにでも生い茂りそうな草木であり、NY独特の稠密な高層建築物群であり、施設への応援を続けている市民である。ただだたエモい。エモいとしか言いようがない。さあ行こう、この極上の歩道の終点へ。そしてそこにたどり着いたとき、目指すべき次の行先さえも見えてくる気がする!
 
空腹が限界に達したらしい上野先生が「下りて、ご飯食べに行こう」と言い出したのは、ハイラインの4分の3くらいまで来たときであった。色々言いたい気持ちを抑えてめちゃくちゃ渋々応じた筆者は、上野先生が推薦されたというハンバーガー屋が近くもなんともなかったことも含めていたく腹を立てた。なにしろ、ハイライン行き切って戻ってきてもまだ短かったんじゃねというくらい歩いたし。筆者の予想を遥かに超えるハイライン愛に気づかなかった上野先生はさすがに少し申し訳なさそうにしていた気がするが、ハンバーガーは確かに美味しかったので機嫌はすぐ直った。
 
しかしこの「ハイライン・イベント(ハインリッヒ・イベント的な意味で)」を期に、筆者は主査(上野先生)の指摘に時に真っ向から言い返す難物学生に化けてしまった。しかしいかにもバンカラ心をくすぐるイベントをようやっと起こせたと言う意味では、これこそがアンロックのための確定演出だったのかもしれない。帰国後から本格化した主査との丁々発止が、やや硬直していたスジ立てのストレッチに大きく貢献したこともまた疑いない。
 
いいっすよ。また絶対行ってやるんだから。
 
時差ボケからハイラインまで、地獄も天国も味わい尽くしたNYの8日間はこうして幕を閉じた。あの晩秋に筆者に誘いを持ちかけ、筆者に一生の思い出をいくつも作らせてくれた上野先生にはもちろん感謝している。
 
★Intermission★ NYでの旅の記録については、元々別所にて旅日記として公開していました。本コラム公開にあたり、改めて本コラムとの仮名等の統一作業などを行いつつ、近日中に本ブログスペースにて再公開予定です。当初公開時にお読みになれなかった方、改めて全編確認したくなった方など、ぜひお暇なときにお楽しみいただけますと嬉しいです。また本ブログスペースでは、過去の旅日記につきましても、気分次第で再掲載していきます。どうぞお楽しみに。宣伝でした。
 

そして博士論文公開審査会ふたたび

 
国際学会とWTCが結んでくれた大磯先生との縁は、帰国後も続いた。そして筆者の公開審査会の聴講者の中に、大磯先生の姿もあった。筆者よりも何年も前から何倍もの速さとバイタリティーで走っておられた大先輩から、興味深い研究ですねと言っていただけたことは、卒業論文から続く7年間の集大成として、これ以上ない言葉になった。
 
そして話は、それだけでは終わらなかった。ありがたいことに審査会後の食事会にも出席していただけた大磯先生から、またしても嬉しい驚きがもたらされた。
 
大磯先生「そうそう、気になったことがひとつ。この研究であなた(筆者)が作った用語」
 
筆者「はい」
 
大磯先生「この英訳、○○○○○○(今までの)より◎◎◎◎◎◎の方がいいんじゃないかなと思って」
 
なるほど。参考にいたします。いや、どうして誰も気づかなかったんだろう。
 
後日上野先生とも協議し、最終原稿では大磯先生の指摘を反映させることが決まった。大磯先生の最後の一押しで、論文の両目が完全に開かれたと確信した。
 
 
飽きっぽい筆者に息づく数少ない習慣に、小ぶりな手帖の持ち歩きがある。取り立てて目的を与えているわけではないが、あらゆる場面で活躍してくれている。習慣化を意識してからでも、何十冊かは溜まっていると思う。とはいえこの習慣自体は、さほど珍しいものではないだろう。メモの取り方で仕事の出来が変わる、という熱い主張を行っている書籍もあるくらいだ。
 
最近はスマホのメモ機能を使う機会も増えたけれど、筆者は相変わらずだいたいの場面で持ち運んでいる。あえて差異を示すとすると、手帖への書き込みは内発的な動機に基づくことが多い。つまり状況に書かされるのではなく、自ら書く(描く)ということである。SNSもまた内発的動機によって形にされた言葉であるが、手帖への書き込みは人に読まれることを毛ほども考えていないという部分で決定的に異なっている。日記とも違うから、未来の自分にも容赦ない。何でこんなラリったこと書いたのかという言葉も多いし、けれどそれを読み解くのは楽しい。
 
少なくとも筆者の持つそれと同じような意味合いの手帖を、NYでの大磯先生も、実はメモ魔の上野先生も、他の多くの先生も持っていると気づいたのはちょっと嬉しかった。実際には形や大きさ、媒体はなんでも良くて、とりとめのないことを書き留める場所の存在が、何らかの原動力となっているのかもしれない。特に博士論文を執筆していて詰まっていると感じた時期は、手帖への書き込みも止まっていたことを後に認識した。詳しい理屈は分からないが、実は原因と結果は逆で、手帖への書き込みが止まることで行き詰まりを感じていたのかもしれない。
 
ならば手帖への書き込みは、続けることに意味がある。そういう思いもまた手帖に書き留めながら、博士論文の決定稿の修正版にして完全版は編み上げられていった。時期が来たら、積み上がっただけの手帖の記憶も形にしよう。
 
もう書き加えることのない手帖を繰るたび、きっとあのときのニューヨークの空気が蘇る。

 

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(初出:2021/02/04)