残暑、というにはあまりに過酷な陽射しが照りつける住宅地の一角にて、自宅から、キャンパスからも遠く離れた西の都から、大切な書類一式を封入した茶封筒を投函して、さらなる道のりは始まったのでした。
#13 また大会!!
そういえば大掃除の段階でもしれっと日本国内にいた上野先生も、やっとこさ研究のために北欧へ旅立ち、筆者にとって大学院生として2回目の春が到来しました。いわゆる「M2(エムに)」としての春学期を迎え、遂に正真正銘の「主なきゼミ」と化した上野ゼミは、代理の先生方主導によるゼミへと変貌していきました。
といっても態勢の変更としては、新しい3年ゼミ(12期)の担当教員として赤羽先生(仮名)が任命されたことくらいで、新しい4年ゼミ(11期)は引き続き長泉先生が担うことになっていました。内情としては、昨期4年ゼミ担当の烏山先生がこの年から他大学の常勤職(准教授)に着任してしまうという事情もあったようですが、教員切り替わりのタイミングとしては最善であったと思われます。いずれにせよ筆者は、愛着のある11期(新4年ゼミ)のTAを引き続き担当することになり、シビアなことはだいたい藤枝さんに全力丸投げすることで事なきを得ていました。
さて、4年ゼミ(卒業研究)といえばやることはただひとつ、卒論の着手から完成です。先輩である10期は、それはもう前世の罪を一掃するレベルの七転八倒を経ながら這々の体で卒業していきましたが、明朗快活さが取り柄の11期はその伝統を断ち切ることが期待されるところです。火を見るより明らかと申しますか、相当に分かりやすい伏線となってしまいましたのでもうさっそく回収しますと、その思いは大きく裏切られました。その要因はなんと言っても、長泉先生、笑顔が素敵な長泉先生が本領を発揮しはじめたからでした。
論文合宿をフラッシュバックしてみましょう。あのときは6名の指導方が当時の4年生に集中砲火を浴びせ続けましたが、もっとも効果的な一撃を浴びせ続けていたのは他ならぬ長泉先生でした。フィールドワークでも優しげで、支離滅裂な行動観察報告を聞いても笑顔が絶えなかった先生は、単に本気を出していないテディベアだったのです。
そういえばある日の通学時、片側交互通行による工事渋滞があっても所定のルートを走ってしまう学バスの仕様に、一番ブチ切れていたのは他ならぬ長泉先生でした。なんで!工事って分かってるのに飛び込むの!バカじゃないの!春休みの宿題でもあった卒論の構想について、ゼミ論文の雰囲気のまま仕上げてきた11期生たちは、お子様向け人形であることを放棄したホッキョクグマの餌食となったのでした。
その後の4年ゼミの雰囲気は言うまでもありません。できる系男子もふわふわ系女子も、相談序盤から次々と「こんな研究は無意味。全然ダメ」などと脳天をかち割られてはさすがに笑顔でいられません。「今こそ俺たちがなんとかしなければ」という思いを背負ったポンコツ3も、これまでとは別な意味で笑われながら、何の戦果もあげられないまま散っていきました。
加えてこの時期から、4年生は就活が本格化するということもあって、ゼミは欠席と進捗遅れに伴う叱咤が繰り返されていきました。熱い結束で保たれた11期の姿は、もはや影も形もなく、TAである筆者も傍観するしかありませんでした。
突如として凶暴化した、もとい本性を顕した長泉先生は、一体何者なのでしょうか。なにしろせっかく仮名で押し通していますので、そのご来歴を深く掘り下げることは避けなければいけませんが、少なくともその指導方針はこのゼミが位置する学問領域の伝統が大きく影響しているようです。
本コラムでもたびたび記述していますように、人間科学という領域は多様な専門領域を横断する、いわゆる学際的な学問領域です。それは人間科学部内に存在する様々なゼミそれぞれが、既存の専門領域に近い性質を帯びている、ということを意味します。上野ゼミを含めた同領域の3ゼミの場合、まあこれを書いてしまうと匿名も一般もへったくれもないのですが、「建築」という一大ジャンルに片足どころか両足を乗せながら活動していると言えます。
本コラムに登場した先生方で言えば、上野先生や長泉先生、藤沢先生や烏山先生や山北先生や武蔵小杉先生、筆者目線で言えば蓮田先生や辻堂先生に至るまで、全員が建築領域のスペシャリストです。そして建築という学問領域における伝統のひとつに「荒っぽい指導」があります。もちろん、他の学問領域でも大なり小なり荒っぽさはあるでしょうし、もっというと指導の仕方は指導者の個性に依存するものだとも思いますが、竹を割ったような威勢、なにがなんでも筋を通したがる義侠心や熱血漢ぶりは多くの先生方の指導の根幹を成していました。
もちろんだからといって、暴力や人格否定の罵倒が許されるほど現代社会は甘くなく、諸先生方もそれは熟知していています。しかし彼らが真剣に向き合えば向き合うほど、結果的に指導時の迫力は増してしまい、それはだいたいオーバーキルでした。どれほど優しい風体であっても、クマはクマであり、血の臭い(論理的なキズ)には本能が反応してしまうのです。
なんかもうだいぶひどいこと書いてしまいましたのでフォローがてら軌道修正しますと、さすがにオーバーキルの程度(指導の厳しさ)は先生によって異なり、例えば上野先生は劇的に優しい部類といえます。他の先生方もオーバー、なことはままあっても、だいたいはキルまでいかないというのが実感です。なんというか、痛いけど打撲で済んだかなというものと、傷口は大きくないのにもう無理ってパターンがあるじゃないですか。長泉先生はというと基本的に即死攻撃型でした。むしろ爪の先に毒を塗っているくらいのレベルです。全然フォローできてない気がしてきましたがもう仕方ないです。
こうして4年ゼミの春学期は残酷ショーに明け暮れ、彼らが一週間一生懸命考えたであろう構想の一切も、毎週のように耕されては土に還っていくのでした。TAとしては「その気持ち、分かります。今が堪えどきだから」などと励ましていたつもりでしたが、そもそもオーバーキルという伝統そのものがあまり好きではない性分も手伝って、心はどことなくゼミから離れていたような気もします。
一方で新3年ゼミはというと、赤羽先生の元、昨年のそれと同じようにフレッシュな雰囲気に包まれていました。11期の人達を一応すべて書いたので、12期についても、学生リストと第一印象を書き残してみます。
12期(すべて仮名)島田くん 町田民 とこキャン祭実行委員 お調子者三河島さん 谷根千民 人嫌い パンク お金取りそう新大久保くん 少林寺拳法 絶対元ヤン お金めっちゃ取りそう神田さん 演劇サークル 背が高い村岡くん 演劇サークル おまえら付き合ってるだろ品川くん 横浜民 とこキャン祭実行委員 メガネ桶川さん 悪の華 いいところの子っぽい川口くん 佐賀民 神宮でバイト浮間舟渡くん イケメン
例によって段々興味が薄くなっていったのでしょう、浮間舟渡くん(仮名)に至っては「イケメン」としか印象がないのですが、まあそれで十分なほどのイケメンです。総じて実務派もムードメーカーも一通り揃っていそうな気配を感じましたが、どことなくすきま風を感じるような、不思議な冷たさがありました。
なおこの年の筆者は、修羅場たる4年ゼミの生温かい見守りに専念したこともあり、新3年ゼミについてはあまり具体的な思い出がありません。赤羽先生と、10期から修士課程に進学したM1の大森くん(仮名)のTAによって、楽しい春学期を過ごしていたようです。
そして大学院ゼミは、院生としては科目(専門ゼミ)としての履修ができないこともあり、事実上の解散状態となりました。とはいえ、全く指導を受けられないとなればこの後に控える修士論文も書けないため、上野先生と個別に連絡を取り合う形でのSkypeミーティングが適宜設定されました。
北欧に渡った上野先生は、なんだかとても元気そうでした。まさかこのまま帰ってこないつもりではないですよね。
個人的にもこの時期、実に2年ぶりに、大きな決断を果たしたというのに。
博士課程、行きます!
修士課程進学の決意を伝えるべきタイミングがだいぶ早かったように、博士課程(正確には博士後期課程)への進学を希望する場合、その1年前の春学期には教員に方針を伝えておくことが望ましい在り方であった。ただし博士課程の受験機会は年2回(夏と冬)用意されており、おそらくは修士課程を修了する院生当人の就活事情などの見通しがついてから判断しても間に合うように、という配慮であるが、いずれにせよ判断が早いに越したことはなかった。
筆者が博士課程への進学を決めたのは、M2を迎えてからすぐ、確か5月頃だったと記憶している。同じようなタイミングで報告した藤沢先生には、マジで?というちょっと不安げな顔をされたが、基本的には喜んでくれた。
前回の洞窟探査に喩えるならば、筆者は修士課程の1年間によって、洞穴の入口から少しだけ中に入れたという実感があった。しかしその先は「特に誰も立ち入ったことはない」という程度に不毛な空隙が広がっているばかりで、ここはそういう場所でした!というだけの話で終わらせることもできそうであった。しかしその空隙、漆黒の闇の向こうに、どういうわけか続きがあるような気がしたのである。いや、絶対あるって。みんな感じないのか。
まあ冷静になって振り返ってみると、特に誰も立ち入った形跡がないということは、立ち入ってもあまり意味はないだろう、と先人が判断した可能性がとても高いわけで、せめてもうちょっと判断を遅らせてもよかったのではないかとも感じるが、いつだって悔やんだって後の祭りである。
そうと決まればあとは学部4年生時代と同様、推薦入試を受験し、当期での修士課程修了を目指すのみである。1年前の春先はたしか、あまりの環境変化に「3年くらい掛けてもバチ当たらないんじゃないか」と思っていた部分があったが、こうなるともうそれは実現しない未来である。なお修士課程に在学する社会人院生の中には、3年・4年をかけて修了を目指す方も多いので、全くバチは当たらないことを付記しておく。
受験にあたり、例によって提出を求められた研究計画書は、今度は割とすんなり書くことができた。さすがに博士課程を志望するという状況になって、何も書くことがありませんはあり得ないし、大学の手続きのしきたりに慣れてきた節もあった。あとは受験にあたり担当教員の確認が必要な書類があったのだが、
上野先生「では、福岡に書類を持って来てください」
ここだけ読むととんでもない指令であるが、その理由は後ほど。
また大会発表、今度は福岡
毎年8月下旬から9月上旬にかけて、建築を領域とする某学会・・・もうぶっちゃけますと日本建築学会(AIJ)の全国大会が開催されていますが、この年(M2)の会場は福岡でした。長きにわたり北欧に高飛びしていた上野先生もこの学会に合わせて帰国し、発表や諸先生方との旧交を温める、さらには名産品をひたすら食すという恒例行事に勤しんでいました。ちなみに会場近くには11期の池袋くんの実家があるとのことでしたが、残念ながらどう問い詰めても具体的な場所は教えてくれませんでした。TAとしてとても悲しい。
さて筆者にとっては通算2回目の大会発表となる今回は、共同研究に関する初の対外的成果発表ということで、共同研究者との連報となりました。AIJ大会における投稿ルールでは、一人の参加者が一つの大会で発表できる梗概の本数は「1本」である一方、共著という形で同一研究を連続的に発表することが認められていました。つまり発表が3本ある場合、1本目は発表者Aさん(共同発表者Bさん、Cさん)、2本目は発表者Bさん(共同発表者Cさん、Aさん)、3本目は発表者Cさん(共同発表者Aさん、Bさん)という形で発表者を登録し、その通りに発表することで、事実上3本分の時間を発表することができるわけです。当然、発表一本一本が研究者にとっての実績になるため、共同研究においてはこの辺りの利益(実績)分配も重要となってきます。
この年の筆者はまさに3本分の発表内容を引っ提げ、合議の結果1本目の発表者と決まりました。ちなみに2本目発表は辻堂先生、3本目発表は今市さんが担当し、羽田さんと上野先生は著者として名を連ねつつも別の研究の発表者となるためここでの発表は見送られました。
発表当日、前回の閑古鳥発表から大きく変わり、小さい教室ながら満場の観衆の前での登壇となりました。その雰囲気は牧歌的、とはほど遠い、あの悪夢の論文合宿に近い殺伐とした雰囲気がありました。予想だにしなかった緊張感によって筆者は見事に飲まれ、発表自体はなんとかこなすも、質疑の場面で言い淀むという残念な結果に終わったのでした。
どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。理由は簡単で、発表部門を変えたからでした。名前だけ書きますと前回大会では「建築計画」、今回は「環境工学」という部門で申請し、そのまま採用されていました。これは僥倖でもあるのですが、筆者の研究テーマはどちらの部門にエントリーしても不自然ではない内容となっており、そうですね、今回は「環境工学」がいいんじゃないでしょうか、という辻堂先生たっての提案によって、こんなことになってしまったのでした。
いやおかしいでしょいくらなんでもどういうことですか。部門を変えただけでこんな地獄を見ることになるなんて、熱力学を無視していませんか。ちなみにこの殺伐感は筆者だけに向けられたものではなく、環境工学部門の発表ブース全般で共通しているようなのですが、では前回の牧歌感はなんだったのかという話になります。部門コンバートの提案者であり「環境工学」をホームグラウンドとしている辻堂先生の説明はこうでした。建築計画はそういう雰囲気かもしれないけれど、うち(環境工学)はしっかりやりますので。
あ。ここ、クマさんたちの巣だ。
そう気づいたときにはもう、発表も何もかもが終わっていました。むしろ発表が終わってからの気づきとなっただけマシだったのかもしれません。この日を境に、筆者の中での辻堂先生の位置づけが「頼れる熱血漢」から「グリズリー」に変わったのでした。
発表終了後、もしかしたらその前だったかもしれませんが、上野先生と久々の再会を果たしました。挨拶もそぞろに懸案となっていた博士課程受験願書関係書類への確認をお願いし、願書一式が収められた茶封筒は、大会会場近くの閑静な住宅地に佇む郵便局から投函されたのでした。
時に8月下旬、大会会場へと戻る道は九州特有の厳しい陽射しが照りつけ、この先の道のりの厳しさをさっそく暗示しているようでした。
(初出:2021/01/23)