復刻ぼへみあ:楽園なりニューヨーク・中編(2019)

※本記事は2019年6月に「note」へ投稿した記事のリライト版です。本記事公開後に執筆した「いんせい!!」と登場人物名を合わせるなどの修正を行っています。

 

#7
 

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朝4時にしてニューヨークの空は白んでいた。

 

東京のシティホテル並みの清潔感と格調に支配されていたこのホテルを、重厚な時差調整の一環で予約したことは幸いであった。地上階には朝食を提供するレストランもあり、問題なくエッグベネディクトを注文することができた。チップを自ら書き込むシステムについては「地球の歩き方」で学んでいたから、少し見得を張って20%相当を支払った。強面の給仕が少し微笑んでくれたから、たぶん正解なのだろう。

 

チェックアウトは午前11時であったが、この体調では少し早めに出ても問題はないだろうと思えた。素晴らしい朝である。あまりの快適さに、いっそ一週間居たい気持ちになった。名残惜しさを感じながら荷物を詰め、チップを少しだけ多めに置き、出発前最後のシャワーを浴びた。ベッドでリラックスしながらアメリカのテレビ番組を陶然と眺め、背伸びか何かをしたタイミングであった。

 

例の亭主である。ものすごい剣幕と共に。

 

突然の疲労感と頭痛、吐き気、なにより久しく体験したことのないような眠気が同時に襲ってきた。自律神経氏、恒例のご立腹である。しかも話せば分かるというレベルではなく、薬でもやってるんじゃないかと言わんばかりの錯乱ぶりであった。当然この大立ち回りは胃腸界隈も一気に上気させた。とりあえず常備薬を服用してみたが、効果は限定的であった。


そう、ついに時差ボケがやってきたのである。

 

思い返せば、誤算は機内食から始まっていた。日本時間の夕方に出発した便は、日本時間午後7時過ぎに第一食を提供した後、日本時間午前4時頃に二食目を提供した。筆者はろくに寝ていない状態ながら、初めてのアメリカという高揚感で疲労を忘れ、日本時間午前7時頃にホテルへのチェックインを果たした。要は朝8時前に寝たのである。そのまま寝るには寝たが、変な時間にご飯を食べていたこともあり、十分な質の睡眠は確保されていなかったのかもしれない。いや、むしろ、環境は良かったため、睡眠の質は良かったのだと思う。そうではなく、睡眠の時間帯が問題であった。朝ご飯を食べたかと思えば朝に寝て午後に起きたのである。おかしくなるに決まっている。快適な環境と心理的な満足感に覆い隠されていた詐欺行為に、勘の鋭い我がフィジカル夫妻が気づいてしまったのがこのタイミングであった。

 

それからというもの、旅程は劇的に暗転した。チェックアウト時はまだ朝食で摂取した栄養が行き渡っていたのか問題なくこなしたが、以後の行程は絶望的な頭痛と吐き気、疲労感や腹痛との格闘であった。時差調整、はっきりいって大失敗である。何のことはない。過剰な取り組みに加えて「機内食を食す」という一瞬の油断が、時差ボケの発症を遅らせただけなのだ。更に言えば半端に遅らせた分、カウンターパンチを受けたかのような衝撃を実感していた。バーリトゥードであれば、慎重な試合運びで優勢に進めていたところをローキック一発で倒され、あっという間に馬乗りからタコ殴り不可避という絶体絶命の状況に追い込まれた。

 
10:00 学会開催地

 

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一泊目のホテルから学会会場は歩いて10分程度の距離にあった。当初からまずは会場の下見と入場登録を行おうと考えていたため、これは予定通りであった。校舎は日本の一般的な大学のように敷地が柵で囲われていることはなく、校舎前の広場は市民に開放されていた。木漏れ日が心地よいベンチで、しばし呆然としていた。初等教育の子ども達が集団で散歩を行っていた。年金暮らしかなにかの老人はベンチでゆっくりと本を読んでいる。平和の白い鳩が飛び交うような雰囲気の中、頭の中はLeave me alone, pleaseの一言でいっぱいであった。


そもそも、時差ボケという言葉はなぜこんなにも暢気なのだろうか。ボケているのは事実だが、認識が不足している訳ではない。むしろ変調を必要以上に認識しているからこその惨事である。何か言い換えられないのであろうか。こういうときは何かと役に立つウィキペディアを検索すると、時差ボケの別名として「時差症候群」「非同期症候群」があるらしい。生ぬるい。何が非同期か。もっと直接的な名前が必要ではないか。例えばこの症状は乗り物酔いなどと酷似しているから、「時差酔い」はどうだろうか。時間という概念に酔っているのだ。なかなか言い得て妙だと思ったが、今それを考えるべきではなかったかもしれない。この言い方は自らのサーカディアンリズムが千鳥足になっている事実をバッサリと指摘してしまう。直接表現しないことで救われるものもあるのだ。おかげで騙し騙しやり過ごしていた夫婦の怒りが、また少し身に迫ってきたように感じられた。
 
11:00 ジェイ・ストリート・メトロテック駅(Jay St. MetroTech)からマンハッタンへ

 

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さて、この日からいよいよ地下鉄探索を始めようと思う。乗りつぶしにあたっては、運営公社が提供している「アンリミテッドチケット」を活用することとした。アンリミテッドとは要は乗り放題切符で、磁気カード(メトロカード)にアンリミテッド期間を登録することで改札を通れるようになる。期間は金額によって変わり、今回は7日間乗り放題(32ドル)を選択した。なおメトロカードを持っていない場合は1ドルで発行される。今回は事前に磁気カードを院生仲間(川越さん(仮名))から譲り受けていたので、1ドル浮かすことができた。川越さん、ありがとう。ちなみに切符には他にシングルチケット(1回券、要は片道切符)もあるので、特に乗りつぶしの必要がない人はそちらでも構わないが、マンハッタンの中を右往左往しようと少しでも考えるのであればアンリミテッドをお勧めする。

 

校舎の最寄り駅であったジェイ・ストリート駅からマンハッタンへは、地図では青線で描かれているA線・C線か、オレンジで描かれているF線のどれを使ってもたどり着くことができる。地図を確認していただければ一目瞭然であるが、マンハッタンとブルックリンの間には実に7本もの地下鉄路線が掛かっている。しかもこの7本というのは物理的な数で、系統を勘案すると実に16路線が設定されている。それだけの往来があるのかもしれないが、意味が分からない。こういう場合、たいていは歴史的経緯によるものである。日本でも西武鉄道の小平市から東大和市にかけての一帯は、シミュレーションゲームで建設ルートを誤ってしまったような珍妙な路線網となっているが、これらは路線の建設史を紐解くとある程度は納得することができる。ブルックリン周辺の路線網もそうした歴史があることが推察された。ここではF線を選択し、途中で4・5・6号線に乗り換えた後、次の宿泊地のある14丁目(ユニオン・スクエア)へ向かうこととした。
 
 
#8

 

12:00 14丁目・ユニオン・スクエア(14St Union Square)

 

マンハッタン上陸に際し、主に「地球の歩き方」で習得したマンハッタンの基本情報のいくつかをここでご紹介する。

 

・縦に長いマンハッタンは、下行きがダウンタウン(Downtown)、上行きがアップタウン(Uptown)
これは語感からもイメージされることである。実際に上部に語義の似たアッパーマンハッタン(Upper Manhattan)地区があるが、下行きはどこでも「ダウンタウン」、上行きは「アップタウン」となる。要は南行き・北行きである。
 
・街路の縦筋はアベニュー(Avenue:番街)、横筋はストリート(Street:丁目)。番号は右or下から順に増える
これもニューヨークに限ったことではないが、覚えてしまうと楽である。京都でも大昔は「条坊制」という都市計画システムの元に横筋(条)と縦筋(坊)を言い分けていたというが、マンハッタンでは「1811年委員会計画」にて決められた、アベニュー(縦筋)とストリート(横筋)に関するルールが現役である。ルールによると、原則としてアベニュー(番街)の数字は右から左、ストリート(丁目)は下から上へと増えていく。これにより数字だけで大雑把な位置を把握することができる。例えば150St.といえばマンハッタンのだいぶ上の方であるし、2nd Ave.は「とにかく東の方のアベニューだ」ということがすぐつかめる。ただしこの付番ルールの策定以後に「1番街」より右側に作られたアベニューにはアルファベットが振られていることや、数字そっちのけで固有名が与えられているアベニューやストリートもいくつかあるなど、例外も存在することは頭に入れておいて欲しい。

 

・ほとんどの地下鉄線はマンハッタンを縦断している
マンハッタンの形状から、鉄路による移動需要は横より縦の方が旺盛かつ有意義である。そのため多くの路線はマンハッタンのアベニュー(番街)の下を通っており、マンハッタン内の任意のスポットに向かう場合に乗る路線は、目的地が位置するアベニューに応じて決めると好都合である。なお横移動には例外的に地下鉄路線が存在している箇所を除けばバスが便利で、メトロカードのアンリミテッドチケットがあればこちらも乗り放題である。

 

・ブロードウェイは碁盤目を切り裂くジョーカー的通り
原則として碁盤目で構成されているマンハッタン街路の中で異彩を放っているのが、島を撫で斬るように走っている「ブロードウェイ」である。ブロードウェイ(Broadway、広い道、大通りの意味)という名の通りは全米各所に存在するが、マンハッタンのブロードウェイは碁盤目の秩序を超越したジョーカー的存在といえる。しかしこの貴重な斜め動線が、マンハッタン内の移動をより円滑なものとしている。

 

・多数の「住区」名称がある
マンハッタンにはエリアに応じた様々な住区名称がある。ミッドタウン(Midtown)、ローワーマンハッタン(Lower Manhattan)などは分かりやすいが、ほとんどはオリジナリティのある名称となっている。ただ名称が示す範囲は結構あいまいで、広さもまちまちである。用があれば覚えた方がよいが、すべてを一気に覚える必要はない。実際の住所では先述の番街・丁目に基づくルールが上位であり、そちらを頼れば目的地にたどり着くことができる。

 

・サウスブロンクス地区、ハーレム地区には近づくな
ブロンクス(Bronx)地区はマンハッタン島を出た北側に位置する地区である。元々は富裕層が居を構える地域だったようだが、特にサウスブロンクス地区は治安が悪化するようになったという。全体的には治安の改善したニューヨークといえど、サウスブロンクス地区とマンハッタン島北部のハーレム地区は今でも思わぬ災厄に巻き込まれる可能性があるらしい。なにしろ行っていないので本当かどうかは確かめようがないが、本当だったらそれはそれで手遅れとなるので、ここは本の情報を信用したい。

 

実は「サウスブロンクス地区に近づくな」という注意喚起は、職員会議で申し合わせた小学校の先生のような定型句として随所で紹介されていた。だからこそ結構ガチなのであろう。こうなってくると実際に確かめたくなるのが日本男子の矜持であるが、一身上の都合により今日のところはミッドタウン以上の探索を諦めることとした。

 

さて、14丁目ユニオン・スクエア駅(14St Union Square)は、その名の通り「ユニオン・スクエア」という公園の真下に位置している。ドミトリーはユニオン・スクエア駅から徒歩数分の距離にあった。入り口には、部外者完全立ち入り禁止の厳重なゲートが存在した。頑迷そうな顔をしていたガードマンにパスポートを見せつけてゲートをなんとか突破すると、学生が取り仕切るフロントに荷物を預けることに成功した。時差酔いによる頭痛と吐き気はこの段階でもかなり酷く、できればそのまま休みたかった。しかしチェックイン可能時刻(16:00)前に入り込むという気力も湧かず、一旦ドミトリーを後にした。ここで無理矢理部屋に入って休んでいれば、あるいは運命は変わっていたかもしれない。

 

13:00 グランド・セントラル・42丁目(Grand Central 42St)

 

休むことも他にすることもないので、地下鉄乗りつぶしを再開する。地下鉄の隅に押し込められて見上げるコピーは、呪文のようであった。14丁目から緑線を北上し、マンハッタンの中心地といえる42丁目の駅にたどり着いた。いわゆるセントラル・パークはここから更に北に行く必要があるが、まずはミッドタウンの探索に重点を置くことにした。この駅は表題の地下鉄駅のほか、一般の鉄道の終着駅(グランド・セントラル(Grand Central)駅)が同居している、まさにターミナル駅である。東京における東京駅のような存在で、実際に両駅は姉妹駅協定を結んでいる。ちなみに東京駅も仮の名前は「中央停車場」であったことや、両駅の駅舎の竣工年が僅か1年差であることを考えると、これほど「姉妹協定」が相応しい取り合わせもないだろう。

 

ただ今回は地下鉄の乗りつぶしが主要ミッションであるため、今回は42丁目駅に乗り入れている地下鉄探索に集中する。この駅にはマンハッタンでは少数派の、横筋(ストリート)沿いに走る路線と接続している。「7」という番号が与えられたこの路線は、マンハッタンのミッドタウンとニューヨーク東部のクイーンズ(Queens)地区を結んでいる。ただ7号線のホームは、ニューヨークの地下鉄の中ではかなり深い場所に位置している。これはこの42丁目駅から西に向かうルートが、比較的近年になって建設されたことに起因する。深いところに設置したために、乗り換えには時間がかかるが、ホームは御堂筋線の駅のような高い丸天井が施されている。おそらく、ニューヨーク地下鉄の中では異質な部類に入る路線であろう。ここではせっかくなので、新しいとされる区間の乗りつぶしを行った。

 

西に向かう7号線は、34丁目・ハドソン・ヤード(34St Hudson Yards)駅にて終点となった。乗っている時間は10分もなかったと思う。特に近代的な空間であったハドソン・ヤード駅を上がると、そこは再開発地区のど真ん中であった。

 

14:00 ハドソン・ヤード(Hudson Yards)

 

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ハドソン・ヤード(Hudson Yards)は、ニューヨーク西岸のハドソン河(実際はほぼ海)に位置するかつての工業地帯である。一体的かつ野心的な再開発が行われている、現在のニューヨークで最もホットな地区のようだ。地区内には最新のショッピングモールやマンション、プロムナードが整備されており、新しいニューヨークの顔を作り出そうとしている。

 

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いや、もうですね、気持ち悪いんですわ。このまつぼっくりがではなく、体調がです。おまけに陽射しは思っていたより厳しいし、観光客は結構多いし、ちょっともう長椅子とかで寝たいんですわ。少なくともこれ以上散策するのは無理というか、もう勘弁してください・・・

 

14:30 タイムズ・スクエア・42丁目(Times Square 42St)

 

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しかし休める場所があるわけではない。とはいえ徒歩で時間を稼ぐのは命に関わると感じ、ひとまずハドソン・ヤードと周辺施設の視察は見送った。正直やせ我慢して書いていましたが、グランド・セントラル駅だって、もう上下昇降がしんどかったので行きたくなかったわけですよ。色々見送りに見送って、特に考えがあるわけでもなくこの街区にいました。タイムズ・スクエア(Times Square)。ニューヨークでも指折りの中心道路である42ストリートと7thアベニュー、そして斜め目抜き通りであるブロードウェイの交点にあたります。そりゃ繁華街になりますわな。さすがに東京でも、このような一極集中交差点は思いつきません。地学的には3つのプレートの交点になっているのですが。そりゃ地震も多いですわな。

 

さて、ブロードウェイというといわゆるミュージカルの聖地ですが、この42丁目界隈のブロードウェイはそのブロードウェイです。何言ってるんだって話ですが、つまり劇場が並んでいるブロードウェイです。ただ、歌舞伎座の前を通っても歌舞伎がすぐ観られるわけではないように、ブロードウェイミュージカルも都合良く開いていることはありません。というか、時間も演目も知らずに通ったので入れなくて当たり前です。派手派手な看板を横目に、あてもなく歩いてみます。

 

タイムズ・スクエア周辺は観光客の聖地でもあるわけで、土産物屋も乱立しています。しかしどのお店に入っても、品揃えは豊富ですが同じような品が並んでいるのが少し悲しいところです。最近の日本の本屋のようです。

 

もうですね、暑いし頭痛いし気持ち悪いしそしてお腹が減りました。何もかもあるはずの場所で行き倒れようとしています。絶対におかしい。課題が十重二十重に襲いかかってくるときは、冷静にひとつずつ解決していくしかありません。この中でなんとかできそうなのは、お腹が減った、でしょう。ただ本場アメリカンの食べ物が、夫婦喧嘩状態の身体にとって優しいとは限りません。もうこうなったら取るべき手は一つです。日本食です。日本食を出す店を探すのです。でも繁華街とはいえ、都合良く日本食を出すお店があるでしょうか。

 

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ありました。これは仮面を被った一風堂でしょう。ラーメンといえば日本人のソウルフードです。しかもわたくしは豚骨ラーメンが大好き、出先で嫌なことがあれば帰りに豚骨ラーメンで忘れ去るというのが恒例行事になっていますので、渡りに船です。そういえばパリでも一風堂を見つけて入店して、日本の一風堂と変わらない味に感銘を受けたものでした。今回もこの大ピンチの場面で、助けを期待するとしましょう。

 

ダメだーおいしくない。たぶん一風堂が悪いんじゃなくて体調が悪い。というか大荒れの胃腸夫人に対して、こんな脂っこい料理は国籍関係なくダメでしょう。お腹は減っていたので、完食することはできました。できましたが、頭痛と吐き気に胸焼けが加わってしまいました。

 

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いや本当に冗談ではなくなってきました。実はこの彷徨の中でも、お土産を見たり面白い店がないかどうか確認していたのですが、頭を金属バットで殴られたような痛みです。そういえばまた昔の寮のエピソードですが、高校1年の頃に寮内で生徒同士の乱闘があって、頭を金属バットで殴られて失神した同級生がいたのですが、こんな感じの痛みだったのかなと思ったりしていました。とにかくまずは休憩です。ドミトリーです。ドミトリーに戻るのです。いくら寮といえど、ベッドくらいはあるはずです。そこでパワーナップ(短時間の昼寝)を行い、夜に控えている知り合いさんとのご飯に向かうのです。正直そこでものを食べられるか不安ですが、やるしかないんです。

 

16:00 ドミトリーにチェックイン

 

立場も時代も違うとはいえ、およそ18年ぶりの寮生活が始まります。預けた荷物を首尾良く受け取り、鍵を受け取って部屋に向かいます。そこで見た光景は。

 

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本当にベッド以外何もない空間でした。

 

もちろんある程度覚悟はしていました。寮に住んでいた人間ですから、私物を持ち込まないと生活できないのが寮であるということも、薄々感づいていました。しかし本当に何もない。

 

おまけにこの部屋はベッドが二つ、今回はここに一人しか通さないことが事前に示されていましたが、全く同じ作りの部屋が隣にもあり、そちらとシャワー・トイレは共用という状況でした。言いますよ。これ四人部屋です。四人部屋を二人で使っているだけです。鍵はベッドのある部屋ごとに掛けられる仕様ですが、最も鍵を掛けたい欲求に駆られるであろうシャワーやトイレは共用部にあるのです。もう一方の部屋の扉に外から鍵を掛けて出られなくすればよいのでしょうか。

 

部屋に戻ると、繰り返しになりますがベッドと机しかありません。ベッドもベッドの骨組みとマットレスに枕、フロントで渡されたリネン類のみです。リネン類は驚くべきことに、薄いシーツ二枚と枕カバー、そしてブランケットのみです。掛け布団はどこですか。いや、正直この季節なのでなくてもいいかもしれません。では敷き布団はどこですか。昔の寮でもマットレスに直寝はしませんでした。腰を痛めるので。ないのですか。ないならせめて、冷房は止めていただけませんか。寒いのです。スイッチはどこですか。後から聞いてスイッチがあることを知りましたが、荒廃状態の身体にこの仕打ちは耐えられません。これで100ドルですか。用心棒代としても高すぎやしませんか。普通は入る機会などない寮に入れたことは貴重な体験かもしれませんが、ガチの寮生活を過ごす必要があるなら、もうちょっと生活物資用意したわい。

 

それからの二時間、ひたすら睡眠を試みました。頭痛の頓服も飲みました。水分も摂れるだけ摂りました。しかし夫妻は頑として機嫌を直してくれません。おまけにこの寒さとなにもない環境。旅の二日目にして死を覚悟しました。ドミトリーよ。人生の青春時代を狂わせておきながらまだ足りませんか。もう十分です。二度と寮に泊まるなんて言いませんから。

 

#9

 

19:00 12丁目・ブルーノート前

 

結局知り合い二名と合流する時間となっても体調は戻らず、しかし欠席では申し訳なさ過ぎるので、這々の体で知り合いと合流することになりました。開口一番「体調、悪そうだねー!」と驚かれましたが、返す言葉もありません。人間、弱音を少しだけ解き放ちたい日があるものですが、今日がその日です。本当に申し訳ない限りです。協議の末、ご飯は諦めることになりました。ドミトリーよ、これが欲しかった結末ですか。
しかし知り合い二名の人間力はここから非凡でありました。

 

「そんなところ、抜けちゃいましょう」

 

19:30 ふたたびドミトリー

 

ブルーノート前からドミトリーまではタクシーで5分程度の距離でした。ドミトリー前に降り立った3人は、それぞれに動き出しました。知り合い二名は近くのホテルの探索、筆者は荷物の再整理による脱獄準備です。準備はすぐ終わりました。チェックインしてからというもの、昏倒していただけでしたから。18年ぶりの寮生活は、一旦2時間でその幕を下ろす形となりました。このときは情けない気持ちしかありませんでしたが、過去を紐解くとこれは必然だったようにも思います。こんな、寮アレルギーを満載したような人間は、間違っても寮を再体験しようだなんて考えてはいけなかったのです。

 

出口では知り合い二名が、ドミトリーから徒歩1分の場所にあるホテルをブッキングしてくれました。支払いを済ませ、部屋に入ったとき、終わる気配のなかった夫婦喧嘩が一瞬ぴたりと止んだ気がしました。そこにはベッドもカーテンもテレビもお茶もシャワーもトイレも洗面台もWi-Fiもあったのです。

 

助かった。大都市の中心部で感じてよい感情なのか分かりませんが、心からそう思えたのでした。

 

二人はこれだけでなく、「これから一週間の飲み食いに困らないように、色々教えておくね」と、近隣スーパー(ホールフーズ)や、アップルサイダーが美味しいユニオン・スクエアの朝市に関する情報を教えてくれました。あなた方は神か。残る気力を振り絞り、軟水のミネラルウォーターと消化の良さそうなものを買い込み、部屋に戻ることに成功しました。知り合い二名、もとい二体の神々とは近隣スーパー紹介のところでお別れとなりましたが、その存在は旅行中ずっと心の支えとなってくれました。御礼してもしきれません。日本に戻られる際は、ぜひお礼させてくださいね。

 

20:00頃 ホテル「HYATT Union Square」チェックイン

 

時差酔いに打たれダウンした夜、温かいコンフォーターがやさしく包んでくれたのでした。結局時差酔いとの壮絶な戦いは翌日夕方まで続き、現地合流した上野先生と食べた、ホテル1階のめちゃくちゃしょっぱいパスタを食べたところで収まったのでした。

 

#10

 

旅先で風邪を引き、楽しみにしていたアミューズメントを棒に振ったというエピソードは少なくない。新婚旅行でそうなろうものなら、夫婦初の大喧嘩が勃発し、それが夫婦最後の生きた会話となる恐れすらあるだろう。かくいう筆者も、新婚旅行は未体験であるが、旅先でダウンした経験は一度や二度ではない。特に思い出されるのは、およそ半世紀ぶりに開催された那覇でのプロ野球公式戦観戦旅行で、滞在二日目のほとんどを連泊のホテルで過ごしたという残念な記憶である。そのときの旅日記では、二日間ほとんど野球観戦しかしていないような書き方をしていたが、それが事実なのだから仕方ない。

 

滞在三日目。神々の配慮によってドミトリー死の心配は遠のいたが、つらさと痛みはすぐには消えなかった。しかし籠城していても状態は上がらないと判断し、意を決して身支度を調え、散策を行うこととした。以降、三日間の滞在で散策をタスクに組み入れ、体調回復を急いだ。

 

14Stユニオン・スクエア一帯は、不思議な街であった。

 

住区名称によるとこの辺りは「グラマシー(Gramacy)」「ノーホー(NOHO)」「グリーンウィッチ・ヴィレッジ(Greenwich Village)」と呼ばれる地域で、お洒落な住宅と観光客向けのお店が見事に共存している。東京の下町のような地域住民との距離感がイメージされるが、こちらはより多様な人々が一堂に会している印象である。ちなみにニューヨークチーズケーキが有名な「グラマシー・ニューヨーク」は、この地区をイメージしているのかもしれないが、愛知県の会社である。

 

今回お世話になったホテル(HYATT Union Square)とドミトリーは「ノーホー住区」に位置し、ブロードウェイを挟んだほぼ両隣の位置関係であった。実はドミトリーには上野先生が予定通り宿泊中であり、筆者は必要に応じてドミトリーに出張る形となった。またドミトリーのセキュリティレベルはドミトリーのくせに超一流であり、チェックアウトすることで以後絶対に入ることができなくなる仕様であった。そのため今回は、ドミトリーへのチェックイン状態も維持することを選択した。いわば宿泊場所の二股である。厳密に解釈すれば、この数日はドミトリーが予定通り「宿泊地」であり、HYATTは「ご休憩場所」であった。やや誤解を招くような表現だが、背に腹はかえられない事情があったのだから仕方がない。

 

さて愛人と本妻、もといホテルとドミトリーの間には、ハラル対応のホットドッグ屋台があった。ハラルとは書いてあるものの、普通のドッグも売っている。こうした屋台は街路の各所に点在しており、その絶妙な散り具合から察するに何らかの取り決めでもあるのだろう。まだ時差酔いが完全に覚めていなかった頃、意を決してドッグと紅茶を注文した。意外にも美味であった。少なくとも往時の横浜スタジアムのグルメよりは数倍もマシであった。

 

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また、ホテルから徒歩1分の場所にこのような名前の店があった。ポケモンGOに全力で乗っかりにきているのか?と訝ったが、実際にはハワイ料理を出すヘルシーなお店であった(POKÉはポケモンでなく、ハワイの郷土料理の意)。

 

さて、そろそろ視野を周辺に広げよう。


14Stのランドマークとして存在する「ユニオン・スクエア」の直下には同名の地下鉄駅があり、3つの路線が接続している。緑色、黄色、そして灰色である。

 

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ただその中の灰色の路線――L線という名前、であるが、そこかしこに派手なサインが掲出されている。最初にこのサインを見たときは時差酔いまっただ中だったためそれどころではなかったが、改めてよく読むと「20分に一本しか来ないよ」などと記載されている。端的には、あんまり本数がないからできれば他の路線を使ってね、ということである。ローカル線ならいざ知らず、都心の地下鉄路線でこれはどういうことなのか。

 

これも神が説明していたので要約すると
・L線は2012年のハリケーン直撃によって致命的なダメージを負い、当局は廃線の意向を示した
・沿線利用者が猛烈に反対した
・当局は思案し、順次直していくことを決断
・しかし徐々に直しているため、その間は運行状況が極端に悪い

 

ということのようだ。なかなか不憫な話である。理由には納得したが、それにしても直すのに時間が掛かりすぎではないか?


結局このL線に乗ることは諦めた。フラフラながらここまで地下鉄を乗り回してみて、どうやら基本的には同じシステムで動いているようであること、さすがに20分待つ気にはなれなかったことなどがある。またそういった閑散とした路線の駅はさすがに荒んでいるのではないか、という虫の知らせもあった。いつか健全さを取り戻したL線に乗れればと思う。

 

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ユニオン・スクエアからは多数の道が伸びている形となるが、付近にはチョコレートの専門店、セブンイレブン、オモチャ屋など、多様な店が並んでいた。実はニューヨーク土産について出発前から悩んでいたため、お土産探しを兼ねてこれら商店を散策した。

 

セブンイレブンは看板こそ日本でもお馴染みの三色であるが、中身は日本のコンビニとはおよそ似つかないものであった。確かにコンビニエントな品揃えではあるし、レジ横でセルフサービスのホットドッグ販売コーナーもあるなど、スーパー以上の個性も見受けられる。しかし日本のコンビニに標準装備されている弁当ゾーンは基本的に存在せず、陳列方法はSEIYUより雑多である。全世界でお馴染みの「I♥NY」が刻印されたマグカップも堂々と売られていた。コンビニエントと感じるものが、日本とアメリカでは相当に異なるのであろう。弁当という文化が日本特有であることももちろん重要な事実であるが、あってよかった、一気に用が済んだと思わせる品が日常レベルで異なっているという現実は、異文化への興味を初めて前向きに捉えさせてくれた瞬間だったかもしれない。ただこの場では品揃えの微妙さに気圧され、バナナとミネラルウォーターだけ買って出てきてしまった。

 

チョコレート専門店はネットでのニューヨークおみやげ関連記事でも取り上げられていた有名店であった。そもそもニューヨークとチョコレートに何の繋がりがあるのかよく分からないが、美味しければそれに勝るものはない。加えて今後、どのタイミングでおみやげを買えるか読めなかったため、おみやげの主力はここで買い込むと決めた。それが正解かどうかは、お土産を受け取った人にしか分からない。

 

アンティークなおもちゃを売っていた店もあった。面白い品揃えではあったが、これに関してはブロードウェイ沿いでも中野ブロードウェイの方が上手であると感じた。返す返すもあの空間は希有である。誰が必要とするのか分からないが、誰かは必要としているのかもしれない品で埋め尽くされた店が軒を連ねるフロアの下を、商店街の道の延長線上で通りかかる地域住民が日常的に通過しているのだ。サンモールを延々歩いているといつの間にか建物の中に居て、最後は雑居ビルの出入口を悠然と通過するというお馴染みの順路も含め、それ自体が一個の芸術作品であると思う。

 

さて最後に、中心地のユニオン・スクエア公園について紹介する。この一角は先述の通り、縦横の道に加えてブロードウェイが斜めに通っているため、景観上も大きなアクセントとなっている。後に調べたところによると、ユニオン・スクエア公園は不規則な交差点によって使い物にならなかった土地の有効活用が由来、とのことであった。ジョーカー、してやったりである。とはいえ、日本であればこのような交点も平気で五叉路として処理してしまいそうなところ、公園としたのはなかなかの英断である。ちなみに筆者が大学通学のためによく通る所沢という街には「金山町交差点」という五叉路があるが、こんなに分かりやすい諸悪の根源があるのかと言いたくなるほどに渋滞の主原因となっている。ユニオン・スクエア周辺の交通が実際どれほど円滑なのかは分からないが、見た目には穏やかに見えた。

 

話を神のご託宣に戻そう。神はこう告げていた。ユニオン・スクエア朝市のアップルサイダーを飲みなさいと。

 

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ユニオン・スクエア朝市。件のアップルサイダーが売っているのは毎週金曜日だけだという。きっちり8時に始まった朝市は、ニューヨークであることを忘れさせるような牧歌的な雰囲気に包まれていた。一言で、素敵な瞬間であった。自分は朝市に足繁く通うような人間ではなかったのだけれど、こんな清々しい気持ちが充満している空間で商売できるなら、それはそれで幸せだと感じた。生きていると云う事はこんな感じのもの、くり返しているようなそうでもないような。それこそ日本に帰ってから、朝市で売れそうなものってないかしら。

 

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アップルサイダーを見つけることは簡単ではなかった。同時並行で土産物を探していたこともあり、ものが良いかと同時に海外へ持ち出せるのかといったことも考えながらの散策であったことが災いした。特にメープルシロップには目を惹かれた。これは本当に美味しそうな逸品であったが、液体であるし、少し重量感があったこともあり、泣く泣く見送った。今思い返すと、もったいなかったと思う。

 

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なんとリスがいる。不自然な取り合わせのような気もするが、幸せに生きているならそれで良しとしよう。

 

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朝市を巡ること数十分。遂にアップルサイダーを見つけた。探索を始めたポイントのすぐ近くにその店はあったから、単に見落としていたのだった。絶品だった。うっま。超うまい。日本のリンゴジュースも絞りたてはうまいのだと思うが、このサイダーは美味であった。神はやはり神であった。

 

ユニオン・スクエア地域には都合3日間滞在した。そのうち半分近くは不調の時間であったが、それでも体感した居心地の良さを考えると、この街の魅力は本物である。もし次ニューヨークを訪れる機会があれば、またこのユニオン・スクエア周辺に宿泊し、今度はもっと広い範囲を探索しようと思う。スクエアに聳える微かな微かな木々の声が、また新しい発見を届けてくれるに違いない。
 
 
#11
 

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我が家に葵ちゃんが来たのは昨年6月であった。

 

知り合いのマッサージ師さんが自宅近くの駐車場で鳴きわめいていた子猫を保護したのが始まりであった。手に余らせたマッサージ師さんは我が家に保護を依頼し、保護シェルターまでのつなぎの役割を引き受けた。憔悴していたパステルサビ柄の雌猫は、適切な栄養補給と共に体調を取り戻し、警戒心をほどいていった。既に我が家には5頭の猫がいたために定員オーバーであることは承知していたが、葵ちゃんの我が家への帰属意識は保護1ヶ月で相当なものとなっていた。というかもう、里親に出すのは無理であった。

 

葵ちゃんが加入すると同時に、最古参の雌猫こまちが旅立った。猫サイトの運営を始めた頃からいたオリジナルメンバーがまた一頭旅立ってしまった。しかしその悲しみを和らげてくれたのは葵ちゃんであった。いつしか夜10時は葵ちゃんの遊び時間となった。我が家は数年前から完全室内飼いに移行していたが、葵ちゃんは物心ついた頃から室内しか知らない、我が家史上初の猫であったから、体力維持のためにも遊ばせなければならなかった。おかげで順調に成長した葵ちゃんは、この5月で推定1歳を迎えることとなった。

 

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葵ちゃんはなかなかドライなところがあり、おもむろに撫でると機嫌を損ねる猫である。仔猫だった頃から、ずっとこんなふうだった。現在我が家(チームへぼへぼ)に加入している猫(さいでぶん、しまやろう、かれんでぶん)はいずれも噛み癖のある武闘派であるが、葵ちゃんはそこに輪を掛けてドライであった。それでいて人から離れることは心細いらしく、いつも誰かの側に居た。

 

体調のどん底を切り抜け、やっと予定通りの活動を始められそうな気配となったとき、我が家から写真が送られてきた。ちょっとやつれた葵ちゃんであった。

 

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うわーん帰りたい!もう帰らせてください!

 

本当はこの10倍以上の分量で葵ちゃんクロニクルを書き連ねられるのだけれど、話がいよいよニューヨークでなくなってしまうので自重することにする。

 

#12

 

さて、旅もいよいよ中盤戦を迎えた。この期間は概ね学会関連の行事に費やしていたため、こちらに書けることが多くない(注釈:「いんせい!!」で書いています)。ただそれでは据わりが悪いので、隙間時間などを活用して訪れたブルックリンの名所について紹介していく。

 

<ブルックリン、ダンボ地区>

 

ダンボ (Dumbo) は、「Down Under the Manhattan Bridge Overpass」(「マンハッタン橋高架道路下」の意)のアクロニムに由来する、ニューヨーク市ブルックリン区の近隣地区のひとつ。この地区は2つの街区にまたがっており、ひとつは、いずれもブルックリンからマンハッタンへイースト川に架かる橋であるマンハッタン橋とブルックリン橋に挟まれた街区であり、もうひとつは、マンハッタン橋から東へ、ビネガーヒル (Vinegar Hill) 方面へと続く街区である。(以上 Wikipedia「ダンボ(ブルックリン)」)

 

ダンボというとどうしてもあの象さんを思い浮かべるが、こちらの実の由来はかなり無骨である。要は「サ高住」とかと同じ流れである。ダンボ地区を説明するにあたり、二つの橋について解説する必要があるだろう。

 

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・ブルックリン橋
ブルックリン橋(Brooklyn Bridge)は、アメリカ合衆国ニューヨーク市のイースト川をまたぎ、マンハッタンとブルックリンを結ぶ橋である(以上 Wikipedia「ブルックリン橋」)。

 

要はアメリカで一番古い大型の吊り橋である。日本が近代を迎え富国強兵に走り始めた頃から存在していると考えると、アメリカの当時からの勢いを感じさせる構造物である。ブルックリンといえばこの橋の存在を思い浮かべる方も多いと思われる。2層構造の橋の上段には、何のゲートもなく徒歩でアクセスが可能である。ブルックリンからマンハッタンまでは徒歩で1時間もあればたどり着くことができる。

 

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・マンハッタン橋
マンハッタン橋 (Manhattan Bridge) は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市のイースト川をまたぎ、マンハッタンとブルックリンを結ぶ鋼製の吊り橋である(以上 Wikipedia「マンハッタン橋」)。

 

こちらはブルックリン橋より後に架橋された、20世紀を代表する吊り橋である。ブルックリン橋と比較すると、全体が鋼製であることがよく分かる。なお二つの橋はどちらとも一方通行ではないので、「ブルックリン方面にしか行けない橋」「マンハッタン方面にしか行けない橋」という訳ではない。ブルックリン橋との大きな相違点としては、マンハッタン橋には地下鉄が乗り入れている。歴史上はブルックリン橋にも鉄道が通っていた時期があったようだが、現在は廃止されている。このためマンハッタン橋の真下にいると、地下鉄電車が通過する轟音をコンスタントに耳にすることになる。

 

これらスポットは前日にニューヨークへ到着したばかりの上野先生と共に巡った。やはり先生が同行ということであればきちんとしなければいけないかなと思い、引用してみた次第である。ちなみに賢明な学生諸君におかれては、こういうふざけた形の引用を本割のレポートでかますとコピペ探知システムが作動してしまうのでぜひ止めて欲しい。

 

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ブルックリン橋の上の景色である。両脇を自動車が、歩道も高速で自転車が通過するため、スリルがある。今回はマンハッタンまで歩き通すと学会に戻れなくなるため、ほんの切っ先だけの体験に留まった。ただかなりのピーカンであったから、行けと言われても体力的に厳しかったところである。それでも上野先生は時差ボケを全く体験しない体質であるらしく、その意味では危ないところであった。強い人は弱い人に、なぜ弱いのかの理由を求めようとするが、それを知ったところで弱い人に合わせることはないのである。

 

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ダンボ地区は再開発地域とあって、多くの観光客で賑わっていた。周辺は再開発前の時代の面影を残す、新古典主義的な商業建造物で構成されていた。随所に取って付けたようなバリアフリー対応スロープもあったが、取って付けた感が出てしまっているのはまだ改良の余地があるということかもしれない。暑い。

 

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マンハッタン橋の紹介に使った写真の撮影地では、なにやらカップルなどが盛んに写真を撮っていた。どうやらこのポジションが、マンハッタン橋の主塔の隙間にエンパイヤ・ステートビルを収められる構図であるようだ。THEインスタ映えである。一応撮るには撮ったが、さすがにここまでド直球なインスタ映えポイントを撮影するのはむしろ気恥ずかしさを感じてしまう。それと暑い。

 

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インスタ映えポイントを通り抜けると、イースト河に行き着いた。一帯は親水公園のように整備され、遊歩道や遊具が設置されている。この辺りの整備手法は日本と似ているのかもしれない。けっこう暑い。

 

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遊歩道を歩くと、奇妙な骨組みと透明なアクリル板で覆われたメリーゴーランドを見つけた。上野先生曰く、ジェーンズ・カルーセルという施設で、この入れ物は著名建築家ジャン・ヌーベルによるものとのこと。ちなみに後から調べて分かったことだが、中身のメリーゴーランドも年代物である。物語はわざとらしく作るのではなく、そこにあるものを掬うだけで成立する。ただ掬うという行為は、そこに物語があることに気づかなければ絶対に起きない。ゆえにこのような施設の存在は、図らずもニューヨークの懐の深さを指し示しているように思う。まあまあアツい。

 

かれこれ一時間は歩いただろうか。病み上がりというかまだ病んでいる身体にこれは効く所行である。収穫があったとすれば、脱水症状を恐れた筆者がとりあえず買ったスポドリである。なんでこんな色なのか分からない。水酸化鉄?硫酸銅?みたいなのも売っていたが、それが結構身体に合ってしまった。
 
 
<ニューヨーク交通博物館>

 

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ニューヨークに数ある博物館・美術館の中で、ここを訪れる観光客はよほどの物好きかひねくれ者であろう。かくいう筆者は物好きの方だと信じたいが、ニューヨーク地下鉄の謎を解き明かすために訪れた。ちなみに上野先生は筆者がよほどひねくれ者と映ったのか、同行してはくれなかった。

 

ブルックリンにある交通博物館は最初に泊まったホテルの最寄り駅「ホイト・スキーマーホーン(Hoyt-Schermerhorn)」からほど近い、旧「コート・ストリート(ex.Court Street)」駅のコンコースとホームを活用した形で存在している。旧ということは、つまり廃駅である。地下鉄で廃駅というとなかなかもったいない気がするが、なぜそうなったのかはずいぶん前に示した結びこんにゃくを思い出して欲しい。

 

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このぐちゃぐちゃの路線の真ん中、赤丸で強調されたあたりに、この交通博物館はある。どうやら、このぐちゃぐちゃを整理しようとして、結果的に廃駅が生まれてしまったようだ。

 

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地下鉄駅の居抜きであるため、当然入り口も地下鉄駅のそれである。入場には大人10ドル。

 

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ニューヨークの地下鉄の工事の歴史を示す展示物が出迎えてくれる。海底の割には固めの岩盤があったのが幸いだったのかもしれない。

 

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歴代の案内標識。これは貴重。

 

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歴代のバスの模型。これは貴重。

 

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歴代の地下鉄車両。これはもう超貴重。

 

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ニューヨークの地下鉄は複数の会社が乱立していた時代があった。それが第二次大戦において一社に統合され、現在は公社が地下鉄や鉄道、バスの運営を一手に引き受けている。結びこんにゃくの謎もこれで説明できるだろう。

 

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これは・・・Don't you see!ですね・・・(感涙
 
博物館の構造は旧駅コンコースを展示スペース、一つ下の旧ホーム部分には実際の地下鉄車両を展示するという合理的なレイアウトとなっている。実はニューヨークの地下鉄は基本的に構内の撮影が禁じられているのだが、この博物館の館内は撮影OKであった。そのため今後の資料として使えそうなものも含め、旅行前に望んでいた多くの写真を撮影することができた。

 

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あふれる程の思い出達も今の真実にはかなわない。今この博物館という存在が、思い出を真実にしてくれる。そういえばどこかの島国の交通系博物館では今、せっかく展示していた貴重な車両を、新しく入ってくる展示車両と入れ替えるという名目で続々とスクラップしている。真実を失う思い出への思いは、誰が引き継いでいくのだろう。

 

平日の午前の主要客層である子供の大群を後目に、展示物をひたすら鑑賞していた。いやあ本当に素晴らしい施設だ。ニューヨークに来てよかった!

 

#13

 

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ニューヨーク滞在五日目、極上の休憩施設:HYATT Union Square にいよいよお別れを告げるときがきた。期間の長さもあるとは思うが、これほどチェックアウトを名残惜しいと思ったことは久しぶりであった。フロントのボーイとは既に顔なじみのような感じになり、チェックアウトを笑顔で応じてくれた。ドミトリーの方はさっさとチェックアウトを済ませた。結局冷房のスイッチがどこにあるのかはわからずじまいであった。

 

この日は最重要タスク、学会での発表日であった。発表といってもポスター発表であるからそんなに大仰に構えることはないと思っていたのだが、海外での発表となるとそれだけで気持ちが張り詰めるものである。結果としてポスターデザインが上手くはまり、発表時間には何名もの人に興味を持っていただけた。道中色々あったが、出張目的については達成できてホッとした。

 

学会終了後、上野先生と筆者は次なる宿泊地へ向かった。先述のようにこのホテルは先生チョイスであったが、元々はもうちょっとグレードの高いホテルを予約していた。そのホテルを薦めてきたのが現地合流仲間の一人であるN先生であったが、推薦してきたN先生当人がよりリーズナブルな民泊を選択したことで立つ瀬をなくし、上野先生も衝動的にホテルを変えたとのことだった。いや、変える必要なくね?と思ったが、まあ仕方がない。

 

21:00「pod39」チェックイン

 

今度のホテルは、名前にあるとおり39丁目に位置する。39というとマンハッタン最大の繁華街:42丁目に近い場所で、最寄りの地下鉄駅も「42Stグランド・セントラル(Grand Central)」となった。最寄り駅が東京駅で、八重洲付近のビジネスホテルに泊まるような塩梅である。ちなみにグランド・セントラル駅には HYATT Grand Central が入居している。

 

チェックインすると、部屋の装備はHYATT Union Square と大差がないように思われた。しかしいざ寝てみると、隣のリネン室のものと思われるモーターの重低音が響くという罠が仕掛けられていた。加えて室内灯はラップ現象を起こし始め、実に不快な点滅を繰り返していた。Wi-Fiも繋がらなくなった。人の気配のする暗がりに身を寄せたくなるような不気味さであった。

 

これは再びHYATTご休憩モード不可避か。Grand Centralは高いだろうが、ラップ現象はないだろう。やってられっか、行くか!と気色ばんだが、驚くべきことに学会終了の安堵とニューヨークへの順応がこの逆風を大きく上回った。このような状況ではあるものの、意外なほどすんなりと熟睡することができた。あとは仕事柄、心霊攻撃は一切効かない体質であるので、それも幸いしたのだろう。霊感の弱い人は強い人に、なぜ強いのかの理由を求めようとするが、それを知ったところで強い人に合わせることはないのである。


 

(後編に続く)