いんせい!! #19 博士課程!!

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新幹線と市電を乗り継いで、住宅地の真っ只中を通り過ぎた先に、今年の発表会場となる大学のキャンパスがありました。
 

#19 博士課程!!

 
このところずっと悩んでる場面しか書いていない気がしましたので、たまには表に出て格好いいところを見せていたんだと、こう言いたくて書いてみる次第です。しかしそもそも格好いいところを探さないと見つけられない段階で無理すんなよと言いたくなる筆者にとって、3回目となる日本建築学会の全国大会への参加の季節がやってきました。この年は広島でした。
 
発表内容は研究テーマこそこれまでと同じながら、上野先生というより武蔵小杉先生寄りの手法にトライしたもので、博士論文の中でどのように位置づけるか悩みどころなものとなりました。とはいえこの時点で博士論文はまだ影も形もなく、よくわからないけどまあなんとかなるさ、の気持ちでした。
 
発表は武蔵小杉先生寄りということで、もはや議論の余地はなく、クマさんの巣部門へのエントリーとなりました。知っている人でも容赦なく切り刻んでくる人たちですから、知らない人への切り刻み方なんて、もう想像を絶することだけは想像できます。発表の序盤には地域(今回の場合は広島)のご当地な何かを盛り込んで、少しでも場がほぐれないかなとあがいてみたのですが、咳一つ反応が返ってこないので怖かったです。
 
発表を終え、質疑もとりあえずよどみなく答えることだけを心がけ、大ケガは避けられたような発表でした。聴講していた武蔵小杉先生からは「良い発表でしたよ、社員みたいで」という、たぶんポジティブに捉えて良いんじゃないかなというコメントをいただきました。そしてこの日は発表後、別セッションにおいて、司会2という大役も担うことになりました。司会2の仕事は本当に筆舌に尽くしがたい重労働で、発表者の持ち時間が終われば鈴を鳴らし、あとは黙って聞いているだけという偉大なものです。
 
発表終了後、時を同じくして発表に挑んでいた籠原くん、池袋くんらと共に、世界遺産として有名な宮島に渡りました。完全なる観光です。シカさんがいました。もみじ饅頭も食べました。ちなみに籠原くんはM1ですが、池袋くんは会社を休んでの発表でした。彼にとっては最後の卒論発表でした。
 
池袋くんは実家(福岡)の具体的な住所こそ教えてくれませんでしたが、一見チャラそうに見えて身も心も格好いい男で、おそらく11期の出世頭になる逸材です。実は大学院への進学を検討していた時期もあったようですが、親御さんに就職してくれと泣きを入れられ、あっという間に結果を出しました。
 
池袋くんを見ていて思ったのは、あらゆる場面で迷いがないということです。言い換えれば迷うという行為に浪費する時間がどれだけ無益かを熟知しているかのようでもありました。年齢とか年代とか関係なく、見るべきものがあるすぐれた人材というのは、概観しているだけで勉強になるので有益です。
 
一方で進学した籠原くんも、ごく稀に逆流することはありますが、その処理能力は傑出していました。そのため早い段階から「スーパーTA」、あるいは「終身名誉修士」などと崇められ、直属の学年となる13期生に慕われていました。
 
よく考えると「終身名誉修士」って修士になれていないし、むしろ道半ばで何かあった人が背負うような称号ですが、修士号取得に不安を覚えていた人は誰もいなかったと思います。彼の唯一の趣味は釣りで、台風一過で時化た鴨川(千葉県)に仲間と釣りに行って以降LINEの既読が途絶えた際には、思わず「南無釈迦牟尼佛」と唱えてしまいました。
 
籠原くんなどのゼミ残留組はそのままの雰囲気でしたが、池袋くんは半年ですっかり社会人となり、筆者も博士課程をまっとうしなければと思ったことは割と本当です。時系列的には前回コラムの直前でしたので、その決意に具体的なビジョンが伴わなくてもあまり気にしなくて良かった状況があったことも、まあ良かったなと思います。
 
あとこのとき他に同行していた皆さんをここにきちんと書けなくて申し訳ないです。これ以上キャラクターが増えすぎると、筆者の著述能力では書き分けられません。
 

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鳥居さんです。
 

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シカさんです。
 
なおこのときの発表は、どうも本当に悪くなかったようで、後日建築学会の環境工学部門より「若手優秀発表賞」をいただきました。
 
やったぜ。でもなにこれ。建築学会全体で授与される賞なのかな。などと色んな疑問が湧きましたが、もはや環境系の主であらせられる辻堂先生の説明によると、若手のモチベーションアップのために設定されているとのことでした。どうやらそれぞれの部門でそれとなく審査され、特に定員は決められず、その年ごとに発表されるようです。確かに芸歴?的には若手ですが、若手扱いでいいんでしょうかと思いつつ、まあもらって嬉しいものなので良かったです。クマさんの攻撃にめげずに立ち向かっていれば、たまにはこういう良いこともあるもんだな、としみじみ思ったのでした。ただし大会期間中、現地にて都合をつけてもらえた辻堂先生との査読論文に関する打ち合わせで、例によって例のごとく原稿をボコボコにされたことは秘密です。
 

史上最大?の実験

 
博士課程であるからという理由ではないのですが、最上級の学生であるという事情は確かに作用するもので、主には上野先生による数々のプロジェクトによく駆り出されていました。本コラムでも既にいくつか断片を書いてきましたが、特に思い出深いのは、とこキャンの体育館と多数の被験者を用いた実験でした。
 
その実験は上野先生を総監督に、研究職に就かれた今市さんと、ゼミ創設以来かもしれない美女・小金井さんが主に取り組まれているものでした。その実験には今市さん所属の研究所の所員さんといった完全なる社会人の方も参画されるようなレベルで、筆者は上野ゼミ側の助っ人1番手くらいの位置づけでした。
 
実験の規模、はまず置いといて、被験者多数という実験内容そのものにおいて避けて通れない審査があります。それは「人を対象とする研究に関する倫理審査」で、早い話が研究倫理です。申請時期は実験期日のだいぶ前だったと記憶しています。研究における研究倫理の重要性はすべての大学院生が受講を義務づけられている「研究倫理概論」にてもちろん習熟していましたが、至近距離の傍から見ていると(実験遂行までに)ここまで頑張る必要あるのか、という工数でした。
 
晴れて倫理審査を通過すると、いよいよ、研究目的の整理と実験内容の精査に入ります。これ以上、についてはもう絶対に言ってはいけないことなのであえなく企業秘密とさせてもらいますが、ちょっとだけ面白かったことを書いておきます。
 
大がかりな実験というのは不測の事態への想定が欠かせません。しかしどう工夫しても結局は神に祈るしかない、という要素もたくさんありました。数ある中で特にどうしようもないものを挙げますと、一つは天候、そしてもう一つはお弁当の手配です。
 
天候は言わずもがなと理解していただけるかと思います。なぜ弁当?そんなの簡単では?と思われる方は、ぜひ一度まとまった数の人が集まる集会かなにか(お弁当つき)を企画していただきたいと思います。思いつく限りでポイントを書き上げますと・・・
 
・予算
・食数
・メニューの種類
・飲み物つきでトータルで安くなるか
・何日前まで食数調整が可能か
・当日何時に受け取るか
・そもそもどこで受け取るか
・そしてどこで保管するか
・どうやって関係者に渡すか
・(色んな観点で)安定しているか
・つまり美味しいか
・アレルギーチェックは大丈夫か
・ガラをどうするか
・領収書はちゃんと切れるのか

 

などなど、ぶっちゃけ実験の内容とは何一つ関係ないのに、何一つとして気を抜けないのです。
 
万が一足りなくなったら、何か問題が発生したら、昼食休憩は瞬時に修羅場と化すことが容易に推測されます。特にとこキャン周囲には大口の依頼を受けられるお弁当屋さんが少なく、上から下まで何でも知ってるともっぱらの噂の上野先生ですら、信頼できるお弁当屋さんは1軒だけでした。
 
「○福(店名)さんのところはご家族でお店を切り盛りしていて、この食数だとお姉さんが出勤している時しか対応できないかもしれません。だからお姉さんが仕込みの日に居るかどうかが鍵になります」
 
緊張感漂うミーティングにおいて、全く遜色ないテンションで先生から放り込まれるお店のご親族の情報が、お弁当ミッションの重要性を示しているといえましょう。お店の方も「(自分たちこそ)実験の成否を握るキーパーソンである」ということなど夢にも思うはずがなく、いやむしろ今後も、知るとビビるかもしれないのでずっと知らない方がよいかもしれません。
 
幸いにもお姉さんは在宅の日だったようで、当日は無事に搬入されました。美味しかったです。
 
そしてもうひとつの懸案:天候ですが、こちらはかなり厳しいというか、絶望的な情勢でした。その実験の開催時期は夏だったのですが、会場とした体育館にはエアコン機能のない送風設備しかなく、無対策では蒸し風呂になることが容易に想像されたからです。そのため会場内にありとあらゆる冷房設備の搬入と設置を行うなどして、予想される高温、埼玉が誇る熱波を迎え撃つことになりました。というか室内競技の部活の人たちは、夏場に冷房のない体育館で運動して大丈夫なんでしょうか。本番までにバテちゃいますよ。
 
それでも熱中症を恐れた筆者、自分だけは助かるの一念のもと、自分用のOS-1を愛車内に備蓄してその日を迎えました。
 
してその結果はといいますと、これが上野先生の強運の為せる技なのか、マジモンの神風が吹きました。台風は勢力を落としながら関東に接近し、とこキャンにほどよいさじ加減の曇り空と風をもたらしたため、気温が劇的に下がったのです。冷房対策のほとんどは事実上無駄となりましたが、最高の無駄でした。むしろこういう結果は無駄とは言わないです。
 
実験は成功に終わりました。そして帰宅時、筆者の車は道中の小田原で足止めを喰らいました。国道135号線が高波で冠水し、多くの車が沈んでいる、あなたもこのまま行ったら沈みますよ!と警察の方がすごい剣幕で伝えてきました。沈むぞ!なんて言われたことは初めてでしたので、忠告に従って市内の駐車場に車をデポし、一旦電車で帰宅することを余儀なくされました。幸いにもこのアクシデントで人的被害は生じなかったようですが、道路はしばらく通行止めとなるわ駐車料金めっちゃ掛かるわ、悪天候の余波を実験関係者でおそらく唯一喰らってしまうというオチがつきました。
 
そんなこんなで大変な実験でしたが、苦労した分だけ実りも多い、ということを間近で見させてもらえたのは幸せな体験でした。
 

いかに怪しまれないようにするか

 
これまでのコラムの書きぶりから、筆者の研究テーマやフィールドが何であるかはうっすらと見えてしまっている気がしますが、改めて書くことにします。主に大きな駅の公共空間において、筆者、並びに上野ゼミの学生は様々な調査を行ってきました。
 
実験空間というのは当然ながら、研究にとって理想的に都合が良い空間を作り出すことができるのですが、そもそも世の中には実験空間を用意しにくいテーマも無数にあります。特に実際の空間の状況を用いなければ何の成果も上がらない、という研究目的を持ってしまうと、もうやるしかないわけです。
 
しかし「やるしかない」と言っても、施設管理者や利用者に対して、どんなに小さなことでもご迷惑を掛けることは許されません。特にこのようなご時世、あらゆるものが簡単に撮影できてしまう以上、撮影機材を用いるときの態度はより真摯でなければならないと感じます。
 
幸いにも公共空間の場合、いち利用者としてその場でどのように振る舞うか、ある程度自由といえます。撮影を行うこと自体、明確な禁止規定や治安上の問題などがなければ、まあ大丈夫なはずです。それでも他利用者が脅威に感じることや、そのような素振り、特に犯罪行為と誤解されるような挙動は絶対に避けたいところです。なにしろ話せば理解を得られる調査内容だとしても、釈明のチャンスを与えてくれる利用者ばかりとは限りませんし、そもそも調査対象に小さくない影響を与えるような行動計画自体が本当は好ましくないのです。
 
ちなみに上野先生も、かつて天神地下街(福岡)で同種の調査を行っている最中、警備員に見初められてから潔白を証明するのに結構大変であったとのことでした。やっていることはマジでただの調査なので、多少時間は掛かっても十中八九放免されるわけですが、やっぱり気持ちの良いものではないわけで。
 
そのため研究目的によっては、実際の場面を利用した調査を諦め、シミュレーションやバーチャル空間などで研究を進めることもよくあります。むしろそういうことができるテーマなら、今後は率先してこの種のツールを用いる方向に突っ走った方が、なにかと都合が良いかもしれません。
 
そういうことができるならば。でもそういうことがやっぱり難しいならば。結局はやるしかないのです。やらなきゃ意味な・・・なんでもないです。
 
かくいう筆者も卒業論文執筆時から、駅空間で利用者が立ち入れるあらゆる場面を対象に調査を行ってきましたが、一緒に調査してくれる人がいると効率が良いことは明らかです。そのため、特に博士課程となってから、筆者と研究テーマの比較的近い学生と共同で調査を行うというケースが増えました。いやこりゃ楽だわ、もっと早くからやれば良かった、とやってみてから思いました。
 
駅空間での調査でのパートナーはベビーヴォイスな中浦和さんでした。合わせて美女の小金井さんも招集し、駅空間内での調査を敢行しました。調査は撮影を伴うもので、決して単独行動をせず、周囲に怪しまれるような行動は絶対に取らないようにしました。
 
結果として、調査は拍子抜けするほどうまくいきました。怪しまれるどころか、そういった気配もありませんでした。まあ筆者も基本的には怪しまれたことはないのですが、あまりにスムーズにいったので驚きました。
 
その要因とはなんだったのでしょうか。あまり言いたくないのですが、調査者が若い女性だったことが大きかったと思っています。まさか若い女性が、割と無骨なこの種の調査(公共空間をフィールドとした調査と撮影)に従事していると、街往く誰もが想像していないようなのです。調査を行うにあたり、いかに怪しまれないようにするか、のメソッドに新しい解決策が書き加えられたのでした。
 
賢明な読者の皆様におかれましては、今後筆者が街中で若い女性を連れて歩いているなんて大変な場面を見かけてしまったら、見て見ぬふりをすることをお薦めします。
 
まさゆめ「そろそろ、この辺りで、いいかな・・・」
 
女性「はい・・・」
 
まさゆめ「まずこの公共空間内にある誘導灯類を一個ずつ見つけてください。続いて誘導灯類が、一般的な行動経路と正対する場合にどの程度目視できるかを確認してください。その上で用意した図面に誘導灯類の位置を記入してください。最後に誘導灯類の位置関係や一般的な目線からの写真をスナップでいいので撮影してください。これは見落としや二重カウントを防ぐための措置で(以下略
 
見てはいけないところを見てしまいましたね。見世物ではないのですよ。あんまり見てると調査に加わらせますよ?
 
なお今後同種の調査を行われる皆様におかれましては、店舗内など、「公共空間」とは一概に言えない場所での撮影は老若男女関係なくNGとなり得るのでご注意ください。またどの場所での撮影であっても、映り込んだ一般の方のプライバシーの保護、さらに機材と一般の方との衝突回避には特に厳重なケアをお願いします。
 

ふたたび仙台のその先へ

 
調査して、執筆して、発表のための旅行をして。PDCAサイクルの大学院生バージョン、と言えそうな輪廻に為す術なく乗っかりながら、季節はふたたび大会発表を迎えました。絶対無理なのでしょうけれど、調査する人と執筆する人、内容を批判的に確認する人と発表する人と新たな交友関係を築く人って全部別々に出来ないんでしょうかね。どれか一つに集中していると他の多くはできてなくてそれがまたストレスなのですが、でも筆者は後藤さん(寄生獣)ではないので、今のところ諦めて一つずつやっています。
 
筆者がM2の年の全国大会の会場は杜の都仙台でした。ええもう、11ヶ月ぶりの仙台です。この年は学部4年生にして、その卒論内容の秀逸さから、飛び級的に大会へのエントリーを行うに至ったイケメン早川くん(13期)らと共に参加しました。
 
もう早川くんはどんだけ優秀なんでしょうか。ちょっとくらい試練に遭え!と心密かに念じていましたが、堂々たる発表でした。むしろ筆者の方がボロボロでした。まあしょうがない、それもまたひとつの人生。
 
会場では数年来お世話になってきた烏山先生とも合流しました。上野ゼミの助手であった烏山先生、筆者がM2の頃に常勤職を得て羽ばたいたことは書きましたが、その後に仙台の大学への転職を果たしていました。烏山先生は心なしか疲れていました。どうも全国大会の運営方を担っているとのことで、珍しく弱音を吐いていました。筆者としてはお手伝いできることもなさそうでしたので、イケメン早川くんを差し出し、早々に大会会場を後にさせていただきました。
 
もちろんお付き合いが嫌だったとかではなく、筆者にはこれから訪れたい場所がありました。それは昨年のゼミで行けなかった場所でした。仙台から列車一本で行けるようになったと聞いて、それなら今日の宿泊地として考えてもいいかな、と思いまして。
 
烏山先生「え、今から女川ですか?大丈夫ですか?遠いですよ?」
 
大丈夫です、仙石東北ラインがありますから。湘南新宿ラインと同じようなものですよ。
 

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仙石東北ライン専用の列車(写真は昨年撮影のもの)です。電車っぽいですがハイブリッドディーゼル車です。厳密にはちょっと違いますがプリウスみたいなものです。
 
仙石東北ラインは「異なる電化方式の路線を強引にくっつけ、かつ両方を走るための特別な車両(ハイブリッドディーゼル)」を強引に用意する、という力技で実現しました。こういうことができるなら、全国にも、それどころか利用者が多い関東でもやれそうな路線いくつもあるのに。
 

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石巻駅では仮面ライダーさんとサイボーグ009さんがお出迎えしてくれます。仙石東北ラインは基本的に石巻止まりなので、ここから石巻線に乗り換えます。
 

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石巻からは女川行きのディーゼルカーに揺られます。急に一時代前の車両になりましたが、色がちょっと違うのがきっとチャームポイントです。
 

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いやー遠かったですね女川。東京来たのに秩父に宿泊、くらいの強引なプランでした。ああ道理で、いつぞやの夏合宿のときもここまで足を伸ばさなかったわけですね。池袋くんかしこい。
 

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合宿はともあれ筆者として、一個人としてぜひ来てみたかった場所の一つが、ここ女川町でした。滞在時間的には来た、というより通りかかった程度のものですが、この町が現在どうなっているのかを一目でよいので確かめたかったのです。ただしこの日は到着時すでに陽が暮れていて散策のしようもなく、駅併設の温浴施設(ゆぽっぽ)でひとっ風呂浴びた後、宿泊地であるトレーラーハウスの部屋に入りました。
 
筆者にとっても東日本大震災は、年月を経てもなお、永久に忘れることのできない出来事です。直接的な損害を受けたわけでもなく、津波遡上の映像を呆然と眺めているだけの無力な人間でしたが、あの河口に居たら何ができただろうかと今もしばしば考えます。そのうえで唯一の共通項があるとすれば、誠におこがましい話ですが、発災と学生生活が始まった時期がほぼ同じであるということです。
 
あの絶望的な惨状から、自分が学生をやってきた時間で、何がどれほど変わっているのでしょう。仙台からすぐに行けそうな場所(推定)で、なおかつ乗ってみたい鉄道があった(重要)という条件のもと、筆者は宿泊地を女川としたのでした。
 

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明くる朝、女川始発の仙石東北ライン仙台行き特別快速列車(一番列車)を見届けて、初めて女川の街並みを眺めました。復旧のための工事(区画整理や嵩上げ)も目立ちましたが、景観の質を大きく変えるような防潮堤などは一切見えず、そこにはおそらく震災よりもずーっと前からの歴史を引き継ぐ意思を持った街がありました。筆者のスケール、思い出や思い入れなんて、もうどうでもよい話です。あえてこじつけるのであれば、そのスケールがこの唯一無二の景観を知る機会をもたらしてくれた、ということでしょうか。
 

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いち学生として、海辺の田舎町で生まれ育った一人の人間として、女川の人々が選んだ未来に心を揺さぶられる思いでした。
 
「肝心なことは目に見えない」と王子様に語ったキツネの至言をここまで感じ取ったことも初めてだったかもしれません。申し訳ないですが、ゼミのわちゃわちゃした連中と一緒じゃなくてよかったのかもしれません。とはいえ大人数で来た方が観光業的にありがたいので、じゃあ次はですね、もうちょっと多めの人数で来たいと思います。
 

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ちなみにトレーラーハウスは本当にホームの真横です。こんなトレインビュー、なかなかないですよ。
 

とはいえ、まだまだ

 
女川が湛えるとこしえの景色に心癒やされつつも、しかし博士論文という、最後にして最大な関門の突破の糸口は見えないままでした。上野先生とはかれこれ5年以上、三歩進んで二歩だよねと指摘されるような研究相談を続けてきましたし、何とはなしにどこかに進んでいることも間違いないのです。
 
日常生活において感じ取ることが難しい力に「重力」があります。そして博士論文なる課題が持つ重力も、意識しなければ何のことはないものです。もしかしたらこのままずっとその支配下にあっても生きていけそうな、むしろその方が安定するんじゃないかと思えるほどに、いつまでも優しく寄り添うような課題です。
 
しかし博士課程の至上命題は博士論文の提出であり、発表であり、重力圏からの脱出です。そう思い直して重力の正体と対峙すると、しかしそれは急激に大きな存在となって、観察者を無慈悲に押しつぶそうとしてきます。もちろんそれはひとつまたひとつと積み上げた成果を元に、論文を書ききるための材料が揃うほどに、跳ね返しやすくなってくるはずなのですが。
 
筆者以外の、というと今市さんか藤枝さんしか居ないのですが、博論指導を終えたあとに上野先生がこぼした一言を忘れることができません。もちろんこれは決して能力的な問題ではなく、もっと本質的な問題、を指し示しているのだろうと思います。
 
上野先生「博士論文の指導なんて、できないんですよ」
 
 

yumehebo.hateblo.jp



(初出:2021/01/29)

いんせい!! #20 教育コーチ!!

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生協のライバル、コンビニチェーンのデイリーヤマザキが出店したフロアと同じ3階に、eスクールの元締めといえる「eスクール事務局」がひっそりと存在している。その中には事務機能と(おそらくは)サーバ類、そして講義映像収録のためのスタジオが常設されている。博士課程に進学(=修士号を取得)した筆者は、この年から教育コーチに任命され、その実務を担うこととなった。教育コーチを務めるにあたっての必要な研修を経た後、春休み中のある日、筆者の姿はこのeスクール事務局にあった。eスクールを受講されたご経験のある読者さまはピンとくるかもしれない。自己紹介映像の撮影である。eスクール生時代は「皆さん、なんでこんなので緊張するかなあ」と思っていたが、いやはやどうしてこんなに緊張してしまうのだろう。ガチガチである。藤沢先生はこの状況でカメラを振ってとか言ってたのかと思うと恐ろしい。撮り直したい。
 

#20 教育コーチ!!

 
いんせい!!から読み始めた数少ない読者のためにこの謎の地位についてごくごく簡単に説明すると、教育コーチとはeスクール(早稲田大学人間科学部通信教育課程)限定のチューター兼メンターポジションである。eスクール生からみると、基本的にやりとりするものは文字がメインであるのに、先生と見まごうほど威厳のある教育コーチもいる。筆者はこの年にして学部2年生に間違われる程度には威厳がないので、eスクール生の気持ちに寄り添うことは自然に出来ると自負していた。
 
教育コーチの仕事は教員との科目デザインから始まる。筆者の場合、昨期までの状況がよく分からないこともあり、その引き継ぎも必要であった。基本的には科目は教員のものであるので、学生に提供される内容は教員が責任を持って提示していると考えて差し支えないが、さすがに教育コーチという「TA以上」の立場が尊重されたとき、それなりにアイデアを出すなどのことはある、とだけ記しておく。なにしろeスクール出身の教育コーチであるから、学生が痛いと感じることも、案外そうでもないなと安心できるやり方もだいたい知っていた。
 
学期開始直前、講義内容のチェックを兼ねて受講と課題内容の確認を行う。これが意外と時間を取られる。諸々の設定と確認を終えると、いよいよ受講開始である。この科目のBBS(受講者が自由にコメントできるページ)のポリシーは他科目と比較してゆるめの態勢、つまり書き込み必須とはしていなかったが、それでも何名もの受講生が次々と自己紹介を書いてくれた。楽しい講義となりそうだと思い、丁寧に返信していった。
 
2回目以降も基本的には内容確認→BBSチェックと質問対応、で時間が過ぎていく。直前になってバグを見つけることもあるので油断ならない。手に負えないほどの高度な質問は教員に引き渡すことになっているのでその点のプレッシャーはなかったが、早々に問題が生じてきた。BBS内にあまりに似たような感想コメントが並び、いいかげん語彙が尽きてきたのである。それ、○○さんがさっき書いてましたよねと思うものはさすがに「○○さんのところでも返信しましたように」とそっと書き添える。こう書くと同じ内容の感想に天丼しようとする学生は当該スレッドにレスという形で密かに協力してくれるのだが、どういうわけかほぼ全員がスレを1から立ててしまう。時間差はあるが、何十人と一斉に話しかけられている気分である。聖徳太子でも胃もたれ起こすんじゃないかという気がする。このままでは脳が持たんということで、返信コメントを気持ち短めにしていく。
 
講義も中盤になり、いよいよ中間レポートの出題である。レポートの採点についても、基本的には教員任せのものであるが、一応教育コーチであるので教員からそれなりに意見を求められるし、意見することも少しはある、とだけ記しておく。この辺りから、週の最終日に滑り込み受講と滑り込みBBS書き込みを行う学生が増えてくる。インターバル走でギリギリ入線した走者が、次のスタートをすぐに出来ない気持ちは分かる。そういった学生に対して教育コーチとして優しく寄り添おうとするものの、週が切り替わる2時間前とかに投稿されても「お疲れ様」と言うチャンスはない。朝起きたら丹念に返信してきた数の2倍の書き込みが一晩で積み上がるともうこちらも耐えられない。以後、必ず返信しなければならない内容や興味深い情報と知見を備えた書き込みを優先的に処理していくことを心がける。
 
中間レポート締め切り間際となると、どういう訳かパソコンが不調になったなどと言ってくる学生がいる。機械ならまだしも、当人が不調ということになれば頑張れとも言いにくい。しかしそんなことを泣きつかれても教育コーチには判断できないので、教員マターの案件とする。教員は教員でそこまで情(情報)が入っていないこともあるのか年の功なのか、熟練の対応で学生を納得させる。これで終わってくれればよいのだが、何割かの確率で教育コーチをすっ飛ばして教員とやりとりをする学生もいる。学生の行為自体に問題はないのだけれど、話にならないと思われたかな、この科目では基本的にわししか窓口対応していないんだけどな、などと結構落ち込む。
 
講義も3ヶ月となると、いよいよ期末レポートの足音が聞こえてくる。学生の中にも「小テストでこの選択肢が不正解なのは納得いかない」などとやたら攻撃的に書き込んでくる者が現れる。確かにごくまれにだが設定ミスがあり、その際は学生に不利益とならないような修正を行うことがあるのだが、結構な言いがかりのようなものも混じっているので慎重に対応しなければならない。しかしそんな対応を繰り返していると、勉強の場でなんでこんなクレーム処理みたいなことしてるんだろと情けなくなってくる。いや、クレーム処理係と割り切れれば納得するのだが、たぶん求められているのはそれではないのだ。BBSへの返信も遅れがちになるが、気力で返していく。
 
そして講義最終盤、前後して期末レポートの提出期限も到来し、科目は終幕を迎える。こまめにBBSを書き込んでくださる学生さんにはなにかと情が湧くが、レポート内にBBSでのやりとりをそのまま持ち込むのはちょっと止めておいた方がよいと思う。期末レポートの事務連絡と科目全体の報告を教員に行い、教育コーチとしての仕事が終わる。
 

日曜と月曜が怖い

 
eスクールの週の切り替えは日本時間の月曜午前5時(2020年度現在)となっており、受講(視聴)期限やレポートの提出期限もその節目に同期しているケースが多い。そのため学生は月曜朝4時59分までもがくので、突発的な対応はだいたい日曜の夕方以降に訪れる。ギリギリのタイミングだと即応できない恐れがあるので早めにね、とあらかじめBBSに書いているのだが、そういう人はきっと読んでいない。次いで管理者的立場では、あらぬ不調が学生から報告されるのも肝を冷やす。それはだいたい月曜の早い時間帯にもたらされるので、日曜から月曜の36時間くらいは神経をすり減らす時間帯である。もちろん、問題を迅速に伝えてくれること自体はありがたい。
 
それにしても、である。eスクールを受講する側だった時は、やれ教育コーチの働きが微妙じゃないかだのもうちょっと質問攻めにしてやろうだのなんでそんなにカリカリしてんのだの思うことは少なからずあったが、とんでもない話であった。ここまで過酷だとは。ここまで「寄り添う」ことが難しいとは。そんな苦労話を年に一度「eスクール講習会」で他科目の教育コーチと共有するのだが、もっとエグい事例もちらほら聞かれて、何が鍛えられたのかよくわからないがなかなか勉強になる。具体的に言うことは憚られるが、お願いだからもうちょっと中に人が入ってると思ってもらいたいな。
 
とはいえ学生時代、憧れとは言わずとも「面白そうだな」と思ったこともあったポジションであった教育コーチを担当することができたのは、素直に喜びである。ゆくゆくは後進が育ち、筆者より遥かにまめまめしい教育コーチが筆者の担当する科目を引き継ぐことになると思うが、まあそれまでは、もし相まみえることがあれば、受けて立ってしんぜよう。
 
どんなに邪険にされてもなお、教育コーチはいつまでも、学生さんの学修を心より応援しています。
 
 
 
(初出:2021/01/30)

いんせい!! #21 学生!!

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#21 学生!!

 
いつものゼミ室に向かうまでの道のりは、折からの寒さが本格化したこともあって、ちょっとだけ辛いものになりました。1月中旬の火曜日、3学期制なら3学期の始めに位置するような、何の変哲もない日です。
 
所沢駅を過ぎた西武線の下り電車の中では、TAや学生など、同じ目的地を目指す人と鉢合わせすることも結構ありました。特に博士課程以降は身体がしんどく、学バスいつもありがとうなどと心で思っておきながら、空いている隣の狭山ヶ丘駅からタクシーでキャンパス入りすることもままありました。しかし顔見知りとの邂逅ともあれば、さすがに意気揚々とタクシーには乗りづらく、大人しく学バスの列に並ぶことを決めるのでした。
 
学バスの列は春先と比べて、3分の2か2分の1か、かなり短くなっていました。残りの人たちはクレバーに別の時間帯に移動したか、はたまた優雅にタクシーを捕まえたりしているのでしょうか。きっとそのどちらでもないのでしょう。あるいは矢尽き刀折れてフェードアウト、もしくは別の国への武者修行、あとは単に科目を捨てたなどなどいずれにせよ毎年レアと言えない程度にはいなくなるようです。その決断がその人にとって、どんな形であれ、良い展開を迎えることを祈りつつバスに乗り込みます。
 
学バスの乗り心地はいつの季節もずっと変わりませんが、窓の外の景色は見事に四季を映していて、飽きることはあまりありません。冬場の畑の隅には固くなった雪が残り、運動場と示されている広場は霜が降りた後なのかなんなのか、かなりボコボコなように見えました。
 
バスはやや混雑する狭山湖口の交差点を過ぎ、大学入口の交差点を勢いよく左折すれば、あとは正門のロータリーに突き進むだけです。もういい加減アスファルト直してあげてよと思いつつ、無事に送り届けてくれた運転手さんに御礼を言いながら降車します。もちろん足首をグキらないように注意です。
 
「人とペガサス」像が見下ろす、陸上トラックと野球場を分かつ歩行者道の上を、多くの学生が静々と歩いてゆきます。キャンパス開設時はもっとスッキリと見えたこの道も、今や両脇に生い茂った常緑樹に視界を塞がれて、さながら森のトンネルに分け入っていくようです。
 
ゼミ室はバス降車場を降り、100号館の入口を通り過ぎて、更に奥まった場所にあります。ドアは中の様子が一切分からないような分厚い金属製の親子型片開き戸で、ドア面には部屋の主である2つのゼミに関する情報、特に藤沢ゼミの情報が貼られています。
 
やれやれやっと到着だぜと言いたげな雰囲気をまとって入室しますと、卒論に関する作業の更なる追い込みを行っていたらしい4年生数名が、もうろうとした様子で座っていました。他人(教員や院生)がメインのプロジェクトに荷担すると、おかげで卒論テーマや品質に困る可能性は低くなるのですが、予想外のタスクが降ってくることもあるので大変です。
 
ゼミ開始10分前になりました。受講者である4年生が次々と入室し、場が一気に賑やかになりました。10人も入ればいっぱいになるようなほどの広さしかないので、一番遅く来た学生や院生は、少し区画された別の場所に移るということもままありました。
 
そしてこの時期の4年生はというと、卒論発表以外のすべてのタスクを終えて余裕綽々な者もいれば、この期に及んで足りていない単位を取るためのテスト対策を行っている者まで様々でした。そのため賑やかになるといっても、全員が一気に盛り上がるということもなく、くすぐったくなるような淡いざわめきが漂う内にゼミ開始時間となるのでした。
 
それにしても、卒論が電子提出になってよかったよね、ちょっと前まで会議室前に並ばなきゃいけなかったのにね。過去を知る筆者や藤枝さんが「チキンレースを企画しようとしたら学生に逃げられた」とか、多分そのときの4年生が全然イメージできていない話で場を温めている最中、数分遅れで上野先生がやってきました。
 
4年ゼミの冒頭はいつも、上野先生のありがたいお話と、上野先生からのありがたい事務連絡で始まります。事務連絡はだいたい長さを計算できるのですが、ありがたいお話は調子が出てくると止まらなくなってしまうため、見かねたTAが強制終了させることもよくありました。すんなり進めばまだよい方で、困ったことに一度降壇したはずの先生がまた話し始めてしまうなんてこともあり、TAはその都度卒論の相談時間の再編成を迫られるのでした。
 
しかしあとは卒論発表会のみというタイミングにおいて、先生による長くなりそうなお話の時間は、不思議なほど毎年思いのほか短いものでした。というのも、この週は発表会直前の練習も済ませていて、その練習後の内容の微調整に関する相談の週となっていたからです。いわゆる最後の決戦の前、国際試合の直前のニュースで聞かれるような、軽めの調整というやつでしょう。卒論の進捗は毎年面白いように変動するので、ギリギリな学生が多い年は最後の方まで緊張感も漂いがちでしたが、それでも卒論提出という最大の山場を越えたことによる安堵感はどの年も共通していました。
 
ポートレートモードって機能がすごいんだよね。ポケットからおもむろに取り出したiPhoneで、相談待機中の学生を無理矢理撮影していたのもこの時期でした。それより広角モードもすごいよ。ほら、この部屋が1枚の画角に収まっちゃう。
 
ゼミ室に設置されているディスプレイは、発表スライドの確認といった出番がなければ、AppleTVのスクリーンセーバーでお馴染みの夜景を映していました。天井まで伸びた本棚には、なかなか取り出して読むこともないような本が大量に並んでいます。地震の時は気をつけなきゃね。
 
2時限が終わり、お昼休みに入ると、各々が昼食に向かいます。といってももう学食を食べ飽きたのか、はたまた面倒になったのか、多くの4年生がお湯を入れたカップ麺を持ってゼミ室に戻ってきます。あんまり換気の良い部屋じゃないので、後から入ってきた学生が「カレー食べた!?」などと察知しています。何割かはそれにつられて買って戻ってきます。
 
お昼休み終了後、3限以降は3年ゼミの時間となりますが、4年生は自習です。筆者は3年ゼミに荷担することもままありましたので、午後のゼミ室には居たり居なかったりでしたが、それなりにやかましかったことは伝え聞いておりました。藤沢ゼミの皆様、行き届かない面、お詫び申し上げます。
 
冬の陽気は瞬く間に夕方を迎え、5時限目に入ると、4年ゼミが再始動します。就活に忙しかった夏前の時期は、3分の2どころか半分も揃わないなんてこともありましたが、さすがにこの時期は見事に全員が出席しています。
 
MacBookAirの充電器の奪い合い、背もたれつきの椅子をどう並べれば安全なベッドになるかの工夫、どうせ研究室のプリンターだし多めに刷っとこの心意気。
 
全員の相談が落着し、来週の発表会への簡単なブリーフィングを経て、ゼミはお開きとなりました。4年生はそれぞれかったるそうに荷物をまとめ、男子はよく分からんノリで小突き合いながら、女子も女子で誰かとのLINEに精を出しながらバス乗り場に向かっていきます。澄んだ空気に包まれた外の世界は、星が鈍色に瞬き、けれど朝の寒さを思い起こさせるような凍てつき方です。
 
 
君たち何で平気なんだ。君たちもう、これで終わりなんだよ?
 
もう二度とゼミのために全員で集まることはないし、もう二度と先生と相談することもない。卒論落とせば別だけど。たぶんもう二度と昼休み明けのゼミ室でわいわい喋らないし、喋ったところでみんなもう同じ立場でいることはない。まあ卒論落とせば別だけど。
 
TAとして院生として、同じ時期には同じように心の中で叫び、飲み込んでいました。それはまるで、乗り過ごしてはいけない最終列車の扉が閉まるのを、何もせずただ見送るような。
 
まあ今時の若者に言ったところで、そうっすか、くらいの反応であるのも目に見えています。いやむしろ筆者が現役学生だったとしたら、何言ってんすか遂におかしくなったんすか、くらい言い放ってしまうかもしれません。
 
けれど年季が入ってしまった筆者は、気だるい朝の歯磨きのような、飽き飽きした瞬間がもう二度とやって来ないことを知っています。それは学生という身分の終わりであり、学生と名付けられた偉大な冒険の章の終わりでもあり、今見えている君たちそのものの終わりなのです。
 
終わりを直視するということは、時に残酷で、耐えがたいものです。しかしそう思えてしまう前提は、好意や愛情などの内在以上に、日常であったかどうかだと筆者は常々思います。日常の終わりとは小さくも確固とした世界の終わりです。例えそれが全く価値を感じないような出来損ないのジオラマ、あるいは今すぐ捨て去りたいルーティーンだったとしても。
 
なので特に頓着しないうちにそれが過ぎ去るというのは、心に無用なダメージを負わないという意味で、あるいは合理的なのかもしれません。もっと言えば、過ぎ去ったということ自体に気がつかなければ、失われたという認識にたどり着くことすらないでしょう。
 
けれど、そういうポリシーでいいんでしょうか。痛みから逃げ回ることだけが良い人生なんでしょうか。静まりかえった100号館横のスロープを、行きとは反対に下り坂として歩きながら、筆者は毎年のように心をかきむしっていました。
 
しかしそんな中、筆者が遭遇しただけですが、2人だけ気がついた学生がいました。池袋くん(11期)と小金井さん(13期)です。2年の時を隔てて、2人は同じ言葉を発していました。
 
「え、ゼミ、もう終わりなんじゃない?」
 
その後の言葉はエモい、とかマジか、とか彼らなりの言い方でした。言えるのは、少なくとも彼ら2人は、はっきりと言葉にしたということです。他の学生も大なり小なり感じていたのかもしれませんが、経験上、思わず言葉にできるか躊躇するかというのは彼我の差があります。誰かを傷つけるような言葉の吐露には躊躇こそ大事ですが、そうではない言葉や思いは、素直に出すのが良いに決まっているのです。
 
彼らはこの終わりを受け止めるだけの感性と器量が備わっていたのでしょう。頭が良くて綺麗な心を持つ彼らに、結局そのことすらちゃんと伝えられない筆者は一生勝てないなと思います。
 
 
帰りの学バスは、乗り場にて吹きさらしの学生を一刻も早く収容すべく、発車時刻のだいぶ前から扉を開けていました。
 
森はひたすらに押し黙って、今日のゼミも周辺の車の音も、まるで違う世界のものだと思わせています。
 
バスの車内はいつの間にか4年生の会話で賑やかになり、後から追いついてきた院生や先生も、その輪の中に加わりました。
 
数分後の定刻にバスは動き出しました。この次に彼らがゼミ目的でとこキャンにやってくるのは、発表会のその日です。
 
卒論に関するあらゆる事前の提出物を、ほぼ毎回最初に提出してきた小田原くん(13期)は、同期と日帰り旅行行こうなどと言っています。彼は翌週インフルエンザを発症し、卒論発表会を欠席、快復後に追試の発表会をこなす羽目になりました。上手の手から水が漏るとはよく言ったもので、けれどそれまでの積み重ねと罹患を正しく申告した小田原くんの誠実さによって、追試発表会は大いに盛り上がったのでした。
 
ゼミ配属当時こいつら絶対付き合ってるだろと疑っていた神田さん(12期)と村岡くん(12期)は、案外そうでもなかったっぽくて、けれど12期の最後の方は全員それなりに明るくなっていました。笑顔見せるんだね、この人たち。もうちょっと早く一致団結してくれていればよかったのに。彼らの卒論発表会当日は大雪に見舞われ、運営側はタイムテーブルの修正に大わらわでしたが、主に藤沢ゼミ関係者の尽力で無事全員が発表を完了させました。
 
筆者がM1の頃は完全にお嬢様だった上尾さん(11期)と由比さん(11期)と早川さん(11期)は、2年をかけてちょっとは大人になった気がしますが、ベースは同じままでした。しかしもう一人の女子の北本さん(11期)は完全に何かに目覚めたのか、おじさんキラーになりそうな色香を漂わせていました。きっと色々あったのでしょうね。
 
伝説の夏合宿と冬合宿を経た10期については、よく覚えていません。ごめんね。
 
みんなこのバスに乗っていました。みんな今は何処に行ったのでしょう。もはや知る人の誰も乗っていないバスはいつものルートをひた走ります。やたら広い駐車場のあるコンビニのある交差点を左に曲がり、周囲の田畑とほどよく調和した病院施設の前を通って、片側2車線の広い道へと進入します。誰がどんなに舌打ちしても、長泉先生が運転手の真後ろで怒濤の批判を繰り広げても、まったく変わらないルートです。
 
夜のバイパスは日中よりは空いていて、バスはスムーズに小手指駅南口に到着しました。運転手に御礼を告げながら地上に降り立ちます。
 
西武池袋線の小手指駅は、2面のプラットホームと4つの乗り場を持つ、典型的な「郊外にあるちょっとだけ大きい駅」です。駅構内はバリアフリー対応こそほぼ完了しているものの、設備に装飾と呼べるものはなく、陽が落ちた後ともなるとそこかしこからうら寂しさが醸し出されています。
 
籠原くん(11期・院生)に連れて行かれたのは、小手指駅北口から少し歩いた場所にある、こぢんまりとしたラーメン屋でした。小手指にも結構美味しいお店あるんですよ、と言っていたか定かではありませんが、美味しいラーメンでした。じゃあ今度は籠原ハウス(※下宿)に招いてよ、と図々しく突っ込むと、それはダメですとはっきり言い返されました。大丈夫ですとかではない直接否定表現ですので、よっぽど都合が悪いようです。これは何かありますねえ。
 
バスが小手指駅に着いて小腹が減っていたとき、ゼミ生はよく、駅周辺でご飯を食べていたようです。筆者もごくまれにその一団に付いていき、まあこれくらいの人数なら大丈夫だなという目算の元、男気を見せることもそれなりにありました。こういうのは全然痛くなくて、毎週でもよかったくらいなのですよ。さすがに毎週だとぎょうざの満州の連続登板になりますが。一日がかりのゼミの終わりに、終わりよければすべてよしと思えるような何かを求めていたのは、たぶん誰もが同じでした。
 
改札を通り、吹き曝しのホームにて10分近く待って、急行電車がやってきました。電車はどっぷり暮れた冬の闇の中、今か今かと待ち続けている池袋駅の帰宅民を迎えるために、ほんの気持ち急いでいるようです。登場当初はギョッとするようなホワイトボデーの西武電車も、今やすっかり沿線の雰囲気に溶け込んで、武蔵野の日常の一部になっています。
 
なにしろこの時間の上り電車の座席は結構空いていますので、遠慮がちに腰掛け、そっと目を瞑ります。ちょっと紙面が余っているので、望まれていないであろうと理解しつつも、ふたたび過去語りしてみましょうか。
 
 
筆者の現役の学生時代は、所属したどの教育機関においても、天中殺としかいいようのない惨状でした。
 
環境だけが悪かったとは言いません。完全無欠にほど遠い筆者のスペックですから、至らなかったことも多々あったでしょう。限られた選択肢の中、学びと反省を繰り返しつつ、それぞれの立場の人は頑張ることができていたと思います。しかしどう考えてもその立場に相応しくない言動に終始する人々が跳梁跋扈する学校という組織は、筆者にとって毎日見る悪い夢であり、飲み込みがたい現実でした。
 
学校に美しい思い出だけを残せている人はもちろん幸せですし、けれどほんの少しだけ意地悪な言い方を許してもらえるのだとしたら、それは気づいていないだけなのかもしれません。あるいは気がついていても、それどころか踏み込んでどうにかしようとしても、個人ではどうにもできないシチュエーションは少なくとも筆者の現役時代において有り余っていました。おそらくみんな少しずつ病んでいて、かつその悪化に怯えていて、何もかもに手一杯だったのでしょう。
 
eスクールを経て、ゼミに足を踏み入れてなお、筆者の中において教員や学校関係者に対する警戒感は相当に高いものでした。一方で心のどこかで、もっとちゃんとした学校、ちゃんとした先生や学生がいる環境はいくらなんでももうちょっとストレスが少ないのではという微かな希望もありました。まあそういうものでもなければ、喜んで社会人学生になろうとはしないでしょう。これでも「学ぶことは楽しみを増やすこと」と今でも思えているので。
 
そして院生として迎えたゼミ。決して広くないゼミ室で繰り広げられる群像劇は、きっと筆者の想像以上のものでした。
 
やたら重い課題を突きつけられて机に突っ伏している瞬間も、講義中におにぎりを食べるところを見つかって怒られた午後の昼下がりも、大学というネバーランドの中においては些細な波風でした。
 
なんだ楽しいところじゃないか。大変なことは数あれど、あるべき学校はやっぱりあったじゃないか。
 
筆者がその背中を見送ってきた普段着の学生たちは、実は後天的に筆者にかけられていた、学校と学生への呪いを解いてくれた恩人たちです。
 
対してあの頃の自分を知る上から目線の人々は、大学院だ博士だなんて夢を見やがって、とでも言うのでしょうね。その通りです。夢のようです。夢を見て本当に良かった。
 
 
電車が池袋駅に到着して、あくびをかみ殺しながら降車ホームに降り立ち、一目散にJR線を目指します。都会のど真ん中にやってくると、あまりの人いきれと光源の多さに、つい1時間前まで過ごしていた森の中の静けさが遠い日の記憶のようです。
 
しかし現実の筆者には、最後にして最大の課題である博士論文が待ち構えていました。感傷に浸っている場合ではないのです。過去を思い起こす前に、まずはこの懸案を過去のものにしなければ。夢のような日常が、ちゃんとした現実であったと確定させるために。この日常を正夢とするために。
 
何の変哲もない冬の夜の日常の中、院生であり学生である筆者にも、終わりと呼ぶべき瞬間が刻一刻と近づいていました。
 
 
 
(初出:2021/01/31)

いんせい!! #22 謝恩会!!

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調査素材の確認のため散らかったフォルダ内を確認していると、万感の表情が幾重にもまたたく集合写真を見つけた。
 

#22 謝恩会!!

 
W大人間科学部では毎年3月下旬、秋学期卒業者向けの卒業式を開催する恒例があることは何度か紹介してきた。上野ゼミではそのうえ、卒業式後の当日夕方から夜にかけて「謝恩会」を開催していた。卒業式は学部単位とはいえ大規模であるため、先生とゼミ生がゆっくりと最後の語らいをできる場所は実質的にこの謝恩会のみであった。
 
謝恩会には卒業する学生や院生はもとより、在学生や関係の先生方も参加するのが通例であった。卒業式とはなぜか縁遠い筆者でも、謝恩会には毎年参加していた。ちなみに「謝恩会」という言葉の意味をよく考えると、卒業式がらみでは「学生が先生を謝恩する」形が想起される。しかし実際は全員会費制のパーティーであり、そのことに気づいた烏山先生が「卒業パーティーって言った方がよくない?」と進言したのはごく最近であった。あまりにも自然にその言葉が収まっていると違和感に気づかないものである。本コラムでは面白いのでこのまま「謝恩会」という呼び名で続けていく。
 
毎年の謝恩会の最後は、烏山先生による集合写真撮影でいつも締めくくられた。みんな最高の笑顔である。写真の質感も独特である。なにしろ烏山先生はプロカメラマンでもあるので、本来はお金を払った方がよいものである。一度一緒くたに一つのフォルダに収められる筆者の写真フォルダの中に混ざっていても、悔しいかな特殊な風合いである。そして日付を繰っていくと、在りし日の記憶が蘇ってくる。
 

13期:渋谷(宮下公園横)

 
筆者一押しの個性派集団:13期の謝恩会は、サイボーグ化が進行中の宮下公園を眺められるお洒落な渋谷のレストランを3時間程度借り切って開催された。
 
これは後から本人経由で聞いたことであったが、当時M1の新大久保くん(12期生・院生)は本チャンの卒業式で昏倒していた。元ヤン時代の古傷なのか、突如として貧血に見舞われることがあるという。それがたまたま晴れの舞台で起こってしまい、救急車で運び出されたというから驚きである。
 
しかしもっと驚いたのは、当の本人が治療を終えてこの謝恩会に出ていたことであった。さすがに安静にしておきなさいよと言いかけたが、元ヤン的には晴れの舞台は外せないのだろう。しかも彼が所属していた某体育会系の部活は出席がきわめて厳しく取り扱われており、欠席という概念がない中でこれまで生きていたとのことであった。大学の科目でも、さすがにそこまで厳しい出席基準を設けているものは聞いたことがないというか、その割に新大久保くんもゼミはちょこちょこ休んでいたような気がするが、元ヤン的には自然なポリシーらしい。ちなみに元ヤンの件(くだり)は、すべて筆者の想像である。
 
謝恩会では見え見えのサプライズとして、お世話になった先輩(先生、院生)へのプレゼントが用意されていた。先生や院生もそれを見越して、必ず餞別を用意していた。この辺りの伝統は、まあまあ他所でもありそうなものである。しかし実際送る側になってみると難しいもので、そこそこ記念品になりそうなものを探すのに毎年骨を折った。
 
ちなみに小金井さんは、周りが引く程度に泣いていた。一分の隙もない見事な引き際である。小田原くんは最後まで学生を送り出す先生の風格であった。
 

12期:渋谷桜丘町

 
その1年前の12期の謝恩会は、渋谷の再開発地域(桜丘町)のレンタルスペースのような場所であった。ちょっと場末感がすごかったが、室内は特に辛くもなかった。最後の最後になって笑顔のやりとりが増えてきた12期であったが、結局は13期の黄金の輝きに敵うことはなかった。
 
プレゼントへの餞別は、めでたく院生に進学することになった新大久保くんには誘導灯のレプリカを差し上げた。両の膝から崩れ落ちていたので、大事にしてくれそうだと思った。
 
ちなみに再開発地域はその後完全に外界と隔てられ、場末感あるビルもなにもすべて過去のものとなった。意味合いからしても、素晴らしい会場選定だったと思う。12期はやはり遅れてから結果を出す一団であった。ただし泣いてる人は特にいなかったと思う。
 

11期:新宿歌舞伎町

 
筆者一押しの能力者集団:11期の謝恩会は、歌舞伎町の雑居ビル内のバーを借り切って開催された。
 
場内は関係者全員がギリギリ入る程度の狭さであったが、誰も大して気に留めている様子はなかった。この年用意することになった餞別はたまたま全てがふわふわ女子向けであったが、唯一餞別担当から外れた北本さんにもかわいそうなのであげることにした。中身はラスカ熱海で見つけたスライム状の石鹸で、よさげだけれど全然熱海っぽくないなと渡してから思った。
 
このときは烏山先生が特に写真に残してくれていて、筆者もそこそこ良い笑顔で写っている。もったいないので、facebookのプロフィール写真に流用しちゃダメかな。
 
その後二次会か三次会まで付き合って、結局その日は都内で一泊した。しかし思い入れが大きかった割に、この時のことはあまり覚えていない。でもたぶんそれは、大きな問題がなく会が終わったからこそなのだろう。
 
いや、やっぱり、どう考えても、前の年のインパクトがありすぎたからだと思う。
 

10期:新宿歌舞伎町

 
一次会会場から少し歩いた場所にある二次会の会場は、何らかのクラブでした。ホストさんやお嬢さんはいらっしゃらなかったのですが、そうだと思う以外にないシチュエーションでした。
 
まず入口の前には、黒スーツと黒サングラスで固めた屈強な(たぶん)外国人さんが見張りをしていました。こういうエージェント・スミスな出で立ちの傭兵さん、実際の世界では初めて見たかもと思いました。
 
そしてビルのファサードはなんというか、女性モデルさんの尻で構成されていました。何言ってんだこいつって思われると思うのですが、そうとしか説明しようがない写真の看板でした。とにかく、尻が並んでいました。雑居ビルですからさすがにそのお店そのものにこれから入るのではないと思いたいのですが、みんなその看板に向かって歩かざるを得ないわけです。
 
さすがにこれは・・・と逡巡した参加者もいたようですが、あまり前で溜まっていると傭兵が動き出しそうなのでとりあえず入ろうという流れになりました。
 
漆黒のマットな壁で整えられた階段を進むと、確実にクラブっぽいフロアがありました。一行はさらに別室の、やはり全体が黒っぽい個室に通されました。全員着席の後に店員さんがやってきました。お飲み物いかがなさいましょうか。
 
おうおうどういうことじゃてめえなにやったかわかってんのか!指詰めろや指!という儀式が行われかねないような雰囲気と申しましょうか、この後に何らかのドラマが起こるしかないようなシンプルな空間でした。あるいはいきなりマシンガンを持った足立区の至宝たる監督が乱入してきて、間もなく全員蜂の巣にされまーすというレイアウトです。
 
そして部屋の入口付近では、謝恩会幹事の宇都宮くん(10期)が上野先生に土下座していました。清々しいまでに、自然と身の内から土下座衝動が湧き上がってきたかのような完成度の高い土下座でした。
 
組長もとい上野先生は終始笑顔でした。まあいいですよ。いや良くないんじゃないですかね!と心の中で相当早いツッコミを入れましたが、実際はとてもじゃないけれどそんなようなことを言い出せる雰囲気ではありません。強いて言えば他の院生とかが言っていたような気がしますが、まあでもネタ的には面白いよねということで誰もが現実を受け入れ始めていました。
 
いやだってこのビル、いわゆるお水とか風なんとかさん系のビルですよね。しかもかなーりディープな方だと思うのですよ。日本のお水の聖地たる歌舞伎町で、多数の尻を看板に掲げられるようなお店が半端物なわけがないんですよ。
 
てかどうして宇都宮くんはここを予約されたのですか。そもそも正気ですか。いやサークルでも仲間内でも、ゼミ仲間とでも公式イベントの後とかなら全然いいんですよ。先生いてるんですよ。どうして先生連れてきちゃったんですか。他の誰も大丈夫でも、先生に尻を乗り越えさせちゃマズいですって。事実上のゼミ公式行事の最後の最後ですよ。もうこれしか思い出に残らなくなるじゃないですか。
 
宇都宮くん(10期)の供述を人伝に聞いた限りでは、ホットペッパーかなにかで予約し、かつ立地の下見を怠り、当然お店側はWELCOMEという何重かの奇跡によってこの事態を迎えたとのことでした。幸いにもフロアは歌舞伎町にしては時間が浅かったのでしょう、他の客も入っていないような状況でした。
 
お店は別に問題ないわけです。でも教育上はですね。んーと教育上ですね、いやもうどうでもOK!
 
おそらくお店が本気を出す時間帯になる直前、二次会はお開きとなったのでした。あれですね、ヤンキースタジアムのグラウンドツアーのようなものですよね。よい社会勉強になりました。いやほんとに。レジ打ちのお兄さんと入口の傭兵さんに御礼を言って、一行は無事生還したのでした。
 
ていうかそもそも、一次会から会場がおかしかった気がするんですよ。同じく歌舞伎町の、やたら室内が暗い部屋で、やっぱり雰囲気が謝恩会の趣旨とマッチしないというか、まあでも居心地は悪くなかったのでそれはいいです。
 
それより戦慄が走ったのは、餞別渡しのシーンでしたね。烏山先生が全員分の写真を用意されていたのですが、当日になって来ない(そもそも出欠を伝達していない)子が居ましてね。
 
もうパーン!って音がしましたよね。銃声ではなくて、烏山先生が欠席した子の写真を床に叩きつけてたんですね。よっぽど悔しかったというか、やるせなかったのでしょうね。ほんとにもう、最後の最後までマズいですって。
 
ちなみに筆者にとっては、この時が初めての餞別用意側に回っての謝恩会参加でした。とりあえず頭クルクルパーっぽく、派手派手なサングラスでも渡しておこうと思って買いました。受け入れてくれるか心配でしたが、ウケてくれて良かったです。
 
お騒がせ10期は最後までお騒がせで、きっと今はそれぞれ就職した会社で最高のモチベーターとなっていることでしょう。
 

来たるべき修了式と謝恩会に向けて

 
ちょっと途中で思わぬ丁寧口調を余儀なくされてしまったが、全体的には楽しい記憶ばかり蘇ってくるのは幸せなことなのだろう。なにより卒業の瞬間をきちんと締めくくるというのは、とても大事なことだと思う。
 
筆者はこれまで基本的に、送る側一辺倒で謝恩会に参加してきた。しかしいつかは、送られる側になるのである。その時は、最上級生として何か偉そうに話した方が良いであろうか。
 
ちなみに博士学位の場合、総長から個別に学位記を授与されることになっていた。そのため名称も、「修了式」ではなく「博士学位授与式」となっている。そしてこれも完全に伝統であるが、博士学位を受け取る者は全員がアカデミックガウンを着用することになっていた。
 
アカデミックガウンというのはいわゆる式服で、W大では校章のモデルとなっている帽子も合わせて着用する。ガウンは裁判官が着用するようなシンプルな黒地のものだが、スクールカラーの臙脂と学位を示す二色の衣を上から羽織る形である。
 
いやー似合わないだろうと思いつつ、まずはそれを着られる目処を立てなければ話にならない。やるべきことをきちんとやりきらないと、ガウンも着られないし学位授与式にも出席できない。出るつもり満々だったのに論文が間に合わなかったら、その年度の謝恩会は少しだけ気恥ずかしいことになってしまいそうだ。
 
まあそれが何年後にせよ、おそらくこれが人生最後の卒業式(修了式)になるわけで。心密かに、楽しみにしておきますか。
 
 
 
写真の中のいつまでもあの頃でいてくれる学生たちをぼんやりと眺めつつ、筆者は論文のための写真の整理にふたたび熱を入れるのだった。
 
 
 
(初出:2021/02/01)

いんせい!! #23 OBOG!!

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桜の花びらなどとうに散って久しい時期、筆者は11期の面々が集まる居酒屋を目指していました。
 

#23 OBOG!!

 
一度でも足を踏み入れてしまった学生や院生はすべて、上野ゼミでは卒業・修了後に「OBOG(Old Boy, Old Girl)」とみなされます。昨今のLGBTQを意識してしまうとこの呼び名も配慮がない、などと言われてしまいそうですが、単に「OB」とだけ称している事例が多いところに「OG」をつけているので、何卒ご勘弁願いたいです。ちなみに上野ゼミでは、個人の機微に触れる情報は時代を問わず厳重に取り扱っていますのでご安心ください。上野ゼミはカミングアウトは自由ですし、アウティングや夜這いには厳正に対処します。
 
そして他の多くのゼミと同様、上野ゼミでも毎年OBOG会が企画されています。仮に1期10名としますと、eスクール生や助手などを合わせて150名以上がOBOGリストに入っています。OBOG会では毎年その中の20名くらいが顔を出し、上野先生や後輩との親睦を深めています。筆者も在学中一度だけですが、幹事を務めました。
 
さて、なかなかこういう時に難しい立ち位置となるのが社会人学生の宿命です。基本的には「期=年度」ですから、期が浅い人は先輩であり年上の可能性が相当に高くなります。年功序列な儒教的思想が希薄になってきた昨今の日本社会でも、年下に邪険に扱われてなお気持ちがよい年上は少数派です。結果、期の若いOBOGの立ち位置は後期の学生らが決して及ばないものとなります。
 
そういう規範の中で、扱いに困ってしまうのが筆者のような社会人学生です。上野ゼミの開設年=1期誕生年度は確か2005年で、2020年換算しますと年齢が30代中盤の人たちといえます。対して筆者は氷河期世代の端くれのため、まあもう四捨五入する必要がなくなってくるレベルのアラフォーです。要は1期さんたちよりちょっとだけ上で、しかし上野先生から見れば学生とみなせる程度には世代の離れた年下なわけです。もちろんこのような場合でも、基本的には「期」に従うべきです。社会人学生さんの中にはもっと上、上野先生より上という方もいらっしゃいますがそれでも同じです。所属している学年が与えられている役割をこなし、それ以上背伸びする必要もないのです。当然ながら年下の先生(教員)がいても、教員として敬うべきです。
 
でもですね、筆者はやはりその辺りがまだ昭和なのかもしれないのですが、逆の立場(筆者が年下、後輩が年上)で「ところで最近どんな感じ?ちゃんとゼミ回せてる?俺ん時はそんなに緩くなかったなー」とか、馴れ馴れしく年上さんに話せないですって。年下にもちゃんと話せてないのに。
 
以上の流れからオーパーツと化するしかない筆者という存在は、どうにも扱いづらいものとなるのでした。なにしろ自分が扱いづらいのですから、周りの人にはさらに面倒じゃないかといつも不安でした。当座の解決策として、筆者は「存在感を消して学部生に潜伏する」という強引な作戦で乗り切ることにしました。風格のなさだけは妙に自信がありますし、隣に小田原くん(13期)のような風格ある人か三河島さん(12期)のように目力のある女子を配置すれば磐石です。
 
そんなこんなで昭和生まれであるとかは極力示さないようにしながら、最下級生的立場で参加するというのは割と楽しいものでした。なにしろ最下級生ですからね、先輩(1期とか2期とか)が座ってらっしゃるテーブルにはこちらから馳せ参じなければなりませんよね。加えてある程度こちらのことを知っていただかなければなりませんので、不慣れなテーブルトークでもこちらから切り出さねば・・・
 
まさゆめ「先輩の皆さん、ご卒業のあとも仲が良さそうですね!」
 
○期生「違うよ。ここでしか会わない」
 
まさゆめ「あっ、そうなんですね・・・」
 
○期生「・・・・・・」
 
まさゆめ「・・・・・・」
 
クソが、なんだその態度。グラス口につけたまま小声で喋ったっきり目も合わせないでこの野郎。お前同世代やら目上やら取引先の社長にも同じような言い方するんか。と言いたい気持ちを瞬時に堪えて、現役生が溜まる端っこの方に背中を丸めて帰るのでした。これはOBOG会よ。下手な騒動は禁物だわ。しかし背伸びもよくないけど、縮こまるのにも限界があるわけで。正真正銘のOBOGに転生した暁には、諸先輩も煙たがるようなオーパーツ0期生として参加してやるよと強めに決意したのでした。現役生たちよ、知らない先輩から不愉快なことされたらお知らせくださいね。その先輩の目の前で、わしが君たちにいいようにこき使われる姿をバッチリ見せつけてやりましょう。
 

羽ばたいた11期のその後

 
OBOGの繋がりはゼミ単位でも、同期単位でも発生するのが自然です。筆者一押しのゴールデンエイジな11期も、卒業して一ヶ月後の5月某日、東京駅近くの居酒屋でひっそりと近況報告会を行っていました。そしてそこに筆者もゴリ押しで参加させてもらうことになりました。
 
卒業から一ヶ月が経過した彼らの表情は、全然変わっていませんでした。むしろこの顔が揃うと「ゼミの話にしなきゃ」と妙な緊張感が漂ってしまいそうになるくらい、みんなの表情は同じでした。とはいえわずか一ヶ月でも、彼らはもうしっかりと社会人でした。かしこい系男子は手堅い職場に、ふわふわ女子も割とカッチリとした職場に、ポンコツ3も何ら遜色ない職場を射止めていました。筆者からはTAとしてではなく、普通のおっさんとして一つだけお願いしました。どれだけインターバルが空いてもいいので、全員が無理に揃わなくてもよいので、11期で集まる会をこれからも作っていって欲しい。
 
今後彼らは順調にいけば、昇進なり転勤なり結婚なりを果たして、一箇所に集まることはどんどん難しくなっていくでしょう。多少の逆風が吹いたところでそれは変わらないはずです。絆という観点からしても、会社や同じ趣味の人、地域の人や有力者とのつきあいはより強固になり、ゼミなどの過去の絆は意味を失っていきます。でもだからこそ、実は掛け替えのないものなのです。
 
個人的な話ですが、90を過ぎた祖父は元々顔が広く、色々な付き合いを続けていたのですが、最後まで残っているのは学校のクラス会なのです。みんな「もう会えないかもしれないから次はあの世で」などと言いながら、次のクラス会まで元気に過ごすことを目指しているのだそうです。もはやなんの共通項もないけれどよく知っているという繋がりは、どうやら人生の最期まで人を支えうるのです。まあさすがに今からジジババになった時のことを想定するのは無理があるにしても、みんなの素敵な人生を支える絆は一つでも多くあった方が良いに決まってるのですよ。そういう絆を一切持つことが出来なかった昭和おじさんからの、せめてものお願いです。
 
まあもちろんこんなに切々と語ることはしませんでしたが、その願いが通じてか、彼らは以後もスキーやら飲み会やらで集まってくれているようです。また聞くところによると、影の世代、ドライ一辺倒な12期の人たちの方が卒業後もコンスタントに連絡を取り合っているとのことですから、わからないものですね。まあごくたまにで良いので、おっさんもその集いに呼んであげてください。飲み代くらい払ってやりますよ。
 
田端くん「ダメですまさゆめさん、僕らちゃんと払いますんで」
 
大人になったな田端くん。
 
田端くん「でもこの前、会社の設備ぶっ壊しちゃって・・・あはは」
 
ダメじゃないか田端くん。最高ですね。もう会社は君のものです。戦果報告お待ちしてます。
 



(初出:2021/02/02)

いんせい!! #24 博士論文!!

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厳しい冷え込みが始まったとこキャン100号館の教室のイレギュラーな時間に、上野ゼミ所属の院生と学生が集結した。2017年12月4日、博士課程兼助手の藤枝さんの公開審査会である。
 

#24 博士論文!!

 
これまで筆者に打ち込まれてきた打球・投球・牽制球を陰に日向にカバーしてきたのが藤枝さんであった。その持ち前のタフさと負けん気の強さが高じ、博士課程中にもかかわらず助手への着任を果たすなどの大車輪な活躍を見せていたその人が、満を持して博士論文を提出することとなった。公開審査会は順調に終了し、藤枝さんは今まで見たことのないほど安堵した表情を見せていたのが印象に残った。審査結果はもちろん合格で、晴れて修了の運びとなった。上野先生曰く、ゼミの博士号取得者は通算3人目ということだった。
 
まさゆめさんが4人目になりますね。藤枝さんの学位取得からほどなく筆者は、先生や周囲からこう言われるようになった。実際、筆者にとってはまだD1を終えたばかりのタイミングであったが、博士論文を最初に意識したのはこの時だったと思う。
 
博士論文の実質的な開始ゴングは、提出時期の約1年前に設定される「中間報告会」である。これを字面通り解釈すれば博士論文の内容の中間報告であるわけだが、別に半分を書けたら報告せよという趣旨ではなく、論文申請の許可、つまりは終わりへの火ぶたを切るためのものである。仮に秋学期(年度内)に修了することを目指すと、審査スケジュールは以下のようになる。
 
4月頃 中間報告会の実施(日付は主査が設定)
10月14日 博士学位論文審査の申請(=論文の提出)
10月中 予備審査
11月13日 申請の受理の可否決定
11月下旬~12月下旬 公開審査会(日付は主査が決定)
翌1月6日 審査用論文データの提出(=修正した論文の提出)
1月29日 合否決定
1月31日 公開用論文データの提出
3月頃 学位授与式
※日付は2019年度秋学期博士学位申請の場合。日程は毎年異なる

 

この中での最大の山場は「公開審査会」、つまり発表会である。またその前に設定されている「博士学位論文審査の申請」は、博士論文の提出期限である。その間にある予備審査は、申請(=論文の提出)が行われた場合に大学がそれを受理するかを判断するもので、予備審査を通ると公開審査会への道が開ける。色々あるが、要は修了しようと考える時期があれば、その1年前から動き出さなければ絶対に間に合わないようになっている。なおこれはあくまでW大人間科学研究科のその時のカリキュラムであって、他年度、他課程、他大学では異なる点が多々あるであろうことを付記しておく。
 
実際の原稿の起草という意味では、中間報告会の3ヶ月前、2019年1月に具体的に動き出した。もちろんそのだいぶ前、1本目の査読論文を検討している段階で「ツリー」と呼べる章立ては存在していたし、素材という意味での論文や成果は3年間、いや修士課程以来の5年間で相当に積み上げることができていたので、結構な蓄積があった。しかし実際に意識的に「まとめるぞ」と動き出したのはこの辺りであった。
 
翌月の研究相談にて、副査の最終決定を行った。博士論文の審査では「主査1名(指導教員)、副査最低3名」が必要とのことであったが、どんな3名を選ぶかはだいぶ思案した。どこまで規定にあるかはわからずじまいであったが、1名は学外から招くことが望ましいらしい。筆者はまずとっさに大磯先生の名前を出したが、既に名誉教授になられており、しかもまだご多忙なので難しいのでは、とのことだった。よくご存じですねと思いつつ、確かに筆者が一度もお目に掛かっていない状態でいきなり頼むのは怖い。そうなると修士論文でお世話になった武蔵小杉先生と小山先生、またその時サバティカルだった藤沢先生もどうであろうか。あと学外ということでは、ずっとお世話になっている辻堂先生も素晴らしい人選であろう。甲乙なんてとてもつけられないが、しかし定員的にどれかを選べということになると・・・
 
上野先生「あ、4人にしちゃおう。それがいい」
 
それができるんかい。かくして筆者の博士論文の副査は異例?の4名態勢となった。こともなげに書いたが、副査を快諾してくれた4名の先生方には改めて感謝申し上げたい。
 
2019年3月。研究相談にて提示したツリーをベースに、中間報告会への準備を始めることとした。この頃の筆者は大会発表などは行っていたものの、学内での発表は意外なことに久しく行っておらず、勘が鈍っていることに悪い驚きがあった。幸運にもその状況に早く気がつくことができたため、発表練習は入念に行うことができた。また直近で修了した藤枝さんから、博論審査に関するあらゆる必要書類や資料をいただき、必要な書類の目算が容易に立てられたことはめちゃくちゃ幸運であった。最後の最後まで筆者は藤枝さんに頼り切りである。しかしこれからは、一人で立ち向かっていかねばならない。
 
2019年4月9日。博士論文中間報告会が開催された。出席者は筆者と主査1名(上野先生)、副査4名(武蔵小杉先生、藤沢先生、小山先生、辻堂先生)、更に数名の院生であった。発表内容は修士論文のテーマをベースに、より大きな結論を目指すという尻切れトンボ的なものであったが、その事実を指弾されることはなかった。しかしその分、質疑においては研究の意義そのものに疑義を抱かれたようなハードなものもあり、天気晴朗なれど波高し、的な情景が浮かんでいた。ただ繰り返しになるがあくまで中間報告会であるため、結局は「がんばってね(by 武蔵小杉先生)」以上のメッセージもないようであった。
 
中間報告会を終え、ツリーを結構バラす必要がありそうだなと感じつつも、とりあえず博士論文に必要なパーツを取り揃えるところから意識し始めた。まず何も考えずともできそうなのが謝辞であった。今思うと何に力入れてるんだと思えるが、ちょっと格好良くまとめ上げられはしないかとうずうずしてしまうお年頃だったと言うほかない。お世話になった人か。11期とか書いちゃダメかな。
 
さすがに謝辞だけ上野先生に提出するのは恥ずかしいので、改めて第1章(背景)からまとめ始めた。論文の主要部分は査読論文などで充足していたわけであるが、第1章については大いに積み増す余地があった。というより、積み増さなければならなかった。基本的に論文の背景というのは、研究目的とその領域の一般的な歴史(既往研究)を無理なく結べばもっともらしくなるのだが、決定版であり新規性も求められる博士論文であるから、取って付けたような論理展開が許されるはずもない。
 
といっても研究テーマとして長く取り組んでいる以上、多くはそれまで言語化せずに身の内に積み上がっているものも少なくない。まずは筆者自身の主張と客観的事実の混在に厳重に注意しながら、これまで研究テーマの領域で何が起きてきたかを概説することにした。
 
半月が経ち、一ヶ月が経ち、作業は難航した。筆者が思っている以上に、研究テーマ周辺に関する筆者の内の哲学が欠けていた。単純に言うと「知ってはいるが、その知見が何を意味するか」をきちんと説明できなかったのである。その原因、というより、今そういう状態なんじゃない?と教えてくれたのは、副査の先生方であった。
 
実は春先、主査(上野先生)より、中間報告会で提起された質疑について書面で回答することを求められていた。実際それを行わないと、遥か先の公開審査会にて副査から「疑問が解決できていないじゃないか」と示されてしまい、結果が非常に厳しいものとなる恐れがあるという。一大事である。もちろん書面回答自体は何ら異論がなかったが、回答を考えるほど前提的な部分の問題点が解消できなくなっていた。とりあえずの形であるが現状の筆者の回答と呼べそうなものをまとめ、副査相談が始まった。
 
博士論文に関する副査の位置づけもまた各大学、もしかしたら各論文ごとに異なっているかもしれない。筆者の場合は規定人数より多い4名の副査が任命されたという事実から透けて見えるが、主査として副査とのコミュニケーションは歓迎という趣であった。これが場合によっては、副査は審査会関係でしか対応しない、極端には判定にしか関わらないというケースもあるようで、確たることは分からないが要は主査の意向と権限が大きいのだと思われる。つまり主査が「副査に聞いてきな」と言えばそういうことであり、主査が「俺の話だけ聞いておけ」と宣えばそういうことである。
 
4名の副査は四者四様であった。最も厳しいのは予想通り辻堂先生であったが、こちらは査読論文での協議も並行して行っていたため、与しにくし、ということもなかった。むしろ厳しさがあるがため、議論の末に編み上がった課題克服のための考え方はすべて頑健なものであった。一方で藤沢先生は当初から本質を突く、厳しい言い方をすれば論文の価値を奪う、ためになる言い方をすれば論文の真の価値を筆者に気づかせるような魔法を惜しげもなく披露してくれた。また補足的になるが、藤沢ゼミの院生であった川越さん(仮名)にも随所で助けられた。さすが藤沢先生の愛弟子で、ゼミ室にて鉢合わせしたところで筆者の抱える問題点などを真面目に受け止め、自分の言葉で返してくれた。上野ゼミの学生は聞き飽きている部分もあるので直接の比較はできないが、博士論文関連の話題で効果的なフィードバックを何度ももたらしてくれたのは川越さんであった。悩みという渦の中で断片化している思いを、一緒になってすくい取ってくれたようだった。
 
申し訳なかったのは小山先生で、相談時期に酷い夏風邪を引いてしまい、相談日時を日延べすることになってしまった。小山和尚は寛大な心で日程変更に対応し、代替日程で行われた相談は和気藹々と進んだ。武蔵小杉先生はこのときはついぞ連絡が取れなかったが、上野先生から「もういいです」とのお達しが出て中間報告会関連のミッションは終わった。
 
夏前、筆者は博士論文のための最後の実地調査を敢行した。卒業論文で行った調査との年代比較という意味合いが大きかったが、卒論の内容自体を見直すきっかけにもなった。幸か不幸か、研究テーマが卒論時代から一貫していたということの強みであるが、さすがに卒論時代の考察をそのまま使おうというほど博士課程になってしまった筆者も甘くはなくなっていた。このままではアカン。
 
上野先生も同感ということで、これで何度目か分からないツリーの再検討を始めた。結局筆者は何を解き明かしたいのか、今ある世界がどんな未来になって欲しいのか、という本質的な問いに改めて向き合うことで、単に実験・調査アラカルトで止まっていたツリー構造に変化の兆しが見え始めた。これはだいぶ上手い流れになってきたんじゃないですかね。期待したが、この時期に上野先生から色よい返事が聞かれることはなかった。
 
「何だろうね、わかんない」
 
わかんないのは僕もです!しっかりしてください!博論の指導なんてできないよ、という話を聞いてから延々不安なんです!に近いことをちょっと露骨に言っちゃったような気もするが、確かにこれだけ近くで長年相談を受けている人を「わからせられない」のは問題である。良い論文とは一見複雑そうに見えても、一言で、1分で、6ページで、30分で、つまり与えられた時空の中で大事なことを順番かつ綺麗に取り出せるはずなのである。これが毛玉のようにグチャグチャな状態ではとても美しく取り出せず、もっと言えば毛玉状態が垣間見えると、いざ取り出されたものが果たして本当に論旨の要石であるのかも疑わしくなってしまう。
 
ともあれ、このままではグチャグチャで提出期日を迎えてしまう。筆者はまず主査(上野先生)に理解してもらう、というシンプルな部分に立ち戻り、「まあいいんじゃない」と言ってもらえるようなところまでは来た。お、あと少しなんじゃないか。
 
「でもまだよくわかんないよね。主張が」
 
この主張がという部分が時に背景が、時に目的が、とエラいシンプルな言葉になるものだからさあ大変である。言ったよね。この前言いましたよね。これで大丈夫ってあなた言いましたよね???という不毛かつ不遜な言質取り大会が1ヶ月程度続いた。最終的には物量面では満足できるものとなったようで、「いいんじゃない」はやがて「いいですかね」になった。よっしゃやっと観念した。ってあれ、筆者、なんでいつの間に先生引き留める人になっちゃってるんですか。
 
なにはともあれ、博士論文を完成させるにあたり、もはや足りないものは何もないように思えた。もうここがゴールだろう、と宣言できたつもりにもなった。しかしただ材料を取り揃えただけでは料理にならないし、料理をただ並べただけではコースにならない。まさにコースとしての必然性が、この後の筆者に最大最後の難関として立ちはだかった。
 
ゴールを引いたのに。もうこれで終わりですと線を引いたのにそれじゃゴールじゃないんじゃない?と言われたときの絶望たるや。じゃあもう提出止めますと啖呵を切るしかないんじゃないかというところまで精神的に追い込まれた。さすがに上野先生から「ナーバスになりすぎないでください」と心配され、啖呵を切るのは抑えられたが、今思うと単純にそこはゴールではなかったのである。つまり、確かにゴールを引くのは自分であるが、それは客観的に「なるほどこれはゴールだね」と納得できるようなものでなければならないのだ。
 
気持ちは少し落ち着いたとはいえ、精神的には限界であった。巷では筆者が応援している球団が何年ぶりかの優勝争いに明け暮れており、気分転換になりはしないかと何試合か観戦した。直接的な影響は分かるはずもないが、こうすれば説得力が増すかなという論の流れや、重要視すべき結論の提示の在り方など、より論文の輪郭が浮かび上がるようなアイデアが降ってきたのもこの時期だった。つくづく息抜きは大事であるし、しかしこれも息抜けるまで追い込まれたからこそなのだろう。各章ごとに保存していた原稿ファイルの名前にそういったブレイクスルーがあるたび、「新第○章」という形で新たに保存するようにし、9月末にはすべての章が新バージョンとなった。
 
それでもゴールは見えなかった。正確には、見えているゴールを完全に信じることができなくなっていた。いよいよ今期での提出を諦め、半年後に優雅に修了するというTRUE ENDを脳内のどこかに描き始めていた。しかし半年後に伸ばしたからといって優雅に修了できる保証は何もなかった。むしろこれまで筆者がなんとなくクリアしてきた「修業年数通りに進学」というジンクスを失うことで、いよいよ上野ゼミ幽霊院生として末永く取り憑いてしまう未来も予期された。マジな話、課程内博士は最大6年間の在籍が可能で、加えて退学後も3年間は論文審査の申請が可能ということになっている。実際、どうやっても時間の掛かる研究に取り組まれている方には必要な制度である。十年仕事と割り切って、もうちょっと居てやろうか。
 
いや、そんなことをしたら更に3年も学費を払うことになる。まあなんとか払うとして、問題は心身の方である。既に体力は相当に疲弊し、随所で変調を来していた。よく分からないが、力みが取れない。急に不安にもなるし、些細なことにも腹が立つ。この慢性的不調をあと1年でも半年でも抱え続けることは、学費云々より受け入れられないことであった。不調が起きない程度の火力で博士論文に取り組むとなると、本当に何年かかってしまうのか。
 
やはり、書き上げねば。何を置いてもここで書き上げねば。チャンスは今期一度きりのつもりで。応援しているチームの優勝争いに秋風が吹き始めた頃、手を付けてはいけないっぽい部分の燃料を投下する覚悟を決めた。命を燃やせ。うおおおおおお
 
見えるようで見えない、おまえさんもうゲージ100%になってるやんけと思いながら一行に終わらないインストールを台バンする勢いで、10月2週目のほぼすべてが論文執筆であった。しかも悪いことに、日本の遥か南に巨大台風が発生し、10月2週の土日あたりに関東を直撃するという予報が出ていた。前の月には房総半島を麻痺させてしまった台風15号が文字通り自宅付近を直撃していたから、さすがにもう今年は来ないだろと思っていたらよっぽどヤバそうなのが来ることになりそうだ。そして改めてスケジュールを確認し、提出期限である10月14日が台風の大きな影響を受ける可能性に気づいてしまった。
 
論文提出に関する期限ごとは、その一つでも遅れたらアウトというのは卒業論文でも常識である。その上位種である博士論文が、期限を遅れて受理されることは万に一つも考えられなかった。現状ではなんとも判断できないが、台風の勢力からして、10月14日に提出が叶わないという可能性を無視するわけにはいかなくなった。そうなるとその手前に提出すればよいとなるが、残念なことにその前は土日である。少なくとも日曜日は窓口は開いていない。土曜日は開いているが、その日もことによると台風の影響を受けそうな情勢であった。
 
もうこれは、台風が来る前になんとかしないといけないのではないか。直感的にそう判断し、書き上げねばという思いは猛烈に書き上げねば、に進化した。今思うとそれでもギリギリだが、6日間で終わらせようとしていたタスクを3日で終わらせようとか、メチャクチャである。人間科学のくせに人間離れが過ぎる。いやそもそも、6日間で終わらせようというのも無理があった。もちろん世の中にはこういう仕事は少なくないと思うが、これがダメなら半年後ね~という妙な逃避先がある論文というのは、ある意味で仕事よりタチが悪い。
 
それから3日間、書いて書いて書きまくった。もちろん元々書いていたものも多いわけだが、特に論理的整合性の確認にはもう何度でも読むしかない。できていないと言われているところを抜本的に見直し、できているんじゃないかなと思えるところでも抜本的に見直し、その都度リライトし、そんなような行きつ戻りつで各章を整えていった。全く寝ていなかった10日夜あたりなど、上野先生に何も言わず原稿だけ送りつけるというサイコ野郎と化していた。上野先生も黙って送り返してくれた。
 
2019年10月11日朝。3日間で睡眠3時間という事実上の三徹による突貫執筆は終わりを告げた。博士論文のすべての章について上野先生からOKの合図が出たのだ。嬉しいというより虚脱感があった。ここに決定稿が完成したのである。しかしまだ終わりではなかった。台風19号に関する予報は「途轍もない勢力で関東地方に接近する」となっており、10月14日の締め切り日に大学閉鎖、あるいは交通が寸断されて所沢に行けず、という悪夢が現実味を帯びてきた。
 
大学より全学一斉メールが送信されたのは10月11日午前11時頃であった。翌10月12日の全学休講のお知らせである。ガッデム。やっぱり12日は無理じゃないか。そうなると提出できるのはこの日、今この日の10月11日しかない。提出チャンスはこの一度きりである。オルタネイトがことごとく機能したからこそそのチャンスも巡ってきたわけだが、本当にそうなるとは。筆者はひとまず、提出のために必要な副査人数分(4冊)の論文の印刷を急ぐことにした。
 
しかし筆者が所有しているカラープリンターは本来写真印刷を得意とするインクジェットプリンターであり、発色はとても安定していたがいかんせん印刷速度が遅かった。博士論文ともなると資料含めて200ページ近くとなるため、印刷は遅々として進まなかった。イライラはかなりのものであったが、専門外の大量印刷を発注されたプリンターを責めることはできなかった。事務局は基本的に午後5時まで空いているが、それまでに確実にとこキャン到着を叶えることを考慮すると、列車接続の都合から午後2時前には自宅を出る必要があった。しかし正午過ぎの段階で3冊を刷るのが限界であった。あと1冊足りない。ジーザス、まさかここで副査4名態勢が重荷になるとは。
 
これは提出に間に合わんと判断し、急遽方針を切り替え、提出に必要な残り1冊はとこキャンのゼミ室で刷ることに決めた。ゼミ室のプリンターはレーザー式であり、自宅のプリンターの100倍は速い。問題は現地で刷る時間があるかであったが、そのため予定より1本早い列車で所沢へ向かった。もちろん三徹明けで往復216kmの運転はきわめて危険なので諦めた。
 
午後4時前、筆者は必要量にリーチがかかった書類一式を引っ提げてとこキャンに到着した。残り1冊の印刷は面白いように早く済んだ。最初からこっちのプリンターにしておけば良かった。プリンターは異なっても内容は全く同じなのであるが、念のためきちんと発色されていることなどを確認することを忘れなかった。そして印刷中、藤沢ゼミの院生・川越さんが入室してきた。4時限終わりということで、TA業務から帰ってきたところらしい。まさゆめさん、こんな時間に珍しいですね。という顔をしていたので、この日初めて家族以外の他人と会話した。
 
「博士論文、提出してきます!!」
 
「えええええ!?」
 
このタイミングでそんな歴史的瞬間を!?という見事なリアクションを取ってくれたのはとてもありがたかった。確かに、紙での提出時代の卒業論文も、未だに紙での提出である修士論文も、教員とは言わないが研究室の誰かは見送りそうなものである。まあこうせざるを得なかった最大の理由は台風であるし、そういえば誰にもこの日に出すことを伝えていなかったので、そりゃ誰もいないに決まっていた。確かに、歴史的瞬間であった。川越さんだけにでも目撃されて幸運だったのかもしれない。
 
午後4時半、筆者は博士論文に関する書類一式を事務局に提出した。事務局閉室の30分前であった。台風19号はいよいよ関東を射程に捉えているとのことであったので、感激もそこそこに自宅へとトンボ返りした。結果として台風は13日には東日本を通過し、14日の所沢は台風一過の秋晴れが広がっていたとのことだが、台風が広範囲に甚大な被害をもたらしてしまったことを考えると筆者が14日に所沢へ赴ける状況があったかは怪しい。なにしろ地元から近い箱根町では、24時間で942mmという衝撃的な雨量を記録し、その傷は年単位が経過しても完全には癒えていない。その規模の災厄が自宅周辺で起こらなかったという保障は全くなかったのだ。改めて、台風19号(令和元年東日本台風)にて被災された方々の回復を祈りたい。
 
とにかく終わった。終わったんだな。台風19号がもたらす暴風が家を揺らす中、泥のように眠った。
 
そして翌週、ふたたびとこキャンにて研究相談が始まった。
 
「やっとスタートラインですね。ここから頑張って(修正して)いきましょう」
 
何言ってんだこの野郎耳から茶飲ますぞ!と不躾ながら思ってしまったが、言われてみればここから先も長いのだった。全然終わっていなかった。ここまでヒーコラして提出したのはあくまで「博士論文審査の申請」であり、まずそれが予備審査で受理されなければならない。予備審査は基本的に学生(申請者)が関与する場面はないのだが、いずれにせよそこが「可」となって初めて博士論文審査のベルトコンベアが動き出すのである。そしてなにより、公開審査会に向けてはまだまだ修正すべき余地があると主査は踏んでいたし、冷静に考えると三徹で(だいぶ進めたとはいえ)パーフェクトまで達せられるほど博士論文は簡単ではない。終わりと思った自分を少し恥じつつ、改めて研究相談に取り組んだ。ただもう気持ちは半グレであった。え、それ今から言う?とか普通に言ってた。申し訳なかったのでペットボトルのお茶を買ってくるおつかいを承った。
 
気持ちを入れ替えての修正作業はそれなりに捗ったが、気力体力とも限界を超えていた。主査からは、大きな骨組みが問題というより、細かい表現や図表、用語の粗さが目立つかなという感想だったと思う。主査の意見をベースに、副査の先生方との相談も合わせて行っていった。特に藤沢先生は多忙な中、論文の背骨のズレを見事に矯正してくれた。上野先生の方針があったからここまで来られたのは紛れもない事実だが、藤沢先生の下で論文を書いていたらどうなっていただろうと想像した。
 
ハプニングは10月末に起きた。小山先生との副査相談のための登校の道中、小田原駅にて強烈な頭痛と吐き気に襲われてしまい、日延べを余儀なくされたことだった。過労であった。通算2回目の日延べを喰らってさすがの小山和尚もお怒りであったが、幸いにも代替日程を数日中に設定してもらうことができ、概ね状況を理解してもらえたことでかろうじて救われた。また最も捕捉に手間取ったのがメールに反応してくれない武蔵小杉先生であったが、ゼミ室の前に張り込むという私立探偵作戦が見事に奏功し、相談を実現することができた。相談内容も手厳しかった修論時と比較して相当なまろやかさで、
 
「(追加コメントはもう)ありません!」
 
と満面の笑みで締めくくってもらえたことはとても嬉しかった。まだまだ武蔵小杉先生が本当に望むところまで進めていないかもしれないが、満足してもらえたという事実は満足できることであった。決定稿の修正版の執筆は、体調と気持ちを管理しながら粛々と進んだ。
 
2019年11月中旬、大学より博士論文受理決定の通知がなされた。合わせて公開審査会の日程が「2019年12月9日」と決まった。そしてこの日を前後して、ついに博士論文決定稿の修正版を脱稿した。修正版原稿は来たるべき公開審査会に出席を予定している先生方(主査・副査)に、事前に送付することとなっていた。もう当日バーンとお見せするのではダメなのかと思ったが、主査にそれとなく一蹴された。ただし論文本体の印刷はゼミ室のプリンターを使うことが許され、いや最初から許されていたのだが、その問題はあっさりと解決した。
 
2019年11月23日、大学院科目「生活環境エクスプローラ(仮名)」の時間内に、公開審査会の発表練習を兼ねた発表のための時間を用意してもらえた。この科目は筆者も修士課程時代に履修し単位を取得していたのであるが、学科内それぞれの領域の研究事例を学び合うという科目テーマの性質上、その時間のほとんどが履修生の研究内容発表に充てられており、事実上の修論等発表者の事前練習場として機能していた。美味しいというかありがたいというか、実用性のある良い科目である。その科目の一部時間を、博論審査会直前ということでガッツリと空けてもらえた。緊急車両みたいな扱いだと思った。たぶん燃えているのはその消防車そのものなのだけれど。おかげで良い事前練習、本当の意味での予備審査ができたと感じた。
 
そしてその際の反省をもって、ふたたび副査相談の時間も確保できた。12月初旬には辻堂先生の本拠地である日立大学に赴き、相談にこぎ着けた。辻堂先生は気持ち穏やかであったが、送りつけた論文原稿をしっかりとチェックしており、相談時間は3時間に及んだ。日立駅から見える海は地元と変わらない青さであったが、冬の海風は少し身体に染みた。翌日には2度も相談を延期させてしまった小山先生との最後の副査相談を予定通りの期日で実現し、公開審査会に向けてやれることはすべてやりきった。ここからが本当の勝負である。延期は許されない。チャンスは一度きりである。
 
2019年12月9日、公開審査会が始まった。会場はかつて卒論提出の関門としてすべての学部生の前に立ちはだかってきた第一会議室であった。会場選定は基本的に主査と事務局が行うものであったが、どこかのタイミングで上野先生から要望をヒアリングされていたと思う。最後の試合は国立競技場で、ではないが、広めの会場がいいですとその時伝えたと記憶している。第一会議室は容積こそ館内最大ではないものの、何とは言えないが特別な部屋である。将棋会館でいうところの特別対局室と言ってもいいだろう。それだけでもとても嬉しいことだった。
 
30分程度の発表時間と1時間弱の質疑は、無我夢中であった。調子の良い悪いはなかった。最善を尽くすというより、最善を尽くすんだ尽くさせてくれという前のめりな気持ちが大きかった。質疑は主に4名の副査からもたらされたが、事前に相談を重ねていたこともあり、突拍子もない危険な展開にはならなかった。明言しておくと、別に相談で「こういう質問をしますね。なのでこう答えてね」という類の打ち合わせは一切していない。もしそういうことを言われても信じるつもりはなかったし、質疑では他の先生方の指摘もある手前、打ち合わせ通りということにはまずならないものである。そうではなく、それぞれの先生方の視座をあらかじめ認識できたことで、こちらの腹も決まったということである。
 
とはいえ新しい指摘、結構根本的な指摘、今更言うなよ的な指摘もちらほらあった。いやそれ以上掘ると全部崩壊しちゃう。ああああ壊れちゃう壊れちゃう壊れちゃうってばとパニックになりそうなところは最終兵器「この研究ではそこまではカバーしていません」砲で押し止めた。卒論・修論と明確な違いがあるとすれば、「そこまでカバーしていません」と言っても良さそうな範囲は研究テーマの中心部からかなり遠く、ゆえにあまり使うことはできない。そんなにカバーしていないんじゃ博士論文としてはどうなんですかねえ、となるし、そう言われた瞬間に終わりだからである。しかしいい加減言わなければならないこともあり、それはもう専門家としての責任を背負っての主張であったと思う。
 
審査会には武蔵小杉ゼミと藤沢ゼミの院生をはじめ、共同研究でお世話になった方々、更には上野ゼミの主に14期生の学生が聴講に駆けつけてくれた。あまりにも世代差、価値観の差を感じ、もはやその感性を理解してあげられない14期生の面々であったのだが、彼らなりに義理を果たそうとしてくれたようだ。彼らにとって意味のある時間となったかは自信がないが、少しでも役に立てていたら嬉しい。
 
審査会後は筆者の直後に同じ場所で博士論文公開審査会を行った、武蔵小杉ゼミの偕楽園さんと合同で、聴講者向け食事会を開催した。筆者と関係した多くの先生が揃い、疲れてはいたが充実した食事会となった。乾杯のたびに「おめでとうございます」と言っていただけたが、まだこれで終わりではないと言い聞かせていた。
 
というのも、公開審査会での指摘の量は結構膨大であった。さすがに叡智が集っただけあって飲み込みやすい内容がほとんどであったことは幸いであったが、本腰を入れて向き合う必要があった。無論、ありがたいことである。翌日以降、審査会に来ていただけた先生方への御礼と議論の流れの明確化のため、査読論文で用いるような、質問者側のコメントと執筆者側の考えと方針についてとりまとめた。これにて審査会に関する対応は完了、であったが、もちろんこれで終わりではない。学期末に設定されている博士論文の合否決定に関する会議のための、審査用論文データの提出が必要である。
 
ただ、コメントをとりまとめ、改めてそのレジュメを冷静に眺めてみると、筆者の舌足らずな部分もあろうが、発表や論文が伝えきれていないことがまだ多々あるという事実から目をそらせなくなった。それは取りも直さず、書き切れていない部分があるということである。まだそういう部分があったかと慄然としたが、それはどちらかというと「書けばより輝きが増す」というプラスアルファな気づきであった。研究相談にて、年内には提出できると踏んでいた審査用論文データ(決定稿の修正版にして完全版)は、結構なブラッシュアップを行うかもしれないということを主査に宣言した。しかしその気持ちは、予期される作業量の割に多幸感があった。
 
なぜなら、なにしろもうこの後に、審査員が立ちはだかる大きな関門はないのである。あとは筆者が書き切ればよいというシチュエーションにおいて、やっとこさ書き手としての筆者の気持ちに火が付いた。この後は査読でも添削でもなく、著作であった。もう何度そうなったか分からないまっさらな気持ちで読み直して、説明が足りない箇所を徹底的にあぶり出した。特に第1章の質や量に改めて不足を感じ、既往文献をまたしても読み直して積み増した。本研究との関連性が薄めの文献も、「博士論文は決定版的論文たるべき」という基本理念を真摯に捉え、本質的に無理が生じないところでの可能な限り盛り込んだ。第1章を増やすということはそれ以降も大きな影響を受けるということであるが、気にはならなかった。ただこの土壇場において、かなりの時間を費やした。
 
この年の審査用論文データの提出期限は明けて2020年の1月6日であった。一見、年末年始を使えるのだから恵まれているように見える。しかし大学が冬期休業日から目を覚ますのも同じ日、1月6日であった。つまり年を越した場合、1月6日その日しか提出ができないのである。もう何度目かの「チャンスは一度きり」である。危ないので年内提出を優先するという手もあったが、かつてないほど論文の所有者意識が沸騰していたため、全力を尽くすことに決めた。これではまだ終われない。終わってはいけない気がした。あるいは審査会後になってまでここまでの修正を施そうということ自体、出来が悪いだけなのかもしれないが。
 
年末年始、Mステもアメトークもご長寿早押しも紅白も笑ってはいけないもジルベスターもCDTVもサッカー天皇杯も格付けチェックも箱根駅伝も高校サッカーも大学ラグビーもニューイヤーコンサートもながら見で済ませ、用語の齟齬や注釈番号の再チェック、そして主に第1章の加筆にひたすら明け暮れた。この論文は自分のものなんだよ、との意識付けの下、読み通してまた読み通して過不足を補正した。さすがに徹夜はしなかったが、ぐっすり寝ることはないお正月となった。なにしろ完成しているのだけれど、完成していないのである。いよいよ頭おかしくなってきた感があるが、それを決めているのはもう紛れもなく筆者自身であった。自らの手にやっと返ってきた論文が、この土壇場で愛おしくなってきてしまった。完全版の最新版はただちに変わり、結構な大きさのサイズを持つファイルがひとつまたひとつと増えた。
 
そして改めて思い出したのが、上野先生の「博論は指導できない」という呟きだった。博論に限らず、7年も指導してくださっていて指導できないは逆説が過ぎるが、ここに至るまでの論文の進捗を俯瞰するにつけ、その意味がやっと理解できた気がした。研究者かそうでないかという視点において、純然たる学生への指導は「正解の教授」の要素が強いといえるが、研究者に片足を突っ込んでいる学生に対しては学生側からの出物が議論のスタートであり、その指導は極論すると「内容の同意あるいは不同意」という選択肢しかない。もちろん実際は指導教員の意向(同意あるいは不同意)も大きな重みがあるのだが、特に研究テーマの可動域を大きく取っている上野ゼミにおいて、博士論文の指導とは二人乗り自転車のハンドリングを学生に一任する程度には一蓮托生の展開とせざるを得ない。まあ色々もっともらしく書いたが、そもそもこんな情緒不安定、取り扱いに困るに決まっている。主査の職務とはいえよく放り投げず付き合ってくださったものである。御礼を尽くしても尽くせないが、その思いはすべて謝辞に込めたのでクリアしたとしよう。いずれにせよもうさすがに終わりが近い。たぶん。
 
2020年1月4日朝、年末と正月のすべてを犠牲にして磨き上げた博士論文決定稿の修正版にして完全版の第5版が編み上がった。理想としては提出のために事務局に赴くことであるが、郵送可とあったこと、当日に雪で動けなくなるなどの不測の事態を考慮するとむしろ郵送の方が安全性が高いと判断し、追跡可能な宅急便で郵送(発送)した。そして念には念を入れ、1月6日その日には事務局へ電話で到着の確認を行った。お正月明けで郵便物が堆く積み上がっていてよくわからないとのことであった。どうしようもないのだが、確認が取れていないという一点で肝を冷やした。しかしその後到着が確認され、めでたく受領となった。それをメールで把握したのは居ても立っても居られずに結局とこキャンに向かうことに決めた最中の、確か西武池袋線の車中だったかと思う。
 
これにて完了である。しかしまだ安心はできない。これから月の下旬に行われるらしい合否判定まで、何が起きるかわからない。あるいは合否判定までに何らかの不備が判明すれば、直ちに修正作業に入らなければならない。当然合否判定に何かしらのサジェスチョンが付けば、終わりはさらに後ろ倒しになるであろう。まだ何も終わっていないのだ。
 
しかし論文データ提出からの半月程度、時間が空いているといえば空いているので、ある意味恩返し的な意味で久々に、そしておそらく最後となる、学部ゼミの運営業務に携わった。この時期は卒論生にとっても大事な時期である。提出方式がウェブ経由の電子提出となってもなお、提出を済ませるまでは4年生の緊張がほぐれることはない。卒論提出と前後して、院生は卒論発表会の準備に入った。主には藤沢ゼミの川越さん、武蔵小杉ゼミの西松井田さん(仮名)、上野ゼミの新大久保くんと筆者が知恵を出し合って乗り切った。個人的にバーンアウト気味であったことも原因で、発表会にてこの期に及んでシャキッとしない卒論生になかなか強く言えない瞬間もあったのだが、
 
「ちゃんと言ってあげてください!まさゆめさんまで、だらしないほうに合わせることはないんです!」
 
と川越さんに喝破されて完全に目が覚めた。その通りだと思った。恩返しどころかさらにお世話になってしまった。もし次があれば、今度はちゃんと言おう。
 
2020年1月29日、研究科長より博士論文合格通知がもたらされた。課程内正規性(3年)の学位授与は3年間の在籍が確定する3月15日が正式な学位授与日となるとのことだった。たぶんこれで本当の本当に合格である。しかしまだである。もう慣れた。まだ終わりではない。最後に仕事が残っている。原稿データをはじめとする書類一式の事務局への提出である。最終かつ不可逆的なチェックを行い、提出のための一式を揃えた。
 
翌2020年1月30日、合格した博士論文原稿の最終確認と提出許可が教員から下り、筆者は公開用論文データ、そして大学発行の紀要「人間科学研究」に掲載する論文要旨原稿データを大学事務局に提出した。博士論文担当の事務局員が様々なチェック項目を確認し、博士論文に関するすべての課題はこれにて完了となった。本当にお疲れ様でした。と事務の人に頭を下げられ、こちらこそと同じくらい頭を下げた。ゼミ室に立ち寄ると、川越さんが相変わらず在室していた。最終の提出を済ませたことを報告すると、我がことのように喜んでくれた。間違いなく筆者の10倍は実績を積み上げるであろう川越さんにだいたいの歴史的瞬間に立ち会ってもらったのは記念になる。
 
帰り際、100号館の屋上から見上げた冬の青空は、かつてないほど透き通っていた。これで、終わったんだな。
 
終わったんだな。
 
終わったんだな。

 

yumehebo.hateblo.jp



(初出:2021/02/03)

いんせい!! #25 NY!!

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夏合宿の終わりの記念写真も懐かしく思えるような、晩秋のある日の院ゼミでのことだった。その提案は、上野先生から唐突にもたらされた。
 
「まさゆめさん、ニューヨークでポスター発表しません?」
 

#25 NY!!

 
またこの先生はいきなり何を言い出すのかと内心仰け反ったが、せっかくなので食い気味に「面白そうですね」と対応した。急に話を持ってくるタイプの人は急に冷めるので、なるべく熱を冷まさない対応が重要である。上野先生からは事のあらましと、実現のために乗り越えるべきハードルについての説明を受けた。
 
これまで本コラムでは、日本という国に学会は日本建築学会しかないような書き方をしているが無論そうではない。文字通り言うまでもなく、地球上にはより個性的な学会が無数に存在している。筆者並びに上野ゼミの活動領域とリンクしそうな学会も、世界にはいくつも並び立っていた。その内のひとつの「EDRA(Enviromenmental Design Research Association、強引に日本語訳すると「環境デザイン学会」)」が、創設50周年を期に大規模な国際学会を開催するとのことであった。期日は2019年5月下旬、場所はニューヨーク・ブルックリンである。
 
日本建築学会の全国大会と異なり、EDRAはすべての投稿がチェックされるとのことだった。判断基準は内容の質というより、学会側が大会ごとに掲げているテーマとの合致度のようであったが、偶然にもこの年のテーマは、上野先生と筆者の取り扱っているテーマがすんなり収まるようなものであった。いけますよこれ。筆者の意向を聞くまでもなく上野先生の瞳は輝いていた。
 
少しこのときの個人的な状況をおさらいすると、D2も終わりが近づいてきた、博士論文ちゃんとやらなきゃ、などと感極まり始めていた時期であった。加えてW大での博士論文提出条件は「筆頭著者である査読論文2本以上」のみであり、他大では標準的なノルマとも聞く「国際学会での発表」は含まれていなかった。そのため余計なハードルじゃんかと考えないこともなかったが、博士課程としては挑戦を期待されているようなものでもあった。いずれにせよトライだけはしてみますかねということで、とりあえず取り組んでみることにした。
 
その効果はすぐに現れた。上手く書けなかったのである。元々英語が得意ではないという以上に、日本語としてもまとめられなかったのである。むしろ日本語では叙述トリック的にやり過ごしてしまえていた部分が、英語では一切通用しなかった。ベタな言い方だが、英語は日本語の機微なんて知ったこっちゃないのだ。まず分かってないじゃんと思い知り、母語で理解を深めた上で英語にしていった。親愛なる純粋日本語話者の皆様の多くが「英語分からない病」を罹患し続けていることと思うが、それは英語ではなくそもそも分かっていないかもしれないという可能性を当たってみても損はないとアドバイスしたい。
 
それっぽい英語論文(ただし分量は学会大会の「梗概」程度)を拵え、最終的には英文校正サービスを活用した。おいおい結局ドーピングかと思われるかもしれないが、英語論文には必要なプロセスだと反論したい。著者の英語力どうこう以前に、英語論文での各種表現に求められる質は緻密なのである。
 
例えば上野ゼミ2人目の博士である今市さんは、勤務する研究所内の英語話者に簡単な校正をお願いしているとのことであった。しかしその話者をして、論文投稿には必ず英文校正サービスを噛ませるということであった。論文はもはや語学力だけの問題ではなく、現在の英語論文に用いる表現として相応しいかの認証が必要なのである。親愛なる「英語こわい病」の皆様におかれては、日本国内でなにかと取り沙汰される「英語力」と「現在の英語論文」は別物であり、なおかつそれを追究する時間があるなら自らの研究の充実を図った方が意義深いかもしれない、ということを念頭に置いてほしい。
 
例によって期限間近となったが、上野先生と筆者の投稿は完了した。発表部門は「Visual Presentation」、要はポスター発表である。そして投稿したことをすっかり忘れ去っていた2月、「Congratulations! Your submission is ACCEPTED(意訳:来やしゃんせ)」のメールが2人に届いた。ジャイアンツが四球をもらったときの、あのお馴染みのファンファーレが頭の中で3回くらい鳴った。
 
正直、通過すると思っていなかった。しかし合格ってしまったものは仕方ないので、そのままポスター発表に入ることとなった。たまたま機会がなかっただけというだけであるが、自らの研究に関するポスター製作は初であった。しかしこれもたまたま研究テーマとの相性がすこぶる良く、作業はトントン拍子に進んだ。そして審査原稿と同様に校正サービスを利用し、万全を期した。
 
「ニューヨークですよ。いいなあ。ゼミ休んででも行きたい」
 
上野先生の怪気炎は止まることを知らなかったが、筆者はまだ実感がなかった。状況の整理の意味も兼ねて、とりあえず両者の予定や希望と学会日程を突き合わせながら現地でのスケジュールを策定することにした。
 
5/21:アメリカ入国
5/22:学会入場登録
5/23:学会参加
5/24:学会参加
5/25:学会参加(発表日)
5/26:各所視察
5/27:各所視察
5/28:アメリカ出国
5/29:日本帰国

 

なんと筆者にしては長期も長期、8泊9日のスケジュールとなった。学会は全日程をカバーするとして、視察は2日は取りたいよねとなった。また視察場所として、筆者は「ヤンキースタジアム」と「ハイライン」を希望した。なんだ視察と言いながら観光じゃないかと言いたくなるが、現地で研究に参画することもないので単純に興味を優先した結果である。つまり観光である。観光としか言いようがない。一方上野先生は現地の知り合いの先生と連絡を取るらしく、日程確定はペンディングとなった。
 
しかし後日、上野先生がテンションを急降下させ「数日遅れて合流という形にします・・・」と告げてきた。どうやら上記日程通りに動くと2週連続でゼミを飛ばすことになり、それはいくらなんでも問題が大きいらしい。しかし筆者は海外出張やESTA(アメリカ入国のための手続き)に関する申請を始めており、結局当初日程通りで渡航することを決意した。早めの入国としたのは北欧遠征時に直面した時差ボケ体質対策の意味合いもあり、上野先生のような駆けつけ一杯的な発表は難しいと踏んでいた。
 
ポスター原稿の提出とポスター発注(不織布への印刷)を完了させ、いよいよ渡航まで1ヶ月を切った。時系列的には博士論文中間報告会が終わり、いかがいたそうかなと考えていた頃合いである。筆者は単独行動日程での宿泊施設と航空チケットの確定を済ませ、地球の歩き方などでニューヨークの土地勘を養った。縦移動が地下鉄で横移動がバス。なるほど。
 
5月上旬には北欧でお世話になった片瀬白田先生の研究室の招きによって香港から来訪していた学生達を相手に、ポスター図案をスクリーンに写す形での疑似ポスター発表を行った。もちろん英語であるので、原稿とポスターの朗読で押し切った。直後には夏の英国での国際学会への参加を予定していた新大久保くん(12期・院生)も研究発表を行い、流暢というか口達者的なノリでやはり押し切った。なかなかな度胸の据わり方だなと、初めて新大久保くんに感心した。合わせて英語科目の「Oral Presentation」受講しておけばよかったなと思いつつ、まあなんとかなりそうな実感を得た。これで発表に関する準備は、整えられる限りであるが整った。
 
いや、まだ嫌な予感があった。英語が通じる国であるとはいえ、行き先は自由の国アメリカである。自由ゆえ何があってもおかしくないわけで、ただどうやら知人が滞在しているという情報も入ってきた。もうこれは研究がどうこうではなく、現地でお目にかかれればよいなということで、知人と連絡を取り、滞在前半の日程内で食事をセッティングしてもらうこととした。もちろん国内から持参できそうな日用品などは、詰め込めるだけカバンに詰めた。
 
渡航まで1週間を切り、同じ国際学会に参加する予定の上野先生の研究者仲間とLINEグループを形成した。どうやら上野先生は学会後の日程のどこかで、研究者仲間と共同で動く構想を持たれているようだった。そうそうたる研究者仲間の中に博士課程の学生が混じって大丈夫だったかなと思いつつ、持てるセーフティーネットはすべて持つべきだろう。
 
さあいよいよ出立である。待ってろニューヨーク!
 

国際学会初見参 in N.Y.

 

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結論から申し上げると、国際学会参加を十全に行うことは叶わなかった。到着初日はまるで好調であった自律神経が、滞在2日目から大暴走を始めてしまったのであった。それも最初のホテル(ブルックリン)からチェックアウト直前に突如発症したものだから、以後は地獄の底であった。どえらいことに巻き込まれた体で書いてしまったが、重度の時差ボケである。生涯初めての東回り旅行に直面した自律神経が、事態を覚知するタイミングから遅らせるというのは予想していなかった。序盤のエピソードゆえネタバレを容赦してほしいが、映画「ゴースト・シップ」でスパスパされた客も瞬間的にはわかんなかったんだろうななどと想像した。
 
そんなわけで最低限これだけはと学会の入場登録こそ済ませたが、頭痛と吐き気は悪化の一途を辿った。滞在2日目の夜に知人にセッティングしてもらった会食も叶わず、ただ知人は這々の体で合流した筆者の顔色を見て納得してくれた。以後丸1日、筆者はハイアットホテルの一室にて半死半生であった。低血糖の次元ではなかった。神経が完全にショートしたと思った。こんなに治りが遅かった時差ボケも初めてであるし、より安全なホテルをリサーチしてくれた知人は返す返すも命の恩人である。症状はやっと滞在3日目の夜に快方に向かい始め、そのとき現地合流を果たした上野先生の顔は小憎らしいほど元気そうであった。ちなみに上野先生は時差ボケを感知しないうえ、機内でも自由に眠れるらしい。どういう神経しているのだろうか。誠に腹立たしい。
 
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滞在4日目(学会2日目)、やっと回復基調に入った筆者は上野先生と共に学会会場へ向かった。会場はニューヨーク・ブルックリン地区にある「ニューヨーク大学タンドン校(NYU Tandon School of Engineering)」であった。とその前に、上野先生たっての希望でブルックリン周辺の散策を行った。二日時差酔い明けの身体にはかなりきつかったが、まあ記念にはなった。
 
午前から午後にかけては、上野先生と学会のプレゼンを聴講した。学会では様々なタイプの発表がなされていることを紹介したが、特に印象に残ったのが「Media Presentation」であった。印象に残ったというか、残ってしまったというか。
 
残念ながらネイティブではないのが弱いところであるが、メキシコの学生の動画の発表であった。公式プログラムにてアブストラクトは参照可能であり、どうやらラテンアメリカ諸国での低所得者の子供が受けるストレスの解析といった真面目な話であった。真面目なと書いたのは、BGMが日本語の歌っぽい何かだったからである。
 
もちろん日本人なので、日本語の歌が悪いということではない。ただどうしても日本語が聞こえてしまい、しかもかなり暗くてあんまり上手くない歌の音源であった。なんだこれ。気になって仕方なくなって全く話が入ってこなくなってしまった。プレゼン終了後、あの変な曲な何なのか教えてくれと訊きたかったが、ドツボにはまったのは聴衆の中で筆者だけだったようで、その手の質疑が行われることはなかった。
 
このセッションにおいてちょっと面白そうだなと思った発表は「通路の印象が気持ちの切り替えにどのように作用するか」といった内容だった。通路じゃなくても動けば気持ちが切り替わるんじゃね?と思ったが、面白い着眼点であった。ただ一番気になってしまったのは、発表者が日本人であったということだった。もちろん彼らには何の非もないのであるが、もうちょっと国際学会感が・・・
 
あくまで「Media Presentation」に限定した雑感であるが、発表内容のレベルは国内の学会大会と比較して図抜けて高い・・・とは感じなかった。確かにフィールドはだいたいがこちら(アメリカ)であり、アメリカ特有の事情による面白そうな研究もちらほらあったが、日本で同種の検討が為されていない、と言い切るほどの新しさがあると推挙できるほどの自信は筆者にはなかった。その意味ではメキシコの変な歌入りの発表は、聞いた中では研究を進める価値があるようには感じた。残された壁は言語だけである。まあそれが決定的な壁なのだろうが。
 
まあ(Media Presentationは)こんなもんかな・・・という顔を見合った両名は会場を出て、直後にLINEグループで繋がっていた研究者仲間と合流した。その中に烏山先生もいた。
 
一行はこれから、学会の中でもメインのプログラムのひとつといえるフィールドワークに参加することになっていた。
 

9.11 Memorial

 
EDRA50では多様な発表のほか、11のモバイル・セッション(要はフィールドワーク)を用意していた。その中の一つに、あの「9.11」に関するものがあった。
 
9.11について説明するには、このコラムは調子が軽すぎるので自重するとしよう。今回はその跡地での再開発計画やその理念について、設計者の話を交えながら学んでいこうというプログラムである。上野先生をはじめとする一行を含む数十余名は、コーディネーターの導きによってまずは地下鉄で現地を目指した。
 
自重するといいながら、あの日の衝撃は未だに忘れることができない。その日の午後10時、確か家族で「ニュース10」を観ていた。台風どうなったんだろうね、という話をしていたような気がする。ニュースの冒頭、堀尾アナウンサーが速報として、ニューヨーク世界貿易センタービル(WTC)に航空機が突っ込みましたと伝え、映像は現場を映した空撮に切り替わった。2機目の惨劇から先は、全く現実感のない映像であった。何かの間違いではと頭が処理に困っているところで、アクション映画を観ることがライフワークの母が「テロじゃないの?」と冷静に判断していた。あってはいけないことが、わずか数時間で次々と起こった。WTCへのテロによって最終的に2753名に及ぶ尊い人命が奪われ、ビルそのものも失われた。
 
その後アメリカは対テロ戦争に邁進していくが、WTC跡地も順次再開発されていった。筆者が訪問した2019年時点では、4つの超高層ビルが完成していた。超高層ビル群は、かつて2棟の超高層ビルが聳えていた場所を取り囲むように位置していた。
 

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そして2つの超高層ビルが聳えていた場所の跡地は、広場、博物館(メモリアルミュージアム)、そして2つの巨大な空隙によって構成されていた。
 

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広場は六本木にもありそうな品位ある色調で、その一角に「サバイバル・ツリー」と呼ばれる木があった。あの業火の中を生き延びた木で、そのように名付けられたという。
 
2つの巨大な空隙は明らかにWTCが建っていた位置で、穴はどこまでも深いように見えた。実際には底部も壁も水で満たされており、空隙の中の空気は永遠に洗い清められていくのだろうなと感じた。
 
なんだか急にしんみりしてしまったが、さすがにこの状況でハジけるメンタルは持ち合わせていなかった。ただ公園全体的には子供の楽しげな声などもこだまする明るい空間で、軍人さんが整列して記念写真を撮る光景もあった。しかし写真はサバイバル・ツリーを収めることが精一杯であった。何卒ご容赦願いたい。
 
さて、本題は一応モバイル・セッションである。今回は追悼は前提として、空間としてのWTC再開発に設計者はどう取り組んだかの話である。設計者と思しき人がコーディネーターに促され、話し始めた。うん、外なのでスライドが一切ない。ゆえにさすがに追い切れない。英語の科目に「Listening for Academic Purposes」の設置を強く望みたい。ポッドキャスト?もうちょっと眠くならないようなのがあると。
 
さすがに集中が持たないので、失礼にも参加者の顔と氏名を横目で観察していた。このモバイル・セッションでは、氏名が記載された参加証を首から提げる必要があったからである。結構東洋人がいる気がする。もしかして日本人かな。それは名前を観ればある程度分かる。よく考えると中国名や韓国名の日本人教授なども多くいらっしゃるのであまり意味のない類推だが、それでも氏名は確認したいなと思った。
 
参加者の中に、少しダンディーな妙齢の男性を見つけた。どうやらメモにペンを走らせている。すごくマメにメモを取っているようだった。本当に失礼ながらそれとなくピーピングさせていただくと、デッサンであった。なかなか剛胆な。そのまま目を名札に落とすと
 
「 R.Oiso 」
 
とあった。三度見した。え、あの大磯先生と同姓同名なんだけど。筆者の研究の超先達にして、筆者がずっとコンタクトを取ろうと考えていたあの大磯先生と。いや本人やん。絶対本人やん!
 
この旅最大の、いやたぶん海外で巻き起こったハプニングの中で最大級の驚きだった。大磯先生がおる!これはヤバい!と一人密かに興奮状態になった筆者は、とりあえず上野先生の所に行き「大磯先生いるんですけど!」と報告した。上野先生は「ああ、いらっしゃいますね。今日ずっといらっしゃいましたよ」とのことだった。いや知ってたんかい教えてくださいよ!と思ったし、そりゃモバイル・セッションを途中参加できないでしょ、とも思ったし、などなど色々突っ込みたくなったがなにはともあれ隙を見てご挨拶することにした。
 
設計者によるスピーチが一段落した後、大磯先生に突撃ご挨拶を果たした。大磯先生は見た目通りダンディーな方で、唐突なご挨拶にも関わらずすぐに打ち解けてくれた。デッサンを描いていたのは、素敵な景色や建物を見つけたときに忘れないためにとのことであった。研究者の卵視点では世界で一番会うべきだった方と、まさかWTC跡地でお初にお目にかかれるとは。WTCの皆さんありがとう。皆さんのおかげとさせてください。
 
その後はメモリアルミュージアム(博物館)に入館し、名もなき、いや名前も、名誉も栄誉もあるファイター達の苦闘の痕を目に焼き付けた。限りなく重いテーマを抱えていることはもとより、博物館としても上質な空間が実現されていることに息を呑んだ。
 
最後に跡地に密かに手を合わせ、モバイル・セッションは終わった。大磯先生とは地下鉄で別れたが、翌日以降の再会を誓った。
 
9.11で犠牲になったすべての方の冥福を祈ると共に、傷ついたすべての方の明日に希望があることを祈念したい。
 

魅惑のバンケットクルーズ

 
一旦ホテルに戻った上野先生とその仲間達はUberを活用し、ハドソン河の岸に到着した。そういえば今回が国際学会の50周年記念大会であったということをすっかり忘れていた。この日の夜、記念大会ならではのバンケットクルーズが催された。
 
今回使用されたクルーズ船は横浜のマリーンルージュに似た多層構造の客船で、船内はいっぱしのパーティー会場であった。一行はひとまず一団で着席し、しばしご歓談となった。まだ発表してないんだけどなと思いつつ、時差ボケが船酔いで再度悪化しないことを祈った。
 
離岸後、船内ではパーティーが始まった。ご飯は普通に食べられるレベルで、たぶん東京や横浜と大差ない。ほどなく船内中央の演壇的なスペースを使って、次回大会(EDRA51)の開催都市が発表されていた。次回はアリゾナ州テンピ(Tempe)とのことだった。アリゾナ州ってフェニックス以外に都市あるの?と思ったが、フェニックス都市圏の郊外都市であった。ま、ShutokenにおけるTokorozawaみたいな位置づけであろう。
 
合わせてよく聞き取れなかったが、学会50年の歴史を知る名物教授らしき先生が延々と喋っていた。学会の歴史を紐解くと、大会の開催地はそこまで大きくない都市が多く選ばれてきたようだ。しかし50周年はいきなり世界の中心・ニューヨークとした訳であるから、学会的には相当気合いが入っていると見える。本当に偶然だが、参加できてよかったのかもしれない。
 

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話も一段落し、再度のご歓談タイムとなったところで甲板に出てみた。船はハドソン河を下り、正面には女神像のあるリバティ島が見えた。進路左方にニューヨーク・右方にニュージャージーという二大都市に挟まれて、黄金色に光るアメリカを体感できた。田舎者としては、特別な景色だった。同じような景色がお台場から見えるのでは、と指摘してはいけない。
 
船はゆっくりと取舵を切り、ブルックリン橋とマンハッタン橋を視界に捉えた。しかしその辺りで回頭し、あとは来た航路を戻っていくだけだった。マンハッタン島をぐるっと回るのかなと期待していたが、それは難しいようだ。ただゴージャスな景色を二度楽しめるのだから、これでいい。
 
船内に戻ると、ダンスパーティーが始まっていた。あまりにも唐突に、そして自然にダンスタイムが挟まれるところに素直に驚いた。日本だとさながらビンゴ大会が始まるような雰囲気のところだが、さすがアメリカである。ダンスには失礼ながら割と妙齢の先生方が多く、そこに上野先生も自然と混じっていた。むしろ率先して何人か巻き込んでいたと思う。筆者は船内探索を再開し、だいたい全部回ったところで船が接岸した。
 
接岸後もしばらくはダンスが続いていた。上野先生も延々と踊っていた。そろそろ陸に上がりたいなと思い始めたところで、主催と思しき司会者が閉会のスピーチっぽいアナウンスを行った。それでやっと全員が我に返り、参加者達は続々と下船していった。何だかノリに置いて行かれた気持ちもあったが、総じては記念になるクルージングだった。
 
一行はふたたびUberを駆使し、それぞれの宿泊地に戻った。夜のニューヨークは危ないと聞いていたが、それは街区によるらしい。そういえば体調は、旅先で感じるものとしては標準的な疲れといえるレベルまで快復していた。翌日のポスター発表に、滑り込みで間に合いそうだ。
 

いよいよポスター発表

 
滞在5日目(大会3日目)、ようやっと学会出席の目的を果たすときがきた。「Display Poster」、ポスター発表のお時間である。数ある発表形式の中ではぶっちゃけ最もお手軽かつ注目度も低そうだが、初の海外発表にしてはよくやってると自分を労いたい。
 

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ポスター発表の流れは、午前中に指定場所にポスターを貼付し、午後の一定時間帯に在廊のうえ、質疑などに対応するというものであった。発表と異なり時間内は延々対応する可能性があるわけで、注目度の割には意外と疲れそうである。ポスターは問題なく貼付できた。と思ったら写真の掲出位置は間違っていた。堂々たる姿であるが、ほどなく本来の位置に移動させた。大丈夫大丈夫と心に言い聞かせ、在廊時間を迎えた。
 
時間開始後、ポツポツと入場者が現れ始めた。今回の形式は廊下周回型?で、長めの順路に転々とポスターが貼ってあるというものであった。そのためポスターや発表者間の距離はかなり離れており、正直盛り上がりには欠けた。その代わり、静かに観ていく人には親切な配置だったと思う。
 
筆者の発表にもっともテンションを上げてくれたのは、褐色の肌と金髪が美しいエキゾチックなお姉ちゃんだった。言うべき事は一応ポスターに書いてあったので、それを読み取って「なんて面白い研究なの!」と喜んでくれた。喜んでくれたのはいいが、あまりに早口なのであんまり上手く返せなかったのが悔やまれた。ただお姉ちゃんもそれを認識してからは、道行く人に「これ面白いのよ!」と勝手に説明を始めてくれるようになった。うん、もう彼女の研究になってしまうやもしれん。
 
説明代行業を果たすこと数分、お姉ちゃんは最後に説明していた男性を連れ立って唐突に立ち去った。どうやらカップルか、少なくとも何かの仲間だったようだ。アメリカのお姉ちゃんはすげーなーと思いつつ、筆者に中途半端に英語を喋れる能力があってナンパみたいなことにならなくて良かったとちょっとだけ胸をなで下ろした。
 
以後はかなりゆったりとした時間が流れた。最終日であるから無理もない。ポツポツとやってくる観覧者には全力でカタコトしつつ最後は押し切った。なにより押し切るのは大事である。終盤にはフロアにほとんど観覧者がいない状況を察知して、他発表者のポスターの確認を早足で行った。
 
なにしろ早足かつ全編英語のため雑な印象となるが、レイアウトの概念があまりないポスターが目立った。書きたいことが多すぎて書き切れないのはよく分かるが、そんなにびっしり書いていたら日本語でもなかなか読まないよなというものが結構あった。あるいは発表者不在時に観覧者が情報不足とならないような配慮かとも考えたが、誘目性という意味では微妙だよなと感じていた。
 
実は筆者はその点にかなりこだわり、文字数を抑えることを念頭に置いてデザインしていた。とはいえスピーチ能力のゴミさを考えたら、むしろ筆者こそびっしり書き込んでもよかったのかなと思うに至った。ポスター発表、なかなか奧が深い。まあでも今回についてはお姉ちゃんが釣れたし、きっとそこにはデザインが影響したと思っておこう。
 
およそ1時間後、ポスター発表の終了時間を迎えた。撤収前には学会関係者のスピーチと記念撮影が行われ、筆者にとって初の国際学会発表も終わりを告げた。
 
完全撤収後、会場前には大磯先生とその研究者仲間が揃っていた。大磯先生は約束を覚えてくれていた。てかそれより上野先生の仲間に大磯先生の仲間もいた。その仲間さん達が連絡を取り合い、夕食を共にすることとなった。色々と出来過ぎているが、むしろ出来上がっていたところに筆者がやっとたどり着いたと言った方がいいだろう。
 
夕食はアジア系料理であった。ニューヨークに来てそれはどうなの・・・と思ったが、美味しかった。
 

ハイライン・イベント

 
その後筆者と上野先生は、それぞれに視察したい場所を適宜協調しつつ攻略していった。滞在7日目、いよいよ最後の視察日となり、両名はヤンキー・スタジアムでの視察(野球観戦)を経て、ハイラインに移動した。
 

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ハイライン(the High Line)。かつて貨物線であった高架構造物を遊歩道にリノベーションした施設で、その全長は2km以上に及ぶ。現在ニューヨーク・マンハッタン地区の中で指折りの大規模再開発が行われている「ハドソン・ヤード(Hudson Yards)」から南方の「ホイットニー美術館」付近まで続いている。
 
さて、筆者が鉄道施設好きであり建築環境好きであり実は廃線跡好きであることはだいぶ仄めかしてきたと思う。そういう人間にとってこの施設は、盆と正月とハロウィンとクリスマスが一緒に来たような記念碑的施設である。これはヤバいですって。もはや身体が完全にNYに順応した筆者をよそに、しかしヤンキー・スタジアム視察で満足した上野先生は少し倦んでいた。それでも指導教員としての顔もあり、じゃあ歩きますかと歩み始めてくれた。
 
この施設の偉大さを簡潔に示すのは難しい。言えるのは「この景色が観られるのはおそらく世界でここだけ」という事実である。
 
環境心理学の用語に「高所感」というものがある。用語と言うまでもなく高いところからの眺望または高いところからと見える景色とその心理を指す。高所感と開放感は似ているが、「高所感」は見下ろす先にも大きな空間が広がっている部分に差異がある。
 

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さて「ハイライン」における高所感を考察すると、一見すると高所ではない。それどころか歩道の両側にはより高層の建築物が並び立ち、歩道部分はさながら谷底のような安定感がある。一方で視界は歩道が延びる方向にのみ開け、そこには凝縮された開放感がある。そして歩道から地上との距離を感じたとき、ハイラインは紛れもない高所であることを認識できる。そんな奇異な条件が取り揃ったハイラインからの景観は、安心感と開放感と高所感が入り交じった、もう「浮遊感」としか説明し得ない独特の感覚を与えてくれる。これはエモい。
 
そしてそのエモさは、ビルや道といった周辺景観の変化で歩くごとに変化する。開放感だけは不変と思いきや、ビルの階下をくぐり抜ける箇所もある。そのいずれも、かつて貨物線だった名残である。それを示すように歩道部分にはかつて貨車を支えた線路が横たわり、その周辺を自生した草花がそっと包んでいる。これはエモい。
 
貨物線の廃路線ということで、当初は解体も検討されていたという。しかしパリのプロムナードにインスピレーションを受けた設計者が、貨物線跡を遊歩道にリノベするという一大アイデアにたどり着いた。今やハイラインは年間数百万人が訪れる、NYでも指折りの観光スポットとなった。その主役はかつて存在自体を疎まれた廃施設であり、どこにでも生い茂りそうな草木であり、NY独特の稠密な高層建築物群であり、施設への応援を続けている市民である。ただだたエモい。エモいとしか言いようがない。さあ行こう、この極上の歩道の終点へ。そしてそこにたどり着いたとき、目指すべき次の行先さえも見えてくる気がする!
 
空腹が限界に達したらしい上野先生が「下りて、ご飯食べに行こう」と言い出したのは、ハイラインの4分の3くらいまで来たときであった。色々言いたい気持ちを抑えてめちゃくちゃ渋々応じた筆者は、上野先生が推薦されたというハンバーガー屋が近くもなんともなかったことも含めていたく腹を立てた。なにしろ、ハイライン行き切って戻ってきてもまだ短かったんじゃねというくらい歩いたし。筆者の予想を遥かに超えるハイライン愛に気づかなかった上野先生はさすがに少し申し訳なさそうにしていた気がするが、ハンバーガーは確かに美味しかったので機嫌はすぐ直った。
 
しかしこの「ハイライン・イベント(ハインリッヒ・イベント的な意味で)」を期に、筆者は主査(上野先生)の指摘に時に真っ向から言い返す難物学生に化けてしまった。しかしいかにもバンカラ心をくすぐるイベントをようやっと起こせたと言う意味では、これこそがアンロックのための確定演出だったのかもしれない。帰国後から本格化した主査との丁々発止が、やや硬直していたスジ立てのストレッチに大きく貢献したこともまた疑いない。
 
いいっすよ。また絶対行ってやるんだから。
 
時差ボケからハイラインまで、地獄も天国も味わい尽くしたNYの8日間はこうして幕を閉じた。あの晩秋に筆者に誘いを持ちかけ、筆者に一生の思い出をいくつも作らせてくれた上野先生にはもちろん感謝している。
 
★Intermission★ NYでの旅の記録については、元々別所にて旅日記として公開していました。本コラム公開にあたり、改めて本コラムとの仮名等の統一作業などを行いつつ、近日中に本ブログスペースにて再公開予定です。当初公開時にお読みになれなかった方、改めて全編確認したくなった方など、ぜひお暇なときにお楽しみいただけますと嬉しいです。また本ブログスペースでは、過去の旅日記につきましても、気分次第で再掲載していきます。どうぞお楽しみに。宣伝でした。
 

そして博士論文公開審査会ふたたび

 
国際学会とWTCが結んでくれた大磯先生との縁は、帰国後も続いた。そして筆者の公開審査会の聴講者の中に、大磯先生の姿もあった。筆者よりも何年も前から何倍もの速さとバイタリティーで走っておられた大先輩から、興味深い研究ですねと言っていただけたことは、卒業論文から続く7年間の集大成として、これ以上ない言葉になった。
 
そして話は、それだけでは終わらなかった。ありがたいことに審査会後の食事会にも出席していただけた大磯先生から、またしても嬉しい驚きがもたらされた。
 
大磯先生「そうそう、気になったことがひとつ。この研究であなた(筆者)が作った用語」
 
筆者「はい」
 
大磯先生「この英訳、○○○○○○(今までの)より◎◎◎◎◎◎の方がいいんじゃないかなと思って」
 
なるほど。参考にいたします。いや、どうして誰も気づかなかったんだろう。
 
後日上野先生とも協議し、最終原稿では大磯先生の指摘を反映させることが決まった。大磯先生の最後の一押しで、論文の両目が完全に開かれたと確信した。
 
 
飽きっぽい筆者に息づく数少ない習慣に、小ぶりな手帖の持ち歩きがある。取り立てて目的を与えているわけではないが、あらゆる場面で活躍してくれている。習慣化を意識してからでも、何十冊かは溜まっていると思う。とはいえこの習慣自体は、さほど珍しいものではないだろう。メモの取り方で仕事の出来が変わる、という熱い主張を行っている書籍もあるくらいだ。
 
最近はスマホのメモ機能を使う機会も増えたけれど、筆者は相変わらずだいたいの場面で持ち運んでいる。あえて差異を示すとすると、手帖への書き込みは内発的な動機に基づくことが多い。つまり状況に書かされるのではなく、自ら書く(描く)ということである。SNSもまた内発的動機によって形にされた言葉であるが、手帖への書き込みは人に読まれることを毛ほども考えていないという部分で決定的に異なっている。日記とも違うから、未来の自分にも容赦ない。何でこんなラリったこと書いたのかという言葉も多いし、けれどそれを読み解くのは楽しい。
 
少なくとも筆者の持つそれと同じような意味合いの手帖を、NYでの大磯先生も、実はメモ魔の上野先生も、他の多くの先生も持っていると気づいたのはちょっと嬉しかった。実際には形や大きさ、媒体はなんでも良くて、とりとめのないことを書き留める場所の存在が、何らかの原動力となっているのかもしれない。特に博士論文を執筆していて詰まっていると感じた時期は、手帖への書き込みも止まっていたことを後に認識した。詳しい理屈は分からないが、実は原因と結果は逆で、手帖への書き込みが止まることで行き詰まりを感じていたのかもしれない。
 
ならば手帖への書き込みは、続けることに意味がある。そういう思いもまた手帖に書き留めながら、博士論文の決定稿の修正版にして完全版は編み上げられていった。時期が来たら、積み上がっただけの手帖の記憶も形にしよう。
 
もう書き加えることのない手帖を繰るたび、きっとあのときのニューヨークの空気が蘇る。

 

yumehebo.hateblo.jp



(初出:2021/02/04)