いんせい!! #12 院生!!

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夏の陽気も懐かしい真冬の年の瀬、束の間の惰眠を貪る昼下がりの新宿歌舞伎町の片隅に佇むルノアールに、筆者と数名の関係者が集結していた。
 

#12 院生!!

 

共同研究という名の即席チーム

ここまで「いんせい!!」を10回ほど書き上げ、大学院生になったという事実自体はいいとして、書いてることはだいたい学部生絡みじゃないか!という不可解な言いがかりがもたらされた。どこを読んでるんだと軽い憤りを覚えつつ冷静になって読み返してみると、なるほど、たしかにそうであった。
 
実際のところとしては「いーすく!」時同様、研究そのものの裏話は裏でも書くことが難しいことと、ほとんどの人に共感も理解もされないであろうことを見越している。いるのだがやっぱりちょっとは書いた方がいいかな、と思い直し、書けるところは書いてみようと思う。
 
さて、筆者の研究テーマは自力でどうにか出来る部分もあったが、テーマを取り扱っている現場の関係者と合流する方がよりよいだろうという流れになるのは自然なものであった。
 
上野先生はおそらく業界内でも顔が広く、かつ研究者としては抜群に人当たりがよいとあって、希望の関係者は割とすぐ見つかった。今思えば相当に運が良かったが、そのぶん求められるものが格段に高くなったことも逃げようのない宿命で、どちらかというと当初は後者の思いの方が強かった。一人でなんとかなるでしょ、なる無鉄砲な憶測は、知らないからこそなのかもしれない。
 
研究の展開を上野先生と練り上げた後、確かM1の夏前だったか、関係者との初顔合わせを行っていった。非常にぼかした書き方となってしまい申し訳ないが、顔合わせ会場には研究テーマに合致した会社の社員である羽田さん(仮名)、その関連の会社に勤める辻堂さん(仮名)が居た。
 
研究でも商売でも、ディールの成立には何らかの支払い、あるいは共有が必要である。打ち合わせによってなんと、羽田さんが同じ領域をテーマとした研究に取り組まれていること、その指導役として辻堂さんがお目付をしているという状況があることが判明した。
 
であれば一緒にやりましょうか。そうですねぜひ。よろしくお願いいたします。
 
成婚は一発で決まった。本当に運が良かったと思うし、とんでもないことになってしまったのではと感じた。
 
ここでの「一緒にやりましょう」について、雑だったのでもう少しだけきちんと説明すると、いわゆる共同研究というものである。共同研究というと非常に規模の大きな、例えば「製薬企業×大学医学部」のようなものをイメージするが、ごく小規模でも成立しうる研究形態である。そして規模の大小を問わずいざ共同研究となれば、まさに微に入り細に入り、関係諸氏と様々な取り決めを交わすことが欠かせない。
 
とはいえ今回の場合は大学側の責任者として上野先生が矢面に立つため、筆者が求められるのは顕著な結果だけであり、それはちょっとだけ気楽な部分であった。当然ながらかなり厳格な契約を締結しているので、これでも結構踏み込んで書いていることを推し量っていただけると嬉しいし、もし大学生である読者さまが携わっている共同研究が厳格にやっていなければ「気をつけた方がよいよ」とアドバイスしておきたい。
 
話を今回の共同研究に戻すと、最終的には羽田さん・辻堂さんに加え、近接領域を専門としているという関係で上野ゼミ博士課程の今市さんも合流することとなった。またいきなりの変更となるが、辻堂さんはこの後に教職関係へと転職されることになるので、以後「辻堂先生」と呼ぶことにする。
 
上野先生を合わせた総勢5名の即席チームは、それぞれの目標達成のため、未知の荒波へと出帆した!
 
できるだけ大仰に書いてみたつもりであるが、この先はウルトラハイパー地味な、人目を忍ぶような打ち合わせが延々と続いた。そして打ち合わせによって各種調査計画が決まっていき、適宜実行されていった。なおこの際、筆者の行動の多くには、サバティカル中の上野先生が駆り出されていたことは書いておいてあげたい。
 
打ち合わせ会場は羽田さんの会社の会議室が主であったが、とこキャンが遠いこともあり、全員が集まりやすい都内各所で断続的に開催された。特筆すべきかどうかは分からないが、適当な会議室が見つからないという状況に追い込まれた際、頼られたのは「喫茶室ルノアール」であった。
 
ルノアールとは、主に東京山手線内とその周辺に多く出店している老舗カフェチェーンで、ホテルロビーのようなお洒落な雰囲気が魅力である。チームメンバーが頼ったのはもちろんそこではなく、当時としては画期的なことに、高等教育機関や研究機関所属者限定のローミングサービス「eduroam」が整備されていたことによる。このサービスの存在により、少なくとも上野ゼミ関係者はインターネットを活用することができ、打ち合わせの進展にもそれなりに貢献した。
 
加えてよく知られているが、長時間居てもあまり煙たがられず、それどころかしばらくするとお茶のサービスまで行ってくれるのがルノアールの素晴らしいところである。その歴史も(喫茶店チェーンとしては)古く、1970年代から都民や大学生に認知されている存在であるが、今も昔もまちに欠かせない喫茶店といえよう。
 
ただあまりに客単価が低いと申し訳ないという思いもあって、筆者はシビアな打ち合わせ中にもかかわらず、随時ショートケーキやら柚子ジャムトーストを注文していた。「まさゆめさんって甘党なんですね」と、羽田さんにやたら感心されたことを覚えている。いやあそれほどでも。
 

ゼミが抱えるプロジェクトへ

 
ディールの成立には何らかの支払いあるいは共有が必要、と書いたが、実はこれはゼミ内でもやんわり作用している法則である。
 
ゼミには教員を頂点に、何名かの院生と十数名の学生がぶら下がる構図であるが、特に院生は研究テーマがまちまちである。ということは、それぞれの研究の進展において、多くの人手があったらありがたいなーと思う局面が生ずることも避けられない。こうして筆者も、ゼミの関わる様々な「プロジェクト」への参加を余儀なく、もとい参加していく。
 
外部関係者との協業ということでは、都内某自治体主催イベントにて、客席や通路などの映像を撮影するというものがあった。令和の時代を迎えて誠にメジャーとなったが、多くの人を収める必要がある撮影に際しては、アクションカメラ「GoPro(ゴープロ)」が大活躍する。
 
ではGoProをどのように設置していくかということになるが、ここから関係者間において、所持台数・施設状況・カメラ性能・裏方人数・研究目標などを天秤に掛けながらの神経戦が果てしなく繰り広げられることになる。
 
例えばよくしたもので、本当によくしたもので、カメラというのは止まる機械である。では止まっているという情況を察知するにはどうしたらよいかと考えたとき、そのカメラを監視するカメラを用意すればよいのではないか、という突飛な案が出ることもあった。まあそれは面白いけどねと却下されつつ、結局台数は多いに超したことはないし、性能は高いに超したことはないという結論が導かれる。
 
ここで「カメラの更なる買い増しを求められている」と鋭く察知した上野先生は、今回の撮影で得るべき内容を洗い直しましょうと議論の軌道修正を試み、今の台数でなんとかなるように収めにかかる。こういう様々なレベルのつばぜり合いがセクションごとに何十回、何百回と繰り返され、研究計画は磨き上げられていくのである。
 
ちなみにこのプロジェクトにおいての筆者の役割は、カメラの設置や監視などの、単純な係員であった。格好良い言い方をすれば研究協力者であるが、誰でもできるのだけれどとりあえず手を挙げてみましたという内容の仕事は、実績と言うには正直苦しい。
 
しかし院生として、こういうポジションでの経験もまた、興味深いものであった。単純に事務方作業が意外と性に合っていたというのもあるが、現場側の苦労や問題点を知ることが、今後計画するであろう自らの研究の設計や遂行に少なからずの影響を与えると確信してのことでもあった。あと事務方を任せるには、結構ハプニングを起こしがちなので、周囲があんまりその役を与えてくれないというのもある。
 

院生参加のイベントへ

 
他の院生が主人公であるプロジェクトという意味では、スタッフとしてではなく、ゼミの関係者(=院生)という位置づけでイベントへのゲスト参加を行うこともしばしばあった。
 
例えば博士課程の藤枝さんが研究テーマとしている「オフィス」は、大企業からベンチャー企業まであらゆる組織が参画する可能性があると言えるが、学生にしてその中心に藤枝さんが居た。
 
自らの研究テーマと直接の関連がないイベントに顔を出す意義は大きく二つある。一つは自分の研究テーマの肥やしになるヒントが得られること、もう一つは新たな出会いの可能性である。前者は別にイベントでなくてもよいのであるが、意外と後者は予想外の展開をもたらすことがある。また直接的な効果とは言いがたいが、藤枝さん視点とすれば所属ゼミの関係者(しかも先生や院生)が同じ場所に存在するというのは、なにかと心強さを感じられることもある。
 

バランスを取ること。自分自身とも、関係者とも

 
ここまで書いてきて、院生としてやっていくための要件は何か、という問いがもたらされたとしよう。当然ながらそれは多岐に亘るが、厳選するならば、向学心と共に「バランスを取る(モデレートする)能力」を挙げたいと思う。
 
何と何をモデレートするかは、多くは周囲の関係者間相互のことであるが、そこに自分自身も必ず入れた方が良いだろう。また、バランスを取る行為においてなにかと陥りがちになるのが「自分さえ被っておけばよい」という発想であるが、自己犠牲にはえてして限界があるものだし、背負えない量を背負って案の定つぶれてしまう事態が招かれればそれは判断ミスである。つぶれてよい人などいないのである。
 
そしてモデレートを実現するためのリソースとして、お金や労働機会など可視化できるものはシンプルであるが、例えば相談機会の確保や互いの専門性の融通など漠然としたものも対象とできるように思う。むしろ後者のようなものを主とした結びつきが実現できれば、それは掛け替えのない研究者仲間としての絆となりうるし、その絆は仲間であるための努力を続けるモチベーションにもなってくれるはずである。
 
残念ながらこれ以上具体的な話に落とし込むと一般性が欠けてしまうので泣く泣く割愛するが、院生や研究者として末永くやっていきたいという人がもしこのコラムを読みふけるようなことがあったのなら、僭越ながら上に挙げた項目はぜひ意識して欲しいと願う。当然ながら、自分だけが楽をする、あるいは限られた人だけ楽をするという構造は持続可能性の観点からしても極力許してはならない。あと一歩だけ踏み込むならば、モデレートする能力とは一般社会でも相当に重要なものと断言できるのであるが、そのリソースとできるものの振り幅がやや広いのがアカデミックの素晴らしき特徴のひとつではないかと感じている。
 

TAのお話に戻ります

 
誰にでもそれなりに刺さりそうで、かつ誰も痛みを伴わなさそうなところの研究の話を書いてみたが、なんだかフリーサイズの服のような低廉感が浮き彫りになってしまったかもしれない。常々「『あの空に向かって』とか『夢を追い掛けて』とか聞き手任せと称して実質的に何の重みもない歌詞って本当にうっとうしいよね。マジお金の無駄、時間の無駄、存在自体が無駄」と随所で言いふらしている筆者にとって、この展開は少し恥じ入るべきなのであるが、あまり頑張ると本当にマズいので批判を甘受しながら次に向かうことにする。なるほど、フリーサイズ歌詞が得意なバンドは、きっと某かの契約を結んでいるのかもしれないと今気づいた。
 
閑話休題、院生の本文が研究であることは疑いない一方、TAに代表される各種運営業務も重要な役割である。特に学部生がつつがなく苦しみ、羽ばたいていくために、彼らが関知しないところでの補佐業務は欠かせない。
 
ここでは今一度、M1の冬(4年生:10期、3年生:11期)に舞い戻って、その軌跡を記録していこうと思う。
 

出された卒論は何処へ行く

 
通学制とeスクールで大きく異なるカリキュラムを導入している上野ゼミであるが、卒論のお約束は共に「本文60ページ以上」であり、要求水準も同等となっていた。そのため学部生が体感した紆余曲折の多くは、筆者が「いーすく!」で体感したものと似通っており、こと指導(正確には教員の指導補佐)においてはほとんど違和感なく対応できたことは救われる部分であった。
 
ただし提出までの関門の数という観点でそれぞれを見比べると、教員と教育コーチを納得させれば直ちに本提出(大学への卒論本文データの提出)が叶っていたeスクールと異なり、通学制には「ゼミ内提出」というもうひとヤマが存在していた。
 
例えば春卒業の場合、その期日は12月下旬(年内最後のゼミ日)とされ、4年生は一旦は卒論地獄から解放されることになる。「冬休みはしっかり休ませたい」という上野先生の親心もあったらしいが、同時にここからが、教員と院生の出番である。
 
ゼミ内提出の真の目的、それは本文の添削と、剽窃のチェックである。後者:剽窃チェックについては、後年になって専用ツールが登場してだいぶ省力化された部分もあるが、前者:本文の添削は今しばらく人間にしかできない芸当であろう。ゼミ内提出では学生にデータではなく紙での提出を求めており、まずは院生が、続いて教員が内容を確認するという手筈となっていた。
 
やや誤解を受けそうなので補足すると、院生の添削は(できればよいが)さすがにアカデミック・ライティング作法の高度な徹底を求めるレベルではなく、明確な誤字や不適切表現や論理展開の破綻などの指摘で十分とのことであった。最終的には教員が読み直すため、悩んだらとりあえず指摘する形でも構わないし、質の責任を院生が負う必要はないとも言われていた。
 
それでも、である。みなさんはこれまでの人生で60ページの文章を添削したことがあるだろうか。それもプロや文章好きの人間が書いた、いわゆる細部まで気の利いた文章でなく、露骨に負のオーラが溢れる文章をである。これは本当にきつい仕事である。後ろ向きな文章というのは、前に進ませてくれないのである。
 
筆者がM1のときの卒論に限って回顧すると、学生12名に対し添削作業に荷担できる院生は3名という陣容であったため、院生1名あたり4本の卒論が割り振られることとなった。これを12月下旬の年内最終ゼミで受け取ってから、およそ1週間の超短期決戦にて、教員(烏山先生)に引き渡さなければならなかった。予定としては年明け最初のゼミにおいて学生に添削箇所つきの本文を返却し、修正のための時間的余裕を与えることとなっていたのだが、そのために教員の本添削時間を確保する必要があったのだ。
 
日本中のカップルが「クリスマスプレゼントは私!」などと浮かれる12月24日、そのうちの何割かのカップルが「何やってんだろ私」と急に我に返る12月25日と、筆者はひたすらに赤ペン先生していた。彼らが一生懸命書いた文章であるから、文意は最大限尊重しなければならないと思いつつ、伝わってくるのは「とにかく早く楽になりたい」という思いばかりなのも心を苦しくした。
 
あれ、去年で卒論は書ききったはずなのに、なんでこんな追い込まれてるんだろ。
 
暮れも押し迫った12月30日午後、新宿歌舞伎町のルノアールに、烏山先生と添削担当の院生3名が集結した。歌舞伎町を合流箇所と設定した理由は特になく、全員にとってたどり着きやすい場所がたまたま新宿だった、というだけの話であった。実は筆者だけ遠くから来ているのであるが、この年の瀬に所沢までのドライブは死のリスクが高く、それからすれば鉄路での新宿往復はさほど大きな負荷ではなかった。
 
添削内容の大まかな解説、そして共有を経て、引き継ぎは滞りなく終了した。烏山先生はこれから全員分の卒論を持ち帰り、最終添削を始めることになる。きっと大晦日から三が日一杯はかかることだろう。卒論添削は数あるTA業務の中でも屈指のハードプログラムであったが、もっとも厳しいのは教員その人であるという事実を認識し、幸せに年越しを迎えられることを安堵した。
 

卒論本提出と合同卒論発表会の企画

 
年が明け、結構な量の添削コメントを眺めてあからさまに目つきが悪くなった10期生一同も、いよいよ本提出の日を迎えた。W大の場合、本提出の日はたった1日だけ、100号館の第一会議室と決まっていた。午前10時の受け付け開始を前に、一刻も早く楽になりたい学部4年生が今か今かと列を成し、その列は同じ階の廊下を網羅するほどであった。この日をどういう形で迎えるかは各ゼミ室、各学部生の事情にもよるが、既に完成した状態で当日を迎えるのが正常である。正味9ヶ月くらい、事あるごとに突っぱねられ続けた上野ゼミ4年生も、見事に全員が卒論を完成させていた。
 
午前10時。卒論本提出の受付が始まると、重圧から解放された4年生が満面の笑みで散っていく。ごく一部、書式の不備を指摘された学生などは青い顔をしてそれぞれのゼミ室に戻るのであるが、まだ午前中であるから挽回が可能である。ちなみに受付時間は午後4時までで、この時間を1秒、本当にたった1秒でも過ぎると当期での卒業は認められないルールとなっていた。だからこそ多くの学生が午前10時前に列をなし、一刻も早く提出しようとするのである。ギリギリで提出して不備を指摘されたら本当に終わりなのである。
 
実は上野ゼミのゼミ室は、提出会場の第一会議室からそう遠くない距離にあり、4年生は列が解消されたのを確認して提出に向かえるような余裕があった。こういう恵まれたロケーション、はっきりいって何の面白味もない状況であると、なにかと企画してみたくなるのが人間の性である。
 
筆者「こういう提出ものって、一番最初に提出した人より、一番最後に提出した人が勇者じゃない?」
学生「と、いいますと?」
筆者「午後4時の何分前に出せるかチキンレース!」
 
学生は何のリアクションも示さず提出会場へ向かっていってしまった。藤枝さんだけちょっと面白がってくれたが、烏山先生は全く笑っていなかった。おのれ、わしらがどれだけ時間を掛けて添削したか、少しはおもんぱからんか!!
 
まあ書いているのは彼らであるのでその言いがかりはスルーするとして、院生にはまたこれから大きなタスクが待っていた。それは卒論発表会の準備である。上野ゼミにおける卒論発表会は、同一領域の2ゼミ(藤沢ゼミ、武蔵小杉ゼミ)との共同開催を恒例としており、まずはその3ゼミの院生が打ち合わせを行うこととなった。記憶力の高い読者の皆さまは当然結びつくかと思うが、いつぞやのスクーリング(ジョンソンタウンと武蔵豊岡教会見学)と、全く同じパッケージである。
 
藤沢ゼミからは博士課程の院生(伊豆稲取さん(仮名))、武蔵小杉ゼミからは修士課程の院生(偕楽園さん(仮名))が上野ゼミのゼミ室にて集合し、当日の役割分担などを話し合った。3ゼミ合計となると30名前後の4年生が存在することになるが、当然、全員に発表機会を与えなくてはならない。発表と質疑時間は教員の専権事項のため院生が考える必要はないが、設定された時間内でどのように発表枠を割り振るかは院生の管轄とされ、意外と難しい作業であった。
 
例えば学生の中には単位取得がギリギリになっているため、発表会当日にも科目の受講や試験を控えている者、中には遠路はるばる本キャン(早稲田)に行かなくてはならない者も混じっていた。一方で質問方(教員+ゲスト)の負担を軽減し、かつ会の進行をスムーズにするという効果を得るために発表テーマのジャンルはある程度固めておくことが望ましい。この年は最年長の伊豆稲取さんが素案を検討し、不都合の有無について各ゼミ関係者が吟味の上、最終案を決定するという流れとなった。
 
続いて当日においては、院生は主には会場のマイクの融通とタイムキープ、司会進行や配付資料の確認などが求められる。他にも各ゼミで求められている提出物の管理、発表予定者の誘導や発表者スライド不調時の応急サポートなど、地味ながら多様な作業を行う。こういった雑事の多くは学部生自身が行うことも多いが、彼らの晴れの舞台でもある卒論発表会を確実に回すため、裏方業務を院生が行うことは理に適った配役と言える。
 
発表会が始まると、発表後にさきの論文合宿であったような、手厳しい質疑が先生やゲストから飛ぶ。主には異なるゼミの先生が多く質問する流れとなっており、特に割と突拍子もない質問が飛んでくると、あの地獄過ぎた合宿での八つ裂き体験が生きてくる。正直あそこまで殺られる必要はないし、殺られたからといって本番での成功は保証されていないのであるが、自らの過去の屍を背もたれにした10期生の背筋はあのときより遥かに伸びていたように思う。
 
筆者はというと、この年は大きな役割は与えられなかったが、2年目では司会や質問者も担当することができた。
 
そう、自らが発表しない発表会において院生が学べること、それは質問である。これも二つの意味があり、一つは他人(教員・ゲスト・院生)の質問の方略の勉強、もう一つは自身の質問能力の研鑽である。難しい質問に答えるのが難しいのは当然であるが、実は最もテクニックを要するのは、適度な難易度の質問を手短に発することである。「良い質問」については今も考えている程度にはよく分かっていないのだが、聴衆にとっても納得感の高いもの、あるいは発表者が新たな展開に移行できるような「優しいツッコミ」として成立するものは良いものとみなせるかな・・・となんとなく考えている。
 
発表会が終わると、いよいよ大ラスの行事、打ち上げ(懇親会)である。元々W大や上野ゼミは懇親会が大好きで、スキあらばあられもなく打ち上がってしまうのであるが、発表会後の打ち上げは全員が密かに喜びを噛みしめるような独特の雰囲気となることが多い。ぶっちゃけ学生といえど、安堵感と共にかなり疲れており、もうこれ以上何かをする気にならないのであろう。
 
また打ち上げにおいては、それまであまり訊けなかったことを思わず訊けてしまうというのも醍醐味である。残念ながら「この中で誰が一番好き?」などといった加齢臭を伴う話ではない。そういう意味で思い出深いのは、10期の留学生・天竜川さん(仮名)が、同期の誰かから訊かれた問いへの答えである。
 
実は天竜川さんの母国は、我らが日本ととある島の領有権で揉めているという現在進行形の歴史を持っているが、おもむろに同期が「あなたはどういう立場なの?」と訊いたのだった。うちらのゼミに似合わないようななかなかインターナショナルかつセンシティブな話題で、アウェーである天竜川さんにとっては厳しい質問に思えたが、天竜川さんは笑みを浮かべながらこう即答したのであった。
 
「どうでもいい」
 
諸々の情勢、当人の立場など、総合的に勘案してこれは100点満点中200点の回答だと密かに膝を打った。一連のやりとりは、このときの発表会で聞くことができた一番良い質問と、その回答だったと思う。今は母国に凱旋してまた違う立場や考えとなっているかもしれないが、今後両国がどんな関係となっても、天竜川さんのことは信じようと思う。
 

 院ゼミも終わり、大団円

 
秋学期の締めとなる1月下旬は、学部ゼミのほかに院ゼミも大団円を迎える。懇親会大好きなW大としては、どんなワークショップの終わりでもいちいち打ち上げを行うのが恒例で、楽しいものなので筆者もいちいち盛り上がっていた。またこれは冗談ではなく、打ち上げの雰囲気によって進む話、開ける道が多々あった。
 
実は筆者は社会人学生になってから、愛飲する酒は養命酒だけという後天的下戸なのだが、それでも出られる打ち上げはすべて出ていた。最近の若者は「5000円払っておじさんの話を聞くのはハードルが高い」という考えが共感を得ているようだが、その程度のジャンプ力でよくこれから先やっていけると思えるよね、なんて小言が浮かんだりする昭和生まれである。
 
でもまあ確かに礼節が伴わない飲み会に出る必要はまったくない。酒乱などもってのほかである。今思えば出席した会においてそういったマイナスな思いを抱くことが一切なかったのはありがたいことであった。欲を言えば、カルアミルクとZIMAを呷って旅館の廊下を走るアクティビティーも、ほどほどがよいと思う。
 

と思ったら、ゼミ室の大掃除

 
秋学期におけるイベントがすべて片付いた2月某日、ゼミ室をシェアする上野ゼミ、藤沢ゼミの院生がゼミ室に集合した。今年度の汚れ今年度のうちに。およそ2ヶ月遅れとなる、暮れの大掃除である。
 
しかしゼミ室というのは、いわば研究の最前線であり、触れることすら躊躇するオブジェクトも少なくない。しかもとこキャンのゼミ室は、こんなにこんなにこんなに広い森に包まれたキャンパスであるのに、シェアコンセプトであることも掃除を難しくしていた。室内に点在する謎のレジュメ、出しっぱなしの実験道具などは、学期末に関係者が角突き合わせない限りは正体が判明しないケースも多かった。
 
しかしさすがに卒論を把握する院生が一堂に会せば、やっぱりこの発泡スチロールは出しっ放しじゃないか、あの野郎スチレンボードの切れ端を置いてそのまま卒業しやがったななどということが分かってくる。まあまだそれでも処分可否が判明すれば片付けられるのだが、たいていの場合、問題はこれだけでは解決しない。
 
ある年のゼミ室大掃除では、いつの年代のものか誰も分からないカメラやファイル、更に謎の記録装置が出土したことがあった。片付けようにも謎の何かがしまうべき場所を占めていて、意を決して棚卸しを始めてしまったことが、歴史的発掘調査開始のゴングを鳴らしたのだ。ファイル類については現役生の誰か一人でも判断が付けば処分ができるが、それ以前の話となると誰も責任を持つことができず、「とりあえずそのままで」と先送りされてきたことが読み取れた。更に言えばファイル類はまだ場所を取っていないが、古びたカメラ、なにより謎の記録装置は謎と言うしかない。
 
こういう場合、すべてを把握しているのは教員と決まっていることから、上野先生を召喚して判断させるのがベターである。
 
上野先生はどうやら、それが何であるかも、購入時いくら掛かったかについても認識しているようだった。しかも申し訳ないがそれらの機器、特に謎の計測機器類はどう見ても、動かないか今後現役で使うには時間が経過しすぎているような代物であった。それでもその日、上野先生から「じゃあ捨ててください」というゴーサインが出ることはなかった。どうやら上野先生は捨てられない人であるらしい。
 
このまま埋め戻しを続けてしまうとゆくゆくは藤沢ゼミに割り当てているスペースを浸食することも予想されるが、その時にはきっと筆者は学内に居ないであろうから、判断は未来の院生に任せたいと思う。
 
お昼過ぎに始めた大掃除も一段落し、時刻は夕方に差し掛かっていた。これにて本当に一年の締めくくりである。
 
最後はやっぱり打ち上げが設定された。ただし院生と教員だけとあって、大人しいものであった。話題は学部ゼミのこと・・・ではさすがになく、自らの研究のこと、これからの身の振り方のことなどであった。
 
大学院生という身分はつくづく不思議である。学部生からは先生の次に頼もしい兄貴・姉貴分でありながら、教員から見れば学生の亜種という程度のちっぽけな存在でしかない。加えて「同期」と言える大学院生は同じゼミでもなければ滅多に会うこともなく、その動向を知る機会も少ない。入学式でバカ笑いしていた彼らは元気だろうか。
 
何かの道を究めるにあたり、よくよく登場する比喩は「登る山」であり、それは多分に正解であると思う。しかし院生の研究活動をより端的に喩えるなら、退屈な地上生活と距離を置き、それぞれが魅入っている洞窟に降りていく探検家の卵とする方が相応しいように思う。特に学際的学問領域である人間科学の大学院というのは、前提も目標も異なるがため隣近所の様子すら杳として窺い知れず、そもそも互いの存在を認識し合うことすら簡単ではない。人間科学専攻の大学院生は、誰もが孤独であり、誰もが孤高の地底探検家見習いなのだ。
 
洞窟の降下には時に危険が伴う。取り返しの付かないことをしでかさないよう、様々な準備もぬかりなく行う必要がある。もちろん隣には凄腕インストラクター、つまりゼミの教員がいる。彼らもまたそれぞれが見つけた洞窟の地底探検家である。その服は、時に鋭い岩肌に抉られて傷つき、時に地底湖への着水によって濡れそぼっていることであろう。だから地上の教壇に立っている彼らはいつもどこか疲れていて、というかなんとなく薄汚れていて、だけれど専門領域の話となると急に目を輝かせながら延々と話し続けてしまって・・・
 
そう考えるとゼミ室が埃っぽいのも、なかなか捨てられないもので溢れるのも、洞窟探検の賜物と捉えるのであれば仕方ないのかもしれないな。
 
先の見えない漆黒の闇が、まだ先がある漆黒の闇に見え始めたような気がしたM1の終わりであった。いかん、早くメール返さないと。
 
 
 
(初出:2021/01/22)