いーすく! #13 卒論!

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パソコンに向かう冬の夜。足がかじかむ。最終学年の冬の夜は、例年以上の厳しさでした。
 

#13 卒論!

 
ここまでこのコラムを我慢強く読まれた方の中で、もうちょっと専門的な情報が欲しかったという人もいらっしゃるかもしれません。そのような人は、なんだか簡単な話の連続に拍子抜けしてしまっていることでしょう。
 
けれど筆者は思います。世の中は簡単なことの積み重ねです。石の上に三年座ってやっと分かるような難しいことなんて、実はそんなにないのです。ただだいたいの物事はその量がとても多く、時間もかかるというだけです。世の中の頭の良い人はこの事実に気がついていて、そして教えないだけです。あるいは簡単なことをあえて雑に束ねて、さも難しいことのように見せつけているだけなのです。ズルいですよね。
 
そんな反骨精神に支配された筆者をして、こいつはちょっと塩梅が難しいなと思ったものを書かなければなりません。それは論文の構築です。
 

卒業論文の骨組み(うちのゼミの場合)

 
卒業論文の説明の前に、論文(学術論文)というものがどういう骨組みかをごく簡単に説明しなければなりません。実は「演習」くらいの回を書いていて、ダークな部分を見せるのは止めておこうと思っていたのですが、卒論について何も書かないのは誤解を招くだろうという指摘もあり、それならばと思い直したまでです。
 
論文とは、論理的に書かれた文章です。
 
まーたこいつ簡単なことを・・・と思われるかもしれませんが、はてさて論理的とは何でしょうか。これもめちゃくちゃ簡単に言いますと「問題と解答が対応している(筋が通っている)」ことです。それをどうやって書くか・・・はちょっと置いといて、問題と解答で先に必要なのは・・・
 
「問題」ですね。問題がなければ答えることができません。
 
さて、ではこの問題をどうやって設定するか・・・もすっ飛ばして、良き問題が設定できたとしましょう。そうなると次に考えるのは当然「解答」です。これは目星がつきそうなケースもあれば、全く見当がつかないものもあるでしょう。どちらにせよ、問題はあなたが設定したものですから、その「解答」が正しいかを検証する手続きが必要です。手続きによって「データ」が集まり、それを踏まえてああでもないこうでもないと「吟味」すると、そこから「本当の解答」が見えてきます。つまり、
 
論文は「問題」への「解答」を考えるべく、「解答の検証手続きによって得られたデータ」を「吟味」した上で「本当の解答」を示した文章のこと。
 
ということになります。簡単でしょ?
 
で、でですね。待って待って終わらないで。もうちょっとだけですから。一個だけ上に戻りましょう。「問題をどうやって設定するか」。せっかく「問題とその解答を示した文」ですから、そもそも問題が読むに堪えるものでなければもったいないですよね。では実際に「読むに堪える」ってどういうことでしょうか。細かいことを言い出すと扱うテーマごとに差異があるのでなかなか収拾がつかなくなるのですが、ひとつの目安は「新しいかどうか(未知の部分があるか)」です。つまり今まで誰も解いたことのない問題かどうか、もっと言うと動かしようのない解答がまだ存在していない問題であるか、です。残念ながら、読んでいて笑えるとか読み応えがある、ではありません。ただそれを「未知である」とするには、「既知ではない」ことを示す必要が出てきます。つまり、
 
論文とは「これまでの状況(研究の事例や成果)を踏まえても未知な部分(=問題)」の「解答」を考えるべく、「解答の検証手続きによって得られたデータ」を「吟味」した上で「本当の解答」を示した文章のこと。
 
ということになります。簡単ですよね! ね!!!
 
さて、これを踏まえて、カギ括弧のところを少しだけもっともらしい言葉に置換してみます。
 
「これまでの状況」→背景
「未解明な部分」→問題提起
「問題」→目的
「解答」→仮説
「解答の検証手続き」→方法
「得られたデータ」→結果
「吟味」→分析、考察
「本当の解答」→結論
 
せっかくなのでもっともらしい言葉だけ取り出して並べてみましょうか。
 
背景
問題提起
目的
仮説
方法
結果
分析と考察
結論
 
人間科学では・・・と言えるほど調べていないので断定はできませんが、少なくとも上野ゼミや同じ領域では、基本的にどの論文もこのような骨組みで構成されています。もちろん他の分野においては色々なやり方があると思いますので、ここでも「このゼミはこういうもんだ」程度に捉えてください。
 
もちろん、より詳しいことを学びたい方は、良書がたくさん書店に並んでいますので、ぜひご購入ください。ひとつだけ。その際に購入する本がカバーする領域がご自身の専攻する領域を包含しているかどうか、それだけご注意くださいね。
 
・・・ね?簡単でしょ?
 
えー「吟味」って言い方ズルくない?そんなこと言ったら全部吟味じゃん。それと「目的」って単に問題を書くのみならず論文そのものを端的に説明しないといけない文章だよね。てかそもそも統計的仮説検定の種類を・・・などと言う人は生のピーマンでも食べててください。
 

eスクールにおける卒業論文の位置づけ

 
上記を踏まえてeスクールにおける卒業論文(卒論)の位置づけについて語ると、ラスボスです。というかラスボスではない大学もあると後に訊いて「え?そうなの?」と思ってしまうほど、卒論=ラスボスという等式は当然だと思っていました。だって学生が「大学を卒業するに値する」と証明するのに、最も手っ取り早いのは論文を執筆できる能力を示すことですから。
 
もちろん大学や学部ごとに事情が異なりますし、卒業「論文」はないけれど大変な労力を伴う「研究発表」や「卒業制作」が課せられている、といったケースも考えられます。学士としての到達目標を達成したと証明する手法としてのラスボスなら、確かにどんな形式・名称でもよいのでしょう。もし卒論=ラスボスという図式がない大学でご卒業なさった皆さまは、大学の後期で最も厳しかったタスクと読み替えていただけるとよいかと思います。
 
話を卒論に戻します。卒論(卒業研究)の着手時期はゼミによりますが、どのゼミでもゴールは卒論の完成となります。分量は、これまたゼミによりけりですが、上野ゼミの場合は「本文60ページ」でした。
 
皆さんは60ページと聞いて、「お、少ないじゃん?」と思える人でしょうか。思えるなら、素晴らしいです。ただ当時の筆者も含めて、60ページという数字にビビる人の方が多いのではないかと思います。もちろん60ページを、このコラムのようにあっち行ったりこっち行ったりしながら書くのではなく、理路整然と過不足のない適切な事柄だけ書くとなると、それ相応に素材の絶対量が必要になることは容易に想像が付くところです。
 
あ、もちろん、生データや調査票といった「資料」は別枠です。目次とか表紙とか中表紙とか参考文献とか謝辞とかもページ数には含みません。実質的には60ページどころではなさそうなことが、お分かりいただけるかと思います。
 

とあるeスクール生の卒業論文歳時記

 
eスクールにおける卒業研究は春から始まります。ここでは上野ゼミの標準形態である「演習は演習、卒業研究は卒業研究」という理念に基づき、筆者4年目の春から述懐することにします。
 
季節ごとに卒業研究の進捗目安を示していくと、春に構想、夏には調査、秋は執筆、冬に提出というのが理想的なペースです。お、分量60ページとはいえ、結構な時間を費やすわけですから、実際はいけるんじゃないか?って気がしてきます。でも山の頂って、見上げる段階だと結構近いような気がしますよね。まあそういうことなのです。
 
:知りたいことってなんじゃらほい
 
卒論着手にあたり、いわゆる「目的(問題)」と「仮説(解答)」については、ゼミ面談の段階である程度クリアにしていた事柄でした。しかしそれを具体的な問題提起に落とし込むとなると、その前段である研究背景(既往研究)について調べなければなりません。既往研究と今回の卒業論文がどのような関係性にあるか理解していないと、この研究の位置づけを説明することが難しくなるからです。そう思って既往研究を調べると、たいていはあら意外と先人達って賢いのね、となります。特に設定したテーマが大きめであったりすると、その問題に関する正しい解答を既往研究調べで完全に編み上げてしまうということもあり得ます。謎が解けたという意味では幸せですが、卒論を書く身分としては書くことがなくなってしまうので辛い話です。
 
結局、僕が知りたいことって何だろう。
 
ゼミでの様々なやりとりの中で、「問題意識」というものがいかにあやふやであったか、その現実にうちひしがれる春の宵です。
 
夏:できることってなんじゃらほい
 
理想のペースにおいては何らかの調査を行い、そのデータが上がってきたうえで夏休みに分析に取りかかる・・・はずでした。しかしどうでしょう、そもそも知りたいことを設定しても、それがどのように証明できるかを両輪で考えなければならないため、調査計画はいっこうに具体化しません。
 
まあぶっちゃけ、やりたいこととできることは違うのです。
 
けれどそれならばとできることだけで考えを進めると、今度は「それって何が新しいの?ん?」となります。演習もっとちゃんとやっておけばよかったのかな。でもやっていたとしても、新しいことをできたかは分からないので、結局ぐぬぬと歯を食いしばるしかありません。自分の手持ちの実験・調査に関する引き出しの少なさ、春から一向に深化しない問題意識の浅さ、その現実に絶望する夏の夜です。
 
秋:できることだけでもやっていこう
 
大いなる悩みに見舞われながらそれでも前進していたところ、学生も先生も突然気がついてしまいます。卒論にそろそろ取りかからないと。何言ってるんだって話ですよね。でも真実なのです。卒論を書いていたつもりが、卒論を書いていなかったのです。どこで慌て始めるかのトリガーは人それぞれだと思いますが、やはりぶち上げたテーマと、そのテーマを昇華するために必要な時間のアテをうっかり考えてしまうことで、ゼミのすべての関係者が現実に気づいてしまうのです。
 
そして思うのです。もう、できることだけでもめいっぱいやっていこう。
 
巷は夏の暑さがようやっと薄れ、そこまで汗ばまなくなった立秋の空気は、いいからそろそろ頭を冷やせと忠告しているようでした。
 
10月:分析に意味あるの? そもそもデータに意味あるの?
 
理想のペースは何処へやら、本来なら優雅に執筆に取り組んでいなければならない時期に、やっとこさデータっぽい何物かが積み上がります。秋は運動会の季節だし、あくせくするのも悪くないよね・・・といった感じの鼻につく達成感に浸っているのも束の間、教員や教育コーチから上述のような指摘がなされます。
 
え、急にそんなこと言われても。
 
でもここで「意味はあります!」と説明できないとしたら、残念ながらそういうことなのです。そうなると分析に使えるデータだけを拾うなり、涙を堪えてやり直すなり、物量に頼ることをあきらめて使えるデータを集めていくことを心がけるようになります。どんな人間でもひとつ、いえ、ひとつどころではなく美点があるものですが、ゴミデータはいくらあってもゴミです。いやそんなの最初から気をつけていればいいじゃない、と外野は言うのです。そんなのわかってるよ!わかってるのにうまくいかないんだよ!
 
11月:そもそもこの研究ってどんな意義があるの?
 
悲しみと怒りを乗り越えながら、章立てで言えば方法、結果、分析がまとまってきました。格好良く書くとそうですが、これだけでは実験・調査の報告を終わらせたに過ぎません。何のためにやっていたかといえば、論文としてまとめるためです。しかし作業に熱中する余り、そもそもの目的、問題意識と導かれた結果、分析にズレが生じることがあります。むしろ何も意識しないと生じて当然かもしれません。
 
そうなると何が起きるか。この研究の意義を説明できなくなるのです。だってここまで形になっていることは、仮説の検証、ではなくて調査スキルの勉強とその成果発表なのですから。埋蔵金探しの番組で、掘ってみて出なかったならまだしも、掘るための機械を造って番組を終わりにしたらそりゃさすがにどうよってことになりますよね。そりゃ開発自体はすごいかもしれないけどそういう番組でしたっけ、という。
 
おいもう間に合わないぞ、前も言ったよね、言ってる意味分かる?
 
教育コーチの叱咤激励が遠くで聞こえています。これまでの人生で十分傷ついてきたし、これ以上傷つきたくないので、なんだか自分自身の境遇の客観視だけは上手くなってきた気がする秋の夜長です。
 
12月:それで結局何が分かったの?
 
寝ても覚めても論文の展開に頭を悩ませながら、やっと背景から考察までに一本の背骨を通すことができてきたような気がします。あとは図表を読みやすくしたり、表記揺れや相応しくない表現を改めたり、誤字脱字やフォントの設定ミスを地道に潰していったりします。しかし根源的かつ危険な指摘はこういった状況でももたらされます。
 
ここまでがんばったのは分かるけれど、それで何が言えるのですか?
 
いや、それを言い出したら・・・
 
確かに。調べられる範囲で調べたことを、無遠慮な指摘に怯えながら論考して、それで何が分かったんだろう。時に頭を抱えながら、あるときは急激に霧が晴れたかのような、山の天気のように気分をめまぐるしく変えながら、その都度「指摘への答え」と言えそうな何かを用意していきます。それは取りも直さず、この研究から言える結論を考えるということなのですが、春先の空想と比較してのあまりのショボさに慄然とせずにはいられません。言えるのは言えるけど、堂々と言えるほどのものなのか?
 
クリスマス、年の瀬、大晦日。冬の夜更けの底冷えを頭のどこかで認識しながら、おそらく本当に最後であろう追い込みは、某紅白や某笑ってはいけないの視聴機会をも擲(なげう)ちながら、意地の加速を見せ始めます。そして年明け、三が日。箱根駅伝のランナーが大手町のゴールに帰り着く頃、卒論執筆の長い旅も終わりを告げようとしていました。というかもうここで終わらせないと、提出期限に間に合わなくなるので。
 

卒論提出、そして最後の聖戦「口頭試問」

 
1月中旬。もう永遠に終わらないように思えた執筆が終わり、卒論の提出が完了しました。提出期間はあらかじめ大学側が指定するもので、1秒でも遅れたらこの学期での卒業は認められません。締め切りにうるさいようで、ゼミ内での締め切りをちょっとお目こぼししてくれたこともあった上野先生も、本提出だけは遅れちゃダメと真面目に語っていたところを見ると、規格外行動やってみよう!とか時間ギリギリで出してみよう!といった、このノートパソコンってバッテリー何%まで生きてるのかな?0%でも実はちょっといけるんじゃないか?的な物騒なサプライズを企画する気にもなりません。
 
これにて卒業!
 
と、問屋が卸してくれればよいのですが、ここからが最後の聖戦、口頭試問なる戦いの始まりでもあります。
 
eスクールでは晴れて卒論提出を済ませた学生を対象に、口頭試問(発表)が許可されます。口頭試問の期日は原則として秋学期の最終週の土日で、開催場所は所沢キャンパスです。必修科目、専門科目、ゼミのほとんどをオンラインでこなしてきたeスクール生も、よほどの事情がなければこの口頭試問は所沢キャンパスに赴いて行わなければなりません。まあ卒業試験ですから、無理もないところです。
 
口頭試問(発表)は、正確なところは忘れましたが、5分とか6分程度の発表時間と、その倍くらいの時間内で投げ込まれる質疑に滞りなく答えることが求められます。発表会場は教場で、発表は全教員、全教育コーチ、全在校生が自由に聴講できます。1年以上かけた論文の発表時間が長くても6分とはいかにも少ないですが、制限時間に収めるというのも自らの研究を熟知しているかの評価ポイントとなります。タイムオーバーは印象最悪です。
 
口頭試問直前のゼミでは発表に向けての事前練習をひたすらこなし、口頭試問その日は(研究本体に費やした時間と比較すれば)あっという間にやってきました。聴講した人の数は、同時刻に行われた他の方の発表が盛り上がっていたらしいこともあって、かなりまばらでした。10人は居たような気がしますが、よく覚えていません。とにかくタイムオーバーしないように、けれど過度に意識すると時間が大きく余るので、ペースには常に気を遣いながらの6分でした。質疑も滞りなく終わり、次の発表者の準備を始める関係で、感慨に耽る一瞬の間もなくパソコンを閉じ、発表は終わりました。
 
えっ・・・これで、終わり・・・?
 
実を言うと筆者は、プレゼンテーションこそゼミでの経験が主ですが、人前で喋る系の経験は訳あって相当こなしているので、全然緊張しませんでした。あえて言えばちょっとは緊張していたかもしれませんが、これまでの自分の経験からすれば取るに足らない心拍数上昇でした。部屋に小さいムカデさんが出たときの方がよっぽど危機的です。
 
そのためこの点はちょっと、苦労した感をお伝えすることができません。まあそれを差し引いても、賞味15分程度の発表というのは練習によって緊張しなくなるので、もしプレゼンが苦手という方がこのコラムを読まれていましたら、まず人前で、仲間や家族の前でもよいので喋るなり歌うなりの機会を作ってみてください。
 

終わったのか?本当に終わったのか?

 
eスクールでは卒論に関する提出ごともオンライン上で行います。口頭試問こそ対面ですが、基本的には例によって重量感をあまり感じないまますべてのタスクが終わりを迎えます。あるいはそれまでの実験・調査における重量感がリアルであるほど、試験フェーズ(提出・口頭試問)はあっさりしたものだという認識になるのかもしれません。
 
そしてそのあっさり感は、ファイティングポーズをなかなか解除できないという後遺症となってしばらく残り続けます。まだ何かあるのでは。実は不合格で、追試ならぬ追加口頭試問もあるんじゃないか。そういった思いは2月下旬の成績発表まで完全に拭い去られることはありませんでした。職業病ならぬ卒論病・・・でしょうか。
 
2月下旬。正式な成績発表が開示され、卒業が決まりました。
 
終わった。終わったんだ。
 
窓の外の景色はいつの間にか春めいて、例年通りの桜吹雪の予感を漂わせていました。