いーすく! #12 eスクール!

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身体がだるい。灯りをつけないでそっとしておいて。今日という今日は、もう止めにするのです。
 

#12 eスクール!

 
締め切りを守るということの難しさは誰もが理解できることです。しかし、物事を完遂させるにあたり最も難しいのは、実は始まりをしっかりと始めることではないかと筆者は思います。
 
eスクールの場合、半期15週、通年ですと30週の締め切りと始まりがあります。仮に4年間在学するとなると、通算120週の締め切りと始まりに直面することを意味します。つまりeスクール生は在学中、自らの指で120回、登り坂へのスタートを切っているのです。実際は科目の数、映像チャプターの数だけ同じようにクリックしますので、体感的には遥かに多くの踏ん切りを経ることになります。そして孤独と向き合って、なだめて、新しい週の受講を始め続けているeスクール生は、もれなく勇者だと思います。始まってしまえば、あとはこっちのものです。学ぶしかないという意味で。
 

退学という美しい決断

 
一方で特に社会人学生の場合、社会人としてのステータスが優先される以上、卒業という完結作業を経ずに学生の身分を返上することもままあることです。生きていると転職や出産、病気やケガ、事故や破産や刑事訴訟だって起こりえるわけですし、その可能性を頭ごなしに否定することこそ不誠実です。各々の事情で純然たる社会人に戻るという決断を果たした友人を、筆者は卒業を果たした友人と同じように尊敬しています。もちろんその間を取って、休学という選択肢も有効です。
 
いずれにせよ大事なのは、続けるにせよ休むにせよ終えるにせよ、最後はそれを自分で決断したかどうかです。eスクール、通信という環境は、専門知識の習得と共に、スタートボタンを押すという訓練環境を与えてくれているのです。これは半ば自動的に過ぎてゆく通学制のカリキュラムとは違う、吹けば飛ぶような、けれど確かなオリジナリティーだと思います。
 
もし優柔不断である、あるいは、自分の進路を決めるのが苦手という方は、eスクール・・・ではなくてもよいのですが、通信制の学校、できればここまで書いた手前、eスクールの門を叩くことをお薦めします。迷うことがマズいのではなく、迷った上で決めないことがマズいのです。通信という環境は、それを少しずつ確実に変容させてくれる格好のシステムだと思います。
 
え?筆者はeスクール通いで、決断する力が上がったのかって?
 
うーん、残念ながらそれは微妙です。考えようによっては、決断する力がなかったからここまで来てしまったのかもしれません。特に、起き上がることも嫌になるほど、受講画面から遠ざかりたくなるような日々を何度も経てきた身としては・・・
 

チェーンソー殺人鬼、受講を思い出す

 
筆者が「Grand Theft Auto(GTA)」に出会ったのはeスクール3年目くらいだったと思います。このゲームについて簡単に説明しますと、ゲーム世界の中で展開されるストーリーに合わせてひたすらにミッションをクリアしていくアクションゲームです。しかしこのゲームの最大の特色は、ゲーム内の世界を自由に行動できる部分ではないでしょうか。
 
昨今こうしたオープンワールド型で、しかもオンライン対応のゲームは珍しくありません。しかしプレイ当時、少なくとも筆者には目新しい存在でした。常々「レースゲームでコースの外に出たい」「ファミスタの大草原球場のファールグラウンドの果てを見たい」「遥かなるオーガスタ(ゴルフゲーム)で隣のコースから打ち込みたい」「ウイニングイレブン(サッカーゲーム)でカードを出してくる審判をド突きたい」といった規格外行動の実現に思いを馳せることが多かった筆者でしたので、ゲーム内を自由に動け、自由に運転でき、自由に車を強奪し自由に発砲し自由に(以下自粛)というゲームは待望の存在でした。ちなみにCEROのZ指定ゲームですので、18歳未満のお子様は18歳になってからプレイしてみてください。
 
GTAも、当初はおとなしくミッションに取り組んでいました。しかし早々にアホらしくなってしまい、いつの間にか街中で何の脈絡もなく凶行に走る極悪チンピラと化すのがお約束となりました。もちろんゲーム内にも警察はいて、狼藉を働くとたちまち警察に追われる羽目になります。さらに「手配度」と呼ばれる警戒指数が上がると警察の殺意も強くなり、特に警戒レベル最大ではテロリストでもここまでされないんじゃないかと思えるほど弾丸の豪雨に曝されます。特にうっかり警官の命を奪ってしまうと、ヘリやら装甲車まで出てきます。確かにちょっと取り返しの付かない罪を犯したかもしれないですけど、か弱い一市民相手にすることじゃない。
 
しかしそこは一流のゲーム、公然の秘密として存在する手配度解除コマンド(チート)を駆使したり、そうでなくとも街の物陰で息を潜めていると、警察は罪を忘れてくれるようになっています。当然、市民も激しい銃撃戦があったことは瞬く間に忘れ、日常が戻ります。つくづく平和というのは則ち忘却であり・・・これ以上はややこしくなるので自重します。
 
ミッションはもはややりたくないが、お金は欲しい。歪んだ規格外志向から、最終的には通り魔的ライフスタイルを完成させるに至りました。まず、スクラップ工場?で拾ったチェーンソーを装備し、電柱を少し削らせていただいて車道に倒します。そうすると道行く車は突然の障害物の出現に立ち往生します。その車にチェーンソーを持って近づき、ちょっとだけ車体を削らせていただきます。そうすると車内のドライバーが怒って出てきます。そこをすかさず接近しチェーンソーでサクッとさせていただくと、だいたい10~50ドルほどを得ることができます。まれに手持ちの拳銃で銃撃してくる不届き者がおりますが、対銃撃戦では距離を取るより接近した方がこちらの受傷回数を減らせますので、そのまま適当に突っ込んで大丈夫です。しかもこういった者を首尾良く真っ二つにさせていただきますと、拳銃まで手に入れることができるのでお得です。このような凄惨なのに地味な集金活動を延々と続け、遂に家を購入(だいたい10000ドル)するまで頑張ったのは世界広しといえど少数派ではないでしょうか(アホすぎて)。蛇足ですが、現実世界のチェーンソーを抵抗する人間のような動く物体に当てると、上手く切れないどころか刃が跳ね返ってきますので絶対にお止めください。そのとき真っ二つになるのは相手ではなくご自身の脳天です。
 
血塗られたマイホームへの入居を果たし悦に入っていると、チュートリアル画面が出てきます。そこにはパソコンの画面と思しきシルエットが。
 
パソコン。そうだった。期限まであと2日じゃないか。
 
ゲーム内世界を震撼させたチェーンソー殺人鬼はふと我に返り、現実世界で安全工学(仮名)の受講をスタートさせるのでした。今週のテーマは緊急事態への対応、か。ふむふむ。
 

貨物列車タダ乗り犯、受講を思い出す

 
またあるときはGTAシリーズの最新版(5)が登場したと聞きつけ、例によってワールド内を駆けずり回る毎日を過ごしました。当初こそ種々の凶行や米軍基地への突入、ギャングを挑発しつつ警察に通報し、警察にギャング集団を殲滅させるといった非道な暗躍を繰り返していましたが、そういうのにも疲れ果て、ついにはワールド内のトラムや鉄道(貨物列車)の無蓋車に無賃乗車し、ひたすら流れる車窓を楽しむという仙人のようなプレイスタイルに到達したのでした。
 
お断りしておきますと、このゲームの主要交通機関は車です。しかしなにしろ車はタクシーでもなければ自力で運転しなければなりませんので、勝手に景色が流れてくれません。その点、列車はゲーム内世界で破壊不能のオブジェクトとされているため、無限に走り続けています。車窓や列車の屋根の上から眺める美しい街並みや自然は最高の癒やしなのです。
 
PS4版が登場してからはグラフィックの美しさに磨きが掛かり、ワールド内で最も高い山(チリアド山)の頂上でご来光を拝み、その様子を動画にしてfbに投稿するという意味不明な行動を起こしたことも今となっては思い出です。末期には車を強奪することすらためらい、チートで出現させた自転車(BMX)で色んな場所を回っていました。もう、ただの市民です。
 
しかしかのように悟りを開いた修行僧でも、時間の流れには抗えません。当然ながら時間とはこの場合、現実の時間です。スペイン文化論の受講期限まであと1日。サンアンドレアス・アベニュー(ワールド内の地名)ではなく、サンティアゴ・デ・コンポステーラ(現実にあるスペインの都市)について学ばなければ・・・
 

それでも追い込まれたときは

 
かのようにeスクールに取り組んでいて、逃げ出したこと、先延ばししたことは数知れません。時間割だの履修計画だの工夫しても、ダメなときはダメなのです。普通の学生でもそうですが、人生は学校だけではないのです。
 
筆者の脳は愚直な性質があって、ブーストをかけられる魔法の言葉がいくつかあります。その一つは「これが最後だから」です。そんなに目新しくないですよね。でも効果覿面です。この言葉がすごいのは、一定のインターバルさえ置けばまた使えるところです。「これが最後だから」魔法が効かなくなると、次は「これが最後でいいの?」魔法の出番です。なぜなら「最後だから」魔法を聞き入れないほどイカれている時は、最後までやっていないに決まっているからです。
 
けれどやっていることは「後生だからお金貸して」とあんまり変わりません。魔法を唱えることを繰り返すうちに、心のどこかは確実に焼け焦げていきます。そしてある日、熱を出したり全身に謎の痒みが出たりします。ひどい時はベッドから寝ながらにして落ちそうになって、すんでのところで目が覚めたということもありました。落ちるとか落とすとか、もうお腹いっぱいです。そうなる前に逃げることは正しい反応なのだと思います。
 
このコラムを読まれている素晴らしい皆さんは、一個一個の課題はそんなでもないのに、積み重なるとあるところで急に怖くなるってことありませんか。委員会効果と勝手に呼んでいるのですが、一人一人だと話になりそうなのに、委員会の一員として対峙するともう話にならないという感覚です。大学の課題も同じで、未解決の課題たちがまとまって「課題委員会」と化した時、そこに解決策はありません。
 
ある時はおもむろに家を飛び出し、あてどなく電車に乗っていました。現在ではスマホ経由での受講も可能となっているeスクールですが、筆者が在学していた時代はパソコン以外に受講する術がなく、電車内で受講するにはノートパソコンとモバイルWi-Fiが必要でした。そのため電車内での受講はとても難しく、電車に乗ることが一種の逃避だったのだと思います。無心で東海道線を上って下っているうちに、まずは委員会の権威は意識しないでおいて、委員一人一人と丁寧に向き合おう、という気持ちを取り戻すことができたのでした。課題委員会と対峙する唯一の方法は、そんな委員会などないことを認識することなのですから。
 

長丁場を走りきるために

 
eスクールのような長丁場のレースに挑むに際して重要なのは、意志の力よりももっと物理的な下支えです。気晴らしという意味では、違法ではない、危険ではない、人に迷惑をかけず、かつ大きな散財をしないという前提で、物理的な逃避行動を一つでも多く持つことが大事です。多くの場合、人はそれを趣味と呼びますが、つまり趣味は学修の維持にとても大きな意味を持ちます。時間を捻出することは難しいのですが、だからこそ趣味は輝きを増すのです。もし近しい人に「趣味と学業どっちが大事なの!」などと言われるようなことがあれば、遠慮なく「どっちも」と言い放つべきです。これを考えると、多くの大学生が勉強以上にサークル活動に打ち込んでしまうのも、そんなに不自然ではないのだと思います。
 
一方、気晴らしとして思いつくものの中には、違法で迷惑で散財するようなものもあるでしょう。そういうことをしたくなった場合、筆者はゲームを強く勧めます。あるいは趣味がゲームという形でもいいでしょう。実物の貨車にこっそりへばりつかずとも、貨車からの景色なんて拝めるのです。なによりたかがゲーム、とゲームを蔑むような時代はもはや遠い過去のものです。今やゲーム世界ですら、のし上がるには結構なエネルギーを必要とします。もしも今、手元に気に入るゲームがなければ、見つかるまで探してください。もしもそれでも何一つ気に入らなければ、もはやゲームを作る勉強をした方がいいかもしれません。
 
そしてこういった気晴らしを滞りなく行うために、目の保護は重要です。受講にせよゲームにせよ、画面を凝視することによる目へのダメージは避けられません。おそらくは耳も触覚も然りで、感覚の過労は頭で考えるより注意が必要です。
 
当然ながら筆者も色々試しました。最も効果を感じたのはブルーライトカットのメガネでした。ただこれも「より長く続けられる」というだけで、より長く続けてしまうリスクホメオスタシスを発動させてしまいますから、本質的に意味があったかは微妙です。その他、机回りだけ見ても、加湿器、空気清浄機、ぎらつかない液晶ディスプレイ、長時間座っていても腰を痛めにくいオフィスチェアー、マウスより直感的にポインタを動かせるトラックボール、ペンタブレット、良い音を聞くためのBOSEスピーカー、資料を表示しておくためのデュアルディスプレイ・・・もはや絵を描かないデジタル絵師状態です。しかし今挙げた装備品で無駄だと思ったものは一つもありません。
 
とまあ、これだけの工夫を講じても、やはりいつかは万策尽きます。そういうときはもう、ゲームして寝てゲームして・・・と、いっそ昔の大人がダメだと言いそうなダメ人間に成り下がっちゃおうじゃありませんか。
 

とびだせどうぶつの森 eスクールの会

 
そんなダメ人間発現頻度が高まっていた時期、仙人プレイが標準形態であるゲームが発売されました。ニンテンドー3DS「とびだせどうぶつの森」です。実のところ筆者は決してゲームに詳しい、ゲームに強い人間ではありません。それでもなおこの「とびだせどうぶつの森(以下「とび森」)」は歴史的傑作だと思います。ゲーム歴や能力によらず、誰もがそれぞれの思うゴールにそれぞれのペースで邁進できるからです。100年か200年後にゲームの歴史が教科書になる時、このゲームシリーズに触れていない教科書は操作された紛い物です。
 
とび森には、それぞれが作った村に遊びに行けるというオンライン機能がありました。繰り返しになりますが今でこそオンライン機能は実に標準的ですが、このソフトが売り出された時はまだそれが画期的といえる状況でした。何がきっかけだったかは失念しましたが、eスクール同期でとび森をプレイしている学生が複数いることが判り、週の終わりの夜に集まろうという流れが生まれました。
 
月曜午前2時。筆者の作った村に、あの荒らしの大王A氏を含む合計4名が集結しました。とびだせどうぶつの森、eスクールの会。4名は筆者が作り上げた村を穴だらけにするなどの暴虐の限りを尽くしながら、日曜夜の解放感を共有していました。しょうがないなあ、もう。いえええええええええええ!うえええええええええい!
 
 
 
 
そのときの、村から眺める濃紺の夜空の、何と深く美しかったことか。
 

もうちょっと、やってみるか

 
eスクールは筆者に苦しいこと、面倒なこと、孤独感や振り払いがたい不安感と同時に、掛け替えのない友人と信憑性の高い知識をくれました。そのどれもがそれまでの筆者には想像できなかったもので、これからもここで得たすべてを自身の一部として生きていくのだろうと思います。ただその最後に卒業という通過儀礼が必要なのか、考えることは何度もありました。
 
友人関係でいえば、A氏とは今も親友です。また「とび森の会」には居ませんでしたが、第1回に登場したC氏ともインスタでいいね!を送り合う仲であり続けています。総数は少なめでも、eスクールはとてもユニークで素敵な仲間を筆者に残してくれました。
 
しかしなにしろ、卒業後に就職という宿命が待っていない社会人学生です。それゆえこれでもう十分ではないか、大学の中身も分かったことだし友人もできたことだし、なぜその上で更に大変な思いをしてまで卒業する必要があるのか、という思いがどうしても頭をもたげてくるのでした。ずっと続くんだと思い込んでいたい、というモラトリアムとやらに似ているのかもしれません。だとするとモラトリアムというのは年代ではなく、学生という身分が本能的に感じる死の恐怖なのでしょう。
 
とはいうものの、eスクールにおいて身に染みて分かったことのひとつに、自分がまだ何も分かっていないということです。何も分からないし、何も伝わらない。ずっと本質的に一人であることは変わりがないし、これからもおそらくそれが変わることはないのでしょう。もうそれがわかったのだから、もういいじゃないか。
 
いやいや。だからなんだ。だったら、だからこそ、もうちょっと知ればいいじゃないか。もうちょっと進めば、より確かな知識を増やせるかもしれない。もうちょっとあがけば、気の置けない友人ももう少し増えるかもしれない。もうちょっと突き抜ければ、もしかしたら本来の世界に住んでいる人と出会えるかもしれない。もうちょっとスタートすれば、見たこともないような新しいゴールに、辿り着けるかも・・・
 
そのために、もうちょっと続けてみてもいいんじゃないか。
 
止めるか止めないか、その答えが出ないうちは。ね?