いんせい!! #04 合宿!!

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旅行が好きな性分のくせに、荷造りの手は遅々として進まなかった。大学生の団体行動に泊まりが伴うと、こんなにまで言いようのない不安に駆られるなんて。
 

#04 合宿!!

 
3年と4年が異なるスケジュールでひたすらにそれぞれの課題と向き合う上野ゼミでも、思い出を共有できる楽しい恒例行事がいくつか設定されていた。その代表的なイベントが、ゼミ生全員が参加する夏合宿である。行程はその年の4年生の有志が主導して起案し、明らかに大きな問題がなければ先生も是認するのが伝統となっていた。そのためか基本的には2泊3日だが、前後に夏休み旅行を抱き合わせる学生も少なからずいたという。まあさすがに、1年もあって一度も合宿を打たない方がもったいないというものである。
 
筆者がM1の年、目的地は新潟であった。芸術祭と銘打った大規模イベントが県内で複数開催されていたことや、4年生(10期)に新潟出身の学生(蕨さん(仮名))がいることが決め手となったらしい。行程のプレゼンは、大学院ゼミに主要起案者の4年生が出向く形で行われた。そのため筆者も本来は一部始終を知っていなければならないのだが、正直あまり新潟に興味がなかったのでよく聞いていなかった。いやむしろ、学生の合宿に社会人院生(=筆者)まで行く必要ある?とすら思っていたと思う。それに加え、プラン決定後もなぜか二転三転があったとのことで全容の把握を完全に怠っていた。結果として筆者にとってはミステリーツアー同然の心境で、合宿当日の9月中旬を迎えた。
 

1日目:妻有を巡ったらしい

 
いきなりのスキップであるが、社会人として外せない用事から1日目はパスしてしまった。1日目は新潟の妻有(つまり)、松代(まつだい)周辺をバスで巡るツアーだったという。後ほど示す地図でご確認いただくと分かると思うが、結構な山奥である。といってもこれはさすがにその地域に蕨さん(新潟県出身)の親戚の家があったとかそういう私的な理由だけではなく、大地の芸術祭という大規模イベントが開催されていたことによるものであるらしい。この辺りは北越急行ほくほく線が通っていて面白いんだけどな・・・と惜しい気持ちもあったが、基本的にバス移動と聞いてあきらめもついた。一行はその日のうちに新潟市に移動し、宿でそれなりに盛り上がったという。
 

2日目:新潟市内散策

 
筆者が一行と合流したのは、すべての行程を半分ほど消化した2日目の午後であった。新潟市の歴史的な町並みや建築物を、地元をよく知るガイドと共に巡っているという。ゼミの合宿としては割と粋というか、ナイスアイデアな行程に思える。新潟駅に到着し、大規模工事中の駅構内を見聞した後に一行への合流を試みた。
 
 
上越新幹線の終点である新潟駅では、駅全体をひっくり返す勢いの工事が行われていた。新潟駅は信越本線・白新線・越後線と上越新幹線(いずれもJR東日本)が乗り入れているが、このうち在来線ホームを新幹線ホームと同様の高架とする工事を行っているらしい。完成予定は2015年とされているからもう出来ていないとおかしい頃合いであるが、どう見てもあと3年はかかりそうな進捗具合であった。その混乱ぶりは、数字や内容に何の規則性もない標識(写真)の存在でもお分かりいただけるだろう。そりゃ在来線なんだろうけどさ、それはこの看板の情報を使うほとんどの人が知ってるでしょ。
 
こういう大規模工事はえてして、用地買収の遅れや予算のメドが立たないなどの理由で遅れるものである。ただ工期があまりに伸びると、100年に及ぶ駅の歴史の中で工事している時期の方が長いということにもなりがちである。そうなるともはや、駅の本来の姿は完成時ではなく工事時とも言えるのかもしれない。どこの駅のことと指し示すのはその駅の名誉のために憚られるが、もう少し賢い解決法はないものかと思わずにはいられない。
 
さて、話を横浜駅から新潟に戻す。一行は歴史的街並みの散策に夢中なのか、LINEで訊ねてもほとんど誰もまともに現在位置を教えてくれなかった。途中合流者への扱いなどせいぜいこんなものであるが、もう帰ろうかなと思い始めた。よく考えるとほとんどのゼミ生は初めての場所を闊歩しているから、現在地について本当の意味でよく分かっていなかったのかもしれない。外はまだまだ夏の名残が強い炎天下であったため、タクシーで一行がいるらしい地区に近づくことにした。
 
 
結局炎天下を10分程度彷徨し、それっぽい集団と合流することができた。学生達は「あら、来たんですか」とばかりに適当な反応で、全く関心はなかったことがうかがわれた。ほんとにもうそのまま日帰りしようかなとも思ったが、せっかく来た手前とりあえず見ていくことにした。写真は道中見つけた、マインクラフトで作ったような美術館(新潟市美術館)である。確か時間がなかったので、外観だけ眺めて次の場所に移った。どうやら、このゼミのメンバーは芸術にそんなに興味がない。
 
 
一行は貸し切りバスに乗り込み、海岸まで移動した。日本海は夕陽が沈む側の海となるが、夕方はとても美しい。学生は思い思いに記念写真を撮ったり、岸壁に向かって走ったり夕陽に叫んだりしていた。一点の曇りもないほどの、目を背けたくなるような青春である。夕陽に向かって叫ぶとか一斉にジャンプする写真を撮るとか、そういった営みが自然と行われる一部始終を筆者は初めて目の当たりにした気がする。
 
昭和生まれとしての所在のなさと貴重な光景が見られたという謎のありがたみが相まって、はやくも胸がいっぱいになった。
 
 
新潟の砂浜にその若さを強烈に刻み込んだ一行は、バスで港方面に向かった。港付近には存在感のある新古典主義的建築物(旧第四銀行住吉町支店、みなとぴあ)のほか、少し離れた場所にはスロープが印象的な音楽ホール(りゅーとぴあ)があった。写真にはブレてよく写っていないが、4年生(10期)の宇都宮くん(仮名)がスロープを全力で走っている。バスを降りて周辺景観を眺めていた一行の中で、おもむろに宇都宮くんはスロープを回り出したのであった。意味はわからなかったが、長いスロープを見たら走りたくなる走地性を持つ人種がいても不思議ではないのだろう。バスは宇都宮くんを置いて出て行こうとしたが、宇都宮くんが全力で駆け戻って事なきを得た。
 
新潟駅到着から6時間後、一行はやっと宿泊地に到着した。筆者にとっては1日目だが残りの参加者にとっては2日目の夜とあって、晩ご飯後の雰囲気はかなり打ち解けたものであった。夕食後には先生・院生・4年生(10期)・3年生(11期)が自然に一部屋に集まり、二次会っぽい歓談が始まった。筆者もやっとこの時期になって、4年生や3年生の顔と名前が一致しだした。ちなみにさきほどダッシュをキメていた4年生(10期)の宇都宮くんはというと、部屋の出入り口でZIMAだかカルアミルクだかをラッパ飲みしていた。ZIMAそんなに好きなの?などと聞こうとしたら、返事もそぞろに何かに駆り立てられるように走って出て行ってしまった。
 
あんまり言いたくないが、他の客も泊まっているはずである。遊びに来る大学生の集団というのはなにかとかまびすしいものだが、よもや自分がそういう集団の当事者になる日が来ることになろうとは思いもよらなかった。あの日同宿の皆さま、誠にすんません。一方我らが3年生(11期)はというと、負けじと田端くんが絵に描いたように出来上がっていた。院生や先生と気さくに肩を組んだり、つくづく偉くなったものである。人は僅か半年でも大きく成長できるということを、田端くんは身をもって示してくれた。
 
ハプニングはその二次会で起こった。参加していたとある院生(藤枝さんではない)が、3年生に小言を言い始めた。4年生が色々と準備しているんだから3年生もそれを補佐してあげてよ、という程度の意味だったと思う。しかしそういう類いの小言への耐性がなかったらしい3年生(11期)のふわふわ女子1名が泣き出し、部屋は直ちに修羅場と化した。その院生視点からすればそう言いたくなるほど目に余る瞬間があったのかもしれないが、本来そういうことは直近の先輩である4年生が注意すべきではないかと思った。ちなみにその4年生(10期)のリーダー格はシャトルラン愛好家である宇都宮くんであったが、ああなるほどこれは自分が言わなければ!と思い至るのもやむを得ないかもしれない。楽しさと共にあった心地良い疲労感が、楽しさを失ったただの体調不良感として二次会参加者にのしかかり始めていた。
 
そこで活躍したのが、我らが田端くんであった。素面であればとてもじゃないがいてもたってもいられないほどのチルい空気を、非論理的な内容をさも当然のように言い放って認知の歪みを招くというペテン師が常用する手法で見事に鎮圧してみせた。おそらく本人も、何がどうなっているのかよく分かっていなかったと思う。
 
ただ残念ながらその奮闘も長くは続かず、一旦反省会基調になってしまった流れはどうにも難しくなっていた。むしろ訳の分からない流れになったことで、起点となった院生の義侠心は余計に熱を帯びてしまったようにも見えた。燃えさかる家に適当に放水したら火元の天ぷら油鍋に直撃してしまい、フラッシュオーバーを招いた火事場のような状況であった。というか今思い返すと、田端くんが急に偉くなってしまったことも遠因だったかもしれない。結局ここに至っても何の発言権もない筆者は、消火と救命を早々に諦めてこっそりと自室に戻った。
 
自室では主に、修羅場から首尾良く離脱した3年生(11期)連中が地味に盛り上がっていた。今回の合宿で、筆者は3年生数名と同室であった。実はこの頃の筆者は他の人と同じ部屋で寝るという状況をどうにも苦手としていたのだが、M1という立場で別室を求めることは難しかったのであった。部屋に居た3年生には「放っておいてくれていいから」と言い残し、とにかく早く眠りに落ちるように努めた。
 
何分経っただろうか、部屋に乱入してきたのは田端くんであった。おそらくであるが、さすがにあの業火の中で長時間いられなかったのだろう。人数分の布団が敷き詰められた空間を所狭しと大暴れすると、しまいには筆者の身ぐるみを剥がそうと迫ってきた。ふざけんな、こんなところで貞操を散らすわけにはいかぬ!と必死になって丸まったことを今も覚えている。意外なガードの固さに埒があかないと思ったらしい田端くんは攻撃を止め、部屋を急襲された3年生を引き連れて他の部屋へと旅立っていった。部屋の外では、まだ走ってるらしい宇都宮くんらの足音や正体不明の嬌声が断続的に響き渡っている。当然ながら、以後はほとんど眠れなかった。
 

3日目 長岡市内散策

 
3日目は朝早くの新幹線で、新潟から長岡に移動した。完全に寝不足であったが、身体が本能的な危機を察してか疲労をあまり感じなくなっていた。学生は泣いていた子も含めて昨晩の些事が嘘のように清々しい顔をしていたが、もしかしたら同じように心頭滅却していただけなのかもしれない。強いて言えば、宇都宮くんだけはビニール袋を片手にいかにも辛そうに歩いていた。こう言っちゃ身も蓋もないというか辛辣というか若者に投げかけるにはいささか手厳しい表現かもしれないが、バカだろ。
 
 
いやそれにしても、気がつかないようにしていたがなかなかえげつない行程である。4年生(10期)の蕨さん(新潟県出身)による「上越・中越・下越全部お見せしたい!」という意向は分かるが、ちょっとかさばっていないだろうか。それと3年生から聞くところによると、1日目のバス移動はかなり過酷であったらしい。確かにバスしか移動手段がないのだろうが、下級生がオフレコでも過酷というからには相当なものだったのだろう。せめて妻有→長岡→新潟、という順番ではダメだったのだろうか。
 
そういえば院ゼミのプレゼンで、当初プランではここに佐渡と上越・高田を巡ることも視野に入れていたことを思い出した。新潟より両津港(佐渡北部)に渡り、小木港(佐渡南部)から直江津(上越市)を経て満を持して中越・・・というルートだったと思う。これを2泊3日で回るのは明らかに大きな問題があるということで、行程確定前に先生から修正が入ったらしい。もちろん蕨さんの郷土愛の強さは十二分に理解してあげたいが、もうちょっと現実と効率を鑑みてもよかったのではないだろうか。てか鉄路を新幹線しか使ってないじゃん、弥彦線とかも乗ればよかったんじゃないだろうか。などという小言を後から言ってひっぱたかれたら後々困るので、黙っていることにした。
 
 
長岡では駅前施設の「アオーレ長岡」や、子育て支援施設が併設された公園「てくてく」を見学した。この日だけを切り取るのであれば、そこそこまともな見学ツアーであった。新潟はどういうわけだか気持ちが乗らないのだけれど、長岡はまた来てもいいかな。最後にどういう意図かも分からないが母なる信濃川の土手を全員で散策しつつ、市内に戻ってへぎ蕎麦を食した後に現地解散となった。なお宇都宮くんは一身上の都合で、せっかくのへぎ蕎麦をほとんど食すことができなかったという。
 

夏合宿その後

 
年の状況にもよるが、上野ゼミでは夏合宿の終わりが秋学期の始まりを意味していた。楽しい団体行動を経て、特に4年生はこれから卒論執筆という未曾有の断崖に挑むことになる。そんなような趣旨の先生の話を聞いている4年生(10期)の瞳には、今このタイミングで思い出させないで欲しいという願望が読み取れた。個人的にも楽しいことは最後(卒論後)に回す方が思い切り楽しめる気もするが、ゼミメンバー全員の結束を深める意義を考えるとこの時期の開催が一番よいのだろう。実際、この合宿を経てから筆者と学生の距離も縮まったように思う。なお筆者に狼藉を働いた田端くん(11期)は後の院ゼミで議題となり、セクハラに気をつけるようにという厳重注意が与えられたという。
 
そしてこの年の合宿における先生からの最後のスピーチは、先生から学生にしばしのお別れを告げるためのものでもあった。上野先生はこの秋からの1年間、勤続10年のサバティカル(研究休暇)に突入するから後はよろしくねとのことであった。えっ、この後のゼミどうなるの。という質問には、代わりの先生がなんとかしてくれますよという抽象的な返事であった。
 
言い得ぬ不安を誰もが胸に抱えながら、秋の空はすぐそこに迫っていた。
 
 
 
文中の地図:地理院地図 https://maps.gsi.go.jp/



(初出:2021/01/14)