いんせい!! #12 院生!!

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夏の陽気も懐かしい真冬の年の瀬、束の間の惰眠を貪る昼下がりの新宿歌舞伎町の片隅に佇むルノアールに、筆者と数名の関係者が集結していた。
 

#12 院生!!

 

共同研究という名の即席チーム

ここまで「いんせい!!」を10回ほど書き上げ、大学院生になったという事実自体はいいとして、書いてることはだいたい学部生絡みじゃないか!という不可解な言いがかりがもたらされた。どこを読んでるんだと軽い憤りを覚えつつ冷静になって読み返してみると、なるほど、たしかにそうであった。
 
実際のところとしては「いーすく!」時同様、研究そのものの裏話は裏でも書くことが難しいことと、ほとんどの人に共感も理解もされないであろうことを見越している。いるのだがやっぱりちょっとは書いた方がいいかな、と思い直し、書けるところは書いてみようと思う。
 
さて、筆者の研究テーマは自力でどうにか出来る部分もあったが、テーマを取り扱っている現場の関係者と合流する方がよりよいだろうという流れになるのは自然なものであった。
 
上野先生はおそらく業界内でも顔が広く、かつ研究者としては抜群に人当たりがよいとあって、希望の関係者は割とすぐ見つかった。今思えば相当に運が良かったが、そのぶん求められるものが格段に高くなったことも逃げようのない宿命で、どちらかというと当初は後者の思いの方が強かった。一人でなんとかなるでしょ、なる無鉄砲な憶測は、知らないからこそなのかもしれない。
 
研究の展開を上野先生と練り上げた後、確かM1の夏前だったか、関係者との初顔合わせを行っていった。非常にぼかした書き方となってしまい申し訳ないが、顔合わせ会場には研究テーマに合致した会社の社員である羽田さん(仮名)、その関連の会社に勤める辻堂さん(仮名)が居た。
 
研究でも商売でも、ディールの成立には何らかの支払い、あるいは共有が必要である。打ち合わせによってなんと、羽田さんが同じ領域をテーマとした研究に取り組まれていること、その指導役として辻堂さんがお目付をしているという状況があることが判明した。
 
であれば一緒にやりましょうか。そうですねぜひ。よろしくお願いいたします。
 
成婚は一発で決まった。本当に運が良かったと思うし、とんでもないことになってしまったのではと感じた。
 
ここでの「一緒にやりましょう」について、雑だったのでもう少しだけきちんと説明すると、いわゆる共同研究というものである。共同研究というと非常に規模の大きな、例えば「製薬企業×大学医学部」のようなものをイメージするが、ごく小規模でも成立しうる研究形態である。そして規模の大小を問わずいざ共同研究となれば、まさに微に入り細に入り、関係諸氏と様々な取り決めを交わすことが欠かせない。
 
とはいえ今回の場合は大学側の責任者として上野先生が矢面に立つため、筆者が求められるのは顕著な結果だけであり、それはちょっとだけ気楽な部分であった。当然ながらかなり厳格な契約を締結しているので、これでも結構踏み込んで書いていることを推し量っていただけると嬉しいし、もし大学生である読者さまが携わっている共同研究が厳格にやっていなければ「気をつけた方がよいよ」とアドバイスしておきたい。
 
話を今回の共同研究に戻すと、最終的には羽田さん・辻堂さんに加え、近接領域を専門としているという関係で上野ゼミ博士課程の今市さんも合流することとなった。またいきなりの変更となるが、辻堂さんはこの後に教職関係へと転職されることになるので、以後「辻堂先生」と呼ぶことにする。
 
上野先生を合わせた総勢5名の即席チームは、それぞれの目標達成のため、未知の荒波へと出帆した!
 
できるだけ大仰に書いてみたつもりであるが、この先はウルトラハイパー地味な、人目を忍ぶような打ち合わせが延々と続いた。そして打ち合わせによって各種調査計画が決まっていき、適宜実行されていった。なおこの際、筆者の行動の多くには、サバティカル中の上野先生が駆り出されていたことは書いておいてあげたい。
 
打ち合わせ会場は羽田さんの会社の会議室が主であったが、とこキャンが遠いこともあり、全員が集まりやすい都内各所で断続的に開催された。特筆すべきかどうかは分からないが、適当な会議室が見つからないという状況に追い込まれた際、頼られたのは「喫茶室ルノアール」であった。
 
ルノアールとは、主に東京山手線内とその周辺に多く出店している老舗カフェチェーンで、ホテルロビーのようなお洒落な雰囲気が魅力である。チームメンバーが頼ったのはもちろんそこではなく、当時としては画期的なことに、高等教育機関や研究機関所属者限定のローミングサービス「eduroam」が整備されていたことによる。このサービスの存在により、少なくとも上野ゼミ関係者はインターネットを活用することができ、打ち合わせの進展にもそれなりに貢献した。
 
加えてよく知られているが、長時間居てもあまり煙たがられず、それどころかしばらくするとお茶のサービスまで行ってくれるのがルノアールの素晴らしいところである。その歴史も(喫茶店チェーンとしては)古く、1970年代から都民や大学生に認知されている存在であるが、今も昔もまちに欠かせない喫茶店といえよう。
 
ただあまりに客単価が低いと申し訳ないという思いもあって、筆者はシビアな打ち合わせ中にもかかわらず、随時ショートケーキやら柚子ジャムトーストを注文していた。「まさゆめさんって甘党なんですね」と、羽田さんにやたら感心されたことを覚えている。いやあそれほどでも。
 

ゼミが抱えるプロジェクトへ

 
ディールの成立には何らかの支払いあるいは共有が必要、と書いたが、実はこれはゼミ内でもやんわり作用している法則である。
 
ゼミには教員を頂点に、何名かの院生と十数名の学生がぶら下がる構図であるが、特に院生は研究テーマがまちまちである。ということは、それぞれの研究の進展において、多くの人手があったらありがたいなーと思う局面が生ずることも避けられない。こうして筆者も、ゼミの関わる様々な「プロジェクト」への参加を余儀なく、もとい参加していく。
 
外部関係者との協業ということでは、都内某自治体主催イベントにて、客席や通路などの映像を撮影するというものがあった。令和の時代を迎えて誠にメジャーとなったが、多くの人を収める必要がある撮影に際しては、アクションカメラ「GoPro(ゴープロ)」が大活躍する。
 
ではGoProをどのように設置していくかということになるが、ここから関係者間において、所持台数・施設状況・カメラ性能・裏方人数・研究目標などを天秤に掛けながらの神経戦が果てしなく繰り広げられることになる。
 
例えばよくしたもので、本当によくしたもので、カメラというのは止まる機械である。では止まっているという情況を察知するにはどうしたらよいかと考えたとき、そのカメラを監視するカメラを用意すればよいのではないか、という突飛な案が出ることもあった。まあそれは面白いけどねと却下されつつ、結局台数は多いに超したことはないし、性能は高いに超したことはないという結論が導かれる。
 
ここで「カメラの更なる買い増しを求められている」と鋭く察知した上野先生は、今回の撮影で得るべき内容を洗い直しましょうと議論の軌道修正を試み、今の台数でなんとかなるように収めにかかる。こういう様々なレベルのつばぜり合いがセクションごとに何十回、何百回と繰り返され、研究計画は磨き上げられていくのである。
 
ちなみにこのプロジェクトにおいての筆者の役割は、カメラの設置や監視などの、単純な係員であった。格好良い言い方をすれば研究協力者であるが、誰でもできるのだけれどとりあえず手を挙げてみましたという内容の仕事は、実績と言うには正直苦しい。
 
しかし院生として、こういうポジションでの経験もまた、興味深いものであった。単純に事務方作業が意外と性に合っていたというのもあるが、現場側の苦労や問題点を知ることが、今後計画するであろう自らの研究の設計や遂行に少なからずの影響を与えると確信してのことでもあった。あと事務方を任せるには、結構ハプニングを起こしがちなので、周囲があんまりその役を与えてくれないというのもある。
 

院生参加のイベントへ

 
他の院生が主人公であるプロジェクトという意味では、スタッフとしてではなく、ゼミの関係者(=院生)という位置づけでイベントへのゲスト参加を行うこともしばしばあった。
 
例えば博士課程の藤枝さんが研究テーマとしている「オフィス」は、大企業からベンチャー企業まであらゆる組織が参画する可能性があると言えるが、学生にしてその中心に藤枝さんが居た。
 
自らの研究テーマと直接の関連がないイベントに顔を出す意義は大きく二つある。一つは自分の研究テーマの肥やしになるヒントが得られること、もう一つは新たな出会いの可能性である。前者は別にイベントでなくてもよいのであるが、意外と後者は予想外の展開をもたらすことがある。また直接的な効果とは言いがたいが、藤枝さん視点とすれば所属ゼミの関係者(しかも先生や院生)が同じ場所に存在するというのは、なにかと心強さを感じられることもある。
 

バランスを取ること。自分自身とも、関係者とも

 
ここまで書いてきて、院生としてやっていくための要件は何か、という問いがもたらされたとしよう。当然ながらそれは多岐に亘るが、厳選するならば、向学心と共に「バランスを取る(モデレートする)能力」を挙げたいと思う。
 
何と何をモデレートするかは、多くは周囲の関係者間相互のことであるが、そこに自分自身も必ず入れた方が良いだろう。また、バランスを取る行為においてなにかと陥りがちになるのが「自分さえ被っておけばよい」という発想であるが、自己犠牲にはえてして限界があるものだし、背負えない量を背負って案の定つぶれてしまう事態が招かれればそれは判断ミスである。つぶれてよい人などいないのである。
 
そしてモデレートを実現するためのリソースとして、お金や労働機会など可視化できるものはシンプルであるが、例えば相談機会の確保や互いの専門性の融通など漠然としたものも対象とできるように思う。むしろ後者のようなものを主とした結びつきが実現できれば、それは掛け替えのない研究者仲間としての絆となりうるし、その絆は仲間であるための努力を続けるモチベーションにもなってくれるはずである。
 
残念ながらこれ以上具体的な話に落とし込むと一般性が欠けてしまうので泣く泣く割愛するが、院生や研究者として末永くやっていきたいという人がもしこのコラムを読みふけるようなことがあったのなら、僭越ながら上に挙げた項目はぜひ意識して欲しいと願う。当然ながら、自分だけが楽をする、あるいは限られた人だけ楽をするという構造は持続可能性の観点からしても極力許してはならない。あと一歩だけ踏み込むならば、モデレートする能力とは一般社会でも相当に重要なものと断言できるのであるが、そのリソースとできるものの振り幅がやや広いのがアカデミックの素晴らしき特徴のひとつではないかと感じている。
 

TAのお話に戻ります

 
誰にでもそれなりに刺さりそうで、かつ誰も痛みを伴わなさそうなところの研究の話を書いてみたが、なんだかフリーサイズの服のような低廉感が浮き彫りになってしまったかもしれない。常々「『あの空に向かって』とか『夢を追い掛けて』とか聞き手任せと称して実質的に何の重みもない歌詞って本当にうっとうしいよね。マジお金の無駄、時間の無駄、存在自体が無駄」と随所で言いふらしている筆者にとって、この展開は少し恥じ入るべきなのであるが、あまり頑張ると本当にマズいので批判を甘受しながら次に向かうことにする。なるほど、フリーサイズ歌詞が得意なバンドは、きっと某かの契約を結んでいるのかもしれないと今気づいた。
 
閑話休題、院生の本文が研究であることは疑いない一方、TAに代表される各種運営業務も重要な役割である。特に学部生がつつがなく苦しみ、羽ばたいていくために、彼らが関知しないところでの補佐業務は欠かせない。
 
ここでは今一度、M1の冬(4年生:10期、3年生:11期)に舞い戻って、その軌跡を記録していこうと思う。
 

出された卒論は何処へ行く

 
通学制とeスクールで大きく異なるカリキュラムを導入している上野ゼミであるが、卒論のお約束は共に「本文60ページ以上」であり、要求水準も同等となっていた。そのため学部生が体感した紆余曲折の多くは、筆者が「いーすく!」で体感したものと似通っており、こと指導(正確には教員の指導補佐)においてはほとんど違和感なく対応できたことは救われる部分であった。
 
ただし提出までの関門の数という観点でそれぞれを見比べると、教員と教育コーチを納得させれば直ちに本提出(大学への卒論本文データの提出)が叶っていたeスクールと異なり、通学制には「ゼミ内提出」というもうひとヤマが存在していた。
 
例えば春卒業の場合、その期日は12月下旬(年内最後のゼミ日)とされ、4年生は一旦は卒論地獄から解放されることになる。「冬休みはしっかり休ませたい」という上野先生の親心もあったらしいが、同時にここからが、教員と院生の出番である。
 
ゼミ内提出の真の目的、それは本文の添削と、剽窃のチェックである。後者:剽窃チェックについては、後年になって専用ツールが登場してだいぶ省力化された部分もあるが、前者:本文の添削は今しばらく人間にしかできない芸当であろう。ゼミ内提出では学生にデータではなく紙での提出を求めており、まずは院生が、続いて教員が内容を確認するという手筈となっていた。
 
やや誤解を受けそうなので補足すると、院生の添削は(できればよいが)さすがにアカデミック・ライティング作法の高度な徹底を求めるレベルではなく、明確な誤字や不適切表現や論理展開の破綻などの指摘で十分とのことであった。最終的には教員が読み直すため、悩んだらとりあえず指摘する形でも構わないし、質の責任を院生が負う必要はないとも言われていた。
 
それでも、である。みなさんはこれまでの人生で60ページの文章を添削したことがあるだろうか。それもプロや文章好きの人間が書いた、いわゆる細部まで気の利いた文章でなく、露骨に負のオーラが溢れる文章をである。これは本当にきつい仕事である。後ろ向きな文章というのは、前に進ませてくれないのである。
 
筆者がM1のときの卒論に限って回顧すると、学生12名に対し添削作業に荷担できる院生は3名という陣容であったため、院生1名あたり4本の卒論が割り振られることとなった。これを12月下旬の年内最終ゼミで受け取ってから、およそ1週間の超短期決戦にて、教員(烏山先生)に引き渡さなければならなかった。予定としては年明け最初のゼミにおいて学生に添削箇所つきの本文を返却し、修正のための時間的余裕を与えることとなっていたのだが、そのために教員の本添削時間を確保する必要があったのだ。
 
日本中のカップルが「クリスマスプレゼントは私!」などと浮かれる12月24日、そのうちの何割かのカップルが「何やってんだろ私」と急に我に返る12月25日と、筆者はひたすらに赤ペン先生していた。彼らが一生懸命書いた文章であるから、文意は最大限尊重しなければならないと思いつつ、伝わってくるのは「とにかく早く楽になりたい」という思いばかりなのも心を苦しくした。
 
あれ、去年で卒論は書ききったはずなのに、なんでこんな追い込まれてるんだろ。
 
暮れも押し迫った12月30日午後、新宿歌舞伎町のルノアールに、烏山先生と添削担当の院生3名が集結した。歌舞伎町を合流箇所と設定した理由は特になく、全員にとってたどり着きやすい場所がたまたま新宿だった、というだけの話であった。実は筆者だけ遠くから来ているのであるが、この年の瀬に所沢までのドライブは死のリスクが高く、それからすれば鉄路での新宿往復はさほど大きな負荷ではなかった。
 
添削内容の大まかな解説、そして共有を経て、引き継ぎは滞りなく終了した。烏山先生はこれから全員分の卒論を持ち帰り、最終添削を始めることになる。きっと大晦日から三が日一杯はかかることだろう。卒論添削は数あるTA業務の中でも屈指のハードプログラムであったが、もっとも厳しいのは教員その人であるという事実を認識し、幸せに年越しを迎えられることを安堵した。
 

卒論本提出と合同卒論発表会の企画

 
年が明け、結構な量の添削コメントを眺めてあからさまに目つきが悪くなった10期生一同も、いよいよ本提出の日を迎えた。W大の場合、本提出の日はたった1日だけ、100号館の第一会議室と決まっていた。午前10時の受け付け開始を前に、一刻も早く楽になりたい学部4年生が今か今かと列を成し、その列は同じ階の廊下を網羅するほどであった。この日をどういう形で迎えるかは各ゼミ室、各学部生の事情にもよるが、既に完成した状態で当日を迎えるのが正常である。正味9ヶ月くらい、事あるごとに突っぱねられ続けた上野ゼミ4年生も、見事に全員が卒論を完成させていた。
 
午前10時。卒論本提出の受付が始まると、重圧から解放された4年生が満面の笑みで散っていく。ごく一部、書式の不備を指摘された学生などは青い顔をしてそれぞれのゼミ室に戻るのであるが、まだ午前中であるから挽回が可能である。ちなみに受付時間は午後4時までで、この時間を1秒、本当にたった1秒でも過ぎると当期での卒業は認められないルールとなっていた。だからこそ多くの学生が午前10時前に列をなし、一刻も早く提出しようとするのである。ギリギリで提出して不備を指摘されたら本当に終わりなのである。
 
実は上野ゼミのゼミ室は、提出会場の第一会議室からそう遠くない距離にあり、4年生は列が解消されたのを確認して提出に向かえるような余裕があった。こういう恵まれたロケーション、はっきりいって何の面白味もない状況であると、なにかと企画してみたくなるのが人間の性である。
 
筆者「こういう提出ものって、一番最初に提出した人より、一番最後に提出した人が勇者じゃない?」
学生「と、いいますと?」
筆者「午後4時の何分前に出せるかチキンレース!」
 
学生は何のリアクションも示さず提出会場へ向かっていってしまった。藤枝さんだけちょっと面白がってくれたが、烏山先生は全く笑っていなかった。おのれ、わしらがどれだけ時間を掛けて添削したか、少しはおもんぱからんか!!
 
まあ書いているのは彼らであるのでその言いがかりはスルーするとして、院生にはまたこれから大きなタスクが待っていた。それは卒論発表会の準備である。上野ゼミにおける卒論発表会は、同一領域の2ゼミ(藤沢ゼミ、武蔵小杉ゼミ)との共同開催を恒例としており、まずはその3ゼミの院生が打ち合わせを行うこととなった。記憶力の高い読者の皆さまは当然結びつくかと思うが、いつぞやのスクーリング(ジョンソンタウンと武蔵豊岡教会見学)と、全く同じパッケージである。
 
藤沢ゼミからは博士課程の院生(伊豆稲取さん(仮名))、武蔵小杉ゼミからは修士課程の院生(偕楽園さん(仮名))が上野ゼミのゼミ室にて集合し、当日の役割分担などを話し合った。3ゼミ合計となると30名前後の4年生が存在することになるが、当然、全員に発表機会を与えなくてはならない。発表と質疑時間は教員の専権事項のため院生が考える必要はないが、設定された時間内でどのように発表枠を割り振るかは院生の管轄とされ、意外と難しい作業であった。
 
例えば学生の中には単位取得がギリギリになっているため、発表会当日にも科目の受講や試験を控えている者、中には遠路はるばる本キャン(早稲田)に行かなくてはならない者も混じっていた。一方で質問方(教員+ゲスト)の負担を軽減し、かつ会の進行をスムーズにするという効果を得るために発表テーマのジャンルはある程度固めておくことが望ましい。この年は最年長の伊豆稲取さんが素案を検討し、不都合の有無について各ゼミ関係者が吟味の上、最終案を決定するという流れとなった。
 
続いて当日においては、院生は主には会場のマイクの融通とタイムキープ、司会進行や配付資料の確認などが求められる。他にも各ゼミで求められている提出物の管理、発表予定者の誘導や発表者スライド不調時の応急サポートなど、地味ながら多様な作業を行う。こういった雑事の多くは学部生自身が行うことも多いが、彼らの晴れの舞台でもある卒論発表会を確実に回すため、裏方業務を院生が行うことは理に適った配役と言える。
 
発表会が始まると、発表後にさきの論文合宿であったような、手厳しい質疑が先生やゲストから飛ぶ。主には異なるゼミの先生が多く質問する流れとなっており、特に割と突拍子もない質問が飛んでくると、あの地獄過ぎた合宿での八つ裂き体験が生きてくる。正直あそこまで殺られる必要はないし、殺られたからといって本番での成功は保証されていないのであるが、自らの過去の屍を背もたれにした10期生の背筋はあのときより遥かに伸びていたように思う。
 
筆者はというと、この年は大きな役割は与えられなかったが、2年目では司会や質問者も担当することができた。
 
そう、自らが発表しない発表会において院生が学べること、それは質問である。これも二つの意味があり、一つは他人(教員・ゲスト・院生)の質問の方略の勉強、もう一つは自身の質問能力の研鑽である。難しい質問に答えるのが難しいのは当然であるが、実は最もテクニックを要するのは、適度な難易度の質問を手短に発することである。「良い質問」については今も考えている程度にはよく分かっていないのだが、聴衆にとっても納得感の高いもの、あるいは発表者が新たな展開に移行できるような「優しいツッコミ」として成立するものは良いものとみなせるかな・・・となんとなく考えている。
 
発表会が終わると、いよいよ大ラスの行事、打ち上げ(懇親会)である。元々W大や上野ゼミは懇親会が大好きで、スキあらばあられもなく打ち上がってしまうのであるが、発表会後の打ち上げは全員が密かに喜びを噛みしめるような独特の雰囲気となることが多い。ぶっちゃけ学生といえど、安堵感と共にかなり疲れており、もうこれ以上何かをする気にならないのであろう。
 
また打ち上げにおいては、それまであまり訊けなかったことを思わず訊けてしまうというのも醍醐味である。残念ながら「この中で誰が一番好き?」などといった加齢臭を伴う話ではない。そういう意味で思い出深いのは、10期の留学生・天竜川さん(仮名)が、同期の誰かから訊かれた問いへの答えである。
 
実は天竜川さんの母国は、我らが日本ととある島の領有権で揉めているという現在進行形の歴史を持っているが、おもむろに同期が「あなたはどういう立場なの?」と訊いたのだった。うちらのゼミに似合わないようななかなかインターナショナルかつセンシティブな話題で、アウェーである天竜川さんにとっては厳しい質問に思えたが、天竜川さんは笑みを浮かべながらこう即答したのであった。
 
「どうでもいい」
 
諸々の情勢、当人の立場など、総合的に勘案してこれは100点満点中200点の回答だと密かに膝を打った。一連のやりとりは、このときの発表会で聞くことができた一番良い質問と、その回答だったと思う。今は母国に凱旋してまた違う立場や考えとなっているかもしれないが、今後両国がどんな関係となっても、天竜川さんのことは信じようと思う。
 

 院ゼミも終わり、大団円

 
秋学期の締めとなる1月下旬は、学部ゼミのほかに院ゼミも大団円を迎える。懇親会大好きなW大としては、どんなワークショップの終わりでもいちいち打ち上げを行うのが恒例で、楽しいものなので筆者もいちいち盛り上がっていた。またこれは冗談ではなく、打ち上げの雰囲気によって進む話、開ける道が多々あった。
 
実は筆者は社会人学生になってから、愛飲する酒は養命酒だけという後天的下戸なのだが、それでも出られる打ち上げはすべて出ていた。最近の若者は「5000円払っておじさんの話を聞くのはハードルが高い」という考えが共感を得ているようだが、その程度のジャンプ力でよくこれから先やっていけると思えるよね、なんて小言が浮かんだりする昭和生まれである。
 
でもまあ確かに礼節が伴わない飲み会に出る必要はまったくない。酒乱などもってのほかである。今思えば出席した会においてそういったマイナスな思いを抱くことが一切なかったのはありがたいことであった。欲を言えば、カルアミルクとZIMAを呷って旅館の廊下を走るアクティビティーも、ほどほどがよいと思う。
 

と思ったら、ゼミ室の大掃除

 
秋学期におけるイベントがすべて片付いた2月某日、ゼミ室をシェアする上野ゼミ、藤沢ゼミの院生がゼミ室に集合した。今年度の汚れ今年度のうちに。およそ2ヶ月遅れとなる、暮れの大掃除である。
 
しかしゼミ室というのは、いわば研究の最前線であり、触れることすら躊躇するオブジェクトも少なくない。しかもとこキャンのゼミ室は、こんなにこんなにこんなに広い森に包まれたキャンパスであるのに、シェアコンセプトであることも掃除を難しくしていた。室内に点在する謎のレジュメ、出しっぱなしの実験道具などは、学期末に関係者が角突き合わせない限りは正体が判明しないケースも多かった。
 
しかしさすがに卒論を把握する院生が一堂に会せば、やっぱりこの発泡スチロールは出しっ放しじゃないか、あの野郎スチレンボードの切れ端を置いてそのまま卒業しやがったななどということが分かってくる。まあまだそれでも処分可否が判明すれば片付けられるのだが、たいていの場合、問題はこれだけでは解決しない。
 
ある年のゼミ室大掃除では、いつの年代のものか誰も分からないカメラやファイル、更に謎の記録装置が出土したことがあった。片付けようにも謎の何かがしまうべき場所を占めていて、意を決して棚卸しを始めてしまったことが、歴史的発掘調査開始のゴングを鳴らしたのだ。ファイル類については現役生の誰か一人でも判断が付けば処分ができるが、それ以前の話となると誰も責任を持つことができず、「とりあえずそのままで」と先送りされてきたことが読み取れた。更に言えばファイル類はまだ場所を取っていないが、古びたカメラ、なにより謎の記録装置は謎と言うしかない。
 
こういう場合、すべてを把握しているのは教員と決まっていることから、上野先生を召喚して判断させるのがベターである。
 
上野先生はどうやら、それが何であるかも、購入時いくら掛かったかについても認識しているようだった。しかも申し訳ないがそれらの機器、特に謎の計測機器類はどう見ても、動かないか今後現役で使うには時間が経過しすぎているような代物であった。それでもその日、上野先生から「じゃあ捨ててください」というゴーサインが出ることはなかった。どうやら上野先生は捨てられない人であるらしい。
 
このまま埋め戻しを続けてしまうとゆくゆくは藤沢ゼミに割り当てているスペースを浸食することも予想されるが、その時にはきっと筆者は学内に居ないであろうから、判断は未来の院生に任せたいと思う。
 
お昼過ぎに始めた大掃除も一段落し、時刻は夕方に差し掛かっていた。これにて本当に一年の締めくくりである。
 
最後はやっぱり打ち上げが設定された。ただし院生と教員だけとあって、大人しいものであった。話題は学部ゼミのこと・・・ではさすがになく、自らの研究のこと、これからの身の振り方のことなどであった。
 
大学院生という身分はつくづく不思議である。学部生からは先生の次に頼もしい兄貴・姉貴分でありながら、教員から見れば学生の亜種という程度のちっぽけな存在でしかない。加えて「同期」と言える大学院生は同じゼミでもなければ滅多に会うこともなく、その動向を知る機会も少ない。入学式でバカ笑いしていた彼らは元気だろうか。
 
何かの道を究めるにあたり、よくよく登場する比喩は「登る山」であり、それは多分に正解であると思う。しかし院生の研究活動をより端的に喩えるなら、退屈な地上生活と距離を置き、それぞれが魅入っている洞窟に降りていく探検家の卵とする方が相応しいように思う。特に学際的学問領域である人間科学の大学院というのは、前提も目標も異なるがため隣近所の様子すら杳として窺い知れず、そもそも互いの存在を認識し合うことすら簡単ではない。人間科学専攻の大学院生は、誰もが孤独であり、誰もが孤高の地底探検家見習いなのだ。
 
洞窟の降下には時に危険が伴う。取り返しの付かないことをしでかさないよう、様々な準備もぬかりなく行う必要がある。もちろん隣には凄腕インストラクター、つまりゼミの教員がいる。彼らもまたそれぞれが見つけた洞窟の地底探検家である。その服は、時に鋭い岩肌に抉られて傷つき、時に地底湖への着水によって濡れそぼっていることであろう。だから地上の教壇に立っている彼らはいつもどこか疲れていて、というかなんとなく薄汚れていて、だけれど専門領域の話となると急に目を輝かせながら延々と話し続けてしまって・・・
 
そう考えるとゼミ室が埃っぽいのも、なかなか捨てられないもので溢れるのも、洞窟探検の賜物と捉えるのであれば仕方ないのかもしれないな。
 
先の見えない漆黒の闇が、まだ先がある漆黒の闇に見え始めたような気がしたM1の終わりであった。いかん、早くメール返さないと。
 
 
 
(初出:2021/01/22)

いんせい!! #13 また大会!!

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残暑、というにはあまりに過酷な陽射しが照りつける住宅地の一角にて、自宅から、キャンパスからも遠く離れた西の都から、大切な書類一式を封入した茶封筒を投函して、さらなる道のりは始まったのでした。
 

#13 また大会!!

 
そういえば大掃除の段階でもしれっと日本国内にいた上野先生も、やっとこさ研究のために北欧へ旅立ち、筆者にとって大学院生として2回目の春が到来しました。いわゆる「M2(エムに)」としての春学期を迎え、遂に正真正銘の「主なきゼミ」と化した上野ゼミは、代理の先生方主導によるゼミへと変貌していきました。
 
といっても態勢の変更としては、新しい3年ゼミ(12期)の担当教員として赤羽先生(仮名)が任命されたことくらいで、新しい4年ゼミ(11期)は引き続き長泉先生が担うことになっていました。内情としては、昨期4年ゼミ担当の烏山先生がこの年から他大学の常勤職(准教授)に着任してしまうという事情もあったようですが、教員切り替わりのタイミングとしては最善であったと思われます。いずれにせよ筆者は、愛着のある11期(新4年ゼミ)のTAを引き続き担当することになり、シビアなことはだいたい藤枝さんに全力丸投げすることで事なきを得ていました。
 
さて、4年ゼミ(卒業研究)といえばやることはただひとつ、卒論の着手から完成です。先輩である10期は、それはもう前世の罪を一掃するレベルの七転八倒を経ながら這々の体で卒業していきましたが、明朗快活さが取り柄の11期はその伝統を断ち切ることが期待されるところです。火を見るより明らかと申しますか、相当に分かりやすい伏線となってしまいましたのでもうさっそく回収しますと、その思いは大きく裏切られました。その要因はなんと言っても、長泉先生、笑顔が素敵な長泉先生が本領を発揮しはじめたからでした。
 
論文合宿をフラッシュバックしてみましょう。あのときは6名の指導方が当時の4年生に集中砲火を浴びせ続けましたが、もっとも効果的な一撃を浴びせ続けていたのは他ならぬ長泉先生でした。フィールドワークでも優しげで、支離滅裂な行動観察報告を聞いても笑顔が絶えなかった先生は、単に本気を出していないテディベアだったのです。
 
そういえばある日の通学時、片側交互通行による工事渋滞があっても所定のルートを走ってしまう学バスの仕様に、一番ブチ切れていたのは他ならぬ長泉先生でした。なんで!工事って分かってるのに飛び込むの!バカじゃないの!春休みの宿題でもあった卒論の構想について、ゼミ論文の雰囲気のまま仕上げてきた11期生たちは、お子様向け人形であることを放棄したホッキョクグマの餌食となったのでした。
 
その後の4年ゼミの雰囲気は言うまでもありません。できる系男子もふわふわ系女子も、相談序盤から次々と「こんな研究は無意味。全然ダメ」などと脳天をかち割られてはさすがに笑顔でいられません。「今こそ俺たちがなんとかしなければ」という思いを背負ったポンコツ3も、これまでとは別な意味で笑われながら、何の戦果もあげられないまま散っていきました。
 
加えてこの時期から、4年生は就活が本格化するということもあって、ゼミは欠席と進捗遅れに伴う叱咤が繰り返されていきました。熱い結束で保たれた11期の姿は、もはや影も形もなく、TAである筆者も傍観するしかありませんでした。
 
突如として凶暴化した、もとい本性を顕した長泉先生は、一体何者なのでしょうか。なにしろせっかく仮名で押し通していますので、そのご来歴を深く掘り下げることは避けなければいけませんが、少なくともその指導方針はこのゼミが位置する学問領域の伝統が大きく影響しているようです。
 
本コラムでもたびたび記述していますように、人間科学という領域は多様な専門領域を横断する、いわゆる学際的な学問領域です。それは人間科学部内に存在する様々なゼミそれぞれが、既存の専門領域に近い性質を帯びている、ということを意味します。上野ゼミを含めた同領域の3ゼミの場合、まあこれを書いてしまうと匿名も一般もへったくれもないのですが、「建築」という一大ジャンルに片足どころか両足を乗せながら活動していると言えます。
 
本コラムに登場した先生方で言えば、上野先生や長泉先生、藤沢先生や烏山先生や山北先生や武蔵小杉先生、筆者目線で言えば蓮田先生や辻堂先生に至るまで、全員が建築領域のスペシャリストです。そして建築という学問領域における伝統のひとつに「荒っぽい指導」があります。もちろん、他の学問領域でも大なり小なり荒っぽさはあるでしょうし、もっというと指導の仕方は指導者の個性に依存するものだとも思いますが、竹を割ったような威勢、なにがなんでも筋を通したがる義侠心や熱血漢ぶりは多くの先生方の指導の根幹を成していました。
 
もちろんだからといって、暴力や人格否定の罵倒が許されるほど現代社会は甘くなく、諸先生方もそれは熟知していています。しかし彼らが真剣に向き合えば向き合うほど、結果的に指導時の迫力は増してしまい、それはだいたいオーバーキルでした。どれほど優しい風体であっても、クマはクマであり、血の臭い(論理的なキズ)には本能が反応してしまうのです。
 
なんかもうだいぶひどいこと書いてしまいましたのでフォローがてら軌道修正しますと、さすがにオーバーキルの程度(指導の厳しさ)は先生によって異なり、例えば上野先生は劇的に優しい部類といえます。他の先生方もオーバー、なことはままあっても、だいたいはキルまでいかないというのが実感です。なんというか、痛いけど打撲で済んだかなというものと、傷口は大きくないのにもう無理ってパターンがあるじゃないですか。長泉先生はというと基本的に即死攻撃型でした。むしろ爪の先に毒を塗っているくらいのレベルです。全然フォローできてない気がしてきましたがもう仕方ないです。
 
こうして4年ゼミの春学期は残酷ショーに明け暮れ、彼らが一週間一生懸命考えたであろう構想の一切も、毎週のように耕されては土に還っていくのでした。TAとしては「その気持ち、分かります。今が堪えどきだから」などと励ましていたつもりでしたが、そもそもオーバーキルという伝統そのものがあまり好きではない性分も手伝って、心はどことなくゼミから離れていたような気もします。
 
一方で新3年ゼミはというと、赤羽先生の元、昨年のそれと同じようにフレッシュな雰囲気に包まれていました。11期の人達を一応すべて書いたので、12期についても、学生リストと第一印象を書き残してみます。
 
12期(すべて仮名)
島田くん 町田民 とこキャン祭実行委員 お調子者
三河島さん 谷根千民 人嫌い パンク お金取りそう
新大久保くん 少林寺拳法 絶対元ヤン お金めっちゃ取りそう
神田さん 演劇サークル 背が高い
村岡くん 演劇サークル おまえら付き合ってるだろ 
品川くん 横浜民 とこキャン祭実行委員 メガネ
桶川さん 悪の華 いいところの子っぽい
川口くん 佐賀民 神宮でバイト
浮間舟渡くん イケメン
 
例によって段々興味が薄くなっていったのでしょう、浮間舟渡くん(仮名)に至っては「イケメン」としか印象がないのですが、まあそれで十分なほどのイケメンです。総じて実務派もムードメーカーも一通り揃っていそうな気配を感じましたが、どことなくすきま風を感じるような、不思議な冷たさがありました。
 
なおこの年の筆者は、修羅場たる4年ゼミの生温かい見守りに専念したこともあり、新3年ゼミについてはあまり具体的な思い出がありません。赤羽先生と、10期から修士課程に進学したM1の大森くん(仮名)のTAによって、楽しい春学期を過ごしていたようです。
 
そして大学院ゼミは、院生としては科目(専門ゼミ)としての履修ができないこともあり、事実上の解散状態となりました。とはいえ、全く指導を受けられないとなればこの後に控える修士論文も書けないため、上野先生と個別に連絡を取り合う形でのSkypeミーティングが適宜設定されました。
 
北欧に渡った上野先生は、なんだかとても元気そうでした。まさかこのまま帰ってこないつもりではないですよね。
 
個人的にもこの時期、実に2年ぶりに、大きな決断を果たしたというのに。
 

博士課程、行きます!

 
修士課程進学の決意を伝えるべきタイミングがだいぶ早かったように、博士課程(正確には博士後期課程)への進学を希望する場合、その1年前の春学期には教員に方針を伝えておくことが望ましい在り方であった。ただし博士課程の受験機会は年2回(夏と冬)用意されており、おそらくは修士課程を修了する院生当人の就活事情などの見通しがついてから判断しても間に合うように、という配慮であるが、いずれにせよ判断が早いに越したことはなかった。
 
筆者が博士課程への進学を決めたのは、M2を迎えてからすぐ、確か5月頃だったと記憶している。同じようなタイミングで報告した藤沢先生には、マジで?というちょっと不安げな顔をされたが、基本的には喜んでくれた。
 
前回の洞窟探査に喩えるならば、筆者は修士課程の1年間によって、洞穴の入口から少しだけ中に入れたという実感があった。しかしその先は「特に誰も立ち入ったことはない」という程度に不毛な空隙が広がっているばかりで、ここはそういう場所でした!というだけの話で終わらせることもできそうであった。しかしその空隙、漆黒の闇の向こうに、どういうわけか続きがあるような気がしたのである。いや、絶対あるって。みんな感じないのか。
 
まあ冷静になって振り返ってみると、特に誰も立ち入った形跡がないということは、立ち入ってもあまり意味はないだろう、と先人が判断した可能性がとても高いわけで、せめてもうちょっと判断を遅らせてもよかったのではないかとも感じるが、いつだって悔やんだって後の祭りである。
 
そうと決まればあとは学部4年生時代と同様、推薦入試を受験し、当期での修士課程修了を目指すのみである。1年前の春先はたしか、あまりの環境変化に「3年くらい掛けてもバチ当たらないんじゃないか」と思っていた部分があったが、こうなるともうそれは実現しない未来である。なお修士課程に在学する社会人院生の中には、3年・4年をかけて修了を目指す方も多いので、全くバチは当たらないことを付記しておく。
 
受験にあたり、例によって提出を求められた研究計画書は、今度は割とすんなり書くことができた。さすがに博士課程を志望するという状況になって、何も書くことがありませんはあり得ないし、大学の手続きのしきたりに慣れてきた節もあった。あとは受験にあたり担当教員の確認が必要な書類があったのだが、
 
上野先生「では、福岡に書類を持って来てください」
 
ここだけ読むととんでもない指令であるが、その理由は後ほど。
 

また大会発表、今度は福岡

 
毎年8月下旬から9月上旬にかけて、建築を領域とする某学会・・・もうぶっちゃけますと日本建築学会(AIJ)の全国大会が開催されていますが、この年(M2)の会場は福岡でした。長きにわたり北欧に高飛びしていた上野先生もこの学会に合わせて帰国し、発表や諸先生方との旧交を温める、さらには名産品をひたすら食すという恒例行事に勤しんでいました。ちなみに会場近くには11期の池袋くんの実家があるとのことでしたが、残念ながらどう問い詰めても具体的な場所は教えてくれませんでした。TAとしてとても悲しい。
 
さて筆者にとっては通算2回目の大会発表となる今回は、共同研究に関する初の対外的成果発表ということで、共同研究者との連報となりました。AIJ大会における投稿ルールでは、一人の参加者が一つの大会で発表できる梗概の本数は「1本」である一方、共著という形で同一研究を連続的に発表することが認められていました。つまり発表が3本ある場合、1本目は発表者Aさん(共同発表者Bさん、Cさん)、2本目は発表者Bさん(共同発表者Cさん、Aさん)、3本目は発表者Cさん(共同発表者Aさん、Bさん)という形で発表者を登録し、その通りに発表することで、事実上3本分の時間を発表することができるわけです。当然、発表一本一本が研究者にとっての実績になるため、共同研究においてはこの辺りの利益(実績)分配も重要となってきます。
 
この年の筆者はまさに3本分の発表内容を引っ提げ、合議の結果1本目の発表者と決まりました。ちなみに2本目発表は辻堂先生、3本目発表は今市さんが担当し、羽田さんと上野先生は著者として名を連ねつつも別の研究の発表者となるためここでの発表は見送られました。
 
発表当日、前回の閑古鳥発表から大きく変わり、小さい教室ながら満場の観衆の前での登壇となりました。その雰囲気は牧歌的、とはほど遠い、あの悪夢の論文合宿に近い殺伐とした雰囲気がありました。予想だにしなかった緊張感によって筆者は見事に飲まれ、発表自体はなんとかこなすも、質疑の場面で言い淀むという残念な結果に終わったのでした。
 
どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。理由は簡単で、発表部門を変えたからでした。名前だけ書きますと前回大会では「建築計画」、今回は「環境工学」という部門で申請し、そのまま採用されていました。これは僥倖でもあるのですが、筆者の研究テーマはどちらの部門にエントリーしても不自然ではない内容となっており、そうですね、今回は「環境工学」がいいんじゃないでしょうか、という辻堂先生たっての提案によって、こんなことになってしまったのでした。
 
いやおかしいでしょいくらなんでもどういうことですか。部門を変えただけでこんな地獄を見ることになるなんて、熱力学を無視していませんか。ちなみにこの殺伐感は筆者だけに向けられたものではなく、環境工学部門の発表ブース全般で共通しているようなのですが、では前回の牧歌感はなんだったのかという話になります。部門コンバートの提案者であり「環境工学」をホームグラウンドとしている辻堂先生の説明はこうでした。建築計画はそういう雰囲気かもしれないけれど、うち(環境工学)はしっかりやりますので。
 
あ。ここ、クマさんたちの巣だ。
 
そう気づいたときにはもう、発表も何もかもが終わっていました。むしろ発表が終わってからの気づきとなっただけマシだったのかもしれません。この日を境に、筆者の中での辻堂先生の位置づけが「頼れる熱血漢」から「グリズリー」に変わったのでした。
 
発表終了後、もしかしたらその前だったかもしれませんが、上野先生と久々の再会を果たしました。挨拶もそぞろに懸案となっていた博士課程受験願書関係書類への確認をお願いし、願書一式が収められた茶封筒は、大会会場近くの閑静な住宅地に佇む郵便局から投函されたのでした。
 
時に8月下旬、大会会場へと戻る道は九州特有の厳しい陽射しが照りつけ、この先の道のりの厳しさをさっそく暗示しているようでした。
 
 
 
(初出:2021/01/23)

いんせい!! #14 修論!!

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サンタクロースの肩代わりを命ぜられた大人達が街の経済を回す頃、筆者は2年ぶりの学位論文執筆にせっせと勤しんでいた。
 

#14 修論!!

 
2年前の卒論指導において、上野先生は筆者に対し繰り返しこう述べていた。「修士論文じゃないので、卒論はこれでいいです」。
 
筆者が既に進学を決めていたからというのもあったようだが、何がこれでいいのかと釈然としなかったことが何度もあった。あまりにその類の指摘が続いたのでより詳しい説明を求めると、「分かりました、以後この表現は使わないようにします・・・」となぜか折れるという有様で、それだったら最初から言うんじゃないよ、と更に釈然としない思いを引きずったことを覚えている。
 
それから卒論執筆と卒論添削を一回ずつ経験したM2の秋、筆者は卒論に苦しむ4年生に事あるごとにこう言うようになっていた。「修論(修士論文)じゃないから、これくらいでいいんじゃない?」
 

卒論と修論の違い

 
卒論と修論(修士論文)の違いを端的に示す言い方に「卒論は執筆のお試し、修論は研究のお試し」などがある。もちろん学問領域やゼミによってその位置づけは大きく異なると考えられるが、確かに少なくとも筆者が所属した領域においてはこのような認識を多くのゼミが抱いていると感じた。
 
ただこの言い方は、卒論と修論に対して世間全般が抱いているなんとなくの認識と微妙なズレがあるのではないだろうかとも思う。世間側の感覚をより正確に示すならば「卒論は研究、修論はより本格的な研究」という風に、卒論とは少なくとも“お試し”の意味合いなどない程度には本気のもののように思えるのである。指導側からすればもちろんそうなることが理想であると言うだろう。実際にそうなってくれるケースもあるようだ。ただしその理想を適用することは非現実的である、ということも指導側は強く認識している。
 
もう少し明確にこの曖昧な事態を説明すると、第一に卒論論文は指導期間が1年しかない。1年もかかって何を言うかとも思えるが、「芸事」的に考えてみると、何も知らないレベルからその道のエキスパートが唸るプロフェッショナルレベルまで技能を高めるに際し、1年は短すぎるということは多くの人が体感できるだろう。第二に卒論は合格ラインの引き方が、時間的制約も相まってゼミごとに多様であるといえる。研究において重要なポイントは「新規性」「品質(論理展開、調査方法など)」「執筆者が主導したか」など多々あるが、それらのどれをより重要視するかは結局はゼミ長たる教員の判断、としか言いようがない。言いようがないというか、それがまさに教員の専決事項である。そこまで教員からスポイルしてしまっては、教員はただの賢い中高年になってしまう。
 
もう少し掘り下げると、例えばとあるゼミでは学生に卒論のテーマを考えさせない(=教員側からテーマを授けて作業させる)こともあるという。上述のポイント群は必ずしもトレードオフの関係にないが、テーマ授与方の卒論は教員や院生との共同作業となるわけだから、その品質や新規性もかなり担保される可能性が高い一方で、執筆者主導という前提は弱くなる。対してテーマ決めに幅のあるゼミにおいて執筆者が持ち込んだ卒論のテーマは「新規性」かつ「執筆者主導」が成し遂げられやすい反面、「品質」は必ずしも教員の力によってプロフェッショナルレベルまで至らしめられるとは限らない。
 
以上を踏まえて卒論について強引にまとめると、(筆者の周辺ゼミにおいての)卒論は「①(品質はそれなりだが)自力で完遂したか ②(補助輪つきだが)高品質で完成させたか」という大きく分けて2つの成し遂げ方があると言えよう。ゼミによってはどちらかしか選べないし、さらに手心が加えられるケースもあるだろう。現実を積み上げていくと、特に人間科学における「卒論の合格ライン」は学部内で完全一致させることもきわめて困難ではないかと思う。繰り返しになるが、いっぱしの研究として形になっている優秀な論文が書けるならそれに越したことはない。卒論生が「これは卒論だから~」と、手加減を意識する必要もない。指導の補佐をする側としても、品質と残り時間は常に天秤に掛ける必要がある。その結果として、「これくらいでいいんじゃない?」という常套句が頻用されるというわけだ。しかしいずれにしても、研究としての形(=執筆)は最低限整えていなければならない。その現状を柔らかく示した言い方として「執筆のお試し」という表現が生まれたなら、なかなか言い得て妙である。
 
筆者の卒論はどちらかというと「自力で完遂する」タイプであったので、上野先生的には品質向上を猶予しつつ完遂を優先させたと想像される。しかし筆者からの予想外の反論がなされ、いちいち説明するのも面倒くさいなと思ったのが真相であったのだろう。やだなあ先生、もうちょっと最初から説明して欲しかったですわ。
 
話をM2時代に戻すと、卒論のテーマを修論に持ち込む場合、何を求められるかを推し量るのは容易い。おそらくそれが最も時間のかかることだとしても、卒論でやり残したことに今度こそ向き合わなければならない。筆者にも当然ながら、卒論で看過された「論文品質の向上」が求められた。内容の充実はもとより、研究として必要不可欠な新規性の説明をより明確にするような論理展開が課せられた。同時並行のTAにおいては身も心もボロボロであった4年生(11期)の卒論の相談も受けていく必要があったため、労働量は相当であったものの経験値が着実に向上していくのを体感できた。なお蛇足だが長泉ゼミは上野先生が帰還した秋学期直前を以て終了し、秋学期は上野先生の人間味溢れる指導に全員が胸をなで下ろしたという後日談に触れておく。
 
卒論と修論の内容的な差異の説明はこれくらいに収めるとして、もうひとつの大きな違いは「副査」の有無である。修論では「主査(しゅさ、通常はゼミの教員が担当)」の他、「副査(ふくさ)」を最低2名設けなければならない。副査の役割は主査同様に論文の指導と審査であるが、主査以上に厳しい指摘を投げかけることもある。筆者の修論では当初、同領域の武蔵小杉先生と藤沢先生に副査を打診した。朗らかな武蔵小杉先生は快諾してくれたが、藤沢先生はなんと「サバティカルで引き受けられない」とのことであった。なんてこった、もう馴染みの先生いないじゃん。結局は近接領域の小山先生(仮名)に副査をお願いして事なきを得たが、もうサバティカルとか廃止してくれないかな。
 

ジャイアントパンダ武蔵小杉先生の豹変

 
学部時代のゼミ選択からたびたび登場してきた建築系トリオ(藤沢先生・上野先生・武蔵小杉先生)の中で、武蔵小杉先生のエピソードはやや乏しい状態であるので少し説明しようと思う。武蔵小杉先生は専門領域こそ上野先生・藤沢先生と同一であるものの、その方法論はだいぶ毛色が異なるものであった。本コラムの文脈に則って簡単に説明すると、バリバリの「環境工学」側の先生であった。加えて研究実績を紐解く限り、環境工学(クマ)陣営であるらしいテディベア長泉先生やグリズリー辻堂先生と頻繁に交流していることが伺えた。あのクマ軍団の中で一定の立ち位置を確保する先生であるのだから、本来であれば超獰猛なボスクマの風格があってもおかしくない。
 
しかし実際の武蔵小杉先生は物腰柔らかく、研究相談においてもこちらの主張を概ね納得してくれる草食系であった。そういえばゼミ面談の段階から、朗らかさには一片の変化もないように思われた。クマはクマでもこりゃジャイアントパンダだな、と筆者も心から安心した。あとメールをちゃんと返してさえくれれば、もう完璧なジャイアントパンダである。
 
執筆が進み提出を済ませ、いよいよ修論発表会がやってきた。製作過程を相当にすっ飛ばしてしまったが、作業内容は卒論時とさほど代わり映えしないので省いてもいいだろう。実際のところとして論文をまとめるには十分な数の調査研究も行っており、複数本の大会発表という実績もあることはある。今思えばなんというか、ヌルッとこの日を迎えることができた。
 
修士論文審査会は秋学期末、大詰めといえる時期の平日に行われた。審査会は公開制で、主査・副査と共に一般の教員や学生も聴講することができた。20人も入れば一杯になってしまいそうな教室の中は、教員とゼミ関係者でほどよく埋まっていた。定刻となり、筆者には25分程度の発表時間が与えられた。やや長いようにも感じられるが、思う存分話してやるぜという気合いの上ではこれくらいがちょうど良い。
 
その甲斐あってか自分としては相当滑らかに説明できたなという手応えを残した発表の後、喋り出したのは副査の武蔵小杉先生であった。この章の分析は意味がありません。比較してはいけない結果を並べて示してはいけません。ラテン方格法を採用するのはいいけれど、交互作用を犠牲にした以上は結果の取り扱いをより慎重になるべきところこの考察はいかがなものでしょうか。
 
文章にするとこうも味気なくなるものだなと自らの表現力のなさに閉口するが、ここだけ奥行きのある表現を取り入れても不自然なのでそのままにしておく。言い方は相変わらず優しいのであるが、繰り出される言葉はどれもこれも反論の余地が一切ないものであった。ワーワーと口やかましい指摘を受けることは多々あれど、この日の武蔵小杉先生の指摘は異次元に重いパンチであった。受け止めることもカウンターすらも無理な打ち込み方をしてくるのである。本当に怖い人ほどいつも笑顔でいるというのはきっと本当である。今や安全な場所はどこにもなく、ただただ恐ろしい瞬間であった。発表の充実感の余韻が残る中、修論通らないかもなあと観念したことを覚えている。笹は主食でなく、食後のガムのようなものだった。武蔵小杉先生はジャイアントパンダではなく、顔周辺が白いだけのツキノワグマであったのだ。永遠とも思えたハードパンチの最後、しかし武蔵小杉先生はいつもの微笑みを取り戻しながらこう述べてくれた。
 
「査読論文であれば指摘しますが、修士論文なのでこれくらいでよいでしょう。お疲れ様でした」
 
どうやら命だけは助けてくれそうだ。冗談抜きに助かったと思えた。同時に、この上のクオリティーがあるということを嫌でも認識させられた瞬間だった。来たるべき博士課程に向けて、大きな反省と克服すべき暗闇が明確となった修論審査会であった。

 

yumehebo.hateblo.jp



(初出:2021/01/24)

いんせい!! #15 夏季集中!!

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狭い路地の向こう側に何があるのかが気になって、その先を覗いてみたことがある人は多いはずです。そんな純朴な思いをいつまでも忘れることができない一部の人は、いい大人になってもその先を目指してしまうのでしょう。たとえそのフィールドが画面の中でも、地下道の中でも、世界の街のどこかでも。
 

#15 夏季集中!!

 
上野先生サバティカルイヤーによって筆者の履修計画がやや苦しいものとなったことは示しましたが、それによって様々な科目を履修するチャンスが巡ってきたのも事実でした。
 
再々度の掲載となりますが、科目群一覧を示しますと
 
研究指導
修士論文
必修専門ゼミ(1)   最低4単位(A・B)
必修専門ゼミ(2)   最低4単位(A・B)
選択専門ゼミ(1)   選択★
選択専門ゼミ(2)   選択★
専門科目A群       最低2単位★
専門科目B群       最低2単位★
プロジェクト科目    最低1単位★
リテラシー科目(英語) 最低1単位★
リテラシー科目(基礎) 選択★
他箇所設置科目     選択
 
※★がついた科目群を合計して最低12単位
※全科目中オンデマンド科目は上限15単位(いずれも2015年時点)
 
この中で★がついている科目群をいかに効率よく履修するかが、すんなりとした修了の可否を決めることが分かります。専門科目については、A群B群って何?と思いつつもある程度予測が立ちそうなものですが、注目すべきはその下です。
 
プロジェクト科目
リテラシー科目(英語)
リテラシー科目(基礎)
 
このよくわからん科目群からどれだけ単位を取得できるかが、単位充足の決め手となりそうな予感です。
 

リテラシー科目(英語):中級 or 上級 ANATA WA DOTCH?

 
英語科目そのものについて、特段説明の必要はないでしょう。英語です。技能ごとに細分すると「リーディング」「ライティング」「リスニング」「スピーキング」と4種類に分けられるというのも、おそらく常識の範疇です。よって英語科目も、以下のようなラインナップとなっていました。
 
Reading for Academic Purposes 中級(1単位)
Reading for Academic Purposes 上級(1単位)
Writing for Academic Purposes 中級(1単位)
Writing for Academic Purposes 上級(1単位)
Oral Presentation for Academic Purposes 中級(1単位)
Oral Presentation for Academic Purposes 上級(1単位)

 

長ったらしいですけど要は「リーディング」「ライティング」「スピーキング」の大学院版です。「リスニング」はどっかいきました。それより気になるのが中級・上級の分類ですが、こちらは実は入学前に受験していたTOEICスコアが判断材料となっていました。つまりそのスコアによって中級か上級かが指定され、いずれにしても院生たるものどれか最低1科目は単位を取得しなければならないというわけです。

 
ここでちょっと戦略的なことを説明しなければなりません。最低1科目必須ということは、1科目だけ取っちゃえばそれでいいとも言えます。しかしその1科目を選択するにあたって、ReadingかWritingかOralかは選べても、中級か上級かを自ら選ぶことはできないのです。中級か上級のどちらが易しいかは、日本語の問題ですから簡単ですね。つまり中級に割り振られるようにTOEICを・・・
 
いくらなんでも志が低すぎるのではないですか、特進クラスに相当する学力を持ちながら普通クラスのテストを一人だけ受験して偏差値80取った!とか言っちゃうのは楽しいですか、といったお叱りが聞こえてきそうですが、これは単位を取るか取られるかの話、シビアにいかなければならないのです。しかし確かに、大学院に通っていて手心を加えるというか、セルフ八百長なんてもったいない話です。やはりここは全力でTOEICを受験して、堂々たるスコアを叩き出そうじゃありませんか。大学院生としての矜持が問われる自問自答を見事にくぐり抜けて受験し、筆者は中級に割り振られました。割り振られちゃったものはしょうがない。かたじけない。
 
結局筆者は「Reading for~」「Writing for~」2科目を履修し、楽しく2単位を取得することができました。恥ずかしながら、中級で丁度良い湯加減でした。「Oral Presentation for~」は日程が合わず断念しましたが、でももう正直お腹いっぱいでした。日本語サイコー。日本語さえできていれば大丈夫だといえないこともなくはない。
 
残すは2つの科目群です。しかし「群」と書きましたが、リテラシー科目(基礎)に該当する科目は、筆者在学時はただ1科目のみが指定されていました。
 

リテラシー科目(基礎):多変量解析論(仮名)(2単位)

 
これは科目群の名付け方も良くないと思うのですが、この学部において「基礎」とは「統計の基礎」を意味するようです。よって統計の基礎を学べる科目のみが「リテラシー科目(基礎)」となるわけで、しかし大学院レベルで開講する必要がある統計のテーマは多変量解析しかない・・・ということだったのでしょう。正直なところ全然そんなわけないのですが。
 
さて、皆さんは「多変量解析」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。なんかこう曲線がグチャグチャっとなってるグラフとか、とにかく複雑な表とかが出てきて何言ってるかわからん、というイメージを思い浮かべられた方は大正解です。正確には正解か不正解かはどうでもよく、仮にそれが何なのか全然分からないというまっさらな状態でも、この科目では初歩、というか初手である平均やら分散やら標準偏差の説明を経てあれよあれよという間にSEM(共分散構造分析)まで丁寧に教えてくれます。4日間で。
 
誤植ではありません。4日間です。この「多変量解析論」は夏季休暇(夏休み)中に集中的に開講される科目で、1日4コマ、連続4日間で合計15コマ(2単位)分の講義を一気にぶち込まれます。企業の研修か。わしゃいつの間にかどこかの企業に就職してたんか。
 
この科目を担当する伊豆多賀先生(仮名)は非常にエネルギッシュで、寝るとか挫けるとか駄々をこねるという隙を一切与えてくれません。統計学といえば学部時代、松井田先生(仮名)の「統計学」シリーズには死にかかるほどお世話になりましたが、伊豆多賀先生も松井田先生に勝るとも劣らない熱量をその全身からほとばしらせていました。統計学って体育会系なんですね。伊豆多賀先生もきっと何か特殊な訓練を経ているに違いないです。なにしろ4コマ連続で4日間話してて、全然声が嗄れないのですから。
 
熱いぜ多変量。研究の道で勝ち残るには、多変量解析の習得をを心から希求し、ゆくゆくは正しい結論を導けるような研究者に成長しなければならないのです。
 
初回講義から3日後の最終日。心の中で泣きながらテストを終えて、筆者の手元には統計学シリーズに次ぐ血染めの、もとい永久保存版の学習ノートが残されました。
 
ちなみにこの科目が開講される教室は「端末室」と呼ばれる、とこキャン100号館のどん詰まりにして、いかにも日の光を浴びてなさそうなプログラマーが潜伏していそうな空間でした。科目開講時は別として、通常は学生の誰もが利用することができます。そして端末室に設置されているデスクトップパソコン(Win)の中にはRやSPSSやJMPといった統計ツールがプリインストールされており、もちろん使い放題ですので非常にお得です。正直持って帰りたい。通学生はもちろんeスクール生も利用可能ですので、学生の皆さまぜひふるってご活用ください。
 
と、ここでもっと説明すべきな事柄は、講義の内容と共に「夏季休暇中に集中的に開講される科目」という謎開講形態ではないかと、ここまで書いて気がついてしまいました。実はリテラシー科目(英語)でも実装されているのですが、W大では夏季休暇期間中に集中的に開講される科目に「夏季集中科目」なるそのまんまな総称を授け、意外なほど分厚いラインナップを実現しています。
 
これは例えば、夏休みの一時期しかまとまった休みを取れない社会人、あるいは学期中はゼミと研究活動が忙しくて通常開講の科目を履修できない院生への配慮、という意味合いが考えられます。加えて通常の学期中は他の大学で教鞭を執っている先生を招聘しやすく、事実、伊豆多賀先生の真の姿は中国地方の大学の教員とのことでした。中国地方て。筆者の通学距離(108km)も結構なもんだと思っていましたが、上には上がいるものですよ。
 
話を「夏季集中科目」に戻しますと、このイレギュラーな時期に開講される科目はもちろんリテラシー科目群だけではなく、一覧表に残された最後の謎、「プロジェクト科目」も多数設定されていました。
 

プロジェクト科目「福祉の視点から見た環境づくり」(2単位)

 
やたら長い科目名が気になりますが、まずは「プロジェクト科目」の意味についておさらいします。早稲田大学人間科学研究科が公表しているカリキュラム・ポリシーによると、プロジェクト科目とは「インターディシプリナリー(学際的の意、筆者注)な研究への関心や実践性を高めるプログラム」ということです。
 
・・・いや、元々学際的な視点でカリキュラム組んでたのでは?と素朴な疑問が脳裏をよぎりましたが、そういうのを重層的に学べるプログラムということでしょう。実際「プロジェクト科目」の一覧をシラバスにて眺めてみると、ほとんどの科目は担当教員が複数、それも4名やら5名居るという状況でした。指導方そんなに居て大丈夫なのかな。まあ合宿じゃないから大丈夫か。例外はありますが、同じ研究領域の先生方が相乗りしている科目が多いようです。
 
そんなプロジェクト科目ですが、開講時期が通常学期内に収まっているものもあれば、先述の通り、夏休みあるいは春休みにその時期を指定しているものもかなりありました。小見出しに挙げたプロジェクト科目も、夏休み(夏季集中科目)に指定されていた科目の一つでした。
 
シラバスの講義概要を、もうそのまま引用いたします。
 
高齢者住宅や施設、子どもの施設や遊び場について調査を行い、スウェーデンの大学・機関に最低三日間滞在し実習する見学や学生によるインタビューを行うが、現地での事象を理解することに留まらず、日本における「福祉の視点から見た物づくり」について再考する機会とする。参加する学生には、現地および国内において、関連する領域の教員・学生との討論の中でより専門性を深めることが求められる。
(福祉の視点から見た環境づくり シラバスより引用)
 
ん?ちょっと待って。スウェーデン?三日間滞在?
 
そう、これがインターディシプリナリーとかいうやつですよ。
 

いざ北欧へ

 
大学院の講義たるもの、講義内容を学ぶフィールドがキャンパスでは足りないと教員が判断すれば、四の五の言わずに現地に行くべきであるという発想は正しい。たとえそれが地球の果てでも月の裏側でも、行って帰って来られるのならそれに越したことはない。
 
「ストックホルム、来ますか?」
 
こんな感じで上野先生から水を向けられたのは、確か筆者がM1の環境適応に苦悩していた春先だったと思う。その段階で履修計画に不安を覚えていた筆者は、いつぞやの合同ゼミのノリで「面白そうですね!」と答えてしまった。実際は科目履修に至るまでの数ヶ月間、科目の担当教員を交えたミーティング、費用の目処、日程の目処、パスポートの目処など着実にこなしていったため、割と前向きではあった。筆者にとっては17年ぶりの海外渡航となるのだが、せっかく大学院まで来たんだし・・・という興味の方が勝ってしまった。確かに単位も重要ではあったが、こんなことでもなければ海外に出ることはないんじゃないか、これは見聞を広げるチャンスだべ、と思っていたふしもある。
 
本プロジェクト科目のフィールドとなるストックホルム(Stockholm)市は、言わずと知れたスウェーデンの首都であり、日本ではノーベル賞の受賞者晩餐会が行われる都市としてよく知られている。そしてストックホルムを含めた北欧4カ国(ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマーク)は「福祉先進国」と称されて久しいが、実際のところはどうなのか。それを確かめるには、やっぱ行ってみるしかないよね!というのがこの科目のテーマである。
 
担当教員はお馴染みの上野先生、藤沢先生の他、福祉を専門とされている片瀬白田先生(仮名)と伊豆北川先生(仮名)という重厚な陣容であった。言わば環境づくり(建築)と福祉の視点(福祉)の先生方の共演である。どうやらプロジェクト科目のスキームは相当に柔軟性があるようで、異なる領域の先生方でも意気投合すれば科目を設置できるとのことであった。
 
科目開始にあたり、合流場所はフリドヘムスプラン(Fridhemsplan)駅から徒歩数分の距離にあるホステルとされた。というのも筆者はまたしても社会人的都合により合流が遅れ、本来は参加者が時差調整や事前準備に費やす一日をパスすることになってしまった。17年ぶりと言いながら、なかなか命知らずな話である。
 
往復の航空チケットの調達については、トラベル子ちゃんなどでの自力検索を経て、結局JTB窓口に頼り切った。どうやら日本からストックホルムへの直行便は存在せず、隣国フィンランドのヘルシンキまで渡航の後に陸路移動か、ストックホルムへの直行便を持つ航空会社の乗り継ぎを駆使するかの二択となった。久々の海外、しかも単独移動とあって、欧州到着後に単独行動する距離は短い方が良いだろうという判断の下、乗り継ぎによるストックホルム入りを選択した。航空運賃や時刻、なんとなくの安全性などを考慮し、今回はタイ航空を選択した。成田を夕刻に発つ便で、まずはバンコクへ向かう。
 

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バンコク・スワンナプーム国際空港の夜は帳がすっかり降りて、やや濃密な湿気だけが南国の陽気を伝えてくれた。荷物検査にて飲みかけのペットボトルを没収されつつ、だだっ広い空港の通路をひたすら歩いていた。勢いで飛び立つところまでは来たが、目的地ではない国の空港にトランジットとはいえ降り立つと、なかなか旅の目的を忘れてしまいそうになり、心細さもピークを迎えた。いっそこのままプーケットに行って、バカンスを決め込んではダメであろうか。
 
バンコクを発ったのは、日本時間での午前1時か2時頃だったと思う。恒常的に夜更かししている人間の眠気は、日付をまたいだ日本時間25時くらいに正確に来る。その頃にストンと眠れればよいのだが、離陸直後の機内という特殊環境はそれを認めない。おそらくコーカサス地方上空あたりでほんの一瞬眠れた程度で、欧州時間の朝7時か8時頃、航空機は無事にストックホルム・アーランダ国際空港に着陸した。
 

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シェンゲン協定外からの入国手続きによる問答をなんとか乗り切り、空港直結の鉄道駅からストックホルム中央駅直通の「アーランダ・エクスプレス」に乗車して15分、ストックホルム中央駅(Stockholms Central/T-Centralen)に到着した。中央駅では地下鉄に72時間限定で乗り放題となるICカードを購入し、地下鉄G線から数駅のフリドヘムスプラン駅を経て一行が待機するホステルに到達した。ここまで1時間前後、科目プログラム開始の現地時間AM9時に滑り込みセーフと相成った。ここまで綿密な下調べの甲斐もあったが、国際空港から1時間かからず市内中心部に到達できるというアクセス性にも救われた。
 

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プログラム1日目はストックホルム旧市街:ガムラスタン(Gamla Stan)回遊から始まった。なんともジブリ感が漂うというか、デッキブラシにまたがった魔女と黒猫が飛んでいそうな雰囲気である。一行は昼食を経て、隣接する再開発地区の状況の視察や現地在住の日本人との交流を行い、夕刻前にホステルに戻った。ここまでは観光の延長線上という塩梅であるが、ホステル帰還後は設定されていた班ごとに発表を行うなど、大学の講義らしいプログラムも取り揃えられていた。
 
筆者はというと一連のフィールドワークこそ元気に乗り切ったものの、未曾有の長旅の疲れからかなりの疲労感であった。一方で部屋は途中合流者であることと筆者のめちゃくちゃ強い要望により1人部屋が宛がわれており、心底安心することができた。夕食はホステル内の共同キッチンにて、学生達が持ち寄った材料から各自協力して料理を用意するということになっていたが、疲労感からほとんど手を付けることはなかった。結局現地時間で陽の暮れるだいぶ前に就寝し、夜明けすぐに目が覚めた。
 

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プログラム2日目、一行は1つめの見学ポイントである小学校に到着した。配線の存在を児童に説明するためにが天板が貼られていない天井、重厚感と軽快さが同居するたぶんIKEA製のお洒落な家具、年代ごとに細かくクラス分けされながら空間自体はシームレスな点など、確かに福祉先進国の噂に恥じない前衛的な意匠が随所で光る校舎であった。そのときの筆者はというと、頭痛と吐き気で限界であった。言わんこっちゃない、時差ボケである。
 
藤沢先生「どう?楽しい?」
 
いえ、正直それどころでは・・・と言いたかったが、ここで置いて行かれるとさすがに命の保証がないので、団体行動を継続した。しかしそれも限界に達し、昼食休憩直前のタイミングで早退を申し出た。置き去りの恐怖より不調による昏倒の恐怖が上回ったのだった。また滞在2日目とあって、地図などからストックホルムの土地勘を得ていたため、地下鉄を駆使してホステルに直帰した。
 
部屋で静養を試みたが、事態はいっこうに改善しなかった。部屋は1人部屋ということで身の安全は確保されていたが、このまま回復しなかったらどうしよう・・・という思いが去来した。居ても立ってもいられず、ちょっと賑やかな共同キッチンの方に足を運んだ。キッチンでは別団体、というか別の国の大学生と思われる集団が談話しており、筆者は目立たない位置にあるソファに身を沈めていた。
 
その時視界に入ったのは、キッチンの冷蔵庫であった。こちらのセブンイレブンで調達した、小腹が減ったら食べようかなと思っていたバナナがあることを思い出し、意を決して食した。効果は覿面であった。頭痛と吐き気は瞬く間に軽減し、15分後には大学生の談話に聞き耳を立てられるレベルにまで快復した。要は低血糖であったのだ。会話の内容は全然分からなかったが、元気を分けてもらえた気分になった。そのままの勢いで、筆者はふたたび地下鉄に乗り込み、フィールドワーク続行中の一団と再合流することができた。上野先生は「あれ?」という顔をしていたが、居るんだからいっか、と興味を逸らしてくれたようだった。
 

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筆者にとって2件目の見学地は初等教育、特にハンディキャップを持つ児童を受け入れ可能な幼稚園とのことであった。壁紙や玩具がパステルカラーで彩られていて、若干目がチカチカしたが、心の深めな部分のテンションが上がるようなインテリアであった。まあテンションが上がっていたのは回復基調の筆者だけだったのかもしれないが。
 
そしてプログラム3日目、この日はふたたび市内の著名建築物巡りとなった。
 

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ストックホルム市立図書館。またしてもテンションが上がる雰囲気である。かなり頭が悪い感想なので少しだけ踏み込むと、モダニズム建築の良いお手本といったところである。やっぱり頭悪いな。日本国内でも壮麗な図書館が増えていることは増えているが、その源流ともいうべきこの図書館は100年近く前に建てられたものというから、驚きである。地震がないってうらやましい。
 

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あれ、おまいは。とこキャンに設置されているバイク事故なモニュメントじゃないか。もちろんこの銅像は断じてバイク事故ではなく、「人とペガサス」と題したカール・ミレス氏の作品で、ここストックホルムの「カール・ミレス美術館」に展示されているこちらの像こそがオリジナル版とのことだった。ちなみにとこキャンのあれは「人とペガサス」像の最初のレプリカで、2体目は箱根彫刻の森美術館に展示されているものであるという。周辺の景観は紛れもなく北欧なのだが、この画角の写真だとおそらくとこキャン生のほとんどはここが所沢だと錯覚してしまう。
 

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3日目の午後は自由時間となったため、各自思い思いの施設への見学を計画していたようだが、筆者は単身、地下鉄乗りつぶしを選択した。名所とかもうどうでもよかった。3路線しかないし加速や停車はやや乱暴であるが、筆者にとって新たな発見に満ちた極上の公共交通機関であった。これだけであと2万字は書けてしまうが、需要がなさそうなので自重する。一つだけ書くと、特に地下鉄3号線の素掘りトンネルのような通路には感銘を受けまくりであった。だってワンダフルじゃないですか。通勤経路が洞窟だなんて問答無用でテンション上がるって。
 
科目プログラムの最後は、ホステルにて班ごとの発表とディスカッション時間が設けられた。筆者の雑感としては、確かにこの街の福祉施設の充実ぶりは素晴らしいものの、歩道の段差や点状ブロック設置様態の雑さなどを見逃すことはできなかった。特にバリアフリー面の浸透・徹底度合いについて、日本は北欧と比較しても大きくリードしていると断言できる。ただしとても不思議なことに、北欧の福祉施設からは随所で温かみを感じとることができた。その実体が何であるかはもっと現場を観てみないことには分からないのだが、そこにはこの国が「福祉先進国」と呼ばれる理由の本質が潜んでいるに違いない。
 
以上、道中色々あったプロジェクト科目@ストックホルムであるが、無事に完走することができた。ギリギリのスケジュールであったため、終了後は全く他の観光地への周遊などもせず、帰路に就いた。もったいない話であるが仕方がない。ちなみに筆者より遅れて合流し、かつトンボ返りすることとなっていた他の参加者は「こんな短い日程ではるばる日本から来るなんておかしいだろ!お前何者だ!」と入管職員に疑われ、待機中は走馬燈が駆け巡っていたという。危ないところであった。
 

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もちろん帰りもタイ航空を利用し、バンコクでのまんじりともしないトランジットを経て、成田空港に無事帰還した。普通帰り道は往路より短く感じられるものであるが、十分長く感じた。時系列的には、この2日後に初の大会発表(「いーすく!」#14)を経験している。なんて強行軍だ。
 

いざ北欧へアゲイン

 
「今年はコペンハーゲンなんですけど、来ますか?」
 
絶賛サバティカル中の上野先生からこのように唆されたのは、確かM2に入る直前の研究相談だったと記憶している。あるいはもう少し前に示されていたかもしれないが、本格的に参加を検討したのは春先であった。時差ボケと地下鉄のストックホルムから一年、同じ科目への参加のチャンスが巡ってきた。
 
こう書くとこいつ単位を落としたんじゃないかと思われてしまうが、「福祉の視点から見た環境づくり」の単位(2単位)はきちんと取得していた。ではなぜ、ということになるが、もう単位なんて関係なく行きましょうという話であった。そんなことできるのかと少し驚いたが、まさゆめさんは博士課程に進学するのだし、参加は歓迎ですとのことであった。
 
実際、大学の講義は意外と開かれているものが多く、聴講や参加が事実上フリー(あるいは教員の許可があればOK)という科目も少なくない。出席やら試験やら単位取得のためのハードルが色々とややこしいのは、卒業要件となる単位を付与するにあたって不可欠な厳正さの担保にのみ意味があるのであり、言い換えればそれを気にしなければ「単位」など必要ないのである(もちろん、自由に参加できない科目もあるので注意されたい)。とはいえ「単位など必要ない」という状況に至ったことはこれまでの学生生活で一度もなく、その意味では博士課程を意識した最初の瞬間でもあったのかもしれない。
 
筆者は費用の目処、日程の目処、パスポートは前年度に勢い勇んで10年版を取っていたので大丈夫となり、やはり興味が勝った。航空チケットは今度はH.I.S.に頼り切った。
 

プロジェクト科目「ユニバーサルな視点からみた環境デザイン評価研究」

 
ありがたいことにコペンハーゲンには日本からの直行便が設定されていた。また今回は連泊系イベントとしては初めて、余裕のある前日入りにて参加することができた。もう怖いものもないので、ホステルでは当然のように1人部屋を所望した。集合場所は今回も現地ホステルとなったが、コペンハーゲン中央駅(København H)から徒歩10分程度の好立地ということもあり、筆者以外の参加者もそれぞれが工夫して集合することになっていた。
 

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コペンハーゲン行きの飛行機は羽田を11時過ぎに飛び立ち、コペンハーゲンには午後5時前に到着の予定となっていた。昼に飛び立ち、現地の夕方に到着という、なかなか身体に優しそうな飛び方である。なお羽田とコペンハーゲンを結ぶ便はSAS(スカンジナビア航空)によるもので、ほんのちょっとだけ仮眠を取れた気がした。
 

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コペンハーゲン空港は言わずと知れたデンマークの国際空港で、3つのターミナルを抱えている一大ハブ空港である。コペンハーゲン到着後、同便に乗り合わせていた参加者数名と早々に合流し、例によって空港シャトル列車にてコペンハーゲン中央駅を目指した。道中、コペンハーゲンカードと称する120時間限定の公共交通機関乗り放題のカードを入手し、移動については早々に無敵キャラと化した。もうこうなれば、残る争点は地下鉄をいかに乗りつぶすかであった。
 

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しかし一応は講義の参加者であるので、いきなりの離脱は避け、連泊予定のホステルに到着した。行ってみたところ、普通に院生と同部屋であった。話ちゃうやんけ、やっぱ重役出勤すればよかったななどと思ったが、事を荒立ててもマズいことにしかならないので大人しくしていた。幸いにもホステルは部屋、公共スペース共に綺麗で、かつ館内絶対禁酒という触れ込みであったため、田端くんのような酩酊野郎の被害に遭う可能性もきわめて低いことは安心材料であった。
 
さて、お気づきの方もいるかもしれないので補足しておくと、前年とこの年で科目名が変わっていた。この理由を藤沢先生に訊ねると、プロジェクト科目は元々3年間限定のもので、新たに申請するには科目名と目的の変更が必須であるとのことであった。結構な内部情報をさらっと書いてしまったが、要は同じ科目を4年以上継続して行うことはできず、3年経過後に科目を継続したい場合は科目名と趣旨を多少変更し、事実上新しい科目としてしかるべき箇所に申請しなければならないとのことであった。
 
たださすがに本当に何も変えないというのは制度上難しく、これを機に視察会場や行程の刷新を図ったとのことであった。またこの年から学部生も履修可能となり、単位を取得できればそれを卒業単位として算入できるように規則が改められたとのことで、上野ゼミや藤沢ゼミの学部生も多数参加していた。総じて、昨年度より遥かに活気に満ち溢れたプロジェクト科目となった。
 

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そして1日目、一行はまずスウェーデンを目指した。早速意味の分からない展開に思えるが、コペンハーゲンとスウェーデン(イエータランド地方)は関門海峡・・・ほど近くはないが、両隣の関係にある。両国は共にEU圏内であるため国境通過は容易であり、最近になって鉄道と高速道路(オーレスン・リンク)も開通していた。今回はその国際鉄道を利用し、パスポートチェックを済ませた後、対岸のマルメ(Malmö)を目指す。
 

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マルメの街並みはストックホルムに勝るとも劣らない美しさであった。しかしサバティカルを利用してこの地に半年近く滞在していた上野先生曰く、治安はストックホルムほど良くないという。近年、移民を積極的に受け入れる政策を打ち出してきたスウェーデンであったが、昨今の急速な移民流入に耐えかね、その抑制策として国境ゲートの強化策を打ち出し始めたとのことであった。そのためデンマーク出国時の身分証チェックも最近始められたという。この影響でスウェーデン側の国境都市(マルメ)に移民が溜まり、結果として治安の悪化が始まっている・・・という流れらしい。美しい都市景観からはあまり想像が付かないハードなEU情勢を垣間見つつ、一行は本日の真の目的地である学園都市ルンド(Lund)に向かった。
 

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ルンドには北欧随一の大学であるルンド大学があり、上野先生はこちらで延々と研究していたとのことであった。それにしても壮大というか、いつから大学キャンパスに入ったのかわからないくらい、街が大学そのものであった。大学では上野先生の共同研究者からの講義をはじめ、モーションキャプチャー装置の見学などで時間が過ぎていった。モーションキャプチャー装置くらいは日本にもあると思うが、大学キャンパスそのものはまさに外国の大学という趣であった。さすがにこの広大さは我等がとこキャンも太刀打ちできない。
 

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一行はルンドからマルメに戻り、市内各所の名所見学に耽った。治安の問題は現在進行形かもしれないが、街としての美しさは疑いようがなかった。こうした街はえてして突飛なものを拒絶するようなこともあるのかもしれないが、ターニング・トルソ(写真)のようなハイパーポストモダン、もういっそひと思いにねじ切ってくれ!な建築物も共存しており、決して退屈な街ではないことも伺われた。
 
市内の公園を散策していたときだった。あれは・・・
 

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ひょっとして「人とペガサス」ではないか。カール・ミレスの代表作にして、とこキャンに第一レプリカがあるというあのペガサスではないか。たしかレプリカは日本に数体あるのみで、他にはないはずなのに、どうしてここに。噂によると大学はペガサス誘致のために結構なお金を投下したらしいが、意外と本国内ではありふれてるものだとしたら・・・世の中、考えすぎてはいけないこともある。そう言い聞かせつつ、一行はコペンハーゲンに戻った。
 

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行程2日目、この日はまた奇妙だけれどそこまでやかましくない、ギリギリのところでバランスを保っている北欧の福祉関係施設見学の日であった。またしても語彙力が貧困になって恐縮だが、北欧の施設は周辺環境との調和が少なくとも日本より上手いように感じられた。一方で別の施設では「最先端の福祉機器」としてウォシュレットが紹介されたりと、個人向けの器具のレベルは日本が圧倒的に上と感じる場面もあった。ただそれは施設を案内してくれた現地職員の方も認識があるようで、「あなたたちの国はそれが当たり前かもしれないけれど、わたしたちの国はそこにやっと手が届いたという段階なの」と、なんとも殊勝に話していたのが印象的だった。しかしこの謙虚さが現場に息づいているのなら、少なくともこの施設の未来は明るい。
 

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そして行程最終日。お待ちかねの地下鉄乗り回しタイム(自由時間)がやってきた。名所とかもうどうでもいい。
 

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なに、これより先は工事による代行バス区間だと。読めないがこれは間違いなくそういうことだろう。
 

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あっちにたくさん止まってるのがそれか。貴重。コペンハーゲン郊外に朝の小手指駅が再現された。
 

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30年前の武蔵野線みたいな無骨さ。最高。
 

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コペンハーゲン市内で開通している地下鉄は2路線のみであったが、コペンハーゲンカードは近郊路線も乗り放題であったため手の届く限りの近郊路線を乗りつぶして自由時間が終了した。この件についてはあと3万字くらい書けてしまうのであるが、紙面の都合もあるので自重する。
 
以上、実は今回も時差ボケなどこっそりと色々あったプロジェクト科目@コペンハーゲン&マルメであるが、結構な数の受講者のおかげで楽しい数日間であった。総じての感想は昨年と同じく、公共の福祉において日本はかなり健闘しているという実感である。北欧というとなにかと理想郷として取り上げられがちな地域であるが、移民問題に端を発する治安の問題も含め、日本が先んじている分野も多々あると感じる。しかしそれによって日本が今後も安泰かといえば、もちろんそうではないし、ある意味でこれからの日本が直面する問題を彼ら北欧諸国は先取りしているだけとも思える。そう考えると確かに、彼らから学び取らなければならないことも数多い。おそらく北欧諸国と日本は、世界に並び立つ「福祉先進国連合」として、共に世界を牽引する役割を担うべきなのだろう。
 

プロジェクト科目:都市フィールドワーク(仮名)(1単位)

 
さて、あまりにも趣味が暴走してしまいそうになりましたので、プロジェクト科目の受講報告に戻ります。といっても最後に紹介するこの科目のテーマはズバリ「地下道探索」、筆者にとっては黙って参加していれば単位は来るんじゃないかというウマウマな科目です。
 
この科目、時系列上はM2の8月、つまり2年目の春学期の最終科目として受講しました。コペンハーゲンよりも僅かに前となるため、筆者の脳裏に比較対象として存在していた景色はストックホルムの地下鉄でした。対して本科目で取り扱う地下空間は、世界に冠たる首都圏の中心部、東京駅です。
 

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おそらくよく知られていることですが、東京駅はその四方を地下通路に囲まれています。それもすべてラチ外(改札外)の空間ですので、特に入場券を買わなくても踏破できるようになっているのです。
 
更に豆知識を追加しますと、この地下道を延々と歩くと、なんと東銀座駅前の歌舞伎座まで到達することができます。よって「歌舞伎座での観劇を済ませて東京駅に行こう、しかし雨がひどいからどうしよう」と悩んだとき、地下道を延々歩けば東京駅に濡れずにたどり着くことができるのです。
 

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更に更に余計かもしれない知識を投下しますと、八重洲地下街は首都高速道路と直結しておりまして、タクシーが横付けできるようになっています。ここから乗車はできないのですが、マイカーで人を迎える場合はやはり首都高速道路直結の八重洲パーキング(写真はその出口)を利用できます。パーキング出たらいきなり高速道路とか、色々と急ですが便利です。なんだか風格がありすぎて近寄りがたいイメージがある東京駅ですが、自動車によるアクセシビリティは意外なほど充実しています。
 
更に行幸通り地下通路の周辺部では・・・これ以上はさすがにもう読むに堪えないかなということで割愛いたしますが、東京駅周辺というのは全体が巨大なひとつの建造物なのではないかと思えるほど、上も下も人工物で満たされています。この辺り、非常に詳細に調べられている書籍やブログもありますので、興味を持たれた方はぜひ資料探索のうえの現地探索をお願いいたします。ミステリーはありませんが、ヒストリーは満載です。
 
さて、フィールドワークで与えられた課題はシンプルで、東京駅丸の内南口地下改札前の「動輪」モニュメントを起点に地下空間を一周し、その認知地図を作るというものでした。認知地図の材料となる認知を行うため、受講者は地下空間を一団となって散策します。
 

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それにしても綺麗な、スッキリした地下道ですね。さすがに古い箇所はところどころ雨だれのような染みがありますが、特に最近整備されたエリアの気品は公共空間として最高レベルだと感じます。さしもの北欧の地下道も、清潔感や高潔感はまったく及びません。ただそれでも筆者は、ストックホルムの地下道を無下にできないのです。東京は見慣れているので、やや批判的に眺めてしまうという事情もあるかもしれません。そのため異様に辛い物言いになってしまうかもしれませんが、あえて言うと、あんまり楽しくないのです。なぜそう思ってしまったのでしょう。東京と北欧の地下空間の違い。何があるのか。片や最高な地下空間。此方素敵な地下空間。
 
一条の光が差した思いでした。そっか、最高か、素敵か、か。
 
身の内の大きな課題が解決した気分になった筆者は、一層自由気ままに動き回るのでした。引率の藤沢先生はちょっと疲れていました。
 
なお課題は、認知地図もなにも、こういった事情から完全に地下空間の構造が頭の中に存在している筆者は図面を書き起こしてしまい、あんまり評価されませんでした。課題の主旨からして、たぶんそういうことじゃないんですよね。わかります。しかし信教上の理由で山手線をもはやただの真円と描けない人間なのですみません。でもですね、山手線の線型を真円にデフォルメしても、例えば品川駅を円の一番下に書くのって、合ってないんですよ。そこは昔の目黒川信号場がある位置で、その施設名はまあ重要じゃないのですが、品川駅は少なくとも大崎駅と同じy座標上に位置させないとほかの路線が綺麗にハマらないのですよ。ほら、カラオケの採点機能でオリジナルの歌手は良い点が取れないっていうじゃないですか。そういうことです。
 

プロジェクト科目、THE 大学院な科目たち

 
こうして筆者は、ゼミ「重複履修」によって埋められなかったぶんの単位数を、主にプロジェクト科目の履修によって充足することができました。余談ですが先述の東京駅探索は、院生として最後に取得した記念すべき単位となりました。
 
特に「プロジェクト科目」について改めて眺めてみると、これぞ大学院と申しましょうか、大学院という最上級の教育機関において相応しい科目プラットフォームであると感じます。むしろ必修科目をもっと少なくして、あるいは専門科目(基本的には教員が単独で担当する科目)の多くをプロジェクト科目仕様に模様替えして、もっと自由な展開を許容しても良いのではないかと筆者は強く思います。しかも人間科学なんですから。インターディシプリナリーが大事なんですから。
 
え、来年はフランクフルトなんですか? ちょっとそろそろOKANEの方が・・・



(初出:2021/01/25)

いんせい!! #16 査読論文!!

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長かった修士論文にも一応の片が付き、束の間の休息がもたらされた2017年の春。諸事情から卒業式と入学式の双方に参列できなかった筆者は、重信公像に見守られたとこキャン事務局にて修士課程の学位記を受け取った。黒い装丁の学位記は、これから飛び込むであろう闇を示しているようだった。
 

#16 査読論文!!

 
「査読論文であれば指摘しますが」
 
修論発表会での武蔵小杉先生が発したこの言葉について、まずは説明を試みようと思う。査読論文とは「査読付き論文」というそのままの意味で、同じ領域かつ筆者の研究に関与していない専門家が査読者(審査員)を務めたうえで発表された論文である。
 
世の中の文章は「論文」か「それ以外」に分けられる、と言うのはいささか雑な二分法である。小説とか新聞記事とか、その辺りの価値どう判断するのって突っ込めてしまう。しかし世の中の論文は「査読論文」か「それ以外の論文」に分けられるというみなし方は、結構な説得力がある。要は外部の人間が審査した論文と、そうと言い切れない論文のどちらがより信じられますかという話である。
 
査読論文の説明から分かるように、卒論や修論といった学位論文も厳密には「査読論文」に該当しない。査読論文が「査読付き」という語義の通りの価値を認められるには、査読を行う態勢を整備している学会や出版社への論文投稿が欠かせない。また筆者がよく拙文を投稿している日本建築学会も、主催大会が募集している梗概(大会発表原稿)は査読論文に該当しない。こちらはより単純に、査読プロセスを経ていないからである。
 
一方、社会で「論文」とみなされるものは基本的に「査読論文」のことを指すと考えてよい。またこれは専門領域によって異なるが、メジャーな出版社からの書籍刊行を査読論文と同等の実績とみなすこともあるようだ。完全なる類推であるが、出版社の編集部門が事実上の査読プロセスとして機能しているとその領域が判断しているのかもしれない。
 
ちなみにこの考え方を拡大適用すると、著名出版社から刊行された小説は「査読つき文芸作品」であるし、著名新聞社から発刊された新聞記事は「査読つき記事」、著名テレビ局から放送されたニュース映像は「査読つき映像素材」とちょっと無理はあるがみなせるわけである。昨今は色々と怪しくなっているケースもあるような気がするが、査読(編集)プロセスがアウトプットの信頼性にきわめて大きな影響を与える存在であることは現在も疑いようがない。
 
そのため査読論文の本数はほぼそのまま、研究者の実績とみなしてよい。何本の査読論文を世に送り出してきたか、あるいは何年間査読論文を書き続けているかなどはデータベースで一目瞭然である。論文内容が世界へと開示されているかという意味では言語が英語かどうかも重要であるが、日本語でも何でも「本数」があることがまずは重要である。
 
話は少し逸れるが、だからこそ既往研究への言及において「それ以外の論文」を採用することは慎重になるべきである。これまた単純な話、内容が信頼に値するかについて第三者の誰も判断していない記事を鵜呑みにするのは迂闊だからである。しかしそれでも「それ以外の論文」を引用したい場合、その研究者の実績(査読論文や書籍など)を確認することで別の判断を行うことができる。
 
これは例えば原稿が大会発表の梗概(査読なし)でも、発表者が査読つき論文を定期的に書き上げている方なら、まあまあ信頼できるのかな、という情緒的な話である。出版社や新聞社についても、基本的には社名の下に同じ信用があると考えていくべきだろう。昨今は相当に色々と怪しくなっているケースもあるような気がするが、みんな大好き虚構新聞さんでも誤報を連発してしまうような難しい時代なのだから少し労ってあげてほしい。話を戻すと理想的にはやはり、参考とする既往研究は査読あり論文を軸とすることが望ましい。
 
いずれにせよ卒論と修論と大会発表複数本を積み上げた筆者の、研究者としての現時点での実績はどうなるかというと「ほぼゼロ」である。さすがにまったくのゼロというと学位の重みも無視することになるので過小評価と思うが、それよりも査読論文が1本あるかないかは大きな差がある。なにせ、社会が「論文」とみなすようなものは1本も出していないのだから。せめてもの慰みにカジュアルな比喩を用いると、試合に出てシュートも何本か打っているけどまだ得点は決められてないよねということである。
 
はい、だから頑張りましょう。博論どうこうの前に、実績を残しましょう。
 
以上は筆者が博士課程1年目を迎える直前のタイミングで、査読論文とは何ぞや、という初歩的な問いについて、助手の山北先生や共同研究者の辻堂先生に訊いた結果をまとめたものである。特に辻堂先生は何を訊いても全方位的にディスるので辟易していたが、絶対に論理破綻を許さない熱血グリズリーゆえ仕方がないと途中から諦めた。とりあえず大変なところに足を踏み入れちまったのは間違いない。
 

博士後期課程おさらい

 
ここまで長くする必要はなかった気がする査読論文の説明を経て、博士後期課程(「博士課程」表記も意味は同じ)のカリキュラムを紹介しよう。これももう大学院ウェブサイトの説明が単純明快なので、そちらを引用させてもらう。
 
博士後期課程の修了要件は、通常3年以上6年以内在学し、論文作成のために必要な研究指導を受けた上、博士論文の審査および試験に合格しなければなりません。合格者には「博士(人間科学)」の学位が授与されます。授業科目について必要な単位はありませんが、指導教員の指示により、修士課程の授業科目を履修しなければならない場合があります。(早稲田大学大学院人間科学研究科ウェブサイト「カリキュラム」より引用)
 
これだけである。実際に確認してもらって構わない。修士課程(2年制・1年制)ではより少し詳細な表が示されていたのに、である。これはなにも省略しているのではなく、これがすべてなのである。
 
それでもあえて細かい部分を解説していくと、もっとも目に付くのはこの一文ではないだろうか。「授業科目について必要な単位はありません」。ないったらないのである。必修科目も選択科目もプロジェクト科目も、修了に必要な単位ではないのである。
 
これはつまり、学費を3年間納めれば修了のための単位的要件が揃うことを意味する。お金か。お金の話なのか。説明文にはその後に「担当教員の指示により~」と注釈めいた一文がくっついてはいるが、いずれにせよ数字としての「必須○単位」といった目安は一切存在しないのである。
 
では何が事実上の学位授与条件かといえば、言うまでもなく論文の審査である。てか、もうそれしか残されていない。事態はここに及んで、この上なくシンプルになったといえよう。博士論文が合格しさえすれば、博士号取得である。そしてW大の場合、博士論文の提出には「筆頭著者である査読論文2本の添付」が必須条件となっていた。
 
やっとここで短い伏線を回収することができたが、査読論文の実績は博士論文提出の前提条件なのである。いやちゃんとカリキュラムのところに書いておけやと思ったが、これがまたややこしい話なので機会があれば補足しようと思う。
 
なにはともあれ、博士課程での目標は早々に決まった。査読論文を2本書いた上で、博士論文を提出するのである。どうやって?とかいつまでに?とか、そういうのはこれから分かっていくだろう。ちなみに博士後期課程の「前期」はどこいったという部分であるが、これはお察しの通り修士課程が「前期」に相当する。気になる方は「区分制博士課程」という用語を検索して事態を把握してもらいたい。
 

査読論文の説明、ふたたび

 
現時点ではこれ以上博士課程について説明することもないので、当座の目標である査読論文の執筆プロセスに話を移す。共同研究である筆者の場合、まず決めるべきは「著者順」である。
 
査読論文に限らず、共同研究の成果報告は連名となることが自然である。その際に(適当にしておくと)問題となるのが、貢献と実績の配分である。一般的に考えて、3人いれば貢献度が3分の1ずつという風にすんなり割り切れることは少ない。たいていの場合は主役と脇役、お目付役といった形で貢献度合いや役割が異なっている。それをどのように明示するかについて、多くの学会では「著者順」をその指標としているようだ。
 
筆者がこの後査読論文を投稿する日本建築学会の場合、大雑把に以下のような貢献順とされている。
 
1番目・・・執筆者。研究の中心にいた人
2番目・・・研究に大きく貢献した人
3番目・・・研究にそこそこ貢献した人
最後尾・・・お目付役、あるいは指導教員

 

内情は研究当事者のみが知りうるものであるが、少なくとも1番目=執筆者というのは事実上のルールとなっている。実は先述の博士論文提出要件の説明にて「筆頭著者」としれっと書いているが、筆頭著者=1番目である。仮に筆者(博士課程)が単独で研究を行っていて、査読論文を発表した場合は
 
まさゆめ(←筆者)、上野先生(←指導教員)
 
という著者順となる。一方共同研究においては、誰を筆頭著者とするかを当然合議しなければならない。幸いなことに筆者の場合、
 
辻堂先生「まさゆめさんの研究ですし、博士課程ですから1番目でいきましょう」
 
この一言によって問題なく筆者が著者順1番目かつ査読論文執筆者となることが決定した。ありがとうみんな。辻堂先生もグリズリーとか言ってごめんなさい。1本目の論文は、貢献順などを吟味して最終的に以下の著者順となった。
 
まさゆめ、辻堂先生、羽田さん、今市さん、上野先生
 
なおこの著者順システムは学会ごとに異なっているようで、例えば最後尾に指導教員を置かないケースもあるようだ。それぞれのしきたりもまた学会や分野それぞれの尊重すべき歴史でもあるので、ここでは「論文の著者順には何らかの貢献順が暗示されている」ということだけ理解して欲しい。
 
また研究実績の評価方式について、筆頭著者の論文本数だけを評価する場合、2番目や3番目でもそれなりに評価する場合、どの順番でも名前が乗っていれば「1本」とみなす場合などこれまた多岐にわたっている。もしこのコラムの読者が将来的に研究実績を心配するような立場に置かれたら、実績の評価方針については絶対に誤解しないよう何度も確認することを強く推奨する。
 

ついでに査読システムもおさらい

 
続いてまたしてもガチガチな話となるが、学会の査読システムについてもおさらいしておこう。といっても細かく説明するとかなり複雑であるため、本質的な部分のみ箇条書きで示す。
 
・査読者は2〜3名
・査読者は投稿された論文の分野を専門領域とし、かつ当該研究に関与していない専門家が任命される
・査読者は「採用」「不採用」のほか、一度だけ「再査読」と判定できる
・査読者(実名非公開)2名の「採用」判定で論文集への掲載決定
・一方で2名の「不採用」判定で論文集への掲載見送り
・査読者は最初は2名のみ任命される
・3人目は、必要な状況が生じたとき初めて任命される(つまり2名分の判定で白黒がついたら3人目は登場しない)
・「再査読」判定を受けて返却された原稿について、執筆者は一定期間内に再提出すれば「再査読」判定を返してきた査読者の再査読を受けることができる
・再提出に際して、執筆者は査読コメントへの回答票を用意する

 

詳しくは日本建築学会のウェブサイトに要領が掲載されているが、絵心あるどなたかによりわかりやすいインフォグラフを作ってもらいたいと思うのは筆者だけであろうか。このようなややこしいシステムを採用している具体的な理由は不明だが、おそらく人的リソース(査読要員)の節約と掲載論文品質の確保を両立させるための苦肉の策と考えられる。単純に考えれば最初から「査読者3名の多数決方式」としていればよいと思うが、確かにそれだと人数を消費する上にフリーライダー(残り2名が判断するから自分は適当でいいっしょ)を生みかねない。それが現行方式によって、形の上ではすべての査読者が責任ある判断を求められる。この方式のオリジナルがどこにあるのかは調べていないが、知恵者が集うと知恵のある方式ができるものだなと感心した。
 
ただ結局査読システムがどうあれ、執筆者として取り組むべきことは変わらない。「再査読」という再チャレンジ指令が出たときのみ、再提出の機会があるという風に捉えておけば問題はない。また「言うてもそんなに不採用にはならんでしょ」と淡い期待を寄せたくもなるが
 
辻堂先生「それは甘いです。自分も厳しい判定を行ってきましたので」
 
マジかよ、おぬしも向こう(査読者)の人間だったんかい。個々の論文の査読者の氏名は査読決着後も完全非公開であるものの、正会員かつ研究実績を持つ専門家はかなりの数の査読依頼を受けているとのことであった。ということは結構な確率で、知り合いやそのお弟子(学生)さんの論文も査読してしまうのでは?と訊ねると
 
辻堂先生「全力でとぼけます。しかし急に『厳しい査読来ちゃったんだよね~』と探りを入れられるとドキッとします」
 
とのことであった。バレとるやないかい。
 

査読論文の1本目を通すということ

 
さてここまでグダグダと査読論文の仕組みについて書き連ねてみたが、D1(博士課程1年目、ディーいち)での至上命題はまさに「査読論文1本目を通す」ことであった。共同研究者に背中を押された以上は書くしかないし、しかし勝手に執筆して投稿するのも道義上あまりよろしくない。なにしろまだ1本目を通していない身分であるから、有識者のアドバイスは受けられるだけ受けた方がよいに決まっている。
 
そういう覚悟において共同研究者全員に原稿の回し読みをお願いしていったところ、これはもうお見せするわけにはいかない。赤でチェックどころか、赤しか見えない有様が結構な期間続いた。冗談抜きで、査読より査読された。
 
どうしてここで論理を飛躍させるんですか。この書き方だと質問項目がダブルバレルではないかって捉えられますよ。どうして背景で批判した現状を鵜呑みにしたような実験計画の説明をするんですか。引用してきたこの資料の内容は本当に参考としてよい内容なのですか。ああああもう全部いっぺんに言うでないわかんなくなっちゃうじゃないかもうずっとよくわかんないしすぐわかんなくなるのに!
 
ただ臥薪嘗胆の甲斐あって、一般的に簡単ではないらしい1本目の査読論文は再査読のち再提出にて掲載が決まった。投稿を春先に行って夏場に最初の判定結果が返り、掲載決定の一報は秋口だったと記憶している。そのすべてのセクションで主に辻堂先生の手厳しく緻密な指導が入り、非常に辛く長い日々ではあったがその果てに確たる成果を出すことが出来た。税務署より遥かに手厳しい税理士を雇ってしまったようなものである。大変な幸運だったと思う。
 
査読論文を書き終えてみて理解したことは、学位論文でできていたつもりのロジックはロジックではなかったということである。とんだ笹好きジャイアントツキノワグマであった武蔵小杉先生の、修論審査会での指摘が改めて思い出される。そして査読論文とは、これまで出会ってきたクマさんたちと対峙するということでもある。長泉先生のような、武蔵小杉先生のような危険きわまりない猛獣が世界にはあと何千頭も居るに違いないのだから。
 
まあちょっと冷静に考えれば、論文集たるものクマさんどうこうではなく激ヤバの専門家しか読みそうにないものである。中途半端なものを掲載して無事で済むわけがない。たとえばもしあなたがどなたかの大ファンであるとして、その人を特集した記事がえらく雑なものであったら、おそらくあなたはひどく不快に思うだろう。論文に掲載するということは、その比ではないレベルの人々に無用な怒りを覚えさせないように準備しなければならないということなのだ。恐ろしい話である。でも気持ちはよく分かる。
 
一方でここまで徹底的に精度を上げれば、世界は耳目を開いてくれるという手応えもまた得ることができた。学位論文はどちらかというと時間切れとの戦いでもあり、限られた時間の中でいかに煮詰めていくかという側面があることを否定し得ない。対して査読論文は毎月の編集業務上の締め切りこそ設けられているが、事実上いくらでも伸ばせてしまう。ゆえに学位論文や連載原稿にあるような締め切りブーストは適用できず、どこでゴールと見なすかは難しい部分がある。それでも「論文品質の到達点」があると知ることができたのは、とても大きな経験となった。
  
辻堂先生「博士論文にはあと1本ですね。引き続き頑張りましょう」
 
来たるべき博士論文を書き上げるには、どうやらこの道を走り続けるしかなさそうだ。雨はやがて上がる。本当の笑顔はそのときに出ればいい。
 
 
 
(初出:2021/01/26)

いんせい!! #17 先生!!

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ハッピーバースデー!のかけ声と共に炸裂するクラッカーと拍手。ケーキ片手に満面の笑みな上野先生。6月上旬の上野先生の誕生日に合わせて、毎年の4年生が趣向を凝らしたお祝いを催すのでした。

 

#17 先生!!

 
学業にせよサークルにせよ、学生の毎日は変化の連続です。否応なしに新しい決断を迫られていては、疲れても老け込む余地はありません。春を迎えて夏を過ぎても、前の年の秋がどうだったのかという経験なんてあまり鵜呑みにできません。しかしそれも3ループ目くらいになると、だいたい読めるようになってくるのもまた人間の習性です。
 
筆者にとってD1の春は、初めて来る場所よりもいつか来た道と感じる刹那がはるかに多く感じられた初めての年でした。だいたい梅雨空が予感されるあたりで、学生は先生の誕生日に何を催すか考え始めます。3年ゼミの行動観察課題では、積極的に取り組む人とそうでもない人がくっきりと分かれることがほとんどです。先生も先生でだいたい春先に「新しいことやろう」と突然思い立ちますし、夏前にはその意気込みなどなかったかのように例年通りの方針を踏襲したがります。
 
喜怒哀楽も春花秋月も、何もかもが乾いていました。毎年入れ替わる学部3年生との年の差は、筆者の加齢も伴って飛び石的に開いていきます。幸いにも後進の院生(M1籠原くん、M2大森くん)も育ち、運営仕事もゼミでの居場所もあるようでないようになりました。残されたのは博士論文完成までの果てのないタスクと、不定期にもたらされた学部生への相談機会だけでした。
 
こうした境遇に追いやられたのは、筆者がその先を特に見据えていないことが大きかったと思います。博士課程にまで進学した学生は、そのほとんどが教職あるいは研究職の獲得を目指しています。特に教職を目指すとなれば、大学の様々な業務を任されることもあるわけです。例えば共同研究チームの今市さんは企業の研究部門へ就職を果たし、藤枝さんは学籍を持ちながら武蔵小杉研究室の助手に任命されていました。
 
しかし筆者は、なにしろ社会人学生であるためその先のビジョンを持つことは難しい状況でした。転職まで想定すれば話は変わるかもしれませんが、ポスドクの就活もまた厳しい情勢であることはさすがに把握していました。しかも今の仕事は、院生としての知識と経験を生かせる可能性があるとすら踏んでいました。みんながんばってね、わたくしはやりたいことやったら終わりだからさ。ある意味では余裕が過ぎて鼻につくところですが、それによって院生としての潤いがここまでなくなることはさすがに想像できませんでした。
 
とはいえその当時も今も、自分が間違った進路を取っているとは考えていませんでした。同じような景色が繰り返されているにせよ、全く何も起きていないということでもなかったからです。後輩の院生たちは丁重に接してくれましたし、ちょっと面倒だなという仕事は率先して片付けてくれました。特に11期で薄めの印象だった籠原くんは、生ゴミ処理機のごとくどんな形のタスクも飲み込んで片付けてくれました。現状への乾きを感じていながら、現状を大きく変える決断もまた選択肢たり得ないのでした。
 
「博士課程は長いマラソンだからね」
 
思わせぶりにこう教えてくれたのは、絶賛サバティカル中の藤沢先生でした。その意味が当初はよく分からず、まあ休み休み行けばいいんでしょくらいの捉え方でした。しかし月を追うごとに、マラソンとしか言いようのない状況に置かれ続けていることに気付き始めました。そこに環境情報を補足するならば、周りは砂漠でした。地底探検に準えるならば、もう無線も通じないほどの深い暗闇です。
 
「もうちょっとちゃんとゼミに来てくださいよ」
 
霞のような実体のない悩みに取り囲まれていたとき、珍しくこう諫めてきたのは上野先生でした。もう単位も何も関係ないので、いつの間にか学部ゼミに顔を出さない日が増えていたように思います。上野先生的には、遠いのは分かるけどもうちょっと顔を出して欲しいとのことでした。実際のところ、修士課程の2年間で身体もかなり疲労が蓄積しており、その影響も多分にあったのだと思いますが、ゼミ長にそう言われてしまっては立つ瀬がありません。気を取り直して、もうちょっとできることを考えてみましょうか。
 
博士課程の院生という立場を俯瞰しますと、ある意味では学内最強の立場といえます。よそのゼミに顔を出せばやたら歓待されますし、行く先々の先生方も少なからず興味を持ってくれます。ほとんど活用機会はなかったのですが、図書館の入館時間も特別に優遇されていました。当然ながら大学は学ぶところですので、学びや研究目的という理由がつけば本当に色々とできるのです。
 
そんな博士課程というレアステータスで最もありがたみを感じたのは、あらゆる先生とのコンタクトが劇的に容易であるという点でした。
 
突然また過去語りになってしまって申し訳なく思いますが、筆者にとって先生という存在は仇敵でした。小4の担任の先生は児童に対して人権蹂躙としかいいようのない罵倒を毎日続けるような問題教師でしたし、中学時代の数学教師はあらゆる暴力的手法で因数分解を解かせようとしてきました。
 
もちろんお世話になった先生方の中には、その立場に託された責務をしっかりと果たされた方も多くいたことでしょう。しかしその中の一部にでも賛否両論以前な問題教師が混ざると、先生に関するあらゆる思い出を「もはや呼び起こすに相応しくないもの」として反射的に遠ざけるようになってしまいます。百歩譲って熱血漢な体育教師ならまだしも、数学の誤答でケツバットとか間違えた者同士でキス強要とかどう考えてもおかしい。当時は笑うしかなかったけれど、笑うしかなかったのも申し訳ない。
 
かのように歪んだ認識でいっぱいの筆者にとって、先生という存在は非常に厄介なものでした。それがeスクールという(殴られないという意味で)絶対安全な状況や修士課程というちょっとだけアッパーな立場を経て、今やっと先生という立場の人を正面からリスペクトできる状況になったのでした。
 
上野先生「このイベントのあとに先生方との飲み会ありますが、どうします?」
 
そして全く飲めないくせに、この種のお誘いは密かにとても楽しみなものでした。
 
 

名物先生列伝(1)西千葉大学(仮名)のヒグマ、用宗先生(仮名)

 
「こんな論文通せるか!って言ってやったんですよ!」
 
いた。クマさんいた。これまで何人も紹介してきたクマさん一味の中でも、最強レベルのヒグマ先生を見つけたのはとある学外でのワークショップ後の打ち上げでした。
 
酒の席というのはネタが飛び交う部分も多分にあり、それもまた楽しさのひとつです。上司ぶん殴ってやったんですよ!と息巻いていても、本当はそこまでやっていないと分かっていながらみんな聞いているのです。しかしここまでお知らせしてきたクマさん一味は、本割でも酒席でもガチでした。昔の剣豪に準えますと、育ってきた弟子といきなり真剣勝負して斬っちゃうタイプです。
 
まあ論文通す通さないの話は正直よく分からなかったのですが、相槌を打っていたのが武蔵小杉先生でしたのでたぶんガチでしょう。この人達が通さないって言ったらたぶん本当に通さないんです。西千葉大学所属のヒグマ先生こと用宗先生は、武蔵小杉先生と同門の先輩にあたるとても偉い先生です。ヒグマ呼ばわりしていたとバレたら、筆者は今後1本も論文を通してもらえなくなるかもしれません。
 
へー、まさゆめさんのお仕事は僕も興味あります。ありがたいことに、用宗先生は筆者のことを割と早い段階で覚えてくれました。本当なら研究内容で覚えさせなければいけないのですが、この際きっかけは何でもよいのです。筆者が自らの研究のことを説明すれば、曰く「辻堂くんも、立派になったよねえ」。あのグリズリー辻堂先生をして、この言いようです。国内外に散っているらしいクマ一味の中で、どうやらこの用宗先生が一番年上かつ豪傑だということも分かってきました。どうやら若き日の辻堂先生も、用宗先生にはひたすら切り刻まれてきたようです。
 
さすがに年齢を聞くことはできませんでしたが、壮年の武蔵小杉先生より年上とあれば結構な妙齢です。しかし闘争本能は全く衰えていないようで、その打ち上げで同席していた若い先生を捕まえてはこう言い放つのでした。
 
「そうだなー、討論仕掛けちゃおっかなー」
 
 

名物先生列伝(2)茗荷谷大学(仮名)の子グマ、新川崎先生(仮名)

 
「えええー止めてくださいよほんとー」
 
ちなみに「討論(を仕掛ける)」というのは、発表された論文に送りつける公開質問状のようなもので、日本建築学会の場合、投稿論文の月刊誌の巻末に質問・回答が一挙掲載されるシステムとなっていました。早い話が血祭りにあげてやるから表出ろ宣言で、発表者はなんだてめえ調子乗んなコラと全力で迎え撃たなければいけません。討論の内容が論文掲載の可否に影響を与えることはないようですが、著者にとって余計な仕事がひとつ増えることは確かでしょう。今回、酒席でそう宣言されたのは新川崎先生でした。
 
新川崎先生はクマさんファミリーの期待の若手で、すでに茗荷谷大学での常勤職を得ている俊英です。実はこのときのイベントでは、発表者の一人として堂々とその役割をこなしていました。ちなみにイベントの司会者は辻堂先生で、筆者は強引に質問をひねり出させられては嫌な汗をかいていました。
 
また新川崎先生が専門とされる研究テーマは、筆者のテーマと相当に近似していました。近似しているといっても何から何まで全く同じということではなく、フィールドが同じというだけです。同じテーマを探究された先人として、気をつけるべき点はないかなどを訊かせてもらいました。ちなみに茗荷谷大学は、狂気のテディベア長泉先生の本拠地でもあります。歴戦のクマさんたちの薫陶を得た新川崎先生も、ほどなく一人前の大クマに進化されることでしょう。
 
その後も宴は終始大盛り上がりで、やっぱり浴びるのは血じゃなくて酒なんだななどと思いながらあっという間に夜は更けていきました。
 
「えええー私はどの電車に乗ればいいのかしら」
 
打ち上げが終わり、それぞれの家へと向かう電車にそれぞれが散る中、新川崎先生は通勤経路にもかかわらず5歳児レベルの発言を残して帰っていきました。どんな鬼才でも酒の前ではファミコン以下の知能になるって、何だかホッとしますよね。
 
なお討論ですが、少なくとも誌面上では行われませんでした。二人ともそのことを忘れてしまったのでしょう。めでたしめでたし。
 
 

名物先生列伝(3)日立大学(仮名)のグリズリー、辻堂先生

 
というわけで、共同研究者でもある辻堂先生もよく打ち上げでご一緒しました。論文のどんな小キズも見逃さない彼ですが、普通の場では普通の人でした。
 
複数の席において本人が打ち明けた限りで総合しますと、そのキャリアは波乱の連続でした。この国におけるアカポス(アカデミックポスト。任期のない教職または研究職)の競争の過酷さはよく知られていることですが、実際の競争は院生時代から始まっているといえます。
 
なにしろ当人がそれを望んでいないゆえ具体的な内容は伏せますが、院生時代は理不尽な事態の数々に悩まされていたようです。結局は研究職への就職を果たすも、教職への強い思いを捨てきれなかったとのことで、筆者が出会った年から2年後、待望の大学教員の座を射止めることになりました。
 
言うは易し聞くのも易しなのですが、このキャリアを歩むこと自体が並大抵ではありません。同時にこれだけ教職へ強い想いを抱いてきた秀才が、直線的に希望のポジションへとたどり着けなかったという現実は、世間は厳しい、の一言で果たして済ませるべきことなのでしょうか。
 
その生い立ちをうかがって初めて、辻堂先生が獰猛なクマさんである理由も推し量ることができるようになりました。シンプルな話です。クマさんにならなければ生き残れなかったのです。そしてこれからも、なにくそと研ぎまくった強烈な爪で己の道をこじ開けるしかないのです。
 
辻堂先生は間違いなく世界に通用する逸材です。その先のことは筆者にはよくわからないですが。その大きめな声と威勢で、どんな形でも道を切り開いていくことでしょう。
 
「そういえばこの前スペインで、空港の係員に軽くクレームつけたらいきなり警備員に拘束されましてね。危なかったですよーびっくりしました」
 
うん、そこは無理に切り開かなくて本当に良かったと思います。
 
 

建築の多義性とクマさん一味がクマな理由

 
さてこのコラムでは延々とクマクマ言われ続けているクマさん一味ですが、そろそろちゃんと種明かしをした方がよさそうです。ただしそれにはまず、建築なる研究領域の多義性について説明しなければなりません。
 
サバティカルでドイツに高飛びした藤沢先生によると、「建築学会」に相当する学会はドイツに見当たらないとのことでした。あくまでメジャーなコミュニティーとして存在しないだけの可能性もありますが、ここまで複数の領域を包含する学会は存在しないという意味です。
 
この事例が示すように、建築というのは学術的には相当な多義性を持つキーワードであることが分かります。家を建てるためにどんな材料や設計が良いかを考えるのも建築ですし、家を建てる都市はどんな環境や都市計画が相応しいか考えるのも建築です。現在の建築学会では「構造系」「計画系」「環境系」の3分野があり、それぞれで論文集を発行しています。ちなみに建築学会の論文集は別名「黄表紙(表紙が黄色いから)」とも呼ばれており、3分野の論文集の表紙は微妙に色味の異なる黄色となっています。
 
そんな区分けがあるという認識を全く持たない状況から、筆者が立ち入ってしまった分野は「計画系」「環境系」でした。むしろ事前に分かっていたら、早くから「こっち!」と見切っていたかもしれません。一方これ以降、「構造系」については言及しないこととします。
 
次に筆者の周辺にいらっしゃる先生方が、どちらかというとどちら側の人間かについて紹介します。
 
どちらかというと計画系
上野先生、藤沢先生、烏山先生、赤羽先生
どちらかというと環境系
武蔵小杉先生、辻堂先生、用宗先生、長泉先生、新川崎先生

 

やっとこれでクマさんの素性が明らかになってきたというか、モロ出ししてしまいました。このコラムの中でのクマさん一味とは、「どちらかというと環境系」な先生方です。
 
はてさてそうなると、両者を隔てるものは何かについて説明しなければなりません。結論から言いますと、人材間の垣根はありません。どちらかというと環境系の先生方も、計画系の論文を投稿する(あるいはその逆という)ことはあります。あくまでホームグラウンドはどちらか、程度のものです。一方で定義の上では「都市計画やデザイン→計画系」「都市環境や生活環境→環境系」といった区別が可能ですが、より雑に示すなら計画系:実地・実学環境系:実験・科学と示すとよりイメージできるかもしれません。
 
両者のうち包容力が高い分野は、どちらかというと計画系です。画期的から総括的なものまで、多様な研究論文が毎月投稿されています。その統一的な規範は、筆者が感じた限りでは「より新しいか」です。その見地は新しいか、その計画は新しい(結果を生み出すもの)か、そのレビューは(これまでにない切り口という意味で)新しいか、といった実学的な見地です。
 
一方で、環境系の統一規範は「より正しいか」です。その実験の手続きは正しいか、そのコレポンの解釈は本当に正しいか。理系の領域からすれば至極当然なスタンスと思われますが、より科学的な見地です。もちろん計画系の研究でも正しさ、環境系でも新しさは当然のように望まれますが、研究を立脚させる大前提の部分にどちらの信義を優先させているかとなれば、このような言い方をするしかないかなと。
 
それゆえ計画系の論文を読解する基本姿勢は「新しい部分は何か」となる一方、環境系は「正しくない部分はないか」となりやすくなるのです。ちなみに性格判断をするなら、この章の説明を「おおっ!」と思われた方は計画系の、「本当に?」と思ってしまった方は環境系の素養があります。文系と理系とまで言っちゃうとやや角が立つのですが、まあそれでもいいです。
 
新しいか、正しいか。これはもう「東大か京大か」「CanonかNikonか」「居飛車か振り飛車か」「キノコかタケノコか」「シングルロールかダブルロールか」という程度に相容れない正義の衝突で、両陣営間には独特の緊張関係が育まれます。
 
建築学会において、歴史上ずっと優勢なのは計画系のようです。それは論文の出稿数からも一目瞭然で、年会費も仕方ないなと思えるくらいには分厚い論文集が毎月届きます。一方環境系は、なかなか論文集が厚くなることがありません。この点、辻堂先生も「後進がなかなか育たないんですよ・・・」と嘆かれていました。
 
そらそうやろ。手当たり次第血だるまにしてたらそら今時の若者は逃げるに決まってますよ。しかしクマな人・・・環境系の人たちは、正しさを全力で疑うという科学的スタンスを捨てることは絶対にできないのです。正しくないかもしれない知見を、信じることがどれほど愚かで悲しいことであるか。しかし悲しいかな、自らの価値を世間に示そうとすればするほど瓦礫もまた増えていきます。そしてその行く先々に、吹けば飛ぶような骨組みの論文っぽい何かを抱えた学生や院生がアホ面で佇んでいます。そんなカモネギ集団の中に、筆者もいました。
 
 

彼らが攻撃しているものは

 
これだけ近寄りがたいクマさんたちに、過去の記憶から「先生」へのバイアスが掛かっている筆者は相性が悪すぎると思えます。しかし結論として、筆者は(内心だいぶキレてましたが)その点は乗り越えました。それは彼らがどんな状況でも、攻撃対象を「人」ではなく「人の仕事」としていたということに気づけたからです。
 
少なからずの人が抱く先生のイメージは、技能の伝達者、社会や人としてのルールの伝道者、精神的な支えとなるカウンセラー、その他諸々が包含された、いわば総合商社的教え手なのではないでしょうか。しかし特に高等教育ともなれば、特に技能の伝達は高度な専門性を持つようになり、その人にしか教えられないし、その人はそれだけを教えればよいという状況が一般的となります。
 
それでも人の持つ先生のイメージは簡単には変わらず、かつ高等教育の教員側も求められれば応えてしまう高い能力を持っている方が多いため、単なる技術指導の枠組みを超えた部分にまで踏み込む、というような教え方を選択される先生も少なくないでしょう。確かに「他の学園祭のイベントに出るのでゼミ休みます」とかいうメールを送りつけてくる学生に対して、きちんと指導しなければいけないと感じるのは当然です。
 
だからこそわかりづらいのですが、それでも研究に関する指導において彼ら(クマさんもそうでない先生も)の矛先は徹頭徹尾その仕事のみでした。たまに口がすべることもあった気がしますが、すべっただけだなということは受け手はすぐ分かるものです。模型課題にて提出された作品の一部をブチブチとむしり取る伝統も、ほどほどにした方がいいとは思いますがこれも「人の仕事」だけを批判しているわけです。論文を全否定してやるとやかましいのも、このままでは倒壊の危険があるから一回やり直そうと言っているだけなのです。
 
だからこそこれからアカデミックな世界を目指そう・・・と思っていたけどうっとうしい先生ばかりだから止めようかなと思った若人の皆さんにおかれましては、素晴らしい先生は君自身ではなく君の仕事だけをあげつらっているということにどうか気づいてください。あなたの心は、強くても弱くてもよいのです。無理に鈍感である必要はないですし、筆者なんていまだに木綿豆腐レベルのメンタルです。それでももし今あなたに対して影響力のある先生が、どう考えても君自身への攻撃を行っているとしか解釈できないのであれば、それはもう不幸なことなので、より素晴らしい先生を見つけた方がよいです。ただし世界には君の残した仕事だけを正確に狙い撃って、君自身の技術と矜持を高めてくれる先生が必ず居ます。少なくとも、筆者が大学院入学後に出会って親睦を深められた先生方は全員そうでした。そんな先生を見つけるために、もうちょっとあきらめないでもらえませんか。
 
欲を言えば、できればクマさんの後継者を目指してもらえるとクマさんたちが泣いて喜びます。絶滅の危機に瀕している彼らを、どうか救ってあげてください。
 
○○先生「計画系なんて、全然できてないですからね」
 
ほらまたそんなこと言って。もうマリオカートで決着つけましょうや。
 
 

名物先生列伝(4)都の西北大学(仮名)B地区の百獣の王、松井田先生

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名物先生だいたいクマ一味という状況になってしまいましたので、もう少し毛色の異なる先生を紹介したいと思います。この文脈で毛色って書いても、あんまり意味が変わらなさそうなのが怖いところですが。
 
お次はトトロの森、都の西北に位置する都の西北大学所属の統計学の先生のご紹介です。仮名でも見覚えあると思われた方は、その記憶力を他の分野で生かしてみてはいかがでしょうか。eスクール「統計学」にてお世話になった松井田先生に、ついにお目に掛かる機会を設けることができました。
 
筆者が松井田先生の研究室を訪れるきっかけとなったのは、facebookで先生が出された問いに筆者が秒速で答えたからでした。たぶん出題に大した意味はなかったのだと思いますが、その縁によって研究室特製クリアファイルをもらうことができました。
 
実物の松井田先生は画面の中とほとんど変わらず、笑顔の似合う素敵な先生でした。本来のご専門は「感性工学」で、研究室にはルンド大学でみかけたモーションキャプチャーが置いてありました。さすが環境が世界標準のゼミは、持っているものも目標も桁違いです。研究室たるもの、これくらいの意気込みが必要なのかもしれませんが。
 
ちなみに松井田先生の研究室は、学内で「B地区」と呼ばれる離れ小島の建物(110号館)にあります。周囲は完全なる自然環境で、まさにワールドスタンダードなロケーションを誇っています。難点があるとすれば、だいぶ前の回で書いたようにアクセスが大変です。実際この時の訪問でも、起伏のある道を10分程度歩きました。日々の通勤、大変ではないですか?と訪ねると
 
松井田先生「いや、最寄りの狭山ヶ丘駅から歩いてこられますよ。45分くらいで。近いよね。(作業中の院生に)ね?」
 
作業中の院生「はい」
 
さすが世界基準の研究室はスケールが違いました。45分は徒歩。言い訳は聞かない。研究室の更なる躍進を確信した瞬間でした。
 
 

名物先生列伝(5)都の西北大学 心理学の鑑真和上 小山先生

 
小山先生は、筆者が修士論文の副査をお願いした縁で知り合った先生です。ちなみにW大学人間科学部は研究領域を8つに分けていますが、小山先生などが所属する一派は上野先生らと同じ「人間行動・環境科学研究領域」にあたります。早い話が、建築と心理は同じ船ということです。
 
小山先生のご専門は認知科学、生態心理学です。結果的に筆者の研究テーマにも大きく関与する領域でしたので、研究相談は実になるものでした。
 
ただちょっと厄介というか独特なのが、質問にせよ興味にせよ着眼点が鋭すぎるということでした。専門ではないのですが、という白々しい、もとい一見殊勝に聞こえる枕詞が先生からこぼれ落ちた瞬間、あきらめた方が賢明です。クマさんほど手厳しくはないのですが、誰もがやり過ごしていた研究の立脚点に潜む問題を唐突に指摘されたりするのであらもうどうしましょうという話です。あきらめてください。助かりません。
 
これだけですとただの怖い和尚になってしまいますので、取り組まれている研究が非常にユニークなことも紹介させてください(仮名ですが)。素敵な読者の皆さんの中には、楽器演奏のご経験がある方もほんの少しいらっしゃるかと思います。例えばヴァイオリン、例えばドラム。こういった楽器の合奏や指導において、奏者はどのようにコミュニケーションを取っているのでしょうか。
 
もちろんほとんどの奏者はやり方を認識しているはずですが、それを心理学的見地からやろうとなさっているのが小山先生とその研究室の皆様です。なにこれ、面白そう。ちなみに筆者がゼミ選択をする年、小山先生はまだW大教員に着任されておりませんでした。もしいらっしゃったら、危ないところでござった。個人的に気になってるのは、楽譜の表記法と初心者の演奏習熟の関係性ですかね。楽器演奏と楽譜って、もうちょっとやりようあるんじゃないかってずっと思っておりまして・・・
 
ちなみにeスクール経由でも通学制でも、小山ゼミの門を叩くことは簡単ではありません。たとえばゼミ選択の時期、各教員はそれぞれに趣向を凝らした映像資料を用意しています。といっても大体の先生は10~20分程度の内容で、あくまで補足資料という位置づけです。言ってみればどの先生方もそんなにリソースを割かないのですが、小山先生は違います。これ以上書くと営業妨害になっちゃいそうなので自重しますが、生半可な覚悟は求めていないことが分かります。でもそれだけ学生に熱意を求められてるわけですから、学生からの信任も厚そうです。
 
「いいえ、僕もきっと学生に嫌われてるんですよー」
 
小山和尚はそう言いながら、子どものような笑顔をみせるのでした。
 
 

名物先生列伝(6)大岡山大学(仮名)大磯先生(仮名)

 
そして最後に、筆者が論文を編み上げていく上で避けて通れない先生を挙げたいと思います。といってもこの先生は都の西北大学ではなく、おおよそ校歌とは思えないダウナーな校歌を持つ大岡山大学の名誉教授となられている大磯先生です。
 
筆者の研究テーマは先人の事例がことごとく断片的であるという難題を抱えていましたが、唯一体系的に取り組まれていた先生が大磯先生でした。そのため後進研究者としても研究の作法としても、大磯先生の研究は必ず踏まえる必要がありました。
 
しかし同じ大学やクマさん連のように分かりやすくスクラムを組んでいる先生方は芋づる式に探知できたのですが、大磯先生との接点はなかなか持てないままでした。顔の広さでは界隈でも群を抜く上野先生にこのことを訊ねても
 
「ああ大磯先生ね。私にとっては師匠というか、それくらいの偉い方です」
 
という使えるのか使えないのかよくわからない情報しか出てこない有様で、まあいっかと諦めて論文執筆に励んだのでした。幸いにも大磯先生は卒論レベルの研究成果までご自身のウェブサイトで提示していて、むやみにアクセスせずとも情報自体は参照できる状況でした。
 
よし、大磯先生にたどり着くまでは大会でも論文でもがんばってみよう。最優先ではないものの、ほんのりとした目標がまたひとつ設立されるのでした。
 

先生、全然足りてない!

 
建築の持つ多義性以上に、先生という存在は多様性に溢れています。教育機関でもそうであるうえに、何らかの技能を持つ人はすべて「先生」と呼ばれうる尊い存在です。きっと何かに一生懸命取り組んでいれば、人はいつか先生になるのでしょう。
 
無論、筆者はそれでいいと思います。逆もまた真なりを適用すると、先生になりたければ何かに一生懸命に取り組めばよいのです。理想論だと指摘されれば、理想が見えていない現状もまた問題があるよねと返したくなります。むしろその方向をより研ぎ澄まさなければ、これからの教育機関は危機に瀕していくのではないでしょうか。
 
少なくとも高等教育機関において、筆者の見た限り「先生」は足りていません。というのも、上野先生にせよクマ一味にせよ、筆者の周囲でいうところの多くの「先生」と呼べる方々は、だいたい多忙をきわめておりました。そりゃ責任ある立場なんだからと言えばそうなのですが、問題なのはどうもその業務内容の多くが先生その人でなくても良さそうなものっぽいということです。状況は違うかもしれませんが、小中高の先生も多くが休む暇もないほどに教務以外の作業に追われていると聞きます。
 
その一方で、大学教員というポストは相変わらず狭き門とされています。そのため、現場はどうやっても慢性的な人手不足です。百歩譲って採用数の問題はむやみに解決できないとしても、職務をより細分化し、ある部分だけの「先生」と呼べる人を増やしていくことで、現場の疲弊感は緩和されるのではないかとも思ったり。もちろんこれは専門外の話なので、そうそうに偉そうなことは言えません。でもちょっと夢見てしまうのですよ。先生がよりそれぞれの技能の「先生」として望まれる責務に集中し、ただでさえ能力の高い人たちがさらに顕著な成果を出せるようになって、その働きに感化された多くの誠実な学生が憧れを抱くようになり・・・
 
そして指導力のない暴力先生がどんどん現場から淘汰される未来を。

 
 

yumehebo.hateblo.jp



(初出:2021/01/27)

いんせい!! #18 またまた合宿!!

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長い廊下のように美しく整備されようとしている瑞巌寺の参道を歩いていると、ようやく顔なじみの声が聞こえてきた。またしても途中参加となった夏合宿に、遅ればせながら追いつくことができたようだ。

 

#18 またまた合宿!!

 
代わり映えしようのない地獄の論文合宿と比較して、夏合宿は毎年の学生の趣向が色濃く反映されるプログラムとなっていた。筆者にとっては2回目の参加となるD1時の夏合宿は、石巻・松島・仙台を巡るという理性的な内容であった。
 
ここでコラム内の時系列的にも3年目以降の話がメインとなるので、この夏合宿にも参加している13期の面々を紹介しよう。
 
13期(すべて仮名)
小金井さん ダンサー 英語が嫌い 背の高い永野芽郁
中浦和さん バレエ 福岡 声が子供
菊川さん 名前の読みが難しい 郷土を軽くdisってから敵意がすごい
上野さん やかましい
小野上くん 名前の読みが難しい とこキャン祭メンバー
高崎さん 群馬の人
前橋くん 群馬の人 ハンドボール
早川くん 背の高いイケメン 超優良物件
浜松さん フィギュア好き キレたら怖そう
小田原くん 広島 風格がすごい

 

筆者にとっては院生初年度から苦楽をともにした11期が1人(籠原くん)を残して旅立ち、淋しい気持ちであった。しかし13期は、それを埋めて余りあるほどの個性派揃いであった。まず早川くんは数年来随一の背高イケメンで、しかも宅建持ちで趣味が美術館巡りとなればもう何を喰ったらこうなれるんだという威容である。億で売れるし、億は余計に稼ぎそうである。続いて小金井さんはこれまた高身長の美女で、同じく親はどんな黒魔術を使って錬成したんだ言うてみよという美貌である。この二人が秋葉原で絵を売ったら、たぶん50枚は余計に売れる。
 
一方それ以外のメンバーは駄馬かというと、もちろんそうではない。実物が伝えられないので読者にはもどかしい思いをさせてしまうが、とにかく感性がぶっ飛んでる上野さん、ハンドボール部のエース前橋くん、21歳にして教授の風格を備えた小田原くん、小金井さんのキラキラ感に隠れているが美形な浜松さんと高崎さん、敵意しかない菊川さん、大人しいかと思えば全然怒る中浦和さん、自信なさげな割に全く意見を変えない小野上くんと、11期以上に話題に事欠かないチームである。要はアルバムで言えば外れ曲なし、オアシスでいえば「モーニング・グローリー」のようなラインナップである。当然ながらゼミの雰囲気は終始明るく、それは夏合宿のような団体行動でも変わることはなかった。
 
話を筆者の合流時に戻すと、彼らの誰かが筆者を見つけてくれた。わーまさゆめさん!まさゆめさんですね!どうしたんですかまさゆめさん!お久しぶりですまさゆめさん!!あーこれこれ、山門の前で実名を叫ぶでない。あと2日持つかなと思いつつ、やや深めの傷を負った新潟の悪夢を乗り越えられる予感を抱いていた。
 

1日目(伝聞):石巻

 
筆者が不在であった1日目は、震災の傷跡が色濃く残る石巻市周辺の見学プログラムだったようだ。特に大きな問題は起きなかったようだが、夕食時にM1(11期)の籠原くんが食べ放題の唐揚げを食べ過ぎたがため逆噴射芸をしでかしたと聞いた。あらゆるタスクを飲み込める籠原くんも、消化能力には限界があるようだ。唐揚げ美味しいもんな。でもアホやろ。
 

2日目:松島

 
筆者が合流したのは、一行が塩竃を経て松島に到着したときのタイミングであった。仙石東北ラインの開通によって、仙台と松島の心理的距離も近くなったのではないだろうか。海辺には瑞巌寺の一部である「五大堂」があり、一行は学年ごとに記念撮影した。
 
全く書き忘れていたが、この合宿には4年生(12期)も参加していた。12期の面々は気だるそうに記念撮影スポットに並ぶと、撮影が終わると同時に自然に散っていった。なんという取っかかりのなさであろうか。オアシスでいえば「ビィ・ヒア・ナウ」のようなラインナップである。続いて元気いっぱいの3年生(13期)が撮影に臨んだ。その一部始終を劇団かなにかが観察していたら、良い勉強になったに違いない。人間はただ集まるだけで、明るさを変えられるのである。なにより、4年生が驚いていた。
 

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一行は気を取り直して、松島遊覧船に乗船した。絶対これ島じゃないでしょ岩礁でしょ、とか思いながら優雅な時間は過ぎていった。下船後、3年生の面々が4年生を連れて岸壁に並びだした。みんなで同じポーズを取って、写真に残しましょう。
 

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若さってほんとにすごい。なんでもできるんだな。
 

3日目:仙台

 
どこまでも重い12期とどこまでも明るい13期、そして前日の院生の粗相という好条件が奇跡的に噛み合ってか、2日目の夜は終始正気なまま更けていった。熱々の源泉と海水が混ざって、極上の湯加減になった海辺の露天風呂のようなものであろうか。明けての最終日はいよいよ仙台市内の見学である。
 

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せんだいメディアテーク。市民図書館やギャラリーが同居した、新しい形のコミュニティースペースである。その特色はなんといっても、名建築家:伊東豊雄氏による斬新な造形である。建物を支える柱(チューブ)は不規則に配置され、特異な室内空間を実現している。
 

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今回は特別に、屋上まで上がらせてもらえた。すごいな、さすが大学の合宿である。なおこの合宿のプランナーは、卒業した11期の池袋くんである。11期が4年の時の夏合宿は別の行程に振り替えられ、宙に浮いていたプランを12期が丸ごと拾ったらしい。4年生(12期)見直したぜと褒めそやす気満々な文脈であったが、やっぱり真実を書き残しておくべきだと翻意した。
 

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一行は一旦解散し、筆者は藤枝さんと共に定禅寺通りから仙台駅まで歩いた。定禅寺通り、非の打ち所がない。途中に寄ったラーメン屋は狭かったが、まあまあ美味しかった。

 

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最後の訪問地は、海沿いに位置する「仙台うみの杜水族館」であった。三陸のお魚たちの展示を過ぎると、イルカショーが行われていた。ふと街を見遣ると、そこに街はなかった。ドキッとしたが、そこは公園として整備される予定の土地とのことだった。垣間見える震災の傷跡を背に、すべての生き物は生きることを止めていない。
 

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見学終了後、一行は最寄りの駅まで徒歩で駅に向かった。シャトルバスが終わっていたためであった。若いと簡単に徒歩を選択しよる。
 
なんというか、楽しい二日間であった。これといった問題も起こらず、行程もかなりの完成度であった。ただ不思議なもので、いよいよゼミから気持ちを切り離す時期が来ていることを悟った。まずもうだいぶ前から気づいておけよという話であるが、筆者も年を取ったのだ。それも年いっているというより、年老いているという感覚である。それによって今の学生たちと共感できる部分が、無理をしても存在しないように思えたのだ。暮れなずんでいてくれた夕陽も、ついに沈んでしまったのだ。
 
続いてゼミが上手くいっていることが、嬉しい反面の寂寥感を加速させた。もはや老骨にむち打って、あれこれ頑張る必要はないのである。放っておいても、彼ら(13期)は彼らなりに苦労しながら羽ばたいていくだろう。あとはもう、自分の研究のことだけを考えてやっていこうじゃないか。 
 
そう思い至ったとき、今度は修了への不安が去来した。まだまだ博士課程半年であるのに、砂漠を、暗闇をひたひたと走っているだけなのに、ゴールのなんたるかについての漠然とした不安を押し殺すことができなくなったのだ。きっと筆者は、ゼミ運営によって自らも支えていたのだ。それが必要ないと改めて分かり、かつその先についての心許なさにようやっと気がついてしまったのだ。ゴールって、何だ。終わりって、何なんだ。行くのか帰るのか、それとも登るのか降りるのか。
 
帰りの新幹線の車中、眠りこける学生達の寝顔を横目に、筆者の懊悩は深まるばかりであった。

 
 
 
(初出:2021/01/28)